放課後の帰り道。美優は一人で首を傾げていた。
深見くん…か。
別におかしいことじゃない。特に、親しくもない男の子を名字で呼んだだけ。
私だって、奏汰と同じ名字じゃなければ、最初はそう呼んでいたはず。
でも、あの ひよりが名字で呼ぶなんて。名前が分からない? そうじゃないとは思う。私の名前ですら覚えていた。最初こそハッキリと「美優」って呼んでいたのに、それもいつのまにか崩れて、気づけば「みゅー」だ。
「猫じゃないんだけどな」
まぁ、良いんだけど。誰かにあだ名で呼ばれる経験が無かったから、少し気恥ずかしいだけ。指摘する勇気が出なかっただけと言われれば、それはそう。
まるで、寄り道をするように考えが逸れていく。その内に、首を傾げていた理由も忘れて、美優は灯った赤信号の前で足を止めていた。
横断歩道と赤信号。日直の日だとか、奏汰と一緒に帰る時は、いつもこの十字路で足を止めていた。彼はあっちで、私はこっち。分かれ道の先を、一緒に歩いた事はない。
あっちの信号が青になるか、こっちの信号が青になるか。見送って、見送られて、渡りきった先で振り返る。
そこに、奏汰の姿はなかった。
だって、今の私は一人切り。それに、渡った信号は、こっちじゃなくて あっち側だ。ぴよぴよと、鳴いていた信号の音が止まる。慌てて横断歩道を渡りきった私の後ろで、せっかちな車の列が動き出す。
手元のスマホに目を落として地図を開く。
そこには、自分の現在位置と、近くには赤いピン。お気に入りに登録された彼の住所に行ってみたいだなんて、今更になって恥ずかしくなる。
急に会いに行ったって、奏汰も困るよね?
お大事にって言うだけなら、メッセージでも送れば良い。「日直、終わったよ」ってさ。そうすれば、彼の気がかりも少しは減るだろう。そんなに声が聞きたいなら、電話でもいい。ただの友だちでしか無い私が、直接会いに行く理由なんてなかった。
また、小鳥の囀りが聞こえて、青信号に振り返る。
引き返すなら今、だけど…。
会えない理由は幾つもあるのに、たった一つ、会いたい理由に後ろ髪が引かれてしまう。ただの友達。引かれた線引の前で立ち止まる。ここを越えてもきっとまた、次の線引はあるんだろう。ちょうど、渡ってきた横断歩道みたいに、縞々が続いていくはずだ。
線が引かれる度に、きっと私は立ち止まる。
今の線引を踏み越えたって、次の線引は越えられないかも知れない。
でも、ただの友達はイヤ。教室で待ってるだけじゃ、居ても立ってもいられない。自分から、奏汰に会いに行くために、私は一つの線を踏み越えた。
****
美優がインターホンを鳴らすと、奥から声が聞こえてきた。
ややあって、近づいてくる人の気配に、美優の心臓はドキドキと高鳴っていた。
女の人の声だった。
優しそうに聞こえて一安心。けれど、心臓の音は鳴り止まない。どんな顔をしたら良いんだろう? なんて挨拶したら良いんだろう? 緊張と、不安を押し込めるように腕を抱く。玄関の取っ手と、表札の「深見」の文字を交互に見つめながら、頭の中で自己紹介の練習を繰り返していた。
「あの、私…その。深見 美優って言って、奏汰くんと同じクラスで。あ、いつも、お世話になってますっ。今日は、休んでたから、それで…えっと」
「はーい」と、明るい声で出迎えてくれたのは、奏汰のお母さんだった。
なんとなく、彼と似た雰囲気の女性を前にして、私の緊張はいよいよ頂点に達していた。考えていた自己紹介の言葉がパッと浮かばなくなり、舌が空回る。
なんとか名前を伝えるので精一杯。「何か御用でしょうか?」きっと、そんな風に急かされていたら、私はその瞬間に何も言えなくなっていただろう。
そんな美優を前にして、奏汰の母親は笑みを浮かべると、ゆっくり、慌てる美優を落ち着かせるように問いかけた。
「奏くんのお友達? お見舞いに来てくれたの?」
「あ、はい。そうです…」
はい、か、いいえ。簡単に答えられる質問を一つずつ。
そんな母親の様子に、泡立っていた美優の心も次第に落ち着きを取り戻す。
「お友達」その問いかけには含みがあった。
ただの友達が、たった一日休んだくらいで見舞いにくるか? それが、異性だったとしたら尚更だ。何か、言い訳をしようにも、彼に渡すプリントの類は何も無い。遠回しに付き合っているのかと聞かれたような気がして、落ちついていた美優の心はまた、ふつふつと沸き立ってくる。
「美優ちゃん、で良いわよね? 深見さんだと、ちょっとね?」
「あ、はい。大丈夫です」
「美優ちゃん、今、時間あるかしら? 私、ちょっと買い物に行きたくって。少しの間、奏くんの事、見ててくれない? あの子ったら急に熱出すんだもの。それなのに、学校行くんだーって聞かなくってね」
内緒話。そう言うように口元に指を当てると、彼のお母さんは悪戯っぽく笑ってみせた。
「へぇ…。そう、なんですね」
ちょっと嬉しい。気取られるのが恥ずかしくって、そっけない態度もとったかも。熱を出してまで学校に来たがる理由。私の自惚れじゃなければ、それはきっと、私と同じのはずだから。会いたい、顔が見たいって、うん。
もう、緊張なんてどっかに行っていた。
固いばっかりだった胸の鼓動は、弾むようにリズムを変える。
「じゃ、お願いね? 美優ちゃん」
名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。奏汰のこと見ててって、そんな事急に言われても困ってしまう。
「え、あれ、あ、お母さん!? 見ててって、私、でも…」
「戻って来る前には連絡するから…ね♪」
奏汰と二人きりにしてあげる。そんな風にも言われた気がした。
こっそりと、耳元で囁かれて、顔が真っ赤になってしまう。
どうしよう、美優? ねぇ、どうしよう…美優。
奏汰のお母さんが、冗談を言ってるようには見えない。
まして、私をからかいたいだけの意地悪でもない。まるで、娘の初恋を応援する母親のような笑顔。それと同時に、慌てる奏汰を想像したのか、少しのイヤらしさも混ざって見える。
「じゃあ、その…お邪魔します」
自問自答した所で、答えなんか決まってた。だって、私は奏汰に会いに来たんだもん。ひより にも背中を押されたんだ。お母さんだって、良いって言ってるのに、顔も見ないで帰るなんて出来なかった。