サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
消毒液の匂いって、どうしてあんなに現実へ引き戻すんだろうな。
潮の匂いがまだ鼻の奥に残っている気がするのに、白い床と白い壁の前では、そんなものは錯覚だと言い切られてしまう。受付の向こうで事務的な声が行き交い、椅子に座る人たちの咳払いが、波の音よりも規則正しく耳に入ってくる。
「……ほんとに来る必要あったか?」
そう口にした瞬間、隣から肘が飛んできた。痛くはない。けど、逃げ道を塞がれた感じがする。
「必要があるから来たんでしょ。あの人に言われたから、じゃなくて」
絶花はそう言いながら、胸元を両手で押さえている。制服の上からぎゅっと。天聖がうっかりしゃしゃり出ないように、押さえ込んでるのが見て取れた。
「……分かってるよ。分かってるけどさ」
問診票に住所と名前を書き込む。ペン先がやけに滑って、字が少し歪む。気のせいじゃない。手の感覚が、まだ戻り切っていない。
「だって、外傷はないだろ。擦り傷もない」
「外側だけ見て『大丈夫』って言うの、太郎の悪い癖」
ぴしゃり。昔から変わらない。正しいことだけを、正しいタイミングで投げてくる。
「……王様だから、ってやつ?」
冗談っぽく言ったつもりなのに、絶花の目は笑っていなかった。
「王様ならなおさら。身体壊したら、守れないでしょ」
守る。そう言われると、胸の奥が少し重くなる。海で“沈む”感覚が残っていることを、口にしてないのに見抜かれてるみたいで。
受付に問診票を差し出すと、看護師が淡々と確認して、番号札を渡してきた。紙の端が指に触れた瞬間、冷たさが骨まで届く。
「……あの人の紹介って言えば、早いんだな」
「だから言ったでしょ。式の親戚のとこって」
絶花の声が少しだけ小さくなる。病院で「親戚」って言い方をすると、何だか生活の匂いが混じる。あの剣士が、普通の繋がりを持っている。その事実が、妙に落ち着かない。
待合の椅子に座る。背もたれが固くて、肩甲骨が浮く。視線を泳がせると、壁の時計が秒針を刻んでいた。港の時間は、波で曖昧だったのに。
「太郎、手」
「……ん?」
差し出された手のひらを見て、やっと気づいた。自分の指が、ずっと握りっぱなしになっている。ほどこうとすると、関節がきしんだ。
「力、入れすぎ」
「癖だよ」
「それ、直した方がいい」
直した方がいいことだらけだ。王様になるとか言いながら、まだ自分の身体すら扱いきれてない。
胸の奥で、斬月が静かに沈んでいる気配がした。実体はない。けど、いないわけじゃない。刀を抜かない場所でも、そこにいる。
『……くだらん場所だな』
声が聞こえた気がして、思わず背筋が伸びる。隣の絶花が胸元をさらに強く押さえた。
「今、何も言ってない。ね?」
小声で釘を刺される。天聖のことだ。病院で胸元が光って喋り出したら、さすがに終わる。
「言ってないって。今のは……俺の方だ」
「……それも困るんだけど」
そう返されて、笑いそうになってしまう。笑うと喉が乾く。乾いたまま、息を吸う。肺の奥が、少しだけ冷たい。水の幻みたいに。
呼び出しの声がして、立ち上がった拍子に、膝がわずかに遅れて動いた。太郎、と絶花が呼ぶより先に、身体の方が「まだ戦場だ」と言っている気がする。
診察室に向かう途中、廊下の角で人とすれ違った。白い壁に、薄い影が伸びる。相手は背が同じくらいで、落ち着いた歩き方をしていた。ぶつかりそうになったのに、なぜか距離がぴたりと合って、肩も触れない。
「……すみません」
先に謝ったのは相手だった。声は柔らかい。過剰にへりくだらない、ちょうどいい距離の丁寧さ。
「いや、こっちこそ」
そう返しながら、足元に落ちた紙を見つけた。自分の番号札の控えだ。いつの間にか手から滑り落ちている。
しゃがもうとした瞬間、相手の手が先に動いた。迷いのない動作で拾い上げ、俺の手の中に戻してくる。指先の使い方が、妙に正確だった。
「ありがとうございます……」
礼を言いながら、相手の視線に気づく。俺じゃない。少し先の出入口、非常口の標識、それから曲がり角の死角。確認して、戻る。何でもないように。
「ここ、初めてですか?」
そう尋ねてきたのに、視線はずっと廊下全体を撫でている。気になって、つい言ってしまった。
「……慣れてるみたいに見える」
相手は一瞬だけ、唇を引き結んだ。それから小さく首を傾げる。
「そう見えますか。自分では……分からないです」
「分からない?」
「ええ。昔のこと、あまり覚えてなくて」
言い淀みがない。だからこそ、嘘か本当か判別しづらい。絶花が隣で、息を飲む気配がした。天聖の光は、反応しない。危険じゃない。でも、普通でもない。そんな空白がある。
「……水、怖くないですか」
相手が不意に言った。声の調子は変わらない。雑談の続きみたいに。
背中の皮膚がひやりとした。
「水?」
「はい。……なんとなく。息が詰まる感じ、残るでしょう?」
言い当てられた、というより、触れられた。胸の奥の“沈む”感覚を、指でなぞられたみたいに。咄嗟に笑って誤魔化そうとしたのに、口角がうまく上がらない。
「……まあ、ちょっとは」
「そうですか」
それだけで会話を終わらせる。踏み込まない。なのに、刺した針だけは残していく。
その瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。斬月じゃない。王国の駒の方。盤面の端が、かすかにずれたみたいな感覚。こっちが勝手に反応しているのに、理由が分からない。
絶花が相手を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……あなた、名前は?」
相手は一拍置いてから、微笑んだ。温度のある笑みだ。けど、目の奥はまだ遠い。
「名乗るほどでも……あ」
言いかけたところで、廊下の向こうから声が飛んできた。
「東郷さん、次、リハビリです。こちらへどうぞ」
相手が肩をすくめるように軽く会釈する。
「呼ばれてしまいました。失礼します」
歩き出す背中は、病院にいる誰よりも静かだった。静かなのに、廊下の空気がその人の後ろだけ薄くなる。
「……東郷」
絶花が小さく繰り返す。俺はその名前を口の中で転がしただけで、胸の奥がまた少しだけ反応するのを感じた。兵士、という駒の言葉が、勝手に浮かぶ。もちろん口には出さない。
呼び出しの声が俺たちにも届く。
「唯我さん、検査室へ」
「……行くか」
立ち上がると、足の裏が床に吸い付く。白い床の上で、海の影を引きずっている。なのに、今すれ違った人は、海のことを知らない顔をしていた。知らないはずなのに、触れてきた。
検査室の扉の前で、絶花が俺の袖をつまむ。
「太郎」
「ん?」
「……今の人、危ない感じじゃなかった。でも」
言葉の続きを探して、指に力が入る。天聖の光は静かなままだ。
「……普通じゃない」
「だろうな」
短く返した。短く返すしかなかった。
扉が閉まり、機械の音が近づく。心臓の鼓動が、その音と重なっていく。沈む感覚が、どこまで残っているのか。検査で分かるのは身体のことだけだ。盤面のずれは、誰が診てくれる。
――たぶん、式だ。
そう思った瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。画面を見ずに分かる。あの人の間合いのまま、言葉が届く。
検査室の前で、俺は一度だけ深く息を吸った。
女王は誰にする?
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アルファ
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ララ·サタリン·デビルーク
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エミリア