家に帰った美優は、真っ先にお風呂に飛び込んでいた。
冷たいシャワーを頭から被り、それでも顔から火が出そう。
何やってんだろ、私。
奏汰の体に、あんな ぺたぺた触っちゃってさ。それに、飲みかけだったよね、あのペットボトル。彼は気づいてなかったみたいだったけど…間接キス、やっちゃった。やらかした。
それに…。
「くちゅっ…」
小さなくしゃみがひとつ。顔はこんなに熱いのに、冷たい水は容赦なく私の体温を奪っていく。このままじゃ、風邪を引きそうだ。
汗を流すのすら適当にして、美優はそっと湯船に体を沈めていった。
温かいお湯に体が包まれ「ほぅ…」と、息を吐く。ぽつりと、零れた溜息に、体から力が抜けていくと、さっきまで沸騰しそうだった頭の中も、次第に落ちついていった。
「見られちゃった…。まあ、うん…それは、良いんだけど」
私なんか、見るどころかあんなに一杯触っちゃったし。見られた相手が奏汰なら、うん、いい。なんなら、まったく反応されない方が、私は傷ついていたくらいに思う。
いや、見せたいって訳じゃないんだけどさ。見て欲しいとは、思うよね?
胸が、すっごくドキドキしていた。きゅって、苦しいくらいなのに、何だかくすぐったい。そわそわして全然落ち着かない。出来るなら、今すぐにでも奏汰に会いに行きたいくらいだった。
好きなのかな、私は?
そりゃ、好きだけど。
でも、それって…友達として? それとも…。
ざぶんっ。
勢いよく、湯船の中に顔を突っ込んだ。かき混ぜられる水音の中、ドキドキと、強く響く鼓動の音。一つ、二つ、三つ。秒針を数えるより、ずっと早い。奏汰の事を考えていると、それだけで息が苦しくなって。
「ぷはっ」
私は水面から顔を出した。濡れた髪が首筋に張り付く。水滴が肌を伝い落ちていく感触に、少しくすぐったいものを感じていた。
「ねぇ、美優。私って、奏汰のことが好き?」
そっと問いかけると、水面に映る私がふわりと揺れた。
夫婦かよって、からかわれて、その気になった訳じゃないよね。むしろ、最初は言われる度に腹が立った。冗談でも面白くはない。「やめて」って言うほど盛り上がるから、もう、相手にしないようにしているけれど。ここ最近は、あんまりイヤでもないのは内緒だった。
入学式の日、一緒に遅刻してくれた。日直の当番も、最後まで付き合ってくれる。最近はもっとだ。周りから遅れがちな私は、彼に助けられてばかり。
奏汰…。他の友だちと遊んだりしないのかな?
なんだか、いつも一緒にいる気がする。たまには、私以外の誰かと遊んだっていい筈なのに。でも、私以外の誰かといる彼を想像すると、少しだけ胸がモヤッとした。
ああ…。これ、ヤキモチなんだ。
「なぁに、美優? もう、お嫁さんになったつもりなの?」
水面に揺れる私の顔は、やっぱり真っ赤なままだった。
***
家に帰った後も、奏汰の顔は赤いままだった。
女の子に触ったのなんて、いつ以来だったろう。きっと、小学生のとき、自分をからかってきた、あの子を振り払ってからは無かったはず。そこから後はもう、女の子ってだけで避けるようになった。その癖は、今でも染み付いているほどだ。
一体、美優は何のつもりで…。
分からない。からかっているって風でもなかったし。単に喉仏が気になったとか。異性の違いが気になって、つい? そんな戯れあい自体は、たまに見かけることはあった。
普通のことだとは思う。
俺達も、そんな普通の戯れあいに興じてみただけで。
ただ、それが、今まで異性を遠ざけてきた俺にとっては、少し大げさに思えてしまっていた。
美優が「女の子」だって意識するほど、どう接していいか分からなくなる。
だって、美優は出会ったときからずっと優しかった。変に声を上げることもなければ、遠慮しすぎるほど穏やかで。
一緒にいて、不安に思うことは一度もなかった。
「大丈夫?」って、ちょっと体調をくずしただけなのに、すぐ気にかけてくれる。天使かよって思う。冗談のような本音だ。「女の子」を一括りに避けてきた自分にとって、美優の優しさが心の奥に染み渡る。
だから俺も、自然と優しく出来ていた。
彼女が優しくしてくれるから、俺もただそれを返したいと思う。
「女の子」じゃなくて「美優」だから。彼女が困っていれば助けてあげたい。
まだ、出会ってちょっと。他のクラスメイトたちよりも、多少話はしている程度。それでも、彼女が器用でないことはわかる。そのせいで、周りから敬遠されがちなことにも。
多分、好きになってたんだろうな。
美優に頼られる自分が誇らしい。反面、彼女に心配を掛けがちな自分の体の弱さが、憎たらしくもあった。意地を張って、無理して長距離を走って。結局はまた、美優の心配を増やしただけ。
指…柔らかかったな。
自分の幼さを呪うと同時に、美優に触れられた時のことも思い出す。
指先は、少しひんやりともしていた。スポーツドリンクが掛かって、濡れてしまったせいだろうか? 風邪とか、引いてなきゃいいけど…。美優のことを心配したつもりで、でも、脳裏に浮かんでしまったのは。
「っ…」
慌てて頭を振って、邪念を追い払う。二人でいる間は、必死に考えないようにしていたのに、一人になった途端にこれだ。目に焼きついた美優の姿が忘れられない。気を抜けば思い出して、顔が赤くなってしまう。
別に、何かが見えたってわけじゃない。
濡れた体操着が肌に張り付き、布越しにうっすらと肌着のラインが浮かんでいただけ。夏場に着るような薄手の服なら、それくらいのは普通にあるだろう。そんな言い訳も長くは続かない。
似合いそうだな。
思った途端に、また次の妄想が広がりだす。真っ白いワンピースに麦わら帽子。
分かりやすい夏の装いに身を包んだ美優は、太陽を背に、ちょっと はにかんで笑うんだ。
「じゃなくってっ…!」
可愛いとか、思ってる場合でもない。お風呂に入っても、夕飯のあとも、顔の赤みが引かない。母さんにまで、熱があるんじゃないかって心配される始末だった。
もう寝よう。
半分、不貞寝のような形で布団に潜り込む。
目を閉じた後も、思い浮かぶのは美優のことばっかりだ。
入学式の日、助けてもらった時の事。桜の花びらに包まれる彼女の笑顔に、ドキッとしたのが始まりだった。
夫婦かよ。からかわれて、イラついた事もあったけど、それが気にならなくなったのは、いつからだったか。美優のやつ、意外と強情でさ。掃除なんか適当でいいのに。やるったらやるって聞かなくて。掃除が終わった後、急に泣き出した時には、生きた心地がしなかった。
その後くらいか。夫婦って言われても、何にも思わなくなったのは。
慣れもあった。そうだけど、それ以上に、それでも良いかって、少しだけ。
その後は…。
そう、ペットボトルだ。渡された時にはもう、半分くらいは無くなっていたような気がする。あの後、少しケンカみたいになって、有耶無耶になってしまったけれど…。
あれ、俺…。
つまり…美優と?
眠れないと思っていたはずなのに、長距離走で無理をしたせいか、だんだんと意識はまどろんでいく。それで、良かったのかも知れない。このまま考え続けていたら、何か気づいてはいけないことに気づいてしまいそうだった。
ゆっくりと、意識が薄れていく。
立ち眩みを起こした時の様な不安感はない。ただ、眠たくって、まぶたが重い。
それがなんだか心地よかった。隣に美優がいるような気さえして、彼女の声が幽かに届く。
「奏汰も、触ってみる?」
顔を赤くした美優が、躊躇いがちに問いかけてくる。
ああ、夢か。頭の何処かでは、気づいていた。眠りに落ちる前、ずっと美優の事を考えていたのだから、多少は仕方がないのかもしれない。
起きなきゃいけない。
そうは思っても、もう少しだけ。まどろみから抜け出せないまま、妙に現実味のある夢に引き寄せられていく。
「私も、ほら? たくさん触っちゃったし…だから」
頬を赤らめながら、視線を逸らす彼女の姿に喉が鳴る。
体操着に透けて見える肌。濡れた髪が、頬に張り付いていて妙に色っぽかった。
触ってみたい…。
それはそうだし、夢ならまだ覚めないで欲しいと願う。けれど、それと同じくらいの葛藤もあった。これは、ダメなやつなんじゃないか? 迷いながらも、好奇心には勝てない。むしろ、夢だと自覚している分余計に我慢が効かなかった。そっと手を伸ばした指先が、彼女に触れた、その瞬間。
「うわぁぁっ!! はっ、はっ…はぁ、はぁっ」
飛び起きた。息が荒くて、胸が痛いほど脈を打っている。
目を凝らして辺りを見ても、もちろん誰もいない。探している美優の姿も無ければ、ここは自分のベッドの上だ。
…夢でよかった。
安堵と同時に、やり場のない恥ずかしさが押し寄せる。
時計を見れば、いつもより少し早い時間。ああ、そうか。今日は日直の日か。
「どんな顔して合えば良いんだよ…」
こんな夢、美優に知られたら絶対にヤバい。
なんとか平静を装わないといけないのに、顔の火照りは引かないまま。
布団の中で頭を抱えながら、思い返すように指先を動かす。
夢だったはずなのに、手のひらに残る感触は、やけにリアルだった。
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