サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
放課後の美術室は、静かなくせに落ち着かなかった。
絵具の匂いがする。紙の乾いた匂いもする。窓際に寄せられたイーゼル、洗いきれていない筆、新聞紙の上で固まりかけた白。そういう、いつもなら創作のために整っているはずのもの全部が、今日は逆に張りつめて見えた。
理由は一つだ。
新条アカネが、白い紙の前で止まっていたからだ。
描きかけのスケッチは増えている。昨日より多い。けど完成したものは一枚もない。線は入っている。色も乗っている。なのに、どれも途中で折れている。怪獣の顔の輪郭だけで終わったもの。空を塗って、その下を白く残したもの。何かを出そうとして、出る前に自分で止めた紙ばかりだ。
つまり、描けていない。
描けないんじゃない。描こうとして、途中で止めてる。
「来ると思ってた」
俺たちに背を向けたまま、アカネが言った。
「そうか」
「思ってたけど、実際に来るとやっぱりうるさいね」
振り向いた顔は昨日より幾分ましだった。ましだが、よく見れば眠れていないのは分かる。目の下が少し重い。髪もきちんと整えているくせに、指先だけが落ち着いていない。
絶花が教室の中を見回して、小さく言う。
「紙、増えてます」
「見れば分かるでしょ」
「はい。だから言いました」
アカネが少しだけ口を引いた。年下相手にやり込められたような、でも本気で苛立つほどでもない顔だ。
俺は一番手前の机へ寄った。怪獣の頭部らしいラフ。背びれ。口元。眼窩。どの線にも力が入っている。紙の上に留まりたがっていない線だ。
「昨夜、描こうとしたな」
聞くと、アカネは黙ったまま白い紙へ視線を落とした。
「……したよ」
「で、止めた」
「止めたっていうか、止まった」
その言い方は正確だった。
「線を引いた瞬間に、紙の上じゃなくなる感じがして。外に出るっていうか、こっちに来るっていうか」
アカネが右手を見た。
「筆持ってるだけなのに、持ってる感じがしないの。先に向こうが動くから」
なるほど。
だったら、やることは単純だ。
「逆だ」
言うと、アカネが顔を上げた。
「は?」
「出る前に、お前が先に決めろ。形も、線も、意味も」
「簡単に言わないで」
「簡単だとは言ってねえ。必要だって言ってる」
アカネは何か言い返しかけたが、その前に、絵具皿の白がひとりでに揺れた。
絶花の指先が刀の柄にかかる。
「太郎さん」
「ああ」
机の端に落ちていた色の染みが、ゆっくり這い出した。昨日みたいに大きな怪獣じゃない。もっと細かい。未完成の断片が、そのまま動き始める。脚だけの獣、嘴だけある鳥、尾の長い何か。美術室に散っていた“途中”が、勝手に形を取り出した。
「……また」
アカネが一歩引く。
「またじゃねえ。まだ、だ」
俺は斬月を抜かず、近くまで来た色の塊を靴先で蹴り飛ばした。軽い。軽いが、その分だけ厄介だ。一つを崩しても、別の途中がすぐに起き上がる。
絶花が前へ出る。刀を抜くが、斬り込まない。横薙ぎに一閃。輪郭の向きだけをずらして、窓際へ流す。いい。今日はそれで十分だ。
「新条さん」
絶花が、怪異から目を離さず言った。
「前より、怪獣じゃないです」
「何それ」
「バラバラです。だから、まだ間に合います」
アカネが息を呑む。
机の上に置いた手が、白紙の端を掴んだままだ。
そこへ、天井近くから黒と青の混じった塊が落ちてくる。俺は腕で払う。散った色が床を走る。走って、机の脚へまとわりつく。
「太郎さん、増えます」
「見えてる」
増える前に締めるしかない。
俺はアカネを見る。
「今だ」
「無理」
「無理じゃない。前にお前の手に出た」
「あれは一瞬だった!」
「一瞬で足りる。今度は逃がすな」
アカネが首を振る。怖いんだろう。気持ちは分かる。だが、ここでまた“勝手に出た”に負けるなら、昨日までと何も変わらない。
「私が触ると、余計に――」
「余計にならない」
断言する。
「昨日、出たのは怪獣じゃなかった。白い筆の形だった。あれが本筋だ」
「そんなの」
「絶花」
「はい」
絶花が怪異を捌きながら、アカネへ向けて言う。
「私もそう思います」
アカネがそっちを見る。
「何を」
「怪物より、あの白い方が新条さんに近かったです」
絶花はいつもの顔だ。淡々としている。だからこそ嘘じゃない。
「怖いのはまだ怖いです。でも、あれは嫌な感じじゃなかったです」
アカネの表情が揺れた。
そこだ。
「新条アカネ」
名を呼ぶ。
「今必要なのは、止めることじゃねえ。お前が自分の力に先に命じることだ」
「命じるって……」
「描け」
教室の空気が詰まる。
「漏れるなら、先に線を引け。勝手に怪物になる前に、お前の形で捕まえろ」
アカネは白紙を見る。震えている。だが目は逸らしていない。
床を這っていた青い色が、椅子の脚から壁へ跳ねた。もう一歩遅ければ、また昨日までの怪獣の輪郭へ戻る。
「描け、新条」
白い光が、指先へ集まった。
今度は昨日より早い。けれど乱れていない。細い光の束が、手の中で穂先のようにほどけ、柄の輪郭を伴いながら一本へ収束していく。
アカネが息を止める。
「……これ」
「握れ」
言うと、アカネは躊躇いながらも、その光へ手を伸ばした。
触れた瞬間、光が逃げなかった。
握られたことを認めるみたいに、白が静かに形を定める。
筆だった。
無駄な装飾のない、白い筆。だが、ただの文房具じゃない。空間そのものへ線を引くための、刃とも違う緊張を持っている。
アカネの目が見開かれたまま、動かない。
「名前を呼べ」
俺が言う。
アカネの喉が小さく動く。怖いだろう。だがもう逃げ道はない。いや、逃げ道がないんじゃない。ここで呼ばなきゃ、また向こうが勝手に形を取る。
だから、呼ばせる。
「描け――」
一拍。
「白堊」
白い光が、一段深く沈んだ。
筆の輪郭が完全に固まる。教室じゅうに散っていた途中の色が、一瞬だけ息を呑んだみたいに静まる。
始解だ。
その瞬間、這い回っていた怪異がいっせいに動いた。逆に言えば、今しかない。
「線を引け!」
俺が叫ぶ。
アカネは白堊を持ったまま、一度だけ深く呼吸した。次の瞬間、空中へ一筆。
白い線が走る。
速くはない。だが、迷いがない。怪異の輪郭の外側をなぞるように伸びた線が、そのまま檻みたいに閉じる。床を這っていた黒い塊が止まった。
「……止まった」
「続けろ!」
絶花が窓際の一体を弾き、こっちへ流す。
「新条さん、色も!」
アカネが筆を返す。
今度は白だけじゃない。筆先から淡い青が零れた。青が怪異の胴へ重なる。塗る、というより、意味を上書きしている感じだった。赤黒かった塊が急に輪郭を失う。爪の鋭さが鈍り、怪物としての圧が薄れていく。
「塗り替えてる……」
絶花が呟く。
「ああ」
俺は笑う。
「壊してるんじゃない」
アカネの目の色が変わった。
自分でやってみて、初めて分かったんだろう。これは“出してしまう力”じゃない。線を決めて、意味を変えて、形を定める力だ。
「だったら――」
今度はアカネが自分から動く。
白堊で円を描く。そこへ赤を一点、鋭く置く。赤は血じゃない。境界だ。そこから先へ出るな、という印だ。囲われた怪異が、その内側で縮み、やがて色のしみに戻る。
残った一体は天井近くへ逃げかけた。絶花が刀で進路を潰す。
「上です!」
「分かってる!」
アカネが振り向きざまに、今度は黒ではなく白を重ねた。白で怪異の嘴の線を塗りつぶす。輪郭が曖昧になる。飛べなくなった塊が落ちる。
そこへもう一筆。
鳥のような図像が、空中に一瞬だけ描かれる。半実体の白い鳥が怪異へぶつかり、そのまま押し潰す。色の塊が砕けるでも裂けるでもなく、平面へ戻されていった。
静かになった。
美術室に残るのは、乾きかけの色の匂いと、まだ少しだけ熱の残る空気だけだ。
アカネが白堊を持ったまま、その場に立ち尽くす。
「……終わった」
「はい」
絶花が短く答える。
「今度は、戻ってきません」
アカネが自分の手を見る。白堊を見る。その持ち方に、もう昨日までの怯えだけはなかった。
「私が」
言葉が切れる。
「私がやったんだ」
「勝手に出たんじゃない」
俺が言う。
「今のはお前が描いた」
アカネはしばらく何も言わなかった。
白堊の穂先に、かすかな光が残っている。それを見ている顔は、怪物を生んでしまった時の顔とはまるで違った。怖さは残っている。だが、それ以上に“自分のものとして触った”実感がある。
「今の方が、新条さんらしいです」
絶花が言う。
アカネが苦く笑った。
「それ、ほんと何回でも言うんだ」
「大事なので」
「真面目だね」
「はい」
そのやり取りに、ようやく少し空気が緩む。
俺は白堊を見る。
「前には出なくていい」
アカネが顔を上げた。
「え?」
「お前の力は、斬って潰す側じゃない。盤面を変える側だ」
「盤面」
「線を引く。色を置く。輪郭を決める。怪物を壊すんじゃなく、意味ごと描き直す」
アカネは黙って聞いている。
「そういうのは、かなり使える」
前なら、そこで“使えるって何”と噛みついてきただろう。
今は違う。
言葉を嫌がる前に、その中身を考えている顔だった。
「……まだ、全部は分かんない」
「分かってる」
「でも」
アカネが白堊を見下ろす。
「さっきのは、勝手に出たんじゃなかった」
「そこまで来たなら十分だ」
白堊が、持ち主の言葉に応じるみたいに淡く光る。
アカネがその光を見て、小さく息を吐いた。
「私が、描いたんだ」
「そうだ」
美術室を出る時、夕方はだいぶ深くなっていた。窓の外が赤い。長く伸びた影が床を渡っていく。
アカネは最後まで同行しなかった。だが、追い出しもしなかった。白堊を消す前に、名残を確かめるみたいに何度も見ていた。
それで十分だ。
廊下を歩きながら、絶花が言う。
「前より、手の見方が変わってました」
「そうだな」
「怪物を出す手じゃなくて、描く手って感じでした」
その通りだ。
新条アカネの力は、怪物を生む呪いじゃなかった。描く力が濃すぎて、感情の出口と直結していただけだ。だから漏れる。だから勝手に形になる。
だが、今は違う。
あいつは初めて、自分で線を引いた。怪物を出したんじゃない。自分の感情に、ちゃんと名前のある形を与えた。
そこまで来たなら、次は一つだ。
「次は、その力をどこで使うかだ」
俺が言うと、絶花が短く頷いた。
「はい」
始解は出た。白堊は定まった。ならその先に要るのは、場所だ。
新条アカネの描く力が、どこで一番生きるか。
その答えは、もう見えていた。
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