※この作品はR-18です。

サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏)   作:ボルメテウスさん

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新章の設定が纏まりましたので、こちらで書かせて貰います。
今回は、より自由度が高くなる設定が行いやすいように書かせて貰いました。
また、活動報告でも募集をしていますので、皆様の応募、お待ちしています。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=336203&uid=45956


始まりの刀

朝の海は、思っているより静かじゃない。

 

潮の匂いはいつも先に来る。少し湿って、鉄みたいな味が喉の奥に残る。肺に入る空気が重くて、目が覚める。目覚まし時計よりも確実だ。港町に住んでると、これが「朝です」の合図になる。

 

防波堤沿いの道を、俺と絶花は並んで歩いている。

足元のアスファルトは白く乾ききっていない。夜の湿気がまだ残っていて、靴底がわずかに張りつく感触がある。

 

右手側には錆びたフェンス。ところどころ網が歪んでいて、昔だれかが無理に曲げた形のまま固まっている。赤茶のサビが粉みたいにこびりついて、朝日を受けてざらついた光を返していた。

 

向こうの岸壁では、軽トラがバックする音がしている。

ピッ、ピッ、ピッ、と間の抜けた電子音。漁師のおっちゃんが片手でハンドルを回しながら、もう片手で缶コーヒーを飲んでいるのが見えた。エンジンの振動が、空気を通してこっちまで伝わってくる。

 

上では海鳥が鳴いている。

きれいな声じゃない。引っかくみたいな音だ。でも、この町ではそれが普通だ。うるさいと思ったことはあんまりない。

 

波は穏やかで、岸壁に当たって、ぺたり、ぺたりと平たい音を立てている。怒ってない海の音だ。

 

俺は半歩だけ前を歩く。

理由はない。昔からそうなっているだけだ。気づいたらこの位置にいる。

 

後ろを見なくても分かる。絶花はちゃんとついてきている。足音で分かる。一定の間隔、一定の強さ。迷いのない歩き方をする。

 

「……眠い」

 

小さく声がした。独り言みたいなトーン。

 

「起きるの早すぎなんだよ。部活の朝練でもないのに」

 

振り向かずに返す。

 

「太郎が早い」

 

「俺はほら、王様志望だから。朝の港の視察」

 

「港だけ」

 

「まずはな」

 

自分で言ってて、ちょっと笑う。

笑い声は潮風に流れて、すぐ消えた。

 

絶花は笑わない。でも、否定もしない。

このやり取りを何百回もやってる。噛み合ってないようで、ズレてもいない。会話っていうより、呼吸合わせに近い。

 

少し先に水たまりがあるのを見つけて、俺は足を止めた。

昨日の夜に降った雨が残っている。海水が混じってるのか、表面に白い筋が浮いていた。

 

止まると、絶花も止まる。聞かなくても分かる。視線が同じ場所に落ちている。

 

俺は水たまりを避けるように、フェンス側へ半歩ずれる。

それだけで通れる幅ができる。

 

絶花は何も言わず、その空いた分をまっすぐ抜けた。

 

こういうのを、たぶん周りは気にしない。

でも俺は気にしてる。昔からずっとだ。

 

港の先に、太陽が少しだけ顔を出した。

水面の端が白く光る。まぶしいほどじゃない。包丁の背でなぞったみたいな細い光だ。

 

この町は小さい。

でも、こういう朝が毎日ちゃんとある。

 

それだけで、悪くないと思っている。

 

商店街ってほど立派でもない通りに、その店はある。

古い引き戸と、色あせたビニールのひさし。手書きの値札がガラスに貼ってあって、どれも数字が微妙に曲がっている。

 

朝の漁港から少し上がったところにある、小さな商店。

コンビニができてから客は減ったらしいけど、それでも毎日ちゃんと開いている。こういう店は、たぶん町の意地だ。

 

引き戸を開けると、鈴が鳴った。

軽くて、乾いた音。

 

中は少し暗い。蛍光灯はついてるけど、外の光に比べると弱い。棚の間に影が残っている。醤油と乾物と洗剤の匂いが混ざって、どこか甘い。

 

「おはようございます」

 

俺が言うと、レジの奥のおばちゃんが顔を上げた。

 

「はいはい、おはよう。今日も早いねえ」

 

「港帰り」

 

「学生が言う台詞じゃないよ」

 

そう言いながら笑ってる。

このやり取りも、もう型みたいなものだ。

 

絶花は俺の半歩後ろで止まっている。

挨拶はしない。でも失礼でもない。ただ、静かにそこにいる。

 

それだけで、空気が少し変わる。

 

店の奥でパンを選んでいた中学生くらいの二人組が、ちらっと絶花を見る。

声は出さない。目線だけ合わせて、すぐ外す。

悪意ってほどじゃない。ただ、距離の取り方が分からないときの視線だ。

 

絶花は気にした様子もなく、棚を見ている。

ラベルを読んでいるのか、ただ眺めているのか分からないくらい動きが少ない。

 

たぶん、話しかけられたらちゃんと答える。

でも、話しかける側が一歩目を出しにくい。そういう雰囲気を持っている。

 

俺は牛乳とパンを二つ取って、わざと絶花の方を向いた。

 

「どっちにする」

 

「どっちでも」

 

「それが一番困るやつ」

 

「太郎が決める」

 

「王様に丸投げは感心しないな」

 

「まだ王様じゃない」

 

「予定王様」

 

小さく間を置いてから、絶花が言う。

 

「……またそれ」

 

声は平坦だけど、完全な無関心じゃない。

ちゃんと聞いてる時の返しだ。

 

俺はパンをかごに入れて、レジに置く。

 

「俺、王様になるから」

 

レジのおばちゃんが吹き出した。

 

「はいはい、じゃあ先にこの町から頼むよ」

 

「任せといて」

 

軽く言う。

冗談の調子で言う。いつも通りに。

 

でも今日は、少しだけ違った。

 

横を見る。

絶花は俺を見ている。表情はほとんど動いてないのに、視線だけが真っ直ぐだ。

 

俺は一瞬だけ、笑いをやめた。

 

「絶花が普通に友達作れる国、作るんだよ」

 

店の中の音が、少しだけ遠くなる。

蛍光灯のジジッという音と、外を通る軽トラのエンジン音だけが残る。

 

絶花は瞬きを一つして、それから目をそらした。

 

「……スケール、大きい」

 

「王様だからな」

 

「町内会長くらいからにしたら」

 

「それは通過点」

 

そう言うと、絶花の口元がほんの少しだけ動いた。

笑った、まではいかない。でも、ゼロでもない。

 

それで十分だった。

 

夕方の港は、朝とは別の顔をする。

 

同じ場所のはずなのに、色が違う。

朝は銀色だった水面が、今は鈍い鉛色に沈んでいる。雲が低くて、空が海に近い。境目がぼやけて見える。

 

風が止んでいた。

帆もロープも旗も、ほとんど動かない。音が減ると、港はやけに広く感じる。

 

堤防の上を、俺と絶花は並んで歩いていた。

学校帰りの制服のまま。鞄の重さが肩に残っている。

 

いつもなら、釣り人が何人かいる時間帯なのに、今日は少ない。

バケツだけ置いて帰ったみたいな場所が二つあった。

 

「今日は静かだな」

 

俺が言うと、近くで網を直していた爺さんが顔を上げた。

 

「静かすぎるのも気味が悪いぞ」

 

「そういう日もあるでしょ」

 

「ここ何日かな。夜の波が変だ」

 

手は止めずに言う。目だけこっちを見る。

 

「変?」

 

「引き方がな。音が違う」

 

音が違う。

そう言われると、さっきから聞こえている波の音が、やけに平たく感じた。

いつもより、奥行きがない。

 

少し離れたところで、漁協の若い人たちが話している声が風に乗った。

 

「昨日も聞こえたってさ」

「何が」

「呼ばれるやつ。名前」

 

笑い混じりの声なのに、笑いきれていない。

冗談にしては、語尾が固い。

 

「引き潮のとき、誰かに呼ばれるんだとよ」

 

「やめろって。そういうの」

 

話はそこで途切れた。

誰かがこっちを見たからかもしれないし、話題そのものに触れたくなかったのかもしれない。

 

俺は海を見る。

沖の方が妙に暗い。雲の影にしては、境目がはっきりしすぎている気がした。

 

「ホラー週間だな」

 

軽く言ってみる。

軽く言わないと、重くなる空気だった。

 

反応がない。

 

横を見ると、絶花が海を見たまま止まっていた。

 

視線が動かない。

一点を、測るみたいに見ている。

 

「どうした」

 

「……音」

 

「波?」

 

「違う」

 

それだけ言って、少しだけ眉を寄せる。

絶花の表情は普段から薄い。でも、これは“無関心”じゃない時の顔だ。

 

「夜の海に何かある気がする」

 

断定じゃない。

でも、迷いもない言い方だった。

 

「勘?」

 

「近い」

 

絶花は理屈で話す時と、感覚で言う時の区別がはっきりしている。

今のは後者だ。

 

堤防の下で、波が一度だけ強く引いた。

ざあ、じゃなくて、ずる、と音がした。

砂を削るみたいな、長い音。

 

一瞬だけ、耳の奥が詰まった感じがする。

 

「太郎」

 

「ん」

 

「夜、来ない方がいい」

 

命令でもお願いでもない。

ただ、置くみたいに言う。

 

「デートの誘いなら昼にしてくれ」

 

「そういうのじゃない」

 

即答だった。

 

冗談を滑らせたのに、空気が軽くならない。

それどころか、少し冷えた。

 

絶花の手が、鞄の横に触れる。

中にあるものの位置を確かめる癖だ。あれはたぶん――刀。

 

海からの風が、遅れて一度だけ吹いた。

潮の匂いが急に強くなる。

 

さっきまで静かだった水面に、細かいさざ波が立った。

でも音が、ついてこない。

 

動いているのに、音が薄い。

 

港は同じ形のままなのに、

どこかだけ、別の場所にずれている感じがした。

 

夜の港は、昼間よりも音があるはずなのに、今日はやけに薄かった。

 

虫の声も、船の軋みも、遠くの車の音も、どれも布を一枚かぶせたみたいに鈍い。

月は出ているが、雲が薄くかかっていて、光がにじんでいる。水面に落ちた月が、割れた鏡みたいに揺れていた。

 

来ない方がいい、と言われたのは分かっている。

分かっているが、来た。

 

理由はたいしたものじゃない。

怖い話を聞いたから見に行く。子どもと同じ動機だ。

ただ、俺の場合はそこにもう一つ混ざる。

 

放っておいて、あとで誰かが困るのが嫌なだけだ。

 

防波堤に上がる階段を踏む。

コンクリートが夜露で湿っていて、靴裏がきゅっと鳴った。

 

海が近い。

匂いで分かる。

 

昼よりも、ずっと濃い。

塩の匂いだけじゃない。湿った布と、古い鉄と、なにかが腐る手前の匂いが混ざっている。

 

「……強すぎだろ」

 

誰に言うでもなく、呟く。

 

波はある。動いている。

でも、音が揃っていない。

手拍子が全部ズレたみたいに、ばらばらに耳へ届く。

 

防波堤の先端に近づいたところで、足を止めた。

 

さっきまで見えていた沖の灯りが、ひとつ消えている。

いや、消えたんじゃない。

見えない。

 

そこだけ、黒が濃い。

 

一歩、前へ出した。

 

その瞬間だった。

 

足首に触れた。

 

冷たい。

水より冷たい。金属みたいな温度の手が、ぬるりと巻きついた。

 

「っ!」

 

反射で足を引く。

だが、重い。引けない。

 

下を見る。

 

濡れた影が、足に絡んでいる。

手の形をしているのに、指がはっきりしない。輪郭が溶けている。

 

もう一本、絡む。

靴の上からでも分かる冷たさが、骨まで入ってくる。

 

水音がしないのに、濡れている感触だけがある。

 

「なんだよ……!」

 

引き剥がそうと手を伸ばした瞬間、耳の奥で音がした。

 

声に近い。

でも、口から出た音じゃない。

 

泡が弾ける時の、あの小さな破裂音が、言葉の形をしている。

 

——こっちだ

 

息が詰まる。

 

——こっちだ

——沈め

——沈め

 

複数だ。

距離がない。耳元でも、頭の奥でも同時に鳴る。

 

視界の端で、地面が濡れて見えた。

いや、濡れていない。

乾いているのに、濡れているように見える。

 

引きずられる感覚が来る。

前じゃない。下だ。海の方へ。

 

その時、胸の奥が脈打った。

 

ドン、と一度。

 

心臓とは少しズレた場所。

真ん中より、もっと深いところ。

 

もう一度。

ドン。

 

熱がある。

そこだけが熱い。

 

「……なんだ……?」

 

知らない鼓動だ。

俺の鼓動に重なって、別の拍が鳴っている。

 

右手が、無意識に何かを握る形になる。

空を掴んでいるのに、感触がある気がする。

 

握れ、と言われた気がした。

 

形はない。

だが、「持てるもの」がそこにあるという確信だけがある。

 

足首の冷たさが強くなる。

影の手が、さらに増える。

 

泡の声が重なった。

 

——沈め

——王

——沈め

 

最後の言葉だけ、音がはっきりしていた。

 

胸の奥の鼓動が、強く跳ねる。

まだ形にならない。

だが、そこに“何か”がいる。

 

俺の中で、目を覚ましかけている。

 

冷たさが、足から胸まで一気に登ってきた。

 

引きずられる感覚が途切れない。

防波堤の上にいるはずなのに、重力の向きがおかしい。前じゃない。下だ。海の底に落ちる時の向きだ。

 

息を吸ったつもりが、水が入ってくる感触だけがあった。

 

視界が暗くなる。

音が遠ざかる。

泡の声も、波の気配も、全部が分厚い水の向こう側へ押しやられていく。

 

なのに、意識だけは沈まない。

 

沈んでいるのに、立っている。

 

足元を見ると、水面だった。

黒い海の上に、俺はそのまま立っている。波はない。揺れもない。鏡みたいに平らな水だ。

 

空もない。地平線もない。

上下の区別が曖昧な場所だった。

 

「……なんだよ、ここ」

 

声は普通に出た。

響きはしない。吸い込まれる。

 

少し離れた場所に、人影があった。

 

最初からいたみたいに立っている。

長い外套。黒い影みたいな輪郭。顔ははっきり見えないのに、視線だけが分かる。

 

俺を見ている。

 

「誰だ」

 

返事はすぐ来た。

 

「今さらだな」

 

低い声だった。

響かせようとしていないのに、胸の奥に直接落ちてくる。

 

「ここは、お前の内側だ」

 

「夢にしては出来がいいな」

 

「現実より正確だ」

 

男はゆっくり近づいてくる。

水面を踏んでいるのに、波紋が出ない。

 

距離が縮むほど、存在感が増す。

圧力に近い。重さがある。

 

「さっきから、胸がうるさい」

 

俺は自分の胸を指で叩く。

 

「鼓動が二つあるみたいだ」

 

「一つはお前だ」

 

「もう一つは」

 

「俺だ」

 

間を置かずに言う。

 

納得はしていない。

でも否定もできない。あの熱は、まだそこにある。

 

「武器の精霊とか、そういうやつか」

 

「半分当たりだ」

 

「半分は」

 

「お前の核だ」

 

男は俺の手元を見る。

空を握っている右手だ。

 

「それは元々、“王国の駒”だった」

 

言葉に反応して、手の中に感触が生まれる。

柄のような硬さ。まだ形は曖昧なのに、握れる。

 

「編成する力。繋ぐ力。配置する力」

 

「戦う形じゃない」

 

「だから、形を得た」

 

男の声が少しだけ低くなる。

 

「光に当てられてな」

 

「光?」

 

「お前の隣にいる剣だ」

 

絶花の顔が浮かぶ。

無駄のない構え。迷いのない目。

 

「あの刀は“意思”を持つ。形を決める側の刃だ」

 

「引っ張られたってことか」

 

「進化した」

 

言い直した。

 

「眠っていた刃としての側面が起きた」

 

水面の下で、黒い影がうねった。

巨大な何かが沈んでいる気配がする。海坊主の影に似ているが、もっと抽象的だ。

 

「王を名乗るなら、問われる」

 

男が言う。

 

「どんな王になる」

 

軽く聞いている声じゃない。

逃げ道を塞ぐ響きだ。

 

「支配か」

 

一歩、近づく。

 

「管理か」

 

さらに近い。

 

「それとも——背負うか」

 

言葉が、胸の鼓動と重なる。

 

俺は少し考える。

長くは考えない。こういうのは、考えすぎると嘘になる。

 

「選ばせる王だ」

 

男の眉がわずかに動いた。

 

「命令じゃなくて」

 

言葉を探す。

 

「並べる。道を。位置を。手を伸ばせる距離に置く」

 

水面に、光の線が何本も走るイメージが浮かぶ。

駒の動きだ。

 

「友達作れないやつでも、立てる場所がある国」

 

「そこまで言うか」

 

「言う」

 

間を置かずに返す。

 

「そのために王様になる」

 

沈黙が落ちた。

重くない沈黙だった。

 

男は小さく息を吐く。

 

「なら、振れる」

 

男は俺をまっすぐ見たまま言った。

 

「俺はずっとお前の中にあった。王の核として、刃の種として、そして今、名を持つ」

 

水面の黒がわずかに揺れる。

それに呼応するみたいに、男の姿の輪郭が少しだけ濃くなった。影だったはずの線が、形として固定されていく。

 

胸の奥の鼓動が強く跳ねる。

俺の鼓動と、もう一つの拍が重なっている。

 

男は一歩だけ近づく。距離はほとんど変わらないのに、圧力だけが増した。

 

「覚えておけ」

 

低い声だった。強くはない。だが、逃げ場がない響きだった。

その音が、そのまま鼓動と重なる。

 

そして最後に、迷いなく言い切る。

 

「我が名は——」

 

鼓動が一つに重なった瞬間、足元の感覚が戻った。

 

固い。

濡れている。

冷たい。

 

防波堤のコンクリートだ。

 

肺が勝手に息を吸い込んで、喉が焼ける。咳が出そうになるのを噛み殺す。耳の奥で鳴っていた水のこもった音が、現実の波音に入れ替わる。

 

夜の海。雲のかかった月。錆びたフェンス。

全部そのままなのに、さっきまでとは距離が違って見えた。

 

足首にはまだ潮幽が絡みついている。

濡れた影の手が、骨の位置まで分かるみたいに締めつけてくる。

 

だが、胸の奥の熱は消えていない。

むしろ、はっきりしている。

 

右手を見た。

 

何かを握っている。

 

小さな駒だ。

光を内側に閉じ込めたみたいな、立方体にも球体にも見える曖昧な形。だが確信だけがある。

 

これが王国の駒。

王の駒だ。

 

触れているだけで分かる。

命令を出す側の核。配置の中心。始点。

 

鼓動に合わせて、その駒が脈打つ。

 

王は、止まらない。

 

手の中で光が滲んだ。

漏れるんじゃない。広がる。

 

「来い!斬月!!」

 

口に出したつもりはなかったが、言葉は形になっていた。

 

駒が砕けるようにほどけ、光の帯になる。

そのまま腕に沿って伸びる。

 

骨の長さをなぞるように、一直線に。

 

次の瞬間、重さが生まれた。

 

巨大だった。

 

最初に浮かんだ感想が、それだ。

 

刃。

だが、普通の刀の形じゃない。

柄がない。鍔もない。無骨な鉄の塊みたいな刀身だけが伸びている。

 

形は、でかい包丁に近い。

無骨で、実用一点張りの輪郭。

 

本来なら柄が収まるはずの部分――茎の位置に、白いサラシが何重にも巻かれている。そこだけが“持てる場所”として用意されていた。

 

そこを握っているのが、俺の手だ。

 

重い。

だが、持てない重さじゃない。

 

振れない重さでもない。

 

足首を掴んでいた潮幽の手が、じり、と後ずさる。

刃から漏れている光を嫌がっている。

 

「これが……」

 

言いかけて、やめる。

名前はもう知っている。

 

俺は刃を真っ直ぐに立てた。

構えなんて立派なものじゃない。ただ、軸をぶらさないように正面へ向ける。

 

それだけで、胸の鼓動と刀の重さが噛み合う。

 

海の方から圧が来る。

黒い水面の奥で、海坊主の影がうねる。

 

同時に、刃の内側から光があふれた。

 

漏れるというより、押し出される。

月光とは違う、内側から生まれる白い輝き。

 

海面の黒に、一本の光の線が通る。

 

斬るための線だと、迷いなく分かった。

 

光に押し返された潮幽が、いったん距離を取る。

 

逃げた、というより――態勢を立て直している。

水面を滑る影が、獲物を測り直すように円を描いた。

 

足首を掴んでいた冷たさが消えたはずなのに、感触だけが残っている。骨の奥に、まだ海の温度が染みついているみたいだ。

 

「来るな……」

 

言葉とは裏腹に、身体は逃げようとしなかった。

 

右手の重さが、俺をその場に縫い止めている。

斬月だ。

 

柄代わりのサラシに指を食い込ませる。

布が軋み、掌の皮膚が引き伸ばされる感覚がある。それでも離したくないと思えた。

 

刃から漏れる光が、周囲の闇を押し退ける。

潮幽の影が、その境界に触れた瞬間、じゅ、と音もなく削れた。

 

だが、それで終わらない。

 

海面が盛り上がる。

泡が弾け、黒い腕が何本も伸びる。今度は迷いがない。一直線に、俺を取りに来る。

 

「沈め」

 

泡の声が重なる。

さっきより近い。距離が詰まっている。

 

俺は一歩、後ろに下がった。

踏ん張る。逃げるためじゃない。振るための位置を取る。

 

胸の奥が熱い。

鼓動が速い。

 

その拍に、別のリズムが重なる。

 

「合わせろ」

 

斬月の声だった。

 

頭の中じゃない。

耳でもない。

 

腕の奥、骨の内側から直接響いてくる。

 

「刃に喰わせろ」

 

何を、とは聞かなかった。

分かっている。

 

息を吸う。

肺が夜の空気を飲み込み、次の瞬間、身体の奥に溜まっていた何かが流れ出す。

 

霊圧。

 

今まで意識したことのない感覚だ。

熱と圧力が混ざったものが、血管じゃなく、骨と筋肉の隙間を通って腕へ集まる。

 

刃が、それを受け取る。

 

斬月が重くなる。

いや、密度が上がる。

 

光が刃の輪郭に沿って膨らみ、刀身よりも大きな“刃の形”を描き始めた。

 

「振り抜け」

 

短い命令。

 

俺は、構えを捨てた。

 

剣道の型も、護身の理屈もいらない。

ただ、正面から――

 

振った。

 

刃が空気を裂く。

その瞬間、溜め込まれていた霊圧が一気に解放された。

 

白い光が、斬撃として飛び出す。

 

三日月の形をした巨大な刃。

夜の海を切り取るみたいに、一直線に進む。

 

「月牙――天衝!」

 

声が、自然に出た。

 

斬撃が潮幽の群れに突き刺さる。

黒い影が、抵抗する間もなく吹き飛ばされる。

 

水柱が上がり、波が跳ねる。

轟音が、遅れて耳を打った。

 

海坊主の影が、苦しげにうねり、後退する。

陸へ伸びていた黒が引き剥がされ、沖へ押し戻されていく。

 

俺は膝をついた。

 

一撃で、全身の力を持っていかれた感じがする。

腕が重い。呼吸が浅い。

 

それでも、手は斬月を離さなかった。

 

刃はまだ光を帯びている。

だが、その輝きはさっきより静かだ。

 

斬撃の残光が消えるのに、少し時間がかかった。

 

海面に残った白い軌跡が、ゆっくりと夜に溶けていく。

押し返された黒い影は沖の闇へ沈み、泡の声も、引きずる手も、もう届かない。

 

静かになったはずなのに、耳鳴りだけが続いている。

 

斬月が急に重くなった。

 

さっきまで身体の一部みたいに扱えていたのに、今はただの鉄塊だ。腕の筋肉が悲鳴を上げる。指の力が抜けかける。

 

「……まずいな」

 

呟いた瞬間、膝が折れた。

 

コンクリートの冷たさが直に伝わる。

呼吸が浅い。肺が空気をうまく掴めない。

 

身体の中が空洞になった感じがする。

霊圧とかいう見えない燃料を、一気に使い切った後の残りかすだけが残っている。

 

斬月の光が弱まる。

刀身が霧みたいにほどけ、粒子になって消えていく。最後に手の中へ戻ったのは、小さな光――王国の駒だった。

 

それもすぐ、胸の奥へ沈む。

 

「……やりすぎだ」

 

誰の声か分からないくらい近くで聞こえた気がしたが、もう確かめる余裕がない。

 

視界が暗くなる。

地面と空の区別がまた曖昧になる。

 

倒れる、と思ったところで、足音がした。

 

軽い。

迷いがない。

水たまりも段差も関係なく、直線で近づいてくる歩き方。

 

こんな時間に、こんな場所へ来る足音じゃない。

 

ぼやけた視界の端に、影が入る。

 

背が高いわけじゃない。

細い。無駄がない輪郭。黒を基調にした装い。夜の色と混ざるのに、不思議と見失わない。

 

外套の裾が、風もないのにわずかに揺れている。

 

俺のすぐそばで止まった。

 

少しだけ屈む気配。

 

視線を感じる。

測るような、切り分ける前の目だ。

 

「……派手にやったな」

 

低い声だった。

感心でも呆れでもない。事実だけを置く言い方。

 

「死んでないな。ならいい」

 

基準が雑すぎる。

 

言い返そうとして、声が出ない。喉が動かない。

 

その人物は、俺の手元と、海と、周囲の残滓を順番に見た気配があった。状況確認が早い。慣れている動きだ。

 

「境界が荒れてる」

 

独り言みたいに言う。

 

「……後処理がいる」

 

その言葉だけが、妙にはっきり耳に残った。

 

意識が落ちる直前、最後に見えたのは、月明かりを受けた横顔だった。

感情の薄い目と、刃物みたいに静かな気配。

 

そこで、視界が完全に途切れた。

女王は誰にする?

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