その日、美優は いつもより少し早く家を出た。日直があるからって、こんなに早く出ることもなかったんだけど、どうしても足が自然と動いてしまった。
静かな通学路。道行く人達もまばらで、道路に並ぶ車の列もない。
変なの…。
もう数十分と経てば、朝の喧騒がやってくるっていうのに。
目覚めたばかりの町は、ゆっくりとした時間が流れていた。
楽しみだったのもある。
奏汰とは、いつも顔を合わせてはいるけれど…。日直の日は、ちょっとだけ特別だった。朝早くから放課後まで、二人きりになる時間さえある。
早く会いたいな。鼓動の音が私を急かす。軽くなった足取りのまま、美優は教室の扉をガラリと開けた。
まだ夜の余韻が残る教室は、静まり返っていた。
遠くから聞こえてくるのは、熱心な運動部の子達の声と、まばらに響く楽器の音。
こんなに早くから練習してるんだ。その情熱が、ちょっとだけ羨ましい。
窓を開けると、涼し気な朝の空気が、夜の残り香と入れ替わる。そのまま自分の席についた美優は、誰もいない教室を見回した。
普段、煩いくらいに賑やかなのに。
一人きりの教室は、少し寂しい。
それはきっと、隣に奏汰がいないせいもあるんだろう。
いつもの時間。彼が来るまでもう少し掛かる。
どんな顔をしていよう? 昨日のことを思い返しては、頬が火照りだす。
やっぱり、早く来てよかった。一番に顔を見たいのもあったけど、それよりも、浮かれる自分を落ち着かせる時間が欲しかった。
****
「深見さん。ちょっと良いかしら?」
「はい。なんですか、先生?」
朝のHRの後、美優は担任に声を掛けられる。
その内容には予想がついていた。あの後、いつもの時間になっても奏汰が来ない。
少し待ってみてもダメ。体調でも崩しちゃったかな。心配で胸がざわつく。
手を抜いたつもりもないけれど、何処か上の空。朝の仕事に身が入らず、ちょっと、いい加減になってしまった部分はあったかもしれない。
「奏汰くん。今日はお休みなので、日直は他の子に手伝ってもらって下さい」
「あ、はい…。わかりました」
先生の手前、頷きはしたけれど、奏汰以外に頼る当てなんてない。
うん。大丈夫だよね、美優? 自分で自分に問いかける。いつもやってることだもん。多少時間は掛かるかもしれないけれど、変に手間取ることも無いはずだ。
「はーい♪ それじゃ、あたしが手伝いまーす」
元気な声だった。
大げさすぎるほどに明るくて、突き抜けるような賑やかさ。まるで、夏の太陽をそのままにした女の子。唐突に響いた声に、美優はビクッと驚いて、肩を跳ねさせる。
「それじゃ、今日一日よろしくね♪ みーう?」
「えと、うん。ありがとう、椎名…」
「ひより」
「え?」
「まいねーむいず。ひ・よ・り」
自己主張の激しい子だった。
自分のことを指さしながら、笑顔で圧を掛けてくる。
暗に、名前で呼べと言われてた。この状況ならきっと、大半の人がそう思う。
「じゃあ…ひより、ちゃん?」
「ぐっど♪」
私が彼女を名前で呼ぶと、ひよりは満足したかのように微笑んで、親指を立てて見せる。やっぱり、正解だったみたい。本当は、もう少し遠慮したい。せめて「さん」あたりの距離感を保ちたかったのに…。
予感がしたんだ。
「ひよりさん」って呼んでもきっと、彼女は満足しないんだろうなって。
正直、苦手なタイプだ。自分のペースで話を進める人。良くも悪くも、遠慮を感じさせない子だ。
そんな性格だからか、彼女には友達が多かった。
「はーい。それじゃ、みんなー。プリント集めるよー。みゅーの近くにいる人は、みゅーに渡してねー♪」
こういう、皆に声を掛けなきゃいけない仕事をさせると、もうあっという間。
私の手元には次々と、プリントが回されてきて、ものの数分と掛からずに終わってしまった。
いつもクラスの真ん中にいる女の子。
傍から見ていると良く分かる。誰とでも仲良くしていて、まるで、クラスの皆が友達なんだと思っているみたい。
ちょっと眩しい。
私には、そういう大らかさは無いから。どうしたって、人の視線が気になって、遠慮が先に立ってしまう。
「じゃねー♪ みんなー、またあしたー♪」
ぶんぶんと、犬の尻尾みたいに手を振って、彼女は思い思いに教室を出ていくクラスメイトたちを見送った。途中、遊びに誘われているのも見た。けれど「きょう日直だから」と、きちんと断って、意外と真面目な一面も見つけてしまう。
「えと、ひよりちゃん? 約束あるなら…後は私が、今日はありがとう」
「は? なにそれ? 私が邪魔ってこと?」
「え、ちがっ。そうじゃなくって…」
「むっ」とした声だった。さっきまで笑顔だった ひより は眉をひそめる。
睨むほどではない。けれど、急に変わってしまった態度に、私は慌てて首を振った。
「なーんてね♪ みゅーは遠慮しすぎなんだって。もっとぶつかってこうぜ?
今日は二人で日直なんだからさ、もっと頼ってよ?」
「あ、うん。ごめんね、変なこと言って…」
「気、使ってくれたんでしょ? ありがとうは、私のセリフだって」
やっぱり苦手。怒ってみせたかと思えば、また華やいで。
ころころと変わる表情に、振り回されてしまう。それに、奏汰と同じこと言うんだもん。二人で日直なんだからって、ちょっと、ドキっとしてしまう。
あの時のやりとりが、見られていたのかも。
気になる。でも「見てたの?」なんて聞けなかった。
身構える美優をよそに、ひよりは鼻歌まじりに掃除を始め出す。
適当に、なんか良い感じで。良く言えば、要領よくやってしまうのかと思っていたけれど、その仕事ぶりは丁寧だった。
「みゅー達は偉いよね。いっつも教室綺麗にしててさー。あたしも気合はいるってもんだよ」
「え、でも。やりすぎだって、思わない? あんなにされても、その…困るとか?」
「思わない。そんな事言う奴がいたら、あたしがパンチしてやるっ」
しゅっと、拳を突き出して、ひよりは可愛らしくボクシングスタイルを取った。
「みゅーはさ? その真面目な所、短所だって思ってるのかも知んないけど。あたしは好きだよ? みゅーのそう言うところ。ちょっと、羨ましいと思う。あたしはほら? 結構適当にやっちゃう方だから、あはは…」
突き出した拳で頭を掻いて、今度は苦笑い。
臆面もなく褒められる。偉いねって、そんな含みさえ感じる声に、なんだかくすぐったくなってしまった。
「鍵閉めヨシっ。じゃ、みゅーはもう帰りなよ? 日誌はあたしが片しとくから」
「いいよ。それこそ私がやるから、ひよりちゃんは先に…」
「はぁっ…」
一つ。美優の言葉を遮るように、ひよりは大きく息を吐く。そして、持っていた日誌の角を、ぴしっと美優の前に突きつけた。
「さっさと旦那の ところに行けって言ってんの。わっかんないかなー、この気遣い? あたし優しくない?」
「旦那って…。ひよりちゃんもそれ言うの?」
「イヤでもないくせに」
「ぅっ…。それは、うん、まぁ…」
こつんと、日誌の角でおでこを突かれた。
皮肉に聞こえる彼女の言葉に、けれど、嫌味は感じない。
誤魔化す意味はあんまりなかった。手探りだったのは、きっとお互い様。
私が、ひよりへの対応に困っている間も、彼女は彼女で私の様子を伺っていたんだろう。
誰もいない隣の席に、つい視線を向けてしまう。休み時間の合間に覗いたスマホには「ごめん…」と申し訳無さそうに続く、奏汰からのメッセージが入っていた。
そんなこと、気にしなくたっていいのに。それでも、連絡を貰えたことが嬉しくて、ほっとする。
一日中落ち着かない。体調を崩した奏汰の事が気がかりで。そんな私の様子は、バッチリと見られてしまっていた。
それはお互い様。私だって、今日一日彼女を見ていた。
仲良しの輪。その中心には ひよりがいて、彼女はいつも誰かと笑っている。
一度だけ、剣呑な雰囲気を感じた事もあったけど、怖いくらい器用に、ひよりは話題をすり替える。
一見、おちゃらけては見えるけど、人のことをちゃんと見れる子なんだ。
「行ってあげなよ? 深見くん、絶対喜ぶって」
「そう、かな?」
「そうっしょ? みゅーの顔見たら風邪くらい一発だって」
当たり前に頷く ひよりに、これ以上、遠慮の言葉は思いつかなかった。
「うん、じゃあ…ごめん。えと、ありがとう。私、先行くね?」
「はーい。また明日ねー、みゅー♪」
****
美優の背中が廊下の向こうに消え後、ひよりはようやく、今朝から続いていた緊張が解れるのを感じていた。はしゃぎ過ぎたかな。緊張すると、いつもそう。その場の勢いで乗り切ろうとする悪い癖。一見誰とでも仲良くしているようには見えるけど、その内心は、人見知りの裏返しでしか無い。
美優の背中が曲がり角で見えなくなって、たんっ、たんっ、たんっと、階段を降りる音が響いてくる。少し小走りに、よっぽど心配だったんだろうね。
その音すら聞こえなくなって、静かになった廊下で一人きり、ひよりは知らずごちていた。
「なんだよ。むっちゃ良い子じゃん…」
それはもう、自然と背中を押せてしまうくらいには。
いつも奏汰といる子は、一体どんな子なんだろうと思ってた。
クラスの真ん中にいるあたしと、隅っこにいる彼女。あんまり接点は無い。
大人しくて、引っ込み思案な所は、概ね印象通り。真面目すぎるのは玉に瑕か。
それでつまずく事もあるみたいだけど、そのくらいは愛嬌だと思う。
だって美優は、ちゃんと誰かに寄り添える子だ。
それは、あたしには出来なかったこと。
「私のほうが先に好きだったのに…なんて」
気づけば横恋慕、か。
すぅっと息を吸って、はぁっと大きく吐き出した。
そうでもしなければ、嫌な言葉を口にしてしまいそう。それは、だめ。嫌な気分になるから。
くるり。美優に背中を向けた ひよりは、廊下の反対に向かって歩き出した。