サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
襖が開いた瞬間、まず入ってきたのは匂いだった。
甘い香じゃない。
花に似ているのに、もっと静かで、深いところへ残る匂い。
それから、音の少なさが来る。
広い座敷だ。
庭に面していて、風も通っているはずなのに、妙に静かだった。
静かなのに張りつめてはいない。
ただ、最初からここにある空気の濃さだけが違う。
踏み込んだ瞬間、こっちの呼吸の浅さだけがやけに分かった。
座の奥に、女がいた。
派手な格好をしているわけじゃない。
けれど、目を向けた瞬間に分かる。
この場で一番強いのは誰か、なんて探す必要もない。
ただ座っているだけで、部屋の重心がそこにある。
そういう人間だった。
「よう来たな」
声は柔らかい。
柔らかいのに、こちらへ歩み寄ってくる余地を最初から細くしてくる。
怒ってもいないし、歓迎しすぎてもいない。
その中間を、最初から相手に選ばせない声だ。
「八坂さま」
案内の女が一礼して下がる。
俺と絶花は、その場で止まった。
止まったまま、先に頭を下げる。
へりくだるためじゃない。
ここでは、それがまず筋だと分かるからだ。
「唯我太郎です」
「……宮本絶花、です」
絶花の声はいつもより一段だけ硬かった。
短い敬語。
少しだけ詰まる。
それでも、視線は逸らしていない。
怖いのに引かない時の絶花だ。
八坂はそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
笑ったのかどうかは分からない。
でも、悪い反応ではないらしい。
「黒歌から、話は少しだけ聞いとる」
「少しだけ、ですか」
思わず返すと、八坂は静かに頷いた。
「全部を聞く必要はない。うちが知りたいのは、あれが誰に恩を返しに動いたか、その程度で足りる」
黒歌の名は出しているのに、声の置き方は淡い。
個人的な情で呼んだわけじゃない。
その線引きが、言葉の端だけで分かる。
この人にとって黒歌は身内ではあっても、まずは勢力の一部なのだろう。
そこが、黒歌と一番違う。
「それで、わざわざ手紙まで寄越したのか」
そう言うと、八坂は俺をまっすぐ見た。
柔らかい目だ。
なのに、こっちが一歩でも言葉を誤れば、そのまま飲み込まれそうな深さがある。
「わざわざ、やなくて必要やったからや」
「必要」
「黒歌が、恩を返す相手として選んだ。そこまではあれ個人の話や」
八坂はそこで一度だけ言葉を切る。
沈黙が短い。
でも、短いくせにこっちへ考える時間を押しつけてくる。
「せやけど、京都の側で騒ぎを起こして、そのうえ生きて戻ったとなれば、それは個人で終わらへん」
理屈としては簡単だった。
簡単だからこそ重い。
黒歌との再会はあくまで縁の話だった。
けれど、縁で済ませるには舞台が悪かった。
京都の妖怪側の地で騒ぎが起きて、その中へ外から来た俺たちが踏み込んだ。
向こうが見るには十分すぎる。
「見定めに呼んだってことか」
俺が言うと、八坂は少しだけ首を傾げた。
「嫌か」
「嫌かどうかで言えば、気分のいいもんではないな」
「正直やな」
「そっちも遠回しにしないだろ」
返したあとで、絶花が横でほんの少しだけ息を詰めるのが分かった。
止めるべきかどうかを迷ったんだろう。
でも、言い直さない。
ここで必要以上に丸くなる方が、たぶんこの人には失礼だ。
八坂は怒らない。
むしろ少しだけ愉快そうですらあった。
それがまたやりづらい。
「黒歌の言う通りやな」
「何を言われた」
「我が強い、でも礼は分かる、って」
あいつ、余計なところだけきっちり伝えてやがる。
顔には出さなかったつもりだが、八坂にはたぶん少しくらい読まれたんだろう。
目元がわずかに和らいだ。
「そう外れてへんと思うけど」
「褒め言葉として受け取っておく」
「好きにしたらええ」
八坂の返しは軽い。
軽いのに、場の主導権は微塵も渡していない。
この会話の流れそのものが、もう向こうの手のひらの上にある。
「宮本絶花」
ふいに、八坂が絶花の方を見た。
絶花の背が、ごく小さく強張る。
「……はい」
「おまえさんは、よう見とるな」
「え」
「さっきから一度も、うちの顔だけ見てへん。部屋の空気と、外の庭と、案内の気配まで拾おうとしとる」
絶花が一瞬だけ言葉を失う。
図星を刺された時の顔だった。
「そ、それは……」
「悪いことやない」
八坂はそう言って、ほんの少しだけ微笑んだ。
その笑みはやわらかい。
だが、やわらかいから許されたと勘違いしたら終わる。
そういう笑みだ。
「臆病なんは悪いことやない。見ようとする臆病さは、よう生き残る」
その言い方に、絶花が少しだけ目を見開いた。
絶花にとって、臆病という言葉はたぶん褒め言葉ではない。
けれど八坂はいま、それを下げる意味では使っていなかった。
「……ありがとうございます」
絶花は小さく頭を下げる。
声は短い。
でも、さっきより少しだけ芯が戻っている。
八坂はその変化を見たはずなのに、何も言わなかった。
「で」
八坂が視線を俺へ戻す。
一言だけで、部屋の空気がまた少し締まる。
「おまえさんは、何をしに来た」
単純な問いだった。
だから誤魔化しが効かない。
黒歌の件の礼だとか、呼ばれたから来ただとか、そういう答えでは足りない問い方だ。
何をしに来た。
つまり、ここで何を取るつもりで立っているのかを聞かれている。
「呼ばれたから来た」
まずはそれを置く。
八坂は黙る。
続きを待っている黙り方だ。
「そのうえで、確かめに来た」
「何を」
「黒歌の件が、あいつだけの話で終わるのか」
少しだけ、呼吸を置く。
「それとも、もっと大きい理屈の入口なのかを」
言い切ると、八坂の瞳がわずかに細くなった。
初めて、正面から噛み合った感じがした。
たぶん、ここがようやく対面の本番なんだろう。
「答えはもう半分出とるやろ」
「だから残り半分を聞きに来た」
「聞いてどうする」
「必要なら、踏み込む」
絶花が横で小さく息を呑む。
それでも止めない。
俺も止めない。
ここで引くなら、最初から来る意味はなかった。
八坂はしばらく俺を見て、それから視線を落とさずに静かに言った。
「人の子が、よう言う」
「人の子だから言うんだろ」
「……そうかもしれへんな」
その返しは、否定でも肯定でもない。
でも、最初より少しだけ近い。
黒歌と違って、急に距離は縮まらない。
けれど今、はっきりと一段だけ場が進んだのは分かった。
「黒歌の件は、あれ個人の恩や」
八坂が言う。
「せやけど、その恩返しが京都の側で起きた以上、もう“何もなかったこと”にはでけへん」
「やっぱりそうか」
「せやから呼んだ。見て、聞いて、それでも立つかを確かめるために」
確認だ。
試しとも言う。
でも、ここでようやく向こうがこっちを“話すに値する相手”の位置へ乗せたのだと分かる。
「今すぐ答えを出せとは言わへん」
八坂はそこでようやく少しだけ身体の向きを変えた。
庭の向こう、夕方へ傾きかけた光が座敷へ細く伸びる。
「けど、おまえさんらはもう、駒王の中だけ見てればええ立場やない」
その一言が、今日いちばん重かった。
薄々分かっていたことを、向こうの理の側から言い切られると、やっぱり別の重さになる。
「……はい」
絶花が小さく答える。
短いけれど、逃げていない。
俺も視線を外さないまま、口を開く。
「なら、次は何だ」
「早いな」
「待たされるのは好きじゃない」
「知っとる」
八坂が少しだけ笑う。
ほんのわずかな笑みだ。
でも、その笑みの奥には、まだこちらを全部は通していない気配が残っている。
「次は、見せる番や」
「見せる」
「京都の側で、何がどう動いとるかをや」
そこまで言って、八坂は案内の女へ目を向けた。
それだけで十分だったらしく、女は静かに一礼する。
話はここで切る。
そういう合図だ。
立ち上がる前に、八坂は最後に一つだけ付け足した。
「黒歌が拾うた縁は、面倒なもんばっかりや」
「言っといてやる、俺だって拾う相手は選びたい」
「選べるなら、今ごろ苦労はないやろ」
それはたしかにそうだった。
思わず口元が少しだけ緩む。
絶花はそのやり取りを聞いて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
まだ緊張はある。
でも、ここまで来れば少なくとも、ただ飲み込まれるだけの対面では終わらなかった。
襖の外へ出る。
廊下の空気はさっきと同じはずなのに、さっきほど息苦しくはなかった。
重いのは変わらない。
ただ、その重さに名前がついた。
八坂。
京都妖怪側の顔。
黒歌個人の恩のその先に立っている、もっと大きな理の側の人間。
「……太郎」
絶花が歩きながら小さく呼ぶ。
「なんだ」
「怖かったです」
「俺もだ」
「で、でも」
少しだけ間がある。
「ちゃんと会えて、よかったです」
その言い方がいかにも絶花らしくて、少しだけ笑う。
こっちはまだ、ようやく入口へ立っただけだ。
でも、その入口を知らないままではいられないところまで、もう来てしまっている。
女王は誰にする?
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