サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
通話が切れても、耳の奥だけ残っていた。
白い廊下の明かりが、いっそう白くなる。消毒液の匂いが鼻の奥に張りつき、喉が紙やすりみたいに乾く。
絶花が待合から立ち上がる。胸元を押さえたまま、近づく足取りが妙に静かだった。病院の静けさに合わせようとしてるのが分かる。そういうところ、器用じゃないのに、こういう時だけ器用だ。
「……式さん?」
小声。短い。
頷きだけ返す。言葉にした途端、周りの空気が変わる気がした。
『息を整えろ』
胸の奥で、斬月が言う。刃が鞘の中で擦れるような声。
実体はない。なのに、重さだけ増えていく。
「医者が……殺されたって」
声が漏れた。漏れた瞬間、自分で自分の首筋を掴みたくなる。
ここは病院だ。死は日常の近くにある。だからこそ、言葉の毒が早い。
絶花の目が一度だけ大きくなる。次の瞬間、すぐ細くなった。周囲を見ている。誰もこちらを見ていない。けど、見ていないとも言い切れない。
「……犯人は」
「堕天使、だってさ」
言い切ると、絶花の指が制服越しに強く食い込む。天聖が勝手に喋りだしたら終わる。本人も分かっている。分かっているから、余計に顔が熱い。
「……ここに、いるの?」
「いる“はず”」
式さんの言い方は、いつもそうだ。
断言ではない顔をして、逃げ道を塞ぐ。
『規則から外れたものを探せ』
斬月が言った。
『ここは規則でできている。人も、物も、手順もな』
規則。
言われて初めて、音が耳に戻った。スリッパが擦れる音、車椅子の車輪、点滴スタンドの金属がかすかに鳴る音。受付のプリンターが紙を吐き出す音。全部、同じ方向へ流れていく。病院は“流れ”で人を運ぶ。
流れから外れるものだけが、目立つ。
立ち上がり、掲示板の前へ移動する。掲示物を見るふり。指先で紙の端を押さえる。紙が空調で揺れ、爪の先が冷える。
視線は掲示物じゃない。廊下だ。
白衣の医師が二人、早足で通った。靴音が軽い。忙しい音。
看護師がカルテを抱えて走る。髪留めが揺れて、カートの車輪が小さく跳ねた。慌ただしいズレ。病院らしい。
違うズレが、欲しい。
「太郎……」
絶花が背中越しに囁く。
同じ場所を見ている。言わなくても伝わるのは、幼馴染の特権だ。都合がいい。怖い時ほど。
「今は、普通の患者の顔しとけ」
「……努力する」
言い方が真面目すぎて、少し笑いそうになる。笑わない。喉が乾く。
ナースステーションの前。白衣の男が立っていた。
名札が裏返っている。忙しいならありがち。
ただ、忙しい人間は“忙しい音”を立てる。
男の足が、鳴らない。
床に吸い付くみたいに滑り、止まる位置が正確すぎる。半歩も無駄がない。
病院の“規則”に合わせているのに、規則を操っている側の動きだ。
『あれは慣れている』
斬月の声が落ちた。短く、硬い。
『ここに慣れているのではない。狩りに慣れている』
男の手には小さな保冷箱。
血液や検体を運ぶサイズ。けれど、ラベルが見えない。病院の箱には、名前が貼られる。番号が貼られる。誰の何かが貼られる。
何も貼られていない箱は、“誰のものでもない”ふりをしてる。
「……あの箱」
絶花が言いかけて止めた。声が空気に溶ける。
言葉の続きは要らない。目が言っている。
“病院っぽくない”。
男がこちらを見た。
視線が合った、というほど露骨じゃない。けど、こちらの位置を測った。距離を測った。呼吸の速さまで測ったような気がした。
胸の奥が熱くなる。王国の駒が、盤上の駒を数えるみたいに、ひとつ音を立てる。
『反応したな』
斬月が笑わない声で言う。
『あれは“医者”ではない』
背中に汗が滲む。冷房がそれを冷やす。ぞくり、と皮膚が粟立つ。
絶花の袖を軽く引く。半歩後ろへ寄せる合図。
男は歩き出した。検査室の方ではない。
人の多い通路から外れ、非常階段の扉へ向かう。あそこは普段、職員が使う。患者の流れから外れている。
流れから外れた場所を、流れの中にいる人間が選ぶ理由は少ない。
扉の前で、男は周囲を見ない。
鍵が必要なはずの扉に、迷いなく手を伸ばす。迷いがないのは、知っているからだ。知っているのは、権限があるか、壊す気があるか、どちらかだ。
『壊す気だ』
斬月が言った。
『お前たちの“光”を、開けるための鍵にする』
「追う」
口の中だけで言う。
絶花が黙って頷いた。頷きが小さいのに、足取りは揺れない。怖いはずなのに、揺れない。天聖が黙ってるから、余計に怖いはずなのに。
扉が閉まる瞬間、隙間から匂いが漏れた。
消毒液とは違う。乾いた金属の匂い。焦げた粉の匂い。肺の奥がきゅっと縮む。潮の匂いじゃないのに、沈む入口の匂いがする。
扉に手を置く。金属が冷たい。
その冷たさの上に、指先がざらつきを拾った。蝶番のあたりに、黒い粉。煤にしては細かすぎる。触れると、妙に軽い。指に貼りつく。
絶花が息を呑む。
「……これ」
「触るな。指、拭け」
自分でも驚くほど声が低かった。王様の声、ってやつか。
そういう自意識はすぐ捨てる。捨てないと、足が止まる。
『羽根の屑だ』
斬月が言った。
『落ちた羽根は、規則も落とす。命も落とす。平然とな』
平然、という言葉が嫌だった。
医者を殺す。病院で。平然と。
そんなのを許したら、“普通の友達が作れる国”なんて、口にする価値がなくなる。
息を吸う。短く吐く。
肺の奥が少し冷たい。海の冷たさじゃない。けど、似ている。
沈む感覚が足首に絡みつこうとして、床の硬さで踏み潰す。
「絶花。後ろから離れないで」
「……分かった」
袖を握る指が強くなる。
それで十分だ。守るものがあると、前に出られる。
扉を開ける。金属が鳴った。
その音が、病院の規則から外れる最初の一音になる。
階段の空気が上がってきた。冷たく、乾いて、暗い。
白い廊下が背中で遠のく。
『道は作る。迷うな』
斬月が言う。
短い。命令みたいに短い。
迷わない。
迷うなら、斬るものを間違える。
間違えたら、王様なんて名乗れない。
一段目に足を乗せた。ゴム底が擦れて、小さく鳴る。
その音に、誰かの気配が重なった気がした。下から。
息をひそめた、誰かの。
階段の闇が、病院の灯りを食べはじめる。
その境目で、絶花の肩がわずかに震えた。
震えを、袖を握る指が止める。止めたまま、前へ出る。
二段目。三段目。
足音は小さい。心臓の方がうるさい。
それでも進む。進んで、外れた規則の正体を掴む。
——医者を殺したのが、堕天使なら。
この階段の先は、病院じゃない。
“実験室”だ。
女王は誰にする?
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