サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
夜は静かだった。
そう言い切ってしまうと嘘になるが、少なくとも宿の中にいるぶんには、昼の違和感も神社の空気も、薄い障子一枚ぶんだけ向こうへ押しやられているように見えた。
問題は、その障子の向こうで瓦を踏む音が二度、三度と繰り返されたあとも、絶花の肩の力がまるで抜けなかったことだ。
「……まだ、います」
布団へ座ったまま、絶花が小さく言う。
声は抑えているのに、喉のあたりだけが少し硬い。
昼の間ずっと続いていた“見られている感じ”が、今はもうごまかしようのない近さまで来ているのだと、その表情だけで分かった。
「屋根の上か」
「た、たぶん……でも、敵意だけじゃないです」
それが面倒だった。
明確に殺気なら斬月へ手が伸びる。
だが、見られているのに噛みついてこない。
近いのに、踏み込んでこない。
そういう気配は、相手が何を見ているのか分からないぶん、余計に気持ち悪い。
窓を開けることも考えたが、開けたところで向こうが姿を見せるとは限らない。
逆に、こっちが見せたいものを見せるだけで終わる気もした。
だから何もしないまま待つ。
待つこと自体が、相手への返事になる時もある。
しばらくして、瓦の音が止んだ。
その静まり方が妙だった。
離れたんじゃない。
位置を変えた。
そういう感じがしたまま、夜は結局何も起こさず明けた。
朝の宿を出た時、空気は昨日までよりずっと軽かった。
軽かったくせに、嫌な予感だけが消えない。
まるで、夜のうちに何かがこちらのことを一通り見終えて、今度は動く番を待っているみたいだった。
絶花も同じらしく、町を歩く間、いつもより一歩だけ近い位置へ寄ってくる。
「戻る前に、あの神社もう一回だけ見ますか」
絶花がそう言った時、俺は少しだけ意外に思った。
怖がるなら避けると思っていたからだ。
だが、絶花は視線を前へ向けたまま、短く息を吐く。
「……放っておく方が、気になります」
その言い方に、少しだけ笑いそうになった。
そういうところは、昔から変わらない。
怖いから止まるんじゃなく、怖いからちゃんと見に行く。
厄介だが、嫌いじゃない。
昨日通った石畳の路地へ入ると、昼間なのに空気の温度が少し違っていた。
人の生活の匂いはある。
湯気も、木の匂いも、土の湿りもちゃんとある。
それなのに、その全部の下へもう一枚、別の薄い匂いが敷かれている。
猫の毛が雨へ濡れたあと、日向で乾きかけた時みたいな匂いだ。
鼻の奥に触れた瞬間、昔の断片がまた一つだけ浮かぶ。
縁側の下。
丸くなって動かない黒い塊。
怪我に触れた時のかすかな震え。
思い出そうとすると逃げるくせに、こういう時だけ手触りだけが妙に近い。
神社の石段へ足をかけたところで、絶花の顔色が変わった。
胸元へ手が行く。
今度は途中で止まらない。
「来ます」
短い。
その一言と同時に、石段の脇にあった石灯籠の影が、不自然に伸びた。
昼の光に合わせた影の角度じゃない。
横へ流れるはずの黒が、足元を這うようにこちらへ寄ってくる。
一つだけじゃない。
二つ、三つ、湿った獣みたいな気配が、影の中から爪を立てる音を立てながら浮き上がる。
斬月へ手が伸びる。
抜く。
けれど、一拍だけ遅い。
俺が刃を引き出すより先に、石段の上から低い唸りが落ちてきた。
「そこ、踏み込んだら食われるにゃん」
声。
軽い。
軽いのに、石段を走る影全部がその一言で止まる。
次の瞬間、黒いものが頭上から落ちた。
猫じゃない。
女だ。
長い黒髪が空気を裂き、着地と同時に白い脚が石段を蹴る。
爪のように鋭い一撃が、こちらへ飛びかかろうとしていた影妖をまとめて裂いた。
絶花が息を呑む。
俺は斬月を構えたまま、その女を見た。
見たはずなのに、最初に胸へ入ってきたのは顔立ちじゃなく、匂いだった。
乾いた毛並み、薬の苦み、雨上がりの土。
名前にならないはずの記憶が、鼻先からそのまま胸へ刺さる。
女は振り返る。
金色の瞳が笑っている。
笑っているのに、その奥だけは気を抜いていない。
「ほんと、相変わらず危なっかしいにゃあ」
「……誰だ」
訊いた瞬間、自分でも声が少しだけ硬いのが分かった。
警戒している。
けれど、警戒だけじゃない。
どこかで知っているものへ刃を向ける時の、あの嫌な感触が混じっている。
女は石段へ片足を乗せたまま、面白がるように首を傾げる。
「誰って、そんなすぐ忘れるなんて薄情だにゃん」
絶花が一歩だけ俺の前へずれた。
その動きへ、女の目が一瞬だけ細くなる。
敵を見る目ではない。
値踏みだ。
でも、その視線は嫌なものじゃなかった。
「太郎、この人……猫の匂いがします」
絶花が小さく言う。
その言葉で、女の口元がもう少しだけ上がった。
「いい子だにゃあ、そっちの嬢ちゃんはちゃんと分かるみたい」
影妖がまた動く。
今度は一体だけじゃない。
石段の左右、社の床下、木立の向こう、見えるところ全部から滲み出る。
女は舌打ちでもするように肩をすくめた。
「積もる話はあるけど、先に片づけるにゃん」
軽い。
軽いのに、その言葉の置き方に迷いがない。
守るために来たんだと、説明なしで分かってしまう声だった。
俺は斬月を握り直した。
まだ名前は知らない。
知っている気配だけが、嫌に近い。
それでも今は、それで十分だった。
「分かった、そっちは任せる」
そう言うと、女は目を細める。
猫が気に入った相手を見る時の顔に少しだけ似ていた。
「そうこなくっちゃ、にゃん」
石段の上で、昼の光と猫の気配と、妖怪の影だけが濃くなっていく。
神社の境目は、昨日よりもずっと近かった。
女王は誰にする?
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ララ·サタリン·デビルーク
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