サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
屋上の扉を開けた瞬間、薬品の匂いが薄れて、風の匂いに変わった。
病院の屋上は、思っていたより狭い。フェンス、室外機、立入禁止の札。足元の防水塗装は少しひびが入っていて、夕方の光を鈍く返している。遠くで救急車の音が鳴って、すぐに街のざわめきに溶けた。
東郷はフェンスの近くに立っていた。両手を前で重ねて、風に飛ばされないように袖を押さえている。こっちに気づいて振り向いたとき、病室で見たときより、少しだけ顔色がよかった。
「……来てくれたんですね」
「呼ばれたからな」
そう返してから、少し間が空いた。
気まずい、というより、どこから切り出すか迷う間だった。あいつの方も同じらしい。視線が一度だけフェンスの向こうへ逃げて、また戻ってくる。
「体、もう大丈夫なんですか?」
「半分くらい。斬月持つと、たぶんまた怒られる」
「それは……式さんに?」
「満場一致で」
東郷が小さく笑った。ほんの少しだけ。けど、その小ささがありがたかった。病院の中で張りつめていた空気が、ここでようやくほどける。
風が吹いて、東郷の髪が頬にかかる。払う手つきが途中で止まった。
指先が、こめかみのあたりに触れたまま固まる。
「……やっぱり、少しだけ変なんです」
声が低くなる。笑いの続きじゃない声だ。
俺は隣まで歩いて、少し離して立つ。近すぎると話しにくいこともある。
「変って?」
「思い出し方が、変で。名前とか、昔のこととかじゃなくて……先に身体が動き方を思い出すんです」
東郷は自分の手を見た。細い指が、何かを握る形を一瞬だけ作る。すぐにほどける。
「階段で、太郎さんの背中を見たときもそうでした。庇う時の角度とか、逃げ道を残す立ち位置とか。頭で考える前に、『こうすればいい』って出てきて」
そこで言葉を切って、息を吐く。
夕方の風に混じって、少し冷えた。
「……たぶん、前にも戦ってたんだと思います。何かと。誰かを守るために。でも、そのせいで記憶をなくした。そこまでは、なんとなく分かるのに、肝心のところが見えないんです」
フェンスの向こう、ビルの窓に夕日が刺さって光る。眩しいはずなのに、東郷の目はそっちを見ていない。もっと近い、見えない場所を見ている目だった。
「思い出した方がいいのか、思い出さない方がいいのか……正直、分からなくて」
迷ってる、って言葉を使わないのが東郷らしいと思った。
でも、声の置き方で分かる。足を出す前の人の声だ。
俺はフェンスにもたれず、手すりにも触れずに立ったまま口を開く。
「俺は、思い出せって言わない」
東郷が少し驚いた顔でこっちを見る。
「……え?」
「無理にこじ開けるの、たぶん違うだろ。式さんも言ってたし。壊れたら意味ない」
「じゃあ……」
「その代わり、頼みがある」
言うと、胸の奥で王国の駒が小さく脈を打った。
いつもの熱とは少し違う。戦う前じゃない。誰かに手を伸ばす前の熱だ。
東郷の表情が引き締まる。身構えるほどじゃない。でも、ちゃんと受け取る顔になる。
「東郷さん、俺の家臣になってくれないか」
風の音が一瞬だけ大きくなった気がした。
東郷の目が丸くなる。予想してなかった顔だ。そりゃそうだと思う。病院の屋上で、いきなり家臣に誘うやつなんて、俺でもどうかしてると思う。
「……家臣、って」
「戦うためだけじゃない」
言葉を急がないようにして、続ける。
「今回、助かったのは東郷さんの一言のおかげだ。あの場で、名札の違いを見て、滅菌トレーの鏡面を思いついて、光の槍の性質まで読んだ。俺にはできない見方だった」
東郷の唇が少し動く。否定したそうな顔。でも、言葉が出る前に俺が先に言った。
「斬るのは俺がやる。前に出るのも、必要ならやる。けど、それだけじゃ足りない。俺、王様になるって言ってるくせに、まだ突っ込むことしかできない時があるから」
自分で言って、ちょっと痛い。事実だから余計に痛い。
海でも病院でも、沈みかけた。
「東郷さんの知識と勘、助けてほしい。思い出した分だけでいい。分からないなら分からないって言ってくれていい。それでも、俺は欲しい」
“欲しい”の言い方が強すぎたかと思ったけど、引っ込めなかった。ここで濁すと、たぶん伝わらない。
東郷は黙った。
風で髪が揺れる。指先が袖をつまんで、離して、またつまむ。迷ってる時の手だ。目線は足元に落ちて、それからゆっくり上がる。
「……怖いです」
小さな声だった。
けど、逃げる声じゃない。正直に置いた声だ。
「また戦うことになるのも怖いし、思い出すのも怖い。思い出した先で、今の自分が嫌になるのも怖い」
そこで一度止まって、東郷は少し笑った。さっきより苦い笑い方だった。
「でも、あの時。太郎さんの背中を見て、助けなきゃって先に身体が動いたのは、嫌じゃなかったんです」
その言葉に、胸の奥の熱がもう一度強くなる。
王国の駒が、静かに返事をしたみたいだった。
「……なら、それで十分だ」
俺が言うと、東郷は目を細めた。迷いを全部なくした顔じゃない。迷いを抱えたまま、前を見る顔だ。
「一つ、条件いいですか」
「言って」
「家臣になるとしても、最初から何でもできるとは思わないでください。たぶん、私、途中で止まるし、怖くなります」
「俺も止まるし、怖くなる」
「それ、王様としてどうなんですか」
「そこはこれから鍛える」
東郷が今度はちゃんと笑った。短く、でもはっきり。
「……分かりました」
風が吹く。
東郷は袖を押さえる手をほどいて、まっすぐ俺を見る。
「私でよければ、助けます。太郎さんの家臣として――その、知ってることと、思い出せることを使って」
返事を聞いた瞬間、肩の力が抜けそうになって、慌てて踏ん張る。ここでへなっとすると締まらない。
「助かる。ほんとに」
「その代わり、無茶すると止めますからね」
「式さんの次は東郷さんまで……」
「絶花さんも止めると思います」
それはそうだな、と思って笑った。
空の色はもう夕方から夜へ傾きはじめていて、屋上のフェンスの影が長く伸びる。病院の上に立ってるだけなのに、少しだけ先の景色が変わって見えた。
女王は誰にする?
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エミリア