卒業式を迎える春。入学式を迎える春。
いつもの通学路を逆に行き、新しい通学路を奏汰は歩く。
晴れ晴れとした青空の下、そこかしこで桜の花が咲いていた。身が引き締まるような気持ちと、わずかな胸の高鳴り。昨日と今日で自分が変わったわけでもないのに、まだ固さの残る制服を着て、一つ上の肩書を背負った自分は、少しだけ大人になった気分だった。
ふと、足元に引っ掛かりを感じて見下ろすと、靴紐が解けていることに気づく。
それがどうしたって訳じゃない。しゃがんで、結び直して、立ち上がって。
くらりと視界が揺れた。
つーんと、耳鳴りが頭の後ろで響き始める。血が抜けていく感覚。意識はあるのに、指先やつま先に力が入らなくなり、喪失感が全身へと回ってくる。
ざわり、ざわざわ…。
値踏みされているような囁きが耳に届くが、誰も、彼も、助けてくれる声はない。ただ遠巻きに見つめて、足早に去っていく。入学式の始まるまで、そう時間もない。面倒事に巻き込まれたくないというのは、自分だって同じ風に考えるだろう。
大丈夫。いつもの事。
元々、身体の弱い俺には体調不良なんて慣れたもの。
大丈夫。少し休めば落ち着くはずだから。自分に言い聞かせるより他は無い。
しゃがみ込んだ奏汰は、薄れる意識の中、乱れた呼吸を整えるのに精一杯だった。
***
思ったより、時間が掛かっちゃった。
慣れない通学路と、慣れない制服。ひらひらと、いつもより長く感じるスカートの裾が、足に戯れついてくる。早く家を出たつもりなのに、スマホの時計はもうギリギリ。一般的には間に合うような時間でも、足の遅い美優には決して無視できない時間だった。
少し、急ごうかな。
時間が背中を押してくる。急かされる気持ちに足がついていかず、転けそうになるのをなんとかこらえた。そう、急かされるのは得意じゃない。
急げ、早くって、いつも言われてた。言われる度にどうして良いか分からなくなって、余計固まってしまう。
「…遅刻かな」
どんどんと、先を歩いていく同じ制服姿を見送りながら、美優は急ぐ事を止めていた。ほっと、一息。乱れそうになった自分のペースを整える。
再び歩き出した美優は、流れていく人波の中、蹲る男の子の背中を見つけていた。同じ制服を着た子。男子と女子で違いはあるけど、多分きっと、私と同じ新入生何だと思う。
どうしたんだろう?
誰か、助けて上げないんだろうか?
そう思って周囲を見回しても、誰も助けようとは動かない。
時折、気にするような素振りを見せる人もいるけれど、迫る時間がそうさせるのか、誰も足を止めようとはしなかった。
私も…。
そう、別に、悪くはないはず。
今足を止めちゃったら、私じゃ絶対遅れてしまう。
見て見ぬふり。無視をする。私も、大勢の一人に紛れるだけで、何も悪いことではない。
一歩、二歩と、歩いて…振り返る。
急がないと…美優。でも、放っておけないでしょう? それは、そうなんだけど。
内心で、自問自答を繰り返す。一人きりで蹲る男の子の姿が、どうしても気にかかる。芽生えた同情に、後ろ髪を引かれた私は、彼を助けることを選んでいた。
「ねぇ、君。大丈夫?」
声を掛けて、反応はない。そっと肩を揺らすと、ようやく男の子は弱々しく手を上げた。「大丈夫…だから」震える声は、そういうのがやっとって感じ。
どう見ても、大丈夫って様子じゃない。救急車? でも、それはあんまりに大事過ぎて勇気は出ない。せめて横にはしてあげたいけど、こんな道端で寝転ばせるには目立ちすぎる。
「ちょっと、頑張れる? 向こうに公園があるから、ベンチで、その、少し休も?」
「いいって…。このままでも、大丈夫だから」
「大丈夫って…でも。歩けそう? 無理なら、私に掴まって、ね?」
「いや、だから…」
「…」
なんだか、すごく嫌がるな。
女の子に触られてるのが恥ずかしいだとか、そういう異性への反応でもない。
もっと、遠ざけるような嫌がり方に思う。そこまで言うなら私も「じゃあ、もう行くね?」そう言っても良かったはずだ。でも、助けるって決めたし。やっぱりは私は、彼を一人にはしておけなかった。
「ごめんね、ちょっとだけだから。んっ…」
流石に、重いかな。
少し、強引に。彼の体に手を添えると、ようやく観念したのか、男の子の体重が私に寄りかかってくる。でも、私もそんな丈夫って程じゃない。
息の合わない二人三脚みたい。力の抜けた彼を、ほとんど引きずるようにして、公園のベンチまで引っ張っていった。
***
横になれたお陰だろうか。血の気が戻り始め、頭が冴えていく。
痺れていた指先にも、だんだんと力が戻り始め、奏汰は薄っすらと目を開けていた。
木漏れ日が、薄く開いたまぶたを優しく照らす。
どこだろう?
視線を向ければ、何処か小さな公園のようだった。
公園の隅。通学路からも少し離れたそこに人影はない。朝の時間に急ぐ人たちは、咲いている桜にすら目を向ける様子はなかった。
十分くらいか、もう少しかも。多分、そう時間は経っていないはず。
いつもの立ち眩みなら、そこまで長引くこともない。
わからないけれど、今から急げばまだ入学式には間に合うんじゃないか。
「もう、いいの?」
「へ…」
体を起こしかけた奏汰の おでこに、柔らかいものが触れていた。
それは、女の子の手の平だった。黒いショートヘアの女の子。気遣うように俺を見つめる彼女は、大人しいと言うより、引っ込み思案な印象を受けた。
おでこを抑えられ、浮きかけた体が沈んでしまう。
固いベンチの板じゃない。後頭部に感じたのは、もっと温かい、それこそ人肌のような感触だ。
「熱は…無いみたいだけど、あっ」
「うわっ!? ご、ごめん…俺、君になにかした?」
「へ? 何って、別に…何も?」
恥ずかしい。それとは別の、チクリと胸を刺すような痛みがあった。
慌てて飛び起きた俺は、目の前の女の子から距離を取る。
誰だろう?
見覚えのない顔だった。
同じ制服を着ているお陰で、新入生なのは分かるけど、それだけだ。
「それより、まだ顔色悪いよ? もう少し休んでようよ? ほら、お水飲んで、ちょっとは落ち着くはずだから」
優しげな声音に、胸の強張りが取れていくようだった。
差し出されたペットボトルと、彼女の顔を見比べて、奏汰は躊躇いながらも、それを受け取った。
まだ冷たい。
ついさっき、そこの自販機で買ってきたんだろうと思う。
ごくっと、一口。はぁっと、大きく息を吐く。彼女言う通り、冷たい水が喉を潤す感覚は、焦っていた心を落ち着けてくれた。
「えっと、ありがとう」
「どういたしまして」
微笑み返されてそれきり。何か言われるかと思えばそれもない。
男のくせにだなんだのと、また感情的に責められるんじゃないか。身構えていた俺は、拍子抜けしてしまう。
「あ、そうだ時間はっ。うん、まだ間に合うかも、急ごう?」
公園の時計を見上げて、女の子に声を掛けた。遠くで鳴る学校のチャイムが、もたつく俺達を急かしてくる。
けれど、また予想外。急ごうと掛けた声に、彼女はどうしてか、小さく首を振る。
「ううん。先に行って? 私は大丈夫だから」
「いや、大丈夫って。走っても間に合わないかもだし…」
「うーん。そういうの、ちょっと苦手で。私…足、遅いから。君まで遅刻しちゃうよ?」
苦笑。
さっきまで柔らかだった笑みは困ったように。
そっか、ならしょうが無い。そう言うのは簡単だった。
でもさ。
通学路を見やれば、もう歩いてる人なんてほとんどいない。
どうして彼女が遅れそうになっているかと言えば、倒れていた自分を介抱していたせい。
入学式に遅刻したって、どういう怒られ方するんだろうな。
「あの…えっと?」
後々の不安を胸に抱えながらも、奏汰はベンチに座り直した。
困惑する彼女に見られながらも、ペットボトルに残っていた水に、また口をつける。
「これ、飲み終わったら行こうよ? それでいい?」
「え、でも、だって。君まで…」
「いいって。俺も、まだ、ちょっと…気分悪いし。どうせ怒られるなら、一緒のほうが心強いしさ?」
「んー…。うん、そう…だね。ありがとう」
「どういたしまして」
彼女の真似をして、同じ言葉でお礼を受け止める。
たまたまだ。そんなつもりは無かったのだけど、それに気づいた彼女はくすぐったそうに微笑んだ。
良かった。
笑ってくれた。
困った顔をさせるより、ずっと良い。
春風が頬を優しく撫でる。「あ、桜…。綺麗だね?」舞い散る花びらに包まれた彼女が、どこか幻想的に映る。花びらの中で咲く笑顔。満開では無いけれど、くすりと綻ぶその笑顔に、奏汰は胸の奥がくすぐられるような温かい気持ちになった。