サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
町へ戻って三日、何も起きていないはずなのに、何も起きていない感じがまるでしなかった。
町はいつも通りだ。
学校へ行って、授業を受けて、帰り道で適当に何か買って、夕方になれば空が少しだけ赤くなる。
それだけ聞けば平和そのものなのに、一度、町の外でああいう“境目”を見てしまうと、普通の景色の裏にまで薄い影が貼りついて見える。
黒歌のこともそうだ。
昔、うちの縁の下に潜り込んでいた怪我猫が、いまさら妖怪の顔で恩返しに来るなんて、そんな話を飲み込んだはずなのに、喉の奥ではまだ少し引っかかったままだった。
「……太郎」
放課後の帰り道、絶花が俺の少し横で小さく呼ぶ。
声の高さはいつも通りなのに、息だけが少し浅い。
「なんだ」
「今日も、見られてる感じがします」
そう言って、絶花は肩越しに一度だけ後ろを見る。
振り向き方があからさまじゃない。
でも、ただの気のせいで流せるほど軽い仕草でもなかった。
「黒歌か」
「そ、それとは少し違う気がします……その、もっと、ちゃんと見てる感じです」
「ちゃんと見てるって、雑な言い方だな」
「う、上手く言えないんです」
言いながら、絶花は少しだけ口を結ぶ。
こういう時のこいつは、無理に分かったふりをしない。
分からないものを分からないまま抱えて、でも目だけは逸らさない。
そういうところは、昔から変わらない。
商店街を抜ける。
夕方にはまだ早い時間で、人通りも多い。
制服のまま歩く生徒、買い物袋を下げた主婦、部活帰りの連中。
そのどこを見ても、目に見える異変はない。
ないのに、絶花の言う“ちゃんと見てる感じ”だけが、電線の上とか、路地の角とか、視界の外縁へ薄く残っている。
「お前、疲れてるんじゃないか」
そう言うと、絶花が少しだけむっとした顔をした。
でも、怒るほど強くは出ない。
「疲れてるだけなら、いいです」
「じゃないと」
「……あの町で終わってない気がするんです」
短い言い方だった。
でも、その一言だけで十分だった。
黒歌と会ったあの神社町で見たものは、たしかに終わった。
影妖は散ったし、黒歌は恩を返したと言って去った。
それでも、あれで全部片づくような匂いはしていなかった。
むしろ、あそこでようやく向こうに見つかっただけじゃないか、そんな嫌な感じの方が強い。
「……俺も少しはそう思ってる」
口にすると、絶花が横目でこっちを見る。
意外そうな顔だった。
「太郎が、ですか」
「なんだよ、その反応は」
「い、いえ……太郎は、こういう時、もう少し強引に“来るなら来い”って言うかと」
「言いたい気分はある」
「あるんですね」
「あるけど、それで本当に来られても面倒だろ」
返すと、絶花は小さく息を漏らした。
笑いかけて、やめたみたいな音だった。
「それは、そうです」
交差点を渡る。
信号待ちの間、ふと歩道脇の植え込みを見ると、黒い猫が一匹、葉の陰からこっちを見ていた。
黒歌じゃない。
たぶん、ただの猫だ。
それなのに、一瞬だけ足が止まりかける。
昔みたいに、怪我をしているのかどうかから先に見てしまう。
いない。
傷はない。
ただ、猫は俺と目が合った途端、音もなく塀の向こうへ消えた。
「……また猫、ですね」
絶花が言う。
声の調子が、少しだけ複雑だ。
黒歌のことを思い出しているんだろう。
たぶん、あの件をきっかけに、こいつの中でも“猫”がただの猫で終わらなくなってしまった。
「町って、前からこんなに猫多かったか」
「さ、さあ……でも、今はそう見えるだけかもしれません」
それはたぶん、正しい。
一度気になったものは増える。
景色の中に最初からあったのに、自分が見ていなかっただけのものまで、急に輪郭を持ち始める。
黒歌と会ったせいで、俺たちはたぶんそういう側へ少しだけ寄った。
家へ着く頃には、空の色がだいぶ落ちていた。
玄関を開ける前、絶花がふと足を止める。
視線は門柱の脇だ。
そこには、小さな木箱が一つだけ置いてあった。
「……これ、今朝はなかったです」
「見りゃ分かる」
誰が置いたのかは知らない。
けれど、宅配でもなければ近所の差し入れでもないことくらいは、見た瞬間に分かる。
箱は上等でも粗末でもない、妙に中庸な作りだった。
目立たないくせに、置かれた場所だけが妙に正確で、うちの敷地と外の境目をきっちり跨がない位置へ収まっている。
遠慮じゃない。
礼儀の形だ。
そういうものに見えた。
「開けますか」
絶花が訊く。
少しだけ声が硬い。
俺は箱の前へしゃがみ込んだ。
鍵はない。
封もない。
ただ蓋の上へ、小さな金の紐が一筋だけ巻いてある。
触れる。
冷たくない。
それどころか、指先へ薄く熱が残る。
火じゃない。
狐火に近い、乾いた熱だ。
「下がってろ」
「……はい」
絶花が半歩下がる。
それを横目で確認してから、蓋を開ける。
中に入っていたのは手紙だった。
香の匂いがする。
神社町で嗅いだ湿った獣の匂いとも、黒歌に残っていた薬の匂いとも違う。
もっと整っていて、もっと“人の社会”へ近い匂いだ。
同じ妖怪でも、黒歌よりずっと上流にいる連中の匂いがした。
「……なんて書いてありますか」
絶花が訊く。
俺は一度だけ文面へ目を通し、それから小さく息を吐いた。
「呼び出しだな」
「呼び出し」
「京都まで来いだと」
絶花が黙る。
黙ってから、少しだけ眉を寄せた。
「黒歌さん、ですか」
「いや、違う」
手紙の最後にある名前を、もう一度見る。
墨の置き方が妙に落ち着いていて、威圧しないくせに逃げ道だけはきっちり塞いでくる感じがした。
直接会ってもたぶん同じ空気なんだろう。
柔らかいのに、踏み込ませない。
そんな気配が紙の上から滲んでいる。
「八坂……」
名前に出した途端、絶花の空気が少しだけ変わった。
知らない名前のはずなのに、そこへ付いている気配の重さは読めたらしい。
「強い、ですか」
「手紙だけで分かるくらいには、面倒そうだな」
「それは太郎の感想ですよね」
「だいたいこういう時は当たる」
箱の底には、小さな薄桃色の毛が一本だけ入っていた。
狐のものだと分かる。
飾りじゃない。
名刺みたいなものだ。
京都の向こう側が、こっちを見つけて、しかも黒歌個人じゃなく“向こうの顔”で呼んできている。
「……黒歌さんの件、やっぱり終わってなかったんですね」
絶花が言う。
声が少しだけ沈む。
怖いのだと思う。
でも、その怖さの奥に、もう逃げるつもりのない色も見える。
「終わったんだろうさ、あいつ個人の恩返しは」
「じゃあ、これは」
「その先だ」
箱を閉じる。
金の紐がわずかに鳴る。
人助けだの猫だの、そういう個人的な縁で済んでいた話が、ここからはもう少し大きな理屈へ変わる。
黒歌が開けた扉の向こうに、別の顔が立っていた。
たぶん、それだけのことだ。
でも、その“だけ”が面倒な世界ほど、後から深い。
「行きますか」
絶花が訊く。
迷いがないわけじゃない。
それでも、まず聞く。
太郎がどうするかを。
「行く」
「すぐに、ですか」
「準備はする。でも断る理由はない」
「……会うだけで、済みますか」
その問いに、すぐには答えられなかった。
手紙の文面は簡潔だった。
礼を失していない。
それなのに、会うだけで済ませるつもりが向こうにないことくらい、行間から分かる。
測られる。
たぶん、まずそこからだ。
「済まない方へ賭ける」
そう言うと、絶花は少しだけ肩を落とした。
落としたくせに、目だけは俺から逸らさない。
「では、私も準備します」
「聞かなくていいのか」
「な、何をですか」
「ついてくるなって言ったらどうする」
絶花は一拍だけ黙って、それからほんの少しだけ口元を引いた。
怒る時に近い顔だった。
「……それは、困ります」
「困るだけか」
「と、とても困ります。すごく」
その言い方が少しだけ可笑しくて、思わず笑いそうになる。
でも、笑うより先に、胸の奥が少しだけ軽くなった。
黒歌の件の余韻はまだ残っている。
そのうえで、次の不穏はもう、門の前に箱の形で届いていた。
逃がす気がないのなら、こっちも正面から行くしかない。
夜になってから、箱を置いていった相手が本当に人間じゃないことを思い知らされる出来事が一つだけあった。
窓の外、塀の上へ三匹の猫が並んで座っていた。
黒、白、茶。
どれもただの野良猫に見える。
見えるのに、こっちが障子を開けた瞬間だけ、一斉に同じ方向へ首を向けた。
そして次の瞬間には、何事もなかったみたいに散っていく。
「……見られてますね」
絶花が、小さく言う。
「見られてるな」
「嫌ですか」
「少しな」
「私は、かなり嫌です」
「正直で助かる」
「た、助からないでください」
そんなやり取りをしながらも、もう分かっていた。
次は黒歌みたいにふらりと来る誰かじゃない。
もっときちんと、もっと古くて、もっと大きいものがこっちを見る。
その視線の先で、たぶん次の面倒はもう息を潜めている。
女王は誰にする?
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