サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
影がほどけたあとも、祠の周りにはしばらく黒歌の爪痕みたいな静けさが残っていた。
木々の葉擦れは戻っているし、昼の風もちゃんと山の匂いを運んでくる。
それなのに、さっきまでこの場所が人の町の裏側だったことだけは、もうどうやっても忘れられそうにない。
一度見てしまったものは消えない。
ただ、普段の景色の下へ潜るだけだ。
この神社町は、そういう種類の町だった。
絶花が胸元へ添えていた手をようやく下ろす。
緊張が解けたというより、今はもう張りつめていても仕方がないと判断した顔だ。
額のあたりへ張りついた髪を指先で払ってから、黒歌の方を見る。
警戒はしていない。
でも、完全に気を許しているわけでもない。
その中間で、人を見る時の絶花らしい目だった。
「……ありがとうございました」
先にそう言ったのは絶花だった。
短い。
けれど、いつもの敬語に混じる硬さが今は少しだけ薄い。
敵か味方かを測る段階は、もう越えたんだろう。
黒歌は肩をすくめる。
相変わらず、こちらの真面目さをまるごと受け止めるには少し照れがあるらしい。
「礼なんていいにゃ、勝手に来て勝手に暴れただけやし」
「それでも、です」
絶花は引かない。
こういう時の頑固さは、昔から妙に強い。
黒歌はその視線を受けて、ほんの少しだけ困ったように目を細めた。
それから、今度は俺へ向く。
猫みたいに細い目のまま、声だけが少し柔らかい。
「ほら、そっちもなんか言うことあるんやないの」
言われて、言葉が少し詰まる。
礼を言えばいい。
たぶん、それが一番正しい。
でも、今ここで口から出てきたのは、少し違うものだった。
「……あの時、うちの縁側の下にいたの、お前だったんだな」
黒歌はすぐには答えなかった。
答えないまま、祠の前の石へ靴先を軽く当てる。
仕草だけなら、本当に猫みたいだった。
「ようやくそこまで辿り着いたんかにゃ」
否定しない。
それだけで十分だった。
昔、手当てした時に噛みつきそうな目をしていた黒い猫。
薬を塗るたびに嫌そうに耳を伏せ、それでも逃げ切れず、最後には縁側の下で丸くなっていた重み。
あの頃の手触りが、今の黒歌の声と同じ場所に重なる。
おかしな話だ。
猫が女になって戻ってきた、なんて普通に考えれば納得できるわけがない。
なのに、目の前のこいつを見ていると、それ以外の答えの方がむしろ不自然に思えた。
「勝手に消えたから、死んだかと思ってた」
口にしてから、少しだけ後悔する。
重すぎたかもしれない。
だが黒歌は怒らなかった。
むしろ、一瞬だけ目を伏せて、それから小さく笑う。
「死んでたら、恩返しにも来れへんやろ」
その言い方が軽い。
軽いのに、奥の方だけ妙に静かだ。
たぶん、あの時のことを笑い話にしきれないのは、こっちだけじゃない。
「……でも、助かった」
黒歌が続ける。
それ以上は長くしない。
ありがとうとも、悪かったとも言わない。
ただ、助かった、とだけ置く。
それで充分だと思わせるような声だった。
絶花が少しだけ視線を落とす。
その表情には複雑なものが混じっていた。
嫉妬と言い切るほど幼くはないし、ただの遠慮でもない。
太郎の知らない時間が、黒歌との間にあった。
その事実を、ようやく受け入れようとしている顔だった。
「……太郎って、やっぱり変なものを拾うんですね」
ぽつりとそう言う。
響きは柔らかい。
でも、少しだけ拗ねた色が混じる。
俺は思わずそちらを見た。
「変なものって言い方はひどくないか」
「だって、猫を拾ったと思ったら、あとで妖怪になって助けに来るなんて、普通はないです」
そこまで言ってから、絶花はほんの少しだけ唇を引く。
怒っているわけじゃない。
呆れているだけでもない。
太郎の周りでは、そういう普通じゃない縁が増えていくのだと、改めて思い知らされた顔だ。
黒歌はそれを見て、楽しそうに笑った。
「ええやん、そういう縁を持つ男やったってことやにゃ」
「本人より先に納得しないでくれ」
そう返すと、黒歌は肩を揺らした。
昼の終わりに近い光が横から差して、金色の瞳の輪郭だけが少し柔らかく見える。
戦いの時の鋭さとは違う。
けれど、完全に人側へ降りてきたわけでもない。
やっぱり、この女は人の町の外側に属している。
「もう行くんか」
訊くと、黒歌は迷わず頷いた。
「長居すると、余計なもんまで寄ってくるにゃ」
それは脅しじゃない。
事実なんだろう。
この町の裏側も、妖怪の縄張りも、まだ全部が片づいたわけじゃない。
黒歌がここへいれば、それだけで別の何かを呼ぶ。
そういう存在なのだと、今なら少し分かる。
「また会えるか」
自分でも、思ったより素直な問いだった。
黒歌は鳥居の影へ半歩下がり、それからこちらを見る。
最初に見た時より、少しだけ近い顔だった。
「縁が残ってる限りは、そのうちまた会うにゃ」
あいまいだ。
でも、黒歌が言うとそれで十分に聞こえる。
絶花も黙って頷く。
たぶん、この町で見たもの全部を、今はまだ無理に答えにしたくないのだろう。
黒歌は最後に、石段を軽く蹴って塀の上へ飛び乗った。
人より猫に近い軽さで、屋根の端へ渡る。
それから一度だけ振り返り、俺たちを見下ろした。
「今度はもうちょい、ええもん食わせてくれてもええんやで」
その一言に、思わず笑ってしまう。
昔、薬と一緒に出した飯を、嫌そうな顔で結局全部食っていた黒い塊が、記憶の底から急に鮮明になった。
「注文が多いな」
「恩返しはした、次は普通にたかりに来るだけやにゃ」
言い終わるより先に、黒歌の姿は屋根の向こうへ消えた。
残ったのは、瓦の上を渡る軽い音と、乾いた毛並みと薬の匂いを混ぜたような、妙な懐かしさだけだった。
しばらくその場を動けなかった。
絶花も何も言わない。
神社の気配はもう静かで、影もこちらを試してこない。
全部終わったはずなのに、終わったというより、ようやく一つだけ繋がったような感じがした。
「……帰るか」
そう言うと、絶花は小さく頷いた。
「はい、帰りましょう」
それから少しだけ間を置いて、こっちを見ずに続ける。
「でも、次に猫を拾う時は、私にもちゃんと教えてください」
「何の注文だそれ」
「大事なことです」
その返事があまりにも絶花らしくて、ようやく肩の力が抜けた。
駒王の外にも、こんな世界がある。
妖怪の掟も、通ってはいけない道も、恩を返しに来る黒い猫も。
全部まとめて面倒で、でも嫌いじゃない。
そう思えた時点で、この旅はたぶん十分に意味があった。
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