サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
港の朝は、思っていたより静かだった。
船のエンジンが遠くで低く鳴っているのに、その音は波の呼吸に薄く溶けてしまって、堤防の上へ座っていると世界がまだ寝ぼけているみたいに見える。
釣り糸の先にぶら下がった浮きは、さっきから水面の同じ場所で気のない顔をしていて、こちらの期待だけが時間と一緒にじわじわ干からびていく。
「……何も釣れないな、朝から来たのに浮きすらまともに動かないじゃないか」
竿を持つ手の力を少し抜きながら言うと、隣に座っていた絶花が帽子のつばを押さえたまま、半ば呆れたようにこちらを見た。
朝の光は柔らかいはずなのに、絶花の視線だけは妙に現実的で、こっちの暇つぶしをきちんと暇つぶしとして裁いてくる。
「……その前に聞きたいんだけど、そもそもここで釣りをしていいのか少し怪しくないかな」
もっともな疑問だった。
もっともな疑問すぎて、俺は一瞬だけ返事に困ってから、波止場の端へ立っている立入注意の看板を見ないふりで視線から外した。
「大丈夫だろ、誰も怒りに来ないし魚だって文句は言わないはずだから」
言いながら、自分でもだいぶ雑な理屈だと思ったが、暇つぶしというのは大抵そういう雑さの上で成立している。
最近は港へ来れば何かが起きるような気さえしていたから、逆に何も起きない朝を確かめたくて、こんなことをしているのかもしれない。
絶花が小さく息を吐き、胸元へ触れかけた手を途中で止める。
天聖が喋り出すほどのことではない、けれど何となく落ち着かない、そんな時に出る仕草だともう分かっている。
俺がその横顔を見ていた時、空気の向きが一度だけ変わった。
絶花の背筋が、すっとまっすぐになる。
さっきまで海を見ていた目が、一瞬で別の場所を捉える目に変わって、指先が胸元ではなく腰の横へ止まる。
朝の港に似合わない緊張が、その動きだけで堤防の上へ置かれた気がした。
「……あなたは、そこに立っているだけじゃ分からないから名乗ってくれるかな」
絶花の声は穏やかな形をしているのに、ひどく警戒していた。
俺も竿を置いてゆっくり振り返る。
そこにいたのは、最初から景色の中にいたような男だった。
大柄という言葉で片づけると何かが足りない。
立っているだけなのに、足元から重さが染み出していて、堤防のコンクリートまでそいつを支えるために少しだけ力んでいるように見える。
喋らないままこちらを見ているだけなのに、視線がぶつかった瞬間、これは人間の喧嘩じゃ済まないと背中の内側が静かに告げてきた。
男は数秒だけ黙っていた。
黙っているというより、名乗る必要があるかどうかを測っている沈黙だった。
そのあとで、低い声が朝の空気を押すみたいに落ちてくる。
「……ハーニッシュだ、名だけで足りるならそれでいい」
名乗り方まで妙に重い。
余計な説明がないせいで、逆にその名前だけがこちらの中へ残る。
挑戦者というより、砲弾が一発だけ海の向こうから飛んできて、自分の名前を名札代わりに置いていったみたいな印象だった。
「名前だけで足りる場面じゃないと思うけど、少なくとも悪い冗談ではなさそうだな」
俺がそう返したところで、堤防へ続く通路の方から、乾いた足音が二つ三つこちらへ近づいてきた。
緊張を引き伸ばしていた空気が、その音で少しだけ別の方向へずれる。
現れたのは、見覚えのない女だった。
整った顔立ちをしているのに、第一印象は美人とか可愛いより先に、疲れている、が来る。
それも眠いとかだるいとかそんな種類じゃなく、理不尽に巻き込まれた人間だけが持つ、諦めと職務感の中間みたいな疲れ方だった。
「……実はこの人があなたに決闘を挑みたいらしくて、私は案内役としてここまで同行しました」
丁寧に言っているのに、その奥で「本当に面倒なんですけど」と大きく書いてあるような声だった。
ハーニッシュの無駄のない重さと、この女のやけに真っ当な疲労感が並ぶと、妙におかしい。
「らしい、って言い方をするあたり、あなた自身はだいぶ乗り気じゃないんだな」
俺がそう言うと、女は一瞬だけこちらを見て、それからすごく小さく眉を寄せた。
図星を刺された人間の顔だったけれど、取り繕う元気もたぶん残っていない。
「ええ、率直に言えば、港まで来て朝から決闘の立会人をする予定は私の人生設計に入っていません」
その返しに、絶花の肩がわずかに揺れた。
笑いそうになったんだろう。
俺も少しだけ口元が緩みかけて、けれど、次の瞬間には目の前の男の圧で自然に引き締まる。
ハーニッシュは相変わらず黙ったままだった。
黙っているくせに退屈そうではなく、むしろこちらの呼吸や立ち方や目線の動きを一つずつ量っているみたいで、その静けさが余計に面倒だった。
強さに興味があるというより、強さそのものを殴って確かめに来たやつの目だと、何となく分かる。
「……つまり、わざわざ俺を探して港まで来たってことか」
言葉を置くと、ハーニッシュはほんの少しだけ顎を引いた。
頷きとも違う、小さな肯定だった。
その肯定の短さが、逆にこいつの本気をはっきり見せる。
絶花が俺の少し前へ体をずらす。
守るつもりというより、最初に立つ位置を自然に取っただけだろうけれど、その半歩が幼馴染としての癖みたいに見えて、胸の奥が少しだけ熱くなる。
女――疲れた案内役の彼女は、それを横目で見て、ますますうんざりした顔をした。
「先に言っておきますけど、私は止めませんし煽りもしません、ただ終わったら帰りたいだけです」
そこまで疲れきった本音を、そこまで丁寧に言えるのはある意味すごい。
名乗ってもいないその女の方へ、俺は思わず興味の目を向ける。
「案内役にしては、だいぶ正直なんだな」
そう言うと、彼女はわずかに肩をすくめた。
「正直でいないと、こういう人の隣にいる時は心がもちませんから」
その答えに、今度こそ少し笑ってしまった。
朝の港で釣りをしていただけのはずなのに、いつの間にか、決闘を申し込んでくる沈黙の男と、内心うんざりしている案内役に囲まれている。
変だ。
変だけれど、嫌いな変さじゃない。
俺は竿をゆっくりと堤防へ置いた。
浮きは結局一度も沈まなかったが、代わりにもっと面白いものが向こうから釣り上がってきた気がする。
強そうな相手を見ると胸の奥が静かに鳴るこの感じを、最近はもう否定しきれない。
「……分かった、話はだいたい見えた」
ハーニッシュの視線がわずかに鋭くなる。
案内役の彼女は、ああやっぱりそうなるんですねという顔で目を閉じた。
「そんなに俺とやりたいなら、少なくとも退屈はさせないと思うぞ」
口にした瞬間、自分でも少しだけ笑った。
面白い。
そう思ってしまった時点で、たぶんもうこの朝は釣りの日じゃなくなっていた。
女王は誰にする?
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