※この作品はR-18です。

サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏)   作:ボルメテウスさん

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落書きの怪物

 静かな帰り道だった。

 

 こういう日は嫌いじゃない。

 騒がしくもなく、妙に間が抜けているわけでもなく、ただ夕方の空気だけが町に薄く溜まっている。商店街を抜けたあとの道は人通りもまばらで、車の音も遠い。風が運んでくるのは、焼きたてのパンの匂いじゃなくて、湿った土と、どこかの家の夕飯の匂いだった。

 

 そのくらいがちょうどいい。

 

 ……ろくでもないことが起きる前なら、だけどな。

 

「太郎さん」

 

 隣を歩いていた絶花が、ふいに足を緩めた。

 

 声が少し低い。嫌な時の声だ。

 

「どうした」

 

「少し、変です」

 

「何が」

 

 絶花はすぐには答えなかった。視線だけが、通学路の先をなぞる。右。左。電柱の影。自販機の横。高架下へ続く坂道の入り口。

 

「見られてる感じがします」

 

「人か」

 

「……違います」

 

 その返事が一番面倒だ。

 

 俺は立ち止まって、周囲を見た。人影はない。下校中の学生も、犬の散歩も、この時間には珍しく切れている。あるのは道端の雑草と、薄汚れたガードレールと、高架下のコンクリ壁に描かれた落書きくらいだ。

 

 そこで、ようやく違和感の正体が視界に引っかかった。

 

 絵だ。

 

 落書きにしては妙に色が生きている。チョークやスプレーの雑な線じゃない。何度も塗り重ねたみたいな厚みがあって、輪郭に妙な執着がある。怪獣みたいな顔。鋭い爪。犬にも蜥蜴にも見える半端な四肢。正直、趣味がいいとは言えない。

 

「……昨日までこんなのあったか?」

 

 聞くと、絶花が首を振った。

 

「ここまで大きいのは、なかったと思います」

 

「だろうな」

 

 俺も覚えてる。通るたびに見る壁だ。見慣れた汚さと、見慣れない汚さの違いくらい分かる。

 

 高架下へ一歩踏み込む。

 

 空気が少しだけ冷たかった。夕方だから、じゃない。コンクリの下で気温が落ちている感覚とも違う。もっと薄くて、嫌な冷え方だ。

 

 絶花が小さく息を呑む。

 

「太郎さん」

 

「ああ」

 

「います」

 

 言った直後だった。

 

 壁の絵の輪郭が、ぬるりと揺れた。

 

 錯覚じゃない。色の濃い部分が水面みたいに歪んで、そこから何かが這い出してくる。黒と赤が混ざった塊。平面だったものが厚みを持ち、爪だけが先に前へ出た。

 

 近くを歩いていた制服姿の女子が悲鳴を上げる。

 

「きゃっ……!」

 

「下がれ!」

 

 叫びながら、その子の前へ出た。

 

 怪物、ってほど完成してない。粘土細工が途中で動き出したみたいな形だ。目の位置も曖昧だし、口らしい裂け目も歪んでる。だが爪だけは妙に現実的だった。あれで引っかかれたら、ただじゃ済まない。

 

 そいつが跳ねた。

 

 速い。

 

 だが、直線だ。

 

 踏み込んで、腕ごと横へ流す。軽くはない。生ぬるい絵の具の塊に、鉄骨が一本通ってるみたいな感触だった。普通の怪異の手応えじゃない。重さの出方が、妙に歪だ。

 

「絶花!」

 

「はい!」

 

 天聖が抜かれる音は短い。

 

 絶花は逃げ遅れた通行人を壁際へ押しやりながら、怪物の二撃目を斜めに受けた。真正面から止めず、刃先をわずかにずらす。そのまま流れに乗せて切り返す。

 

 銀の線が走る。

 

 怪物の胴が裂けた。

 

 なのに、血は出ない。

 

 絵の具だ。どろりとした色が飛び散って、床と壁を汚す。けれど飛び散ったはずの色はすぐに重力を忘れて、壁の方へ吸い戻されていく。

 

 裂けた怪物は、呻く代わりに紙を引き裂くみたいな音を立てた。

 

 気持ち悪い。

 

「……戻ってます」

 

 絶花が言う。

 

「壊れてません」

 

「見りゃ分かる」

 

 斬月までは抜かず、蹴りで距離を取る。怪物は一度だけ俺たちを見た――ように見えて、次の瞬間にはそのまま壁へ溶けた。色が流れ、線に戻り、最後にはまた落書きの怪物がそこに残るだけになった。

 

 静かになった高架下で、通行人の足音だけが遠ざかる。

 

 悲鳴を上げた女子は礼も言う暇なく走っていった。正しい。ああいう時はそれでいい。

 

 絶花が刀を下げきらずに、壁を見ていた。

 

「普通の怪異じゃないです」

 

「だろうな」

 

 怪異なら、もっと匂いがある。悪意でも、飢えでも、害意でもいい。生き物としての輪郭がある。今のは違う。描かれたものが、描かれた通りに動いただけだ。

 

 問題は、その“描いたやつ”が誰かって話になる。

 

「太郎さん」

 

 絶花の声がまた少し低くなる。

 

「人、います」

 

 振り向いた。

 

 高架下の出口。歩道橋へ上がる手前に、ひとり立っていた。

 

 高校の制服だ。ブレザーの上からカーディガンを羽織って、鞄を片方の肩にかけている。年上だとすぐ分かる。こっちより落ち着いて見えるし、顔つきにも余裕がある。

 

 けど、その余裕は完璧じゃなかった。

 

 目が、壁に残った怪物の絵へ吸われている。見覚えのあるものを見た時の目だ。驚いているくせに、完全には初見じゃない目。

 

「……何、今の」

 

 その女が言った。

 

 平静を装う声だった。装ってる時点で、だいぶ怪しい。

 

「こっちが聞きたい」

 

 そう返すと、彼女はようやく俺たちを見た。

 

 視線が一瞬だけ俺に来て、次に絶花へ止まる。絶花の抜いた刀、荒れていない呼吸、制服。そこまで一息で見ていた。頭の回転は悪くない。

 

「中学生?」

 

「見れば分かる」

 

「言い方」

 

「そっちが先に訊いた」

 

 女は少しだけ口元を歪めた。笑ったようにも見えるが、余裕だけで作った表情じゃない。

 

 絶花が一歩だけ前へ出る。

 

「ここ、よく通るんですか」

 

 女が目を細める。

 

「何、その聞き方」

 

「答えられますか」

 

「答えられるけど、なんで私が尋問されるの」

 

「さっきのを見てたからです」

 

 絶花は言い切った。

 

 年上の相手でも、こういう時はあまりぶれない。逆に普段の方が不器用なくらいだ。

 

 女は少しだけ肩を竦める。

 

「見てたよ。見てたけど、それが何?」

 

「見て驚いてる人の顔じゃなかった」

 

 絶花がそう言った瞬間、女の目がわずかに揺れた。

 

 いいところを突いたな。

 

 俺はその顔を見逃さない。

 

「名前」

 

 言うと、女はこっちを見た。

 

「は?」

 

「聞いてる」

 

「いきなりだね」

 

「さっきのがいきなり壁から出てきたんだ。これくらい普通だろ」

 

 彼女は一瞬だけ黙って、それから小さくため息をついた。

 

「……新条アカネ」

 

 名乗り方に無駄がない。嘘ではない気がする。

 

「太郎」

 

 俺は自分だけ答えた。絶花の方を見ると、こいつも少し遅れて頭を下げる。

 

「宮本絶花です」

 

「へえ」

 

 アカネは絶花を見たまま言う。

 

「あなたがやったんだ。今の」

 

「やった、というか……斬りました」

 

「見てた。変な斬り方」

 

 絶花の眉がわずかに動く。

 

「悪かったですか」

 

「悪くない。むしろ綺麗だった」

 

 そこで、アカネの声が少しだけ柔らかくなった。

 

 好きなものを見た時の声だ。人を見るより先に、現象として興味が動いている感じ。

 

 だが次の瞬間には、また壁の方を見て、表情が戻る。

 

「……でも、気持ち悪いね。今の」

 

「他人事みたいに言うな」

 

 俺が言うと、アカネは少しだけ目を細めた。

 

「どういう意味?」

 

「そのままだ。あんた、あれに見覚えあるだろ」

 

「ない」

 

「嘘だな」

 

 今度ははっきり言った。

 

 アカネの目が、わずかに険しくなる。

 

「決めつけるんだ」

 

「決めつけてるわけじゃない。見たものを言ってるだけだ」

 

「何を見たの」

 

「あんたの目」

 

 アカネは黙った。

 

 風が抜ける。高架下の空気だけが、夕方から少し取り残されているみたいだった。

 

 絶花が壁を見る。

 

「太郎さん」

 

「ああ」

 

「まだ少し、残ってます」

 

「分かってる」

 

 絵が完全に死んでいない。色の奥に、妙な湿り気が残ってる。

 

 その時だった。

 

 アカネの鞄の中で、何かがかすかに鳴った。

 

 紙が擦れる音。

 

 ほんの小さな音だったのに、三人とも同時にそっちを見た。

 

 アカネだけが、明らかに反応を遅らせた。

 

「……何」

 

「こっちの台詞だ」

 

 俺が言うと、アカネは鞄の口を押さえるように持ち直した。

 

「別に、何でもない」

 

「何でもないものを、そんな持ち方するかよ」

 

「うるさいな」

 

 その言い方は、少しだけ年上らしさが消えていた。

 

 図星を突かれた時の反応だ。

 

「見せてください」

 

 絶花が言う。

 

 アカネは即座に首を振る。

 

「嫌」

 

「嫌って言われても」

 

「嫌なものは嫌」

 

 その返しは子どもっぽい。だが、感情が出た分だけ本音に近い。

 

 俺はため息をついた。

 

「今すぐ取り上げる気はない」

 

「なら何」

 

「ただ、放っといて済む話じゃないってだけだ」

 

「……」

 

「さっきのが、あんたと無関係とは思えねえ」

 

 アカネは少しだけ唇を噛んだ。

 

 怒ったわけじゃない。困った時の顔だった。

 

「知らないよ」

 

 小さい声で言う。

 

「私だって、知らない」

 

 それは、嘘というより、半分だけ本当みたいに聞こえた。

 

 全部は分かっていない。だが、何かあることだけは自分でも知っている。そういう声だった。

 

 絶花がわずかに目を伏せる。

 

 たぶん、同じことを感じたんだろう。

 

「……でも」

 

 絶花が言う。

 

「知らないままにしておくと、また出ます」

 

 アカネの肩が、小さく震えた。

 

 怒りか、苛立ちか、あるいは別の何かか。判別はまだつかない。

 

 それでも、こいつが“完全な他人事”でいられないことだけは分かった。

 

「帰る」

 

 アカネが急に言った。

 

「は?」

 

「今日はもう帰る。別に、あんたたちとここで話す理由ないし」

 

「逃げる気か」

 

「逃げるっていうか、付き合う義理がないってだけ」

 

 その言い方は強い。だが、足の向きはもう半歩ぶん後ろへ逃げている。

 

 絶花が何か言おうとして、やめた。

 

 代わりに俺が言う。

 

「新条アカネ」

 

 アカネが足を止める。

 

「次、また何か出たら」

 

 一拍。

 

「今度は、あんたごと拾う」

 

 アカネは振り向かなかった。

 

 ただ、鞄を持つ手だけが少し強くなる。

 

「意味分かんない」

 

「分かるように言ってる」

 

「最悪」

 

「よく言われる」

 

 それだけ返すと、アカネは今度こそ歩き出した。

 

 制服の背中が、夕暮れの向こうへ消える。

 

 絶花がしばらくその方向を見ていた。

 

「……追いますか」

 

「今日はいい」

 

「いいんですか」

 

「あいつ、今追ったらもっと固まる」

 

 俺は壁の方へ歩き、怪物の絵をもう一度見る。

 

 線が甘い。だが、生きてる。描いた人間の迷いと執着が、そのまま残っている感じだ。

 

 足元に、紙切れが落ちていた。

 

 拾う。

 

 スケッチの切れ端だった。怪物の頭部らしいラフ。太い線と細い線が混ざっていて、色の試し塗りまで入っている。今さっき壁から這い出したやつと、輪郭がほとんど同じだ。

 

「太郎さん」

 

 絶花が覗き込む。

 

「さっきの人の、でしょうか」

 

「断定はしない」

 

 そう言ってから、紙片を裏返す。

 

 裏にも色の試しがあった。赤。黒。白。混ぜた跡。重ねた跡。迷った跡。

 

 そこまで見れば十分だ。

 

「……偶然じゃねえな」

 

 絶花が小さく息を吐く。

 

「敵、ですか」

 

「違う」

 

 即答した。

 

 絶花がこっちを見る。

 

「違いますか」

 

「ああ。危ないのは間違いねえ。でも、壊したいから壊してる感じじゃない」

 

「じゃあ」

 

「描いたものが漏れてる」

 

「漏れてる……」

 

 絶花は壁の絵と、手元の紙片を見比べた。

 

「才能、ですか」

 

「たぶんな」

 

 そう答える。

 

「ただし、持ち主が扱い方を分かってないタイプのやつだ」

 

 高架下の空気は、ようやくいつもの夕方へ戻りつつあった。コンクリの湿った匂い。遠くの車。商店街の方から流れてくる音楽。日常はすぐ隣まで戻っているのに、足元の紙切れだけがそれを拒んでる。

 

 俺はそれを折って、ポケットへ突っ込んだ。

 

「帰るぞ」

 

「……はい」

 

 絶花が一歩だけついてきて、それから言う。

 

「新条さん、怖がってました」

 

「そうだな」

 

「でも、逃げるだけでもなかったです」

 

「だろうな」

 

 完全に無関係なら、あんな顔はしない。

 

 自分の中で何かが繋がりかけている。なのに認めたくない。そんな目だった。

 

 面倒だ。

 

 だが、嫌いじゃない。

 

 高架下を抜ける。町はもう夜へ入る手前で、空の色は青から群青へ変わりかけていた。

 

 俺は前を見たまま言う。

 

「怪物を追うのは後でいい」

 

 絶花が隣で頷く気配。

 

「はい」

 

「あいつの方だ」

 

 ポケットの中で、紙切れの角が指に触れる。

 

「拾うなら、怪物じゃなくて描いてる本人の方だ」

 

女王は誰にする?

  • アルファ
  • ララ·サタリン·デビルーク
  • エミリア
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