サムライガールの幼馴染みは王様を目指す(裏) 作:ボルメテウスさん
前に見えた単音は、あれまでの異音と違っていた。
刺さるくせに、壊してくる感じがない。嫌なだけの音じゃなく、もっと細くて、もっと真っ直ぐで、どこかへ逃げるためじゃなく、何かを掴むための音だった。
だったら次にやることは一つだ。
止めるんじゃない。あいつ自身に、先に鳴らさせる。
放課後、俺と絶花は昨日と同じスタジオへ向かった。
路地は相変わらず狭い。表通りの音が少し遅れて流れ込んでくる。人の気配は薄いが、完全に静かじゃない。その半端さが、今日の相手にはちょうどよかった。
「今日は、抑えるより出させる方ですね」
歩きながら、絶花が言う。
「そうだ。異音を押さえるだけじゃ、また繰り返す」
「後藤さんが、自分で鳴らさないと」
「ああ」
絶花は少しだけ考えるようにして、それから小さく続けた。
「前の単音、昨日までの嫌な音よりずっと自然でした」
「だろうな」
「怖いですけど、あっちの方が後藤さんらしかったです」
こいつのそういう見方は、たまに驚くほど正確だ。
スタジオの個室に入ると、後藤ひとりは昨日と同じ位置にいた。
ドアの近く。今にも逃げられる場所。ギターケースを膝の前に立てたまま、そこへ寄りかかるように座っている。
「……ほんとに来るんですね」
顔を上げるなり、ひとりが言った。
「昨日そう言った」
「言ってましたけど……ほんとに来るとは思わなくて」
「お前、それ多いな」
「たいていのこと、来ない方へ期待して生きてるので……」
絶花が少しだけ頷く。
「気持ちは少し分かります」
「宮本さんに共感されると余計に刺さるんですけど……」
その返しに、ひとりがわずかに息を整えた。まだ潰れてない。なら間に合う。
「まだ出してないな」
俺がケースを見ると、ひとりは露骨に肩をすくめた。
「出したら鳴るかもしれないので」
「出さなくても鳴るだろ」
「……それを言われると、すごく逃げ場がなくなるんですけど」
「なくしてるんだよ、自分で」
ひとりが何か言い返しかけた、その時だった。
アンプのランプがちらついた。
壁際に立てかけてあった別のギターの弦が、誰も触れていないのに細く鳴る。マイクスタンドが低く震え、空気の底に、あのざらついた不快感が戻ってきた。
「来ます」
絶花の声が少し低くなる。
「……っ」
ひとりがケースを抱え込む。
「また、私……」
「違う」
即答する。
「“また勝手に鳴る”で終わらせるな。今度はお前が先に出せ」
「無理ですって……!」
部屋の空気がびりつく。アンプの角が細かく震え、壁の吸音材が薄く軋む。放っておけば昨日までと同じ方向へ行く。いや、もっと狭い場所だけに、密度は悪いかもしれない。
「押し込めるから歪む」
「でも!」
「漏れる前に、お前が先に鳴らせ」
「そんなの、できるわけ……!」
「できるかどうかじゃない。やるんだよ」
ひとりの目が大きく揺れた。
怖いんだろう。分かる。自分の音が街を傷つけたあとだ。次に手を伸ばすのが怖くないはずがない。
だが、ここでまた引っ込めれば、向こうが勝手に形を取るだけだ。
「後藤さん」
絶花が静かに呼ぶ。
「……っ」
「前の単音の方が、後藤さんらしかったです」
ひとりが絶花を見る。
「変な異音より、あっちを聞きたいです」
短い。けど、十分だった。
ひとりの視線が、ゆっくりケースへ落ちる。
「持て」
俺が言う。
一拍。
「自分の音だろ」
ケースの中で、弦がかすかに鳴った。
昨日までの歪み方じゃない。まだ細い。けど散っていない。待っている音だ。持ち主の手を通るのを待っている。
ひとりの指が、留め具に触れる。
震えている。
だが、外した。
ケースが開く。中に収まっていたギターから、低く静かな共鳴が返る。勝手に暴れる感じじゃない。こっちを壊しに来る感じでもない。ただ、ひとりの手を待っている。
「……大丈夫じゃないです」
ひとりが小さく言った。
「知ってる」
俺は答える。
「でも、それでいい」
絶花も頷いた。
「はい」
「……宮本さん、その“はい”が妙に逃げ道なくて怖いんですけど……」
「すみません」
「でも謝らないでください、余計に……」
言いながらも、ひとりはギターへ手を伸ばした。
抱き上げる。
その瞬間、部屋のざらつきが一度静まった。空気が息を止めるみたいに、ぴたりと止まる。
ひとりの表情が変わる。
まだ怯えている。けど、怯えの向きが違う。鳴らされるのを怖がる顔じゃない。自分で鳴らす瞬間を怖がる顔だ。
「鳴らせ」
俺が言う。
ひとりの右手が、震えながら弦へ触れた。
――一音。
細い。だが歪んでいない。昨日までの嫌な刺さり方はない。芯があって、真っ直ぐ伸びる。
部屋の中に残っていた不快な共鳴が、その音に押されてわずかに揺れる。
「……今の」
ひとりが息を呑む。
「名前を呼べ」
「……え」
「それはもう、お前の音だ」
ひとりが目を閉じる。
怖い。まだ信じ切れていない。けど、もう引っ込めて終わらせる段階は過ぎている。
「鳴り響け――不狂和音」
音が定まった。
ひとりの手の中のギターが、ただの楽器の気配を越える。弦の張り、木の胴、指板の黒。全部がそのままなのに、空気の噛み方だけが変わる。音を出すための道具じゃない。音そのものへ干渉するための斬魄刀だと、見ただけで分かった。
始解。
その瞬間、部屋の隅に溜まっていたざらついた残響が一斉にざわめく。アンプが再び唸り、マイクがハウリング寸前まで震えた。
「続けろ」
俺が言う。
「どうすれば……!」
「昨日までの音を潰すな。お前の音で上から取れ」
「合わせる感じです」
絶花が短く補う。
ひとりが頷く。
もう一度、不狂和音の弦が鳴る。今度は単音じゃない。短いフレーズ。細いくせに芯が通っていて、歪みかけた共鳴の隙間へ真っ直ぐ差し込む。
マイクの震えが止まった。
壁の軋みが薄れる。
「……止まった」
「まだだ」
ざらつきは完全には消えない。窓の向こう、スタジオの外へ漏れた残響がまだ帰ってこようとしている。だったら、もう一段要る。
「じゃあ、これ……!」
ひとりが強くコードを鳴らした。
今度の音は、さっきより重い。だが汚くない。位相のずれた残響だけを狙い撃ちするみたいに、空間にへばりついていたノイズが砕ける。破壊音波。けど、ただ強い音で押し潰してるわけじゃない。狂っている部分だけを引き剥がしている。
窓ガラスの細かな震えが止まり、部屋の空気から不快なざらつきが引いていく。
「……きれいです」
絶花が言った。
「ようやくだな」
俺は息を吐く。
ひとりは不狂和音を抱えたまま立っていた。肩で息をしている。手はまだ震えている。けど、その震えは今までみたいな怯えだけじゃない。自分で鳴らしたあとの、実感に追いつけていない震えだ。
「……終わった」
「はい」
絶花が答える。
「今の、私が……」
「勝手に鳴ったんじゃない」
俺が言うと、ひとりの視線がギターへ落ちた。
「お前が鳴らした」
少しの沈黙。
「今の方が、ずっと後藤さんでした」
絶花の言葉に、ひとりが顔をしかめる。
「……じわじわくるので、その言い方ほんと困るんですけど……」
けど、完全には嫌がっていない。
俺は不狂和音を見る。
「前に出て斬る力じゃないな」
「え」
「場を壊す。整える。狂わせる。逆に鎮める」
昨日までの異音と、今の制御を思い返しながら言う。
「そういう、後ろから戦場をいじる力だ」
ひとりは黙って聞いていた。
「かなり使える」
その言葉を、前みたいに嫌な顔では受け取らなかった。ただ少し困ったように眉を寄せるだけだ。
そこは大きい。
スタジオを出る頃には、外は夕方から夜へ変わりかけていた。路地の空気は静かで、昼間までのざらつきもだいぶ引いている。
ひとりは不狂和音を消したあとも、何度か自分の手を見ていた。まだ完全には飲み込めていないんだろう。
「……まだ、全部は無理です」
やがて、小さくそう言う。
「そうか」
「でも」
一拍。
「さっきのは、勝手じゃなかった」
それだけで十分だった。
「私が鳴らした、です」
「そこまで行けたなら十分だ」
ひとりの肩が少しだけ下りる。
その横で、絶花が小さく言った。
「今の音、好きでした」
「……だからそういうの、急に入れてこないでほしいんですけど……」
「本当なので」
「そこが重いんですよ……」
けど、声は少しだけ軽かった。
後藤ひとりの音は、逃げ場のために狂っていた。押し込めるから歪んだ。持たないから、勝手に外へ出た。
だが、今は違う。
あいつは初めて、自分で鳴らした。
なら次にやることは一つだ。
その音を、どこで持つか。
女王は誰にする?
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