午後になる頃には、奏汰の熱もほとんど下がっていた。
原因は、たぶん寝不足。熱を出すくらい美優の事を考えていたから。それじゃあまるで、俺が美優に恋をしているみたいで。
まぁ、みたいでもないのか。
「美優…」
やっぱり心配だ。シャワーを浴びながらも、つい彼女の名前を呟いていた。
寝込んだ頭でぼんやりと、今日一日中美優の心配をしていたように思う。
一人で日直だなんて不安だ。誰かに手伝ってもらえただろうか。何か、困ったことに なったりしていないだろうか。
体が火照る。美優のことを考えていると、引いたはずの熱が戻ってきて、また頭がぼんやりともしてくる。今からでも行こうかな。前髪から流れ落ちる水滴を払うように、頭を振った。
美優の事だし、きっとまだ掃除をしているかも知れない。
シャワーから上がった奏汰は、掛けたあったバスタオルで適当に体を拭くと、リビングに顔を出す。
「母さん? ちょっと外に出てもいいかな?」
声を掛けても誰もいない。お風呂に入るまではソファーに座っていたのに、一体何処に行ってしまったんだろう? トイレか、それとも自分の部屋にでも戻っているのか。
とりあえず、着替えに戻ろうと、奏汰がリビングの扉を開けた時だった。
「ひゃっ…」
可愛らしい悲鳴がする。自分の母親の口からは、絶対に聞きたくは無いけれど。
耳を撫でるその声は、今日、一番聞きたかった声だった。
なんで、美優が家にいるんだ…? そんなに顔を赤くして。半端に開いた口は、わなわなと震えだし、今にも泣き出しそうだ。
「美優? なんで家にいるんだ?」
当然、奏汰は一番最初に浮かんだ疑問を口にするものの、美優は顔を真っ赤にしたまま答えない。首を振りながら後ずさる。両手で顔まで覆ってしまって、とうとうその場に蹲ってしまった。
「い、あ、そ、の…ぱんつ…せめて、お願いだから…!」
「は? パンツ? 急に何言って?」
「隠してって言ってるのっ!? 見えてるっ、なんで裸なのっ、奏汰のバカっ!!」
一生に一度ってくらいの大声だった。その時になってようやく、奏汰は自分の格好に気づく。完全に油断していた。家にいるからって、見られる自分を忘れていた。よりによって、一番見られたくない相手に、一番情けない格好を晒してしまった。
顔から火が出そうだ。
慌ててリビングに戻った奏汰は、扉の向こうで蹲る美優に、ゴメンと言い続けるしかできなかった。
****
こん、こん、こん。
奏汰の家の二階。一番奥の部屋の扉を、美優は静かにノックした。
「どうぞ」と、聞こえてくる奏汰の声も何処か固い。あんまりにも、さっきの出来事が衝撃的すぎて、私だって扉を開ける手が重くてしょうがない。
まさか、扉を開けた向こうには、また裸の奏汰が立ってやしないかと。
一瞬、浮かびそうになった彼の姿を、慌てて追い払う。首を振って、ぶんぶんと、その勢いのままに扉を開ける。
一見すれば、奏汰の部屋は片付いているように見えた。
ありがちな学習机と、一人用のベッド。本棚にはマンガが幾つか収まっていて、ベッドの上には携帯用のゲーム機が転がっていた。
「片付けた?」
「まぁ、ちょっとは…」
「ふーん」
着替えにしては、ちょっと時間が掛かっていたようだし。私も奏汰がくるってなると、そのくらいはすると思う。でも、どうにも会話が続かない。奏汰の部屋の真ん中で、お見合い状態が続いてしまう。お互いおしゃべりでもないけれど、いつもはもう少し気軽に話せていたはずなのに。
「えと、なんだ。なんで、美優がいるんだ?」
一番最初の疑問。そう言えば答えてなかったっけ?
答える間もなくアレだったから、すっかりと忘れてしまっていたけれど。
「お見舞い…。今日、休むって言うから、それで。なのに、奏汰…ダメだよ。体はちゃんと拭かないと、風邪…引くんだから」
「ごめん…」
ああ、ダメ、待って、違うの。話をそっちに持っていってはいけない。
けれど、何か話題を探そうとするたびに、彼の影に言葉が引っ張られてしまう。
「ていうか、母さんは?」
「ああ、奏汰のお母さんなら、お買い物行くって。その間、奏汰のこと見てて欲しいって、頼まれて私。家に上げてくれて。それから…そしたら…」
わーっ、わーっ…!!
内心で叫び声を上げて、思い出しそうになった彼の姿を追い散らす。
ダメだ、なんとか話題を変えないと。今の事とかじゃなくて、何か、全然関係ないやつが良い。
焦る美優の目に止まったのは、ベッドの上に転がっているゲーム機だった。
あれなら私の家にもあるし、入ってるゲーム次第では二人で遊べるかも知れない。
「奏汰っ、アレやろ。何か、二人で出来るのある?」
「え、ああ。レースゲームとか、大丈夫?」
「お、お手柔らかに…おねがい、ね?」
「あ、うん…」
ていうかもう何でも良かった。苦手とか言ってられない。
頭の中に焼き付いたモノを忘れる為には、他の何かに集中するしかなかった。
****
ゲーム機の電源を入れた奏汰は、美優をベッドの上に誘うと、二人並んでレースを始めていた。
「意外と、上手いんだな?」
「そう…かな? あっ、もうっ! なんで邪魔するのっ!!」
「いや、そういうゲームだし。俺だって、負けたくはないしさ…一応」
最初の方こそ焦ってはいたけれど、一度コースを覚えた美優は、周回を重ねる毎にテンポを上げていった。右へ、左へ、美優の体が揺れ動く。ゲームに集中している美優は、まるで気づいていない。
携帯用の小さな画面だ。どうしたって二人の距離は近くなる。
リビングに降りて大きな画面でプレイすることも出来たけれど、奏汰はあえて口にはしなかった。
こつん、こつん。
カーブに差し掛かる度、美優の肩が当たっていた。今は、その距離感が心地良い。むぅっと、膨らむ頬にすら見惚れてしまう。負け越すたびに「もう一回」とせがまれて、ムキになっていく美優を、ずっと見ていたいと思う。
「あっ…またっ。意地悪してっ…ぅぅっ」
ちょっとやりすぎただろうか。
膨れた頬から空気が抜けて、少し鼻声になったような気がした。
そろそろ、手加減をするべきか。
悩み始めた奏汰の指は、次の瞬間、美優の呟きで止まってしまった。
「…奏くん」
ぷすっと、いじけたような一言。BGMに紛れた美優の声。一瞬、聞き漏らしてしまいそうにもなったが、聞き慣れたあだ名につられて、奏汰は顔が赤くなるのを止められない。
「は?」
「家じゃ、そう呼ばれてるんだね? 奏くん♪」
続いて、からかうように声音が変わる。
「ちょっ!? おまっ。どこで、それっ…」
「お母さんが言ってたよ。「奏くん」って、私も呼んでいい?」
「だめに決まってっ!」
「いまだっ!」
「あ、おいっ、ずるっ、おまっ、美優っ!!」
盤外戦術だった。
母親しか呼ばないようあだ名。普段は気にもしないのに、それを美優に呼ばれた瞬間、手元が狂う。ゴール前の僅差で、そのミスは致命的だった。
「やったーっ♪ 奏汰にかったー♪」
両手を上げての大歓声。あんまりの喜びようは、手元のコントローラーすらぶん投げそうな勢いだ。
「ねぇっ、ねぇっ♪ 見た? 奏汰? 私、一番だよっ! 奏汰に勝っちゃった、ね? 凄い?」
俺の服を引っ張って、ついには、ぎゅぅって抱きついてきて。
まぁ、でもそうだよな。
性格的に、順位を競うゲームは苦手だろうし。
まして、それで一番になった事なんか無かったはずだ。初めての一等賞。そう思えば、美優のはしゃぎようも微笑ましい。本当なら、一緒に喜んでやりたいんだけど。
美優の体に、異性を感じてしまった。
昨夜の夢の内容が脳裏を過ぎり、体の奥がむず痒くなってくる。
羞恥心と、罪悪感に胸が締め付けられる。肩が当たる程度なら、まだ微笑ましい。けれど、無防備に抱きついてくる美優の姿に、夢の続きを期待せずにはいられない。
ダメだ。
手が出そうになるのをぐっと耐える。
美優の信頼を裏切れない。俺になら大丈夫だって、そう思ってくれてる筈だから。今日一日で、美優のいろんな顔を見た。いつも柔らかい笑みを浮かべる彼女の、はしゃいだ笑顔。いじけて、ムキになって、ムスッとする。かと思えば、悪戯に微笑んで。
コロコロ変わる表情は、子供みたいだ。
二人っきりでいることに、すっかり安心した美優は、俺に甘えてくれている。
だから、ダメだ。
「美優…ごめん。ちょっと離れて…」
下心を知られたくなかった。もっと彼女に触れてみたいと、やましい気持ちに蓋をする。離れていく温もりが、名残惜しい。美優の肩を押し返し、できるだけ優しく遠ざけた。
「ぇ? あっ…!? ぅ、うん」
少し、寂しそうに。少し、不安そうに。
俺に遠ざけられた美優は、表情を曇らせた。
羞恥心に染まった頬。はしゃいでしまった自分を恥じ入る反面、その指先は、俺の襟元を掴んだまま離さない。
「美優?」
「…」
呼びかけて、でも返事はない。
真っ赤になったまま俯いて、美優の手にしていたコントローラーが、指の隙間から零れ落ちる。
「ねぇ、奏汰?」
漏れる吐息が、なんだか熱っぽかった。
顔を上げた美優は、離れるどころか、俺の方へと寄りかかってくる。
見つめ合っている間、呼吸すらも忘れていた。少しだけ、俺の方へと顔を寄せた美優は、ゆっくりと、瞼を閉じた。
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