長距離走。
担任から告げられたイベントに、奏汰は小さく息を吐いた。
同じように、息を吐き出したクラスメイトも幾人か。イベントなら何でも楽しめると、歓声を上げるクラスメイトも同様に。
苦手意識はある。幼少の頃からの体力の無さはどうしようもない。
わざと遠回りに歩いて帰ったり、意識的に体を動かすようにはしているけれど、奏汰の体は長距離を走り切るようには出来てなかった。
少し走れば息が上がる。季節や、天候。油断すれば体調を崩して、簡単に熱を出してしまう。これでも、小学生の頃に比べれば持ち直した方だけれど、好き好んで走り回りたいとは思えない。
「奏汰は、どうするの?」
心配そうな美優の声に、奏汰の胸がざわついた。
嬉しい声とため息を挟みながら、クラスが長距離走の話題で盛り上がる。
そんな中、美優の心配が自分に向いている。体力の無さを笑われた訳じゃない。そう感じてしまったのは、自分に自信がなかったからだ。
他の女子に からかわれるのなら、いつものことだと我慢もできた。
ただ、美優にそれを言われるのは、少しだけ、息苦しい。
「そんな、ちょっと走るくらいで、大げさだよ」
「でも、体調は? また、気分悪くなったりしたら…私」
隣の席で、日直の時間でも、話す機会は自然と増えて、自分のことも伝えてある。
当然だ。美優にとっての俺は、初めて会った時、急な立ち眩みで動けなくなっていた時の印象が強いんだろう。走ってる途中にまた倒れたら。そう考えれば、大人しくしてようよと、言いたくなるのも分かる。
「大丈夫だってっ。無理なら、途中で抜けるから…さ?」
「う、うん。奏汰が良いなら、うん。私は良いんだけど…」
少しだけ強くなった奏汰の口調に、美優は驚いて目を丸くする。
それは、彼も自分で気づいたんだろう。バツが悪そうに、語気を緩めて。最後は視線を外されてしまった。
しつこかったかな?
体力ないんだから休んでなさいって。そんな風にも聞こえてしまったのかも。
きっとそれは、誰からも奏汰が言われ続けてきたこと。決めつけられて、言われる度に、申し訳なくなったり、悔しかったり。その気持ちは、私にも痛いほどに分かる。
「ごめんね?」
「別に、心配してくれたんだろ?」
「そうだけど…でも」
「良いから。ありがとう」
「うん」
失敗した。
少し意地を張っただけだった。女の子の前で格好をつけようとしただけの、些細な意地っ張り。あるいは、反抗期か。やけに心配してくる美優に、母親の姿を重ねてしまったのかも。
どっちにしたって、格好悪いことに違いはない。
思い返せば、頭を抱えたくもなるのに、その時の俺はまったく気づきもしなかった。
そのせいで、余計な意地まで張ってしまう。
心配をかけて、困らせて。ならせめて、大丈夫だったろ? て言い返したい。
いや、違うだろ。
ようやくその事に気がついたのは、長距離走が終わった頃だった。
這々の体でも、なんとか走りきった俺は、人目を避けるように運動場の隅へ逃げ込んだ。なんとか美優にバレませんように。願うのがやっと。ほとんど倒れ込むように、木陰に背中を預け、なかなか落ち着かない呼吸を、抑え込むのに必死になっていた。
***
美優は、やっとの思いでゴールラインを越えて、長距離走を走り終える。
「お疲れ様」と、係の人に貰ったスポーツドリンクを飲みながら、乱れた呼吸を整えていた。
奏汰、どこ?
額の汗を拭って、周囲を見渡しても彼の顔が見つからない。
校門を抜けて、途中までは一緒だった。
男子と女子にルートが分かれて、私のほうが早くゴールしたのかもしれない。
見つめるゴールラインの向こう側。最後尾の子達が、疲れた顔で走っては来るけれど、私の心配は大きくなるばかり。
不安…。
やっぱり、途中で?
無理していないといいけれど。先生に聞いてみようかな?
思いかけた時だった、ようやく奏汰の顔を見つけられて一安心。だけど、やっぱり。その顔は他の子達よりも、明らかに苦しそうだった。
「奏汰っ。大丈夫?」
「んっ、まぁ、平気だよ。ちょっと疲れただけで」
駆け寄って、息苦しそうに喘ぐ彼に声を掛ける。
平気、だってさ。近づく私を制するように手を上げて、何でもないふり。
強がり? 意地っ張り? 分かんないけど、分かんないから、私は余計に「むっ」としてしまう。
なんでそんな、変に意地を張るんだろう。
どう見たって苦しそうなのに。私に心配されるのがそんなにイヤ?
きっと、顔にも出ていた。自分の頬が膨らむのも感じていて、心配していた分だけ苛立ってしまう。
「平気じゃないよっ。ほら、これ飲んでっ」
自分が口を付けていたことも忘れて、私は奏汰に飲みかけのスポーツドリンクを押し付ける。ケンカって、つい意地を張り合うから、変にこじれちゃうんだね。
今更そんなことに気づいても、もう遅かった。語気を強めた私に、奏汰の態度はさらに固くなってしまう。
「いいてっ」
押し付けたボトルを払うように、奏汰の手が触れた。
「あっ」と、思ったときにはもう、私の手からそれは弾かれていて。
ばしゃんっ…。
地面に落ちたボトルが跳ねて、中身が勢いよく飛び出した。
それで、良かったのかも。大ゲンカにならずにすんだ。頭から被ったスポーツドリンクの冷たさに、冷静さを取り戻す。二人一緒。汗をかいた以上に、服までびしょびしょ。何をやってるんだろうね? 笑い合って、それで仲直りできれば良かったんだけど。
まただ。
「ごめんっ! 美優っ。おれ…その」
奏汰は大げさなくらいに驚いて、私から距離を取ろうとする。
そんな、ちょっと手が当たったくらいで。たったそれだけのことなのに。
謝るにしたって、彼は私を見てもいない。視線は重なっているのに、どこか遠くの何かに怯えているようだ。
「大丈夫だよ、奏汰」
意地の張り合いが、ケンカになるのと一緒。まずは、私が落ち着かなきゃ。
膨らんでいた頬から空気を抜いて、優しく彼の名前を呼んだ。すると、怯えていた奏汰も、落ち着きを取り戻し、ようやく私のことを見てくれた。
「ごめん…。ほんと、変な意地、張っちゃって、おれ。また、心配かけた」
「いいよ。私がちょっと、しつこかったんだよね?」
「…ちがうんだよ。そうじゃなくって、美優に心配されるのがイヤだったわけじゃなくってさ…」
立ち上がりかけていた奏汰の体から力が抜けて、尻餅をつくように腰を下ろす。
「じゃあ、何をあんなに意地はってたの?」
「…別に、ただ、ちょっと。あんまり美優が心配するから。ちゃんと走りきれたら、美優もさ? 少しは…安心かなって」
「ふふっ…」
「笑うなよっ」
「うん、ごめん…。ふふっ…」
可愛いと思ってしまった。奏汰には絶対内緒だけど。なんだかくすぐったくなって、零れた笑顔は隠せない。
落ちていたボトルを拾い上げた私は、少し揺らして中身を確かめた。
幸い、中は残っていた。まだ、息の荒い奏汰を落ち着かせるには、それで十分だと思う。
「じゃあこれ。全部飲んでくれたら、許してあげる」
悪戯に微笑みかけた美優は、もう半分も残ってないスポーツドリンクを、奏汰に差し出した。
***
観念したように奏汰は肩から力を抜いた。美優の心配は、もう十分な程に伝わっている。これ以上避ける方が、かえって格好がつかない。
少し砂で汚れた飲み口を軽く払うと、奏汰は残っていた中身を一気に煽った。
口の中が甘い。想像していたよりもずっと甘く感じる。
ごくり、ごくり。
スポーツドリンクを一気飲みする奏汰。その豪快さが照れ隠しから来ているのは、美優にもわかっていた。少しだけ、頬が緩む。でも、指摘まではしない。温かくなる気持ちを、そっとしまい込むだけ。「照れてるの?」なんて聞いてしまえば、奏汰は飲むのを止めてしまうかも。やっと素直になってくれたのに、それじゃあ困る。
そんな奏汰を、私は見つめていた。
特に意味があったわけじゃない。ただ、視線が惹かれるまま。
スポーツドリンクを飲み込むたびに動く、彼の喉仏。それは、女の子の自分には無いもので、何処か不思議に思える。少し前までは、ランドセルを背負っていた。
あの頃は、男の子も女の子も、そんなに変わらなかったはずなのに。
好奇心。興味本位。深い意味は、まだ何も。
「…触ってみても良い?」
「ぷはっ」と、スポーツドリンクを飲み干した彼に声を掛けると、驚いた顔がこちらを向いた。同時に、頬がほんのり赤く染まる。それは走った後の赤みじゃない。私も、彼も、そんなのとっくに引いている。明らかに照れからくる色だった。
「へ? あ、うん…」
上目遣いに見上げる私と視線が重なり、でもやっぱり逸れてしまう。
きっと、さっきの罪悪感もあるんだろう。嫌がるかと思ったけれど、奏汰は戸惑いながらも、私が触りやすいように、顎を上に向けてくれた。
喉仏…。
ふーん、こんななんだ。ちょっと、コリってして軟骨みたい。
首も、触ってみれば意外と太い。そのままペタペタと、私は興味に任せて、彼の身体に触れていく。肩周り、胸板、二の腕、手の平を重ね合わせてもみた。身長は、私とそんなに違わないはずなのに。こうして比べてみると、彼の身体はちゃんと男の子で、私より、ずっと がっしりとしていた。
「美優…その」
「なに?」
戸惑うような奏汰の声に顔を上げた瞬間、自分がすっかりと夢中になっていたことに気づく。いつのまに、こんなに近づいていたのか。視線を上げれば、唇が触れそうなくらい、彼の顔が近くにあった。ちょっと恥ずかしい。さっきまで、彼を男の子として意識してしまったせいか、いつもより余計に、気恥ずかしさがこみ上げる。
けれども多分。私以上に、奏汰の顔は真っ赤になっていた。
揺れる視線が、私の顔を見たかと思えば、胸元に逸れる。でも、それはすぐに明後日の方へと逃げていき、慌てる彼の視線は一向に定まらない。
女の子に寄り添われて、恥ずかしいと思う気持ちは分かるけど、それだけにしては何だか変。
「ごめん…美優。服、ちょっと透けて、見えてて…。その、隠して」
「えっ、あ…ごめん!」
ようやく気づいた。
スポーツドリンクで濡れた体操着が、肌にぴったり張り付いていた。白い布の奥に薄っすらと、透けて見える肌色…。慌てて胸元を押さえた美優は、奏汰と同じくらいに頬を染めていた。