サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
廊下を渡るあいだ、妙に音が遠かった。
板を踏んでいる感触はある。靴裏に返る硬さも、夜気の冷えも、ちゃんとある。なのに、足音だけがきれいに吸われていく。庭の竹が鳴ってもよさそうな風なのに、それも聞こえない。
人の屋敷じゃない。
さっき通された座敷で八坂と向かい合っていた時点で分かっていたことを、改めて思う。整っているだけじゃない。整えられたまま、ずっとそこに在り続けてきた場所の静けさだった。
前を行く女中姿の妖が、障子の前で足を止めた。
「こちらへ」
開かれた先は、庭に面した細い渡りだった。石灯籠が二つ。低い柵。向こうに小さな社が見える。大きくはない。だが、目に入った瞬間、喉の奥がわずかに重くなった。
背に負った斬月が、布越しに熱を変える。
抜ける。だが、抜く場所じゃない。
そういう確信だけが先に立った。
「……太郎さん」
隣の絶花が、ほとんど唇を動かさずに言う。
「先、あります」
「何がだ」
「線、です。見えないですけど」
目だけで前を示す。渡りの先、三歩ほど先の板。そこから先の空気が、薄く違って見えた。見えた、というより、見せられている感じに近い。
俺が黙ったまま立ち止まると、奥から柔らかい声がした。
「気づかはりましたか」
八坂は、いつの間にか渡りの先に立っていた。歩いてきた音はしない。袖口を重ねたまま、こちらを見ている。その顔つきは穏やかだ。穏やかなまま、場の主が誰かだけは疑いようがない。
「うちの子らでも、よう見落とすことがありますのに」
「見落としたら、どうなる」
俺が聞くと、八坂は少しだけ笑った。
「それを今ここで確かめる必要はあらしまへん」
柔らかい。だが、答えはそれで終わりだった。
絶花の肩が、わずかに強張る。
「敵意は、ないです。でも……入っていい線じゃ、ないです」
「そうどす」
八坂は絶花へ目を向けた。値踏みするような露骨さはない。ただ、一息のあいだに見られたと分かる視線だった。
「怖がるだけやのうて、止まれるのはええことや」
絶花は小さく息を呑み、「……ありがとうございます」と短く返した。
俺は渡りの先を見る。たかが三歩。踏み込もうと思えば踏み込める。斬月を抜けば、もっと分かりやすい。あの社の前に張られたものが何で、どれだけ強いかも、たぶん刃を当てれば見える。
だが、それをやる理由がない。
ここは向こうの庭だ。向こうの理で守っているものに、こっちの都合で刃を立てるのは王の振る舞いじゃない。ただの無作法だ。
「試してるな」
俺が言うと、八坂は否定しなかった。
「試す、いうたら聞こえが悪いですねえ」
「違うのか」
「確かめております」
同じだろ、と言いかけてやめた。
この女はたぶん、そういう言葉の置き方まで含めて場を崩さない。力で押さえつけているんじゃない。筋で囲って、その内側に相手を立たせている。
厄介だが、嫌いじゃなかった。
「黒歌の件か」
「それもありますえ」
八坂はゆるく首を傾けた。
「あの子が恩を返したいと思うた。その気持ちは、うちも軽うは扱いまへん。せやけど、京都の内で起こったことや。土地を跨いで、道を乱して、見ていたもんもおります」
見ていた。
神社町で感じた気配が頭をよぎる。黒歌と別れたあとも、あれで終わりじゃないと肌が言っていた。誰かに見られていたというより、土地そのものに記憶されていたような感触。
「だから呼んだ」
「呼んだ、いうより、お招きしました」
言い直し方が上品なだけで、意味は変わらない。
八坂は笑みを薄くしたまま、視線を社へやった。
「個人の恩と、土地の理は別どす。黒歌が動いたから、はいそうですかと奥まで通すわけにはいきまへん」
「当然だな」
俺が即答すると、絶花が一瞬だけこっちを見た。意外だったのかもしれない。
だが実際、その通りだ。個人の情で縄張りの線を踏み越えさせる長なんて、長としては三流だろう。そんな手合いと組んでも先はない。
八坂の目が細くなった。
「素直どすなあ」
「筋があるだけだ」
「では、こちらの筋も呑める、と」
「中身次第だ」
俺が言うと、八坂は初めて少しだけ楽しそうに笑った。
「やっぱり、黒歌が放っておかへんはずや」
褒められた気はしない。あいつの情と、こっちの都合は別だ。
渡りの先、社のしめ縄がかすかに揺れた。風じゃない。空気の流れが、そこだけ違う。斬月の布が手の中でわずかに軋む。
絶花が息を詰めた。
「……下です」
「何がいる」
「いる、というより……流れてます。下。地面の……もっと下」
地脈か、と言葉にする前に、八坂が答えた。
「ええ勘してはる」
社の前まで進み、八坂は柵に手を触れた。触れただけで、張っていた気配が一段深くなる。押しつけてくるんじゃない。こちらの輪郭を測るように、周囲の空気が薄く締まった。
「ここは、道が重なる場所どす。人が知ってる道と、うちらが通す道と、その下を流れる古い筋と」
「だから線を引いてる」
「そういうことです」
八坂は社を見たまま続ける。
「ちいさな綻びが出ています。今すぐ破れるようなもんやない。せやけど、放っといてええもんでもあらへん」
俺は柵の向こうを見る。見たところで、割れ目も穴もない。ただ、斬月が嫌に正直だった。あの奥へ刃を向ければ、切れる。たぶん何かは断てる。だが、何を切ることになるのかが見えない。
見えないものに刃を入れるのは、ただの馬鹿だ。
「それで」
俺は八坂を見る。
「俺に切らせるつもりか」
「今ここで、とは言うてまへん」
「だろうな」
「けれど、切れるかもしれへんと考えはった」
否定しない。考えた。考えたうえで、まだ抜かないと決めた。
八坂は俺の背の刀を見た。視線はやわらかいのに、刀の中まで覗き込まれるみたいで気分が悪い。
「その刃は、外から来たもんどす。せやのに、境目によう触る。便利やけど、扱いを違えたら、こちらの道まで傷める」
「俺もそう思った」
「ほう」
「切れるから切る、は下のやり方だ。守るものの形も知らずに振るう気はない」
しばらく、誰も喋らなかった。
絶花の呼吸だけが小さく耳に入る。女中姿の妖も、少し離れたところで身じろぎ一つしない。
やがて八坂が、ほんの少しだけ頷いた。
「無作法ではないようどすな」
認めたわけじゃない。だが、切り捨てもしなかった。
絶花がまた小さく声を出す。
「……太郎さん」
「分かってる」
「いえ、そうじゃなくて」
珍しく言い直した。絶花は社ではなく、その奥、庭のさらに向こうを見ていた。
「これ、ひとつじゃないです」
俺も目を凝らす。見えない。だが、絶花の声は外さない。
「近いのが、もう一つ。たぶん、もっと浅いところに」
八坂の袖が止まった。
初めて、向こうの空気が一息だけ変わる。
強い感情じゃない。驚きとも違う。予定から半歩ずれたものが出た時の沈黙だった。
「どちらやろ」
静かな問いかけに、絶花は少し詰まった。
「……北、です。たぶん。水の匂いが、します」
「川か」
俺が言うと、八坂はゆっくりこちらを向いた。
「こちらが見せるつもりやったものより、早いかもしれまへんな」
「何が起きてる」
「起きかけております」
八坂は曖昧に言ってから、すぐに続けた。
「言葉で聞くより、見た方が早いこともある。そう思いませんか、唯我太郎」
試しは終わっていない。
むしろ、ここからだ。
俺は柵の向こうから目を外し、八坂を見返した。
「案内しろ」
「命令形どすか」
「そっちも人を測ってばかりだろうが」
一拍。
それから八坂は、楽しむようでもあり、呆れるようでもある目をした。
「ほんまに、王はんやこと」
絶花が小さく息を飲む。俺は肩をすくめた。
八坂は袖を重ね直し、渡りの奥へ視線を流す。
「では、見てもらいましょ。黒歌の恩や、うちの理や、そういう言葉だけでは足りひん場所を」
女中姿の妖が、すぐに頭を下げる。
空気が動いた。静かなまま、次の場へ向かう流れだけが通る。
絶花が俺の袖をほんの少し引いた。
「……気をつけてください」
「お前もだ」
「はい」
短い返事。だが、声はもうさっきより定まっていた。
俺は社を背にする。見えない線はまだそこにある。踏み込めば、たぶん何かが壊れる。だが今は、その先じゃない。
北。水の匂い。浅い綻び。
京都の理は、まだ入口しか見えていない。それでも、向こうはもう俺たちを庭先の客として扱うつもりはないらしい。
なら、十分だ。
見せるというなら見てやる。どんな理で、何を守り、何を切り捨てるのか。
そのうえで要るものなら取る。邪魔なら退かす。
俺は八坂の背を追って歩き出した。
女王は誰にする?
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アルファ
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ララ·サタリン·デビルーク
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エミリア