翌日の昼休み。
風もなく雲もない、どうしようもなく平凡な青空だった。
凛は弁当も持たず、机の引き出しも開けず、教室の喧騒のなかでただひとつだけ考えていた。
──来ていない。
慎二が。今日一日、学校に姿を見せていなかった。
理由は言うまでもない。頭ではもう分かっていた。
けれど心のどこかが、それを認めようとしなかった。
逃げるように廊下を駆け、階段を下り、人気のない裏手へと向かう。
昨日と同じコンクリートの隙間。
風も通らぬその場所に、それは変わらずに、そこにあった。
──間桐慎二は、死んでいた。
彼の体は、壁にもたれかかったまま、どこか安らかに見えた。
けれど異常だった。
ズボンの前が裂け、大きな根っこだった残骸と血と精液が混ざり合った液体がコンクリートを濡らしている。
顔は引きつり口元には白く乾いた泡。
凛の足ががくりと折れた。
「……う、そ……」
言葉にならなかった。
何かが喉をせり上がる。吐きそうだった。
けれどそれを呑み込んで、彼の傍に膝をついた。
冷たい。
もう昨日のような熱はどこにもなかった。
呪い。出さなければ死ぬ。
慎二の言葉が頭の奥でこだまする。
「そんな……っ……バカじゃない……バカじゃないの……っ」
震える声。
頬に触れようとした手が途中で止まる。
その手は、昨日の熱を咥えた唇の感触を覚えていた。
濡れていた彼の熱を、何度も飲んだ舌を、今も忘れていなかった。
それでも足りなかった。それでも彼は死んだ。
どれくらいそこにいたのだろう。
誰かが通報したらしい。救急車のサイレンが遠くから聞こえてくる。
だがもう、それは意味をなさない。
凛は立ち上がり、ふらつく足でその場を離れた。
もう彼にしてやれることはなかった。
校舎に戻る途中。
制服のスカートの奥がまだ濡れている気がして、凛は立ち止まった。
身体が忘れてくれなかった。
涙は出なかった。
ただ胸の奥に、どうしようもなく黒い塊が沈んでいった。
葬儀は思いのほか静かだった。
間桐の家はもはや人の気配も少なく、参列者の大半は形だけの関係者だった。
間桐慎二。享年不詳。死因、体内の魔力器官の暴走──とのことだった。
凛は黙って、壇上の遺影を見つめていた。
どこかで使い回されたような白百合の花。
薄く笑った慎二の写真。
その笑顔が嘘だと知っているのは、おそらく彼の妹と自分だけだった。
火葬が終わった後、誰よりも遅れて出てきたのは桜だった。
黒い喪服に包まれたその姿は、あまりにも静かで透明だった。
彼女の頬には涙の跡もなく、ただまっすぐと凛を見据えていた。
「……姉さん」
凛は返事ができなかった。
喉が閉じていた。いや、それ以前に言葉が見つからなかった。
「……兄さん、死にましたね」
それだけを桜は言った。
「……うん」
それだけを凛も答えた。
沈黙。
蝉の声も遠く、まるで時間が止まっているようだった。
「姉さん……昨日、兄さんに……してあげたんですね」
凛の背中が、ぞくりと冷えた。
やはり知っていたのか。
見られていたのか。あるいは感じ取られていたのか。
「助けたかったんですか?」
問うような声だった。責めるようでも慰めるようでもなく。
ただ真実を確かめようとする問い。
凛は答えなかった。答えられなかった。
「私は……毎日してあげてたんです、兄さんに」
淡々と桜は言った。
「朝も夜も昼休みも。兄さんが死なないように。……嫌だったけど。でも、それで兄さんが生きてくれるなら、それでよかった」
言葉の一つひとつが、凛の胸に突き刺さる。
呪いは本物だった。
桜はそれを、ずっと支えていた。
自分はたった一度しか、してあげられなかった。
桜は続けた。
「でも、姉さんにしてもらったって、兄さん嬉しそうでした」
それはどうしようもなく残酷な言葉だった。
「きっと、あの人……救われたんです。最後に姉さんに触れてもらえて」
空気が熱を失っていく。
灰のような風が、二人の間を通り抜ける。
「……私は」
ようやく凛が絞り出した声は、細くかすれていた。
「私は……誰も救えなかった」
桜は何も言わなかった。
ただ、ふらりと凛の隣に並び、肩に寄りかかるようにして座った。
そして凛の手をそっと握った。
間桐邸の廊下は、いつも通りに静かだった。
だが、それはいつもの“静けさ”ではなかった。
そこにあるのは、空白の沈黙。
誰も口を開かず、誰も存在を主張せず、ただ時間だけが、薄い灰色を流していく。
桜は、台所の窓辺で小さな白湯を啜っていた。
何も入っていない、味もしない、温度さえ曖昧な液体。
けれど、それを飲む理由は、他に何も思いつかなかったからだった。
兄が死んでから三日。
火葬された彼の骨は、いまも玄関脇の祭壇に置かれている。
だが手を合わせたことはなかった。
何を願えばいいのか、桜には分からなかった。
兄は死んだ。
精を出さなければ死ぬという呪いにかかっていて、それを彼女は毎日、身体を使って介護してきた。
朝も、夜も。宿題の合間も、トイレの中でも、学校の準備をしている最中でも。
恥ずかしさも、痛みも、嫌悪もあった。
それでも、生きていてほしかった。
「兄さんが死んだら、私、どうなっちゃうか分からない」
そう思っていた。
だから、どんなに軽蔑されても、汚されても服を汚しても、
彼の吐き出す熱を何度でも、何度でも、身体で受け止めた。
でも──兄は死んだ。
最後に兄の口から出た言葉は、たしかにこうだった。
「遠坂に助けてもらった」
そのとき桜は何も言わなかった。
笑ったふりをした。
「よかったですね」と、作り笑いで返した。
だが胸の奥で何かが壊れる音がした。
それは嫉妬ではない。怒りでもない。
もっと静かでもっと深くて、触れてはならない何かだった。
今、こうして白湯を飲んでいるのも、たぶんそれと無関係ではなかった。
身体が熱を求めていないのに、喉が渇いていないのに、何かを流し込まなければ、心が乾いてしまいそうだった。
階段の下に、兄のスリッパが転がっていた。
昨日もそこにあった。おそらく明日も、誰も片付けない。
桜はゆっくりと立ち上がり、それを手に取った。
兄の匂いが、まだかすかに残っていた。
彼がいつも履いていた、安っぽくて、すり減ったそれを抱きしめるようにして胸に当てた。
ぬるくなった白湯が、胸の奥で波紋のように広がっていく。
「……兄さん、嘘つき」
誰に聞かせるでもなく桜は呟いた。
「……ずっと、私が……してあげてたのに……」
涙は出なかった。
涙を流すには、まだ彼女の心は壊れきっていなかった。
間桐桜は、今日も静かに微笑んでいた。
それは、悲しみを隠すためでも、強がるためでもなく、ただ心の底がもう凍ってしまったというだけの感情の表層だった。
放課後の教室は、曇った夕日の中に沈んでいた。
生徒たちは帰り支度を終え、次第に人の気配が引いていく。
そんな中、凛は自分の席に座ったまま、窓の外を見つめていた。
桜が声をかけるまで、誰も彼女に近づこうとしなかった。
「……姉さん」
その声は以前の桜とはどこか違っていた。
静かで優しげで、それでいて乾いた何かが混ざっているような、色の抜けた声。
凛は振り返ることなく、短く答えた。
「……なに?」
「少しだけ、いいですか?」
校舎の裏手。
誰も来ないあの場所へ二人は並んで歩いた。
慎二の亡骸が見つかった場所。
凛が最初に彼を助けた場所。そして何も救えなかった場所。
「……ここなんですね、やっぱり」
桜は、血の跡も消えたコンクリートを見下ろしながら小さく呟いた。
「兄さん、姉さんのこと、ずっと好きだったんです」
凛の瞳がわずかに揺れた。
「……私は、そう思わなかった」
「……でも、最後に選んだのは、姉さんだった」
静かに。
責めるようでも恨むようでもなく。
「……違う、私は……」
否定しようとした凛の言葉は途中で切れた。
桜の視線が、真っ直ぐに彼女を射抜いていたから。
「お願いがあります、姉さん」
桜の声が一段と静かになる。
「……代わりにしてください。兄さんの」
凛は目を見開いた。
「……は?」
「兄さんが死んで、私は空っぽになりました。でも……姉さんが同じことをしてくれたなら、私、まだ……耐えられる気がするんです」
桜は、スカートの裾を掴んで膝を折った。
そして凛の手を、そっと取った。
「姉さんが、兄さんにしたみたいに……私に、してほしいんです」
凛は動けなかった。
その場に立ち尽くし、桜の手を振りほどくことも、返す言葉も出てこなかった。
「……お願いです、姉さん。私、壊れたくないんです。……姉さんだけが、まだ、私の中にあるんです」
どこまでも優しく、どこまでも狂っていた。
妹は、兄の代わりに姉に身を委ねようとしていた。
それはきっと、悲しみの埋め合わせでも、代償でもなく。
ただただ愛されたいという本能の、ゆがんだ叫びだった。
凛は、震える指先で桜の肩に触れた。
止めるためか、受け入れるためか、自分でも分からなかった。
校舎の裏に風が通った。昨日よりも冷たく、二人の肌をなぞっていく。
拒む理由はいくらでもあった。
倫理、常識、姉としての矜持。
けれど、拒めるだけの「力」が、いまの凛には残っていなかった。
桜の手が、自分の指を包んでいた。
その掌は震えていた。
けれどそれは怯えではない。
どこか、祈るような、縋るような、壊れかけた人間の最後の熱だった。
「……桜、やめなさい」
それは形式だけの言葉だった。
声が弱々しく、説得力もなく、自分自身に向けた抵抗のような響きだった。
「……ダメです、姉さん。やめたら、私……もう戻れません」
桜の目に涙はなかった。
そのかわり奥底で光るなにかがあった。
深く、濁っていて、それでもなお姉を見つめるまなざしだった。
凛は息を呑んだ。
壊したくない。たった、それだけだった。
自分が壊れてもいい。
汚れても、間違っても、後悔しても、桜を壊すくらいなら。
「……分かった」
唇から零れたその言葉に、自分が一番驚いた。
その場でぐらりと膝を折る。桜の肩に手を添える。
体温が、想像していたよりもずっと高かった。
「……ほんの少しだけよ。……ほんの少し」
桜は何も言わなかった。
ただ、凛に身を預け、目を閉じた。
その仕草は、あまりにも健気で、あまりにも痛々しかった。
唇が触れる。熱のない接吻。
これは愛ではない。情でも、欲でもない。
ただの償いだった。
スカートの奥へと手が伸びる。
慎二に触れたときのような感覚が、指先に蘇る。
けれどあのときとは違う。
これは妹の身体だった。
秘所に触れると、桜の呼吸がわずかに揺れた。
濡れていた。
それが感情の現れなのか、ただの条件反射なのか、凛には判断できなかった。
だが、そこに生があった。
彼女が、まだ人として壊れていない証が、そこにあった。
凛は、強く目を閉じた。
もう戻れない。
けれど、今だけは。
この瞬間だけは、桜を守ることに全てを使い切ろうと、そう思った。
愛撫は、優しく、けれど確実に深くなっていく。
桜は時折、小さく肩を震わせながらも、声を出さなかった。
痛みか、安堵か、それとも快楽か。何が彼女を揺らしているのかは分からなかった。
夕日が差し込む。
二人の影が、重なって伸びた。
それは、どこまでも不自然で、どこまでも美しかった。
そして、すべてが終わったあと、桜は凛に抱きついてそっと呟いた。
「ありがとう、姉さん……生きてて、よかった……」
その声に、凛の心はまた静かに崩れていった。
「姉さん……大好き……」
耳元に囁かれたその声が、決定的だった。
もう、抗えなかった。
凛は、肩に添えていた手を、ゆっくりと桜の背へと回した。そして、受け入れた。
全てを、愛ごと、欲ごと、許しと背徳と快楽ごと凛は、受け入れた。
桜の手が腰から離れたかと思うと、彼女はすっと膝をついた。
「桜……?」
不安と期待が入り混じる中、凛は動けずにいた。
桜は静かにまるで当然のように、凛のスカートの裾を持ち上げる。
「だ、だめ……っ」
言葉を止めさせたのは、彼女の優しい動きだった。
桜の頭が、そのまま凛の膝の間へと沈んでくる。
まさか……そこまで……。
熱い吐息が素肌をくすぐる。ひざが自然と震える。
「さ、くら……そこは……っ」
言葉が掠れ、息が漏れる。
桜の唇が、ためらいなく肌に触れた。柔らかく、湿った感触がそこにあった。
「ふ、んっ……あぁ……」
声が、漏れる。恥ずかしいのに、止まらない。
膝の力が抜けて、壁に背を預ける。
桜の舌がゆっくりと、けれど確かに腿の奥を探り当てる。
背徳と快感。羞恥と愛情。
「……桜……そんなの……っ、だめ……なのに……」
けれど、言葉とは裏腹に、私はそのすべてを受け入れていた。
そして何度も、何度も、頭の中がスパークするような波が押し寄せてきた。
そのたびに足が震え、喉の奥から甘い声が漏れる。
快楽の渦に呑まれながらも、凛はただ、桜の頭を抱き寄せていた。
やがて、膝ががくがくと震え、凛はその場に座り込んでしまった。
桜はそっと凛の唇に口づけを落とす。
そして今度は自分の片足を、凛の腿の上にゆっくりと乗せてきた。
そのまま唇を重ね、桜の身体が凛に寄り添うように擦りつけられる。
腿と腿、互いのつけ根が擦れ合い、熱がじりじりと広がっていく。
「んっ……あぁ……桜……熱い……」
肌が重なり、濡れた音が微かに響く中、二人はただ、求め合うように身体を押し当て続けた。
朝が来ても、目覚ましは鳴らなかった。
目を覚ました凛の横に、桜が静かに眠っていた。
制服のリボンがほどけ、髪が乱れ、頬に薄く汗を浮かべている。
その顔は、昨日よりも穏やかだった。
凛は、そっと指を桜の頬に添えた。触れた皮膚がかすかに温かい。
「……昨日だけのつもりだったのに」
つぶやいた言葉に返事はない。
だが抱きしめていた腕の力が、わずかに強まった。
目を閉じたまま桜が呟く。
「姉さん、行かないで……もう、ひとりにしないで……」
そう言われて、どうして拒めるだろう。
どうして突き放せるだろう。
──もう、壊れているのは私の方なのかもしれない。
それからの日々は、静かに、確実に、歪んでいった。
朝、桜は凛のベッドで目を覚ます。
制服を着替える前に必ず抱き合う。
登校前の口づけが、あの日の名残として習慣になった。
学校でも、桜は凛にぴったりとついて回る。
昼休みには手をつなぎ、トイレに隠れてキスを交わし、時に指を絡ませるようにして、互いの体温を確かめ合う。
それは、まるで恋人のようだった。
だが凛には、それを恋と呼ぶことができなかった。
夜になれば、またベッドで身体を重ねる。
桜は何も求めない。ただ凛に触れてもらうだけでいいと言った。
それが救いになるなら、そう思っていた。
だが、日に日に桜の声が甘くなり、触れ合いが長くなり、熱が深くなっていくたびに、凛の中にひとつの恐怖が芽生え始めていた。
──私は、この子の中に、慎二の影を見ているのではないか。
あの日、喉の奥まで咥え、吐き出される命を飲み込んだとき、凛の身体に刻まれた熱と記憶。
それは決して消えてくれなかった。
そして今、桜が凛に触れてくるとき、どこかでその熱が蘇る。
桜が好きだ。家族として。妹として。守るべき存在として。
だが、その「守り方」が今のままでいいはずがない。
「姉さん……今夜も、してくれますか?」
浴室の戸口で、制服のブラウスをはだけた桜が、まっすぐに尋ねた。
その問いに凛は頷くことしかできなかった。
守るために始めた行為が、いつの間にか桜にとって日常になっていた。
そして凛にとってもまた償いでは済まされない、不可欠な習慣になりつつあった。
このままではいけない。そう思いながらも凛は今夜もまた、その小さな背中に手を伸ばしてしまうのだった。
最初に「相談窓口」という言葉を検索したとき、凛の手は震えていた。
行政の保健センター。学校から少し離れた、無機質な建物。
そこに足を運ぶ自分が、どこか他人のようだった。
受付の女性は凛の話を遮らず、淡々と聞いた。
「妹が情緒的に不安定で、夜も一緒にいないと……依存が強くて、自傷の可能性もあるかもしれない」
言葉を選びながら、真実の輪郭だけを伝える。
その背後にある行為には、まだ触れられなかった。
紹介されたのは駅前のクリニックだった。
予約はすぐに取れた。
優しげな女性の医師がいて、初回のカウンセリングは個別に行うという。
数日後、桜の手を引いて凛はそのクリニックを訪れた。
桜は最初こそ戸惑っていたが、凛の手を強く握って離さなかった。
「……姉さんが一緒なら、どこでもいいです」
その言葉は嬉しくもあり、酷く罪深くもあった。
カウンセリングルームは明るく、窓際には白いクッションと観葉植物。
その空間が、二人にとってどれほど異質で、異様なほど清潔に感じられたか、凛にはうまく言い表せなかった。
最初に呼ばれたのは桜だった。
凛は待合室の椅子で、両手を強く握りながら待ち続けた。
十分後、静かに扉が開いた。
桜の顔は驚くほど穏やかだった。
「……ちゃんと話せました」
それだけを言って、凛の隣に座った。
その瞳の奥にあるものが、ほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。
次に呼ばれたのは凛だった。
医師は、凛の目をまっすぐに見て、こう言った。
「あなたも……とても、疲れていますね」
その瞬間、凛の目から涙が零れた。
驚いた。
自分でも泣くとは思わなかった。
けれど、誰かにそう言われたのは初めてだったのだ。
カウンセリングは静かに、穏やかに進んだ。
凛はまだ全てを話せなかった。
だが、心の奥に張りつめていた何かが、少しずつほどけていくのを感じていた。
帰り道。
桜は凛の手を握った。
「……姉さん。今日、すごく……救われた気がしました」
凛は、笑った。
かすかに。ほんのわずかに。
その笑みに、罪悪感と安心と、未来への痛みが混ざっていた。
「……私も、そうだった」
そう呟いてふたりは並んで歩き出した。
まだ何も終わっていない。
でも、ここから始められる。
そう思えるだけの夜が今はあった。