サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
昼の町は、昨日と同じように湯気と日差しの中でのんびり息をしているはずなのに、今日はその“のんびり”の縁だけが妙に薄く感じられた。
宿を出て坂を下りるだけで、商店の並びや観光客の足取りに変わったところはない。
けれど、絶花は朝からずっと落ち着かない顔をしていて、声をかける前にもう二度も、後ろを振り返っていた。
「……まだ、ありますか」
そう訊くと、絶花は小さく頷く。
頷き方が、嫌なものを認めたくない時のそれだった。
「昨日より近いです、視線っていうか……見てる位置が、少し低い気がして」
「低い?」
「その、屋根とか、石垣とか……猫がいそうなところです」
猫。
その言葉に、昨日の石段に残っていた足跡と、昔、家の縁の下へ潜り込んできた黒い毛並みの手触りが、いきなり同じ場所へ重なった。
冷たい毛。
薬の匂い。
脇腹に触れた時の、骨ばった細さ。
思い出そうとすると細部は逃げるのに、匂いだけが妙に鮮明で腹立たしい。
町の中心を少し外れると、土産屋の軒先から吊るされた風鈴の数が急に減る。
その代わり、家々の戸口や石塀の角に、小さな札や注連縄みたいなものが目立ち始めた。
観光地の飾りにしては素っ気なくて、神事にしては生活へ寄りすぎている。
神社町とか温泉町とか、そういう言葉だけでは片づかない“人の暮らしの外縁”が、この辺りだけ少し濃い。
「昨日より、神社から遠いのに濃いな」
俺がそう言うと、絶花は足を止め、道の端へ転がっていた小石を避けるように一歩だけずれた。
見えない線でも踏まないようにしているみたいで、妙にそれらしかった。
「……ここ、町の人が避けて歩いてます」
言われてみれば、その通りだった。
石畳の細い路地が一つ、宿へ続く近道みたいに口を開けているのに、地元の人間はみんな手前で自然に曲がる。
わざとらしくはない。
でも、知らないうちにそこを使わないよう躾けられたみたいな、妙な避け方だ。
「気になる顔してますねって、今、言いたい顔してます」
絶花が横からそんなことを言う。
声はいつもの短い敬語なのに、少しだけ得意げで、こっちの反応を先に読んでいる。
「言わないつもりだったけど、実際気になる」
「……だと思いました」
返事も短い。
短いくせに、ちゃんと付き合う気でいるのが分かる。
こういう時の絶花は、怖いから離れるんじゃなくて、怖いから余計に様子を見る側へ回る。
俺たちはその細い路地へ入った。
ほんの数歩で、外の喧騒が一枚向こうへ引く。
音が消えるわけじゃない。
届き方だけが鈍くなる。
石垣はひんやりしていて、湯気の匂いより土と苔の匂いの方が強い。
足元へ目を落とすと、小さな爪痕みたいなものが石の縁に残っていた。
猫だろうか。
猫にしては、少しだけ深い。
「この町、猫が多いだけじゃない気がします」
絶花がそう言うと、路地の先、木戸の上へ黒いものがひらりと乗った。
反射で目を向ける。
細い尻尾。
尖った耳。
今度こそ、はっきり猫だった。
けれど、こちらへ一度だけ振り返った目つきが妙に人間じみていて、次の瞬間には塀の向こうへ消えてしまう。
追いかけるほどでもない。
でも、追いかけないのも気持ち悪い。
そんな中途半端な引っかかりが、この町に入ってからずっと続いている。
「……またいたな」
「はい、でも普通の猫じゃない気がします」
「普通の猫だったら、お前はそんな顔しないか」
そう言うと、絶花は少しだけ口を閉じた。
言い返したい時の顔だ。
けれど、何も言わずに路地の先を見る。
その沈黙が答えだった。
路地を抜けた先には、小さな社があった。
神社というには簡素で、祠というには広い。
観光向けの案内板もなく、ただ古い石灯籠と水鉢が置かれていて、その周囲だけ空気がひどく静かだ。
静かなのに、安心できない。
誰かが見守っている静けさじゃなく、見張っている静けさに近い。
ここで、斬月が薄く反応した。
抜いていない。
柄に触れてすらいない。
ただ腰の位置へ手を寄せただけで、空気の張りがほんの少し変わる。
土地の側が、こちらの中にある異物へ気づいたみたいだった。
神社の前だからか、猫の気配が近いからか、その両方かはまだ分からない。
「太郎」
絶花が小さく呼ぶ。
警戒の色が昨日より強い。
「ここ、嫌です」
「俺もだ」
即答すると、絶花は少しだけ目を丸くした。
意外だったのかもしれない。
けれど、嫌なものを嫌だと言う時くらいは、別に王様らしく構える必要もない。
社の脇に置かれた水鉢の縁に、濡れた足跡が並んでいた。
人のものではない。
小さい。
丸くて軽い。
猫だ。
ただ、水鉢の周りには水をはねた跡がない。
まるで足跡だけを置いて、中身はどこにもいないみたいに見える。
そういう不自然さが一番嫌いだった。
「……帰るか」
しばらく見てからそう言うと、絶花はあからさまに安心した顔をした。
その安心が少し可笑しくて、こっちの肩の力もわずかに抜ける。
「はい、その方がいいです」
路地を戻る。
外へ出た瞬間、商店街の音がまた普通の大きさで耳に戻ってきた。
年寄りの笑い声、店の呼び込み、湯気の立つ匂い。
さっきまでの静けさが嘘みたいで、だからこそ、あの奥が“別のもの”の気配を隠しているのが余計にはっきりする。
宿へ戻る途中、石垣の上にもう一度だけ黒い影があった。
昼の光の中へ溶けるみたいに細くて、見ていると目の端から逃げる。
追えばいなくなる。
見ていなければ、ずっと近くにいる気がする。
昔、家の縁側の下でじっとこちらを見ていた猫も、たしかこんなふうに距離を測っていた気がした。
夜になって、宿の窓を少しだけ開けると、冷えた風が畳の匂いを押し返して入ってきた。
何も起きない。
何も起きないまま終わる夜の方が、今は少しありがたい。
そう思って障子へ手をかけた時、屋根の上で瓦が一枚だけ乾いた音を鳴らした。
振り向かない。
でも分かる。
いる。
昨日より近く、今日よりもはっきりと、猫の気配だけが屋根の上へ残っている。
こちらを見ているような、見ていないような、あの曖昧な距離のままで。
女王は誰にする?
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