「あ、あのっ! 今日は本当にありがとうございました……先生……!」
日も暮れた夕方ごろ。空の明るさに照らされていた町並みは、だんだんと乱立する市街の建築物による人工的な光に主役を明け渡していく。
とろい足取りで道を歩きながら、スマホを片手に通話中の相手と言葉を交わしていく少女――アオバは、早めの夕食をごちそうしてくれた青年に対し、感謝の念を向けながら帰路についていた。
『構わないよ。私としてもたまには手早く済ますインスタントよりも手の込んだ料理を口にしたかったからね。こういった形でしか、滅多に外食しないからさ、私』
「そ、そうなんですね……確かに、先生っていっつもお忙しそうですもんね……」
『あはは……アオバほどじゃないよ。私もキミくらい頑張れれば良かったんだけれどね』
電話向こうにいる声の主と言葉を交わし、アオバの表情に曇りが立ち込める。
通話先から聞こえてくる青年の声が、どこか自信を感じさせない声色を思わせた。彼のような各学園の問題を解決し、時にはキヴォトス各地で起きている不良たちの鎮圧にあたってきた功績を残してきた。
誰もが尊敬し、誰もが一目置く名のある存在。光の射す表舞台に立ちながら、ハイランダーの幹部なんて目じゃないほどの上層的な存在にすら目をかけられている大人の男。
だからこそ、思ってしまう。そんな有名な人が、こんな木っ端生徒に対してご飯をおごってくれるなんて。今でもこうしているだけで、夢だと思ってしまうほどに、驚いてしまうのだ。
頼りなさげに感じられていた青年の言葉に耳を傾けながら、歩みを止めていなかった足取りがその場でぴたりと止まった。
市街地にある道路、通行人にぶつからないように壁際に体を寄せて。建物と建物の隙間に入り込みながら、言葉だけを彼に捧げてあげた。
「……先生。その、私なんかが偉そうなことを言える立場じゃないって言うのはわかっているんです……いるんです、がっ……!」
『……? アオバ?』
ごくりとアオバの喉が鳴る。その先の言葉へと踏み切るために、勇気を出して。
「……私、ここの所……笑えるようになったなって思うんです。前までは、明日なんて来なければいいのにっていつもいつもそう考えていて……でも、先生が傍にいてくれたから、何が来るかわからない明日よりも今日を楽しもうって……そう思えるようになったんです」
『……アオバ』
「だから……あの、私がこんなことを言うのもなんですけど……何かあったら、相談、してください。私なんかで、よければ……ですけど……」
張りつめていた声が空気をしぼませるように小さくなっていく。発言しようとした決意は気持ちと共に折れていくみたいで、最後のところは口ごもるみたいな感じになってしまった。
けれど、電話口の向こうからはどこか力の入ってない微笑が聞こえた。そんな気がした。
「……また、明日も食事に付き合ってもらえるかな。明日の目標があれば、明日も頑張れる気がするからさ」
「っ……! は、はい! 私でよければ……!」
影を射していた声色が、明るさを取り戻したように告げてくれる。最後の言葉に『それじゃあ』と付け加えて、二人の会話は終わった。
「……また、明日かぁ……ふふっ……」
手に持ったスマホを眺めながら、通話先の履歴を目にしてアオバは微笑んだ。
ずっと、明日が来ることが怖かった。鈍色の視界に映るだけの、何ら味気のない毎日を送っていくためだけの人生だった。
だけど、先生が変えてくれたのだ。味気のない、ただ歩き続けるだけの不毛な毎日に、ほんの一粒の幸せをかみしめる楽しみを教えてくれたのだ。
「……ふふっ。はやく明日がこないかなぁ……」
手に持ったスマホを懐に仕舞っていく。気持ちを向けてくれた青年との明日を待ちわびながら、アオバは帰路につこうとして――
「お、みーつけた!」
誰かに声をかけられた途端、アオバの記憶はそこでぷっつりと途絶えた。
※
ルーティン、というモノがある。一種の手順、ちょっとした癖、自分の中で出来上がっている基本のためのサイクルやプロセスといった物は誰にでもあるはずだ。いわゆる、『特にやる必要はないんだけれども、やっておかなきゃいけないちょっとしたまじない』みたいなものである。
横断歩道にある白線だけを歩かなければいけない。道端の色付きタイルだけを踏まなければいけない。各々が持つクセのようなもの、そういった物は誰にでもあるはずなのだと、キヴォトスの市街地を足早に歩いていく少年は、自身の脳内で思い描いていた。
陽も沈み、キヴォトスに夜がやってくる。
暗闇が広がる空の下、人工物の光によって満たされた市街地は煌びやかな喧騒に包まれていた。多くの一般市民が、この日の疲れを癒すために各々の時間を過ごし、一部の生徒たちの中には不良を交えたうえで昼とは違う形で青春を謳歌している。
溢れる人ごみの中、自分の中にある『ルーティン』をこなしていない少年も同じであった。やる必要はないけれど、やってないのだから何かスッキリしていない。自分の中にあるクセが、さながらソーシャルゲームのログインボーナスを取り損ねたむず痒さを残していた。
表通りの道を歩き続け、段々と薄暗い裏路地へと入っていく。人波の喧騒が届かぬ場所を目指して歩いていこうとし、たどり着いた場所が薄汚い廃ビル。およそ、若々しい少年には似つかわしい場所であるのに、彼の姿はビルの中へと消えていった。
「……ふぅ~……よっ、元気にしてたかよ。根暗ちゃん」
部屋の壁にかけられているモノに対し、少年は明るそうに、気安い返事を『彼女』に向けた。
話しかける。人に対して取り扱うコミュニケーションの手段である、口から発せられる言葉による意思を伝える伝達方法。人間社会においては決して書かせることのできない、重要な手段であり、生まれたばかりの赤ん坊ですら泣き声という形で親に自分の意思を伝えられる。
人が社会の中で生きる上で、話しかけることの重要性を説く必要はまずない。持って当たり前、出来て当たり前。人が人に話しかける際に、大事な手段であり、関係性を構築していくうえでの重要なプロセスなのだから。
ゆえに、少年の言葉には『言葉』が込められていても『会話』は入っていなかった。壁にかけられているソレに、人としての意識を向けてはいなかった。
「ォ゛っ、ごぉっ゛……ォ゛っ! ぐ、ぉ、ぉォォォ゛っ……!!!」
「……んー、だいぶまいっちゃってるな……どうするー? 縄のほうを緩めとこうか?」
何の気なしに話しかける少年の、フランクな言葉が壁にかけられている者――『物』に向けられる。
ソレは、人としての、少女としての愛らしさと可愛らしさがどこにも残っていなかった。裸にひん剥かれた少女の裸体に、無数の傷跡が痛々しく刻まれてしまっている。無防備にも赤々とした幾線が残るその身を、隠すことも許されず、天井から垂らされている縄で縛り上げられながら吊るされている状態だった。
まるで、サンドバッグ。吊り下げられた少女の体に刻まれた青あざが、血のにじむ鮮やかさで彩られている。遠慮も配慮もない、渾身の拳を叩き込まれたのは明白だった。
「ぐ、っぐひぃ゛っ……!! ぁ、んぃっ゛……お、おろ、っじでっ゛……!!」
「ん~~、降ろしてって言われてもな。そういうわけにはいかねんだよ。だってさ、こっちはこっちで毎朝の習慣ってもんがあるからさ」
「な、なにぃ゛っで゛っ……?」
身動きの取れない物が――アオバが、目の前の少年に疑問を投げかけた。それを聞く資格が、彼女にはあった。
帰路についていた所に、きゅうに攫われた。その時に、この場に連れ込まれてからは理解できない情報が一気に押し寄せてきたのだ。
廃ビルに連れて込まれてから、いきなり顔を殴られた。頑丈なキヴォトスの生徒であろうとも、同じキヴォトスの生徒であれば傷は付けられる。ましてや、女子に比べて頑丈な男子の肉体の差なんて、それこそアオバなんて貧弱なもやしでしかない。
そんな年ごろの男子の拳が、気弱なアオバの顔にいくつも殴りつけられた。容赦ない暴力の嵐が、性格を現したようなたれ目が瞼を腫れあがらせて開かなくなり、口元も歯がいくつか折れてしまうほどに血が流れてしまっている。夕方ごろの、そこそこに整っていたと自分で思っていた彼女の顔立ちは、このビルに来てから二目で見ることも出来ないほどに無惨にも殴り潰されてしまった。
鼻が熱い、口の中がちりちりして痛い。先生にごちそうしてもらった夕ご飯の味なんて、殴られた拍子に舌を噛んだ瞬間から消え失せていた。
「ひゃ、ひゃんでっ゛……!! わ、わらひっ……なに、なにが、しまひた、かっ……!?」
「……んー……まだわかんないかぁ。んじゃ……」
呆れるようなため息を吐き、少年が拳を構え始める。
びくりと、アオバの体がビクつく。これから起きることが脳裏に浮かぶが、逃げることも防ぐことも、今のアオバには出来ない。
「ひっ、ひっ……っ゛!! ひゃ、ひゃめっ゛……! ひゃめ、ひゃめでっ……!!」
「せぇ~~~……のっとぉっ!!」
空を切る音が、びゅんっと鳴る。人一倍大きな音が、肉を叩く乾いた音と共に室内に鳴り響いた。
音を立てた場所は、もちろんアオバの顔面。軽快な破壊の音が、少女の鼻筋にめがけて拳が沈む。鼻先がくしゃりと潰れ、ナカから押しつぶした風船の如く、ぷしゃっと二つの穴から血が噴出。歯の隙間から零れる悲鳴が、口元から溢れた。
「ッッッ゛~~~~~~っっ゛!! ぷ、ぅぅうぅう゛~~~~~~っ゛!!!!」
「オ~~~! 結構、良い音だせるねぇ! いいよいいよ! んじゃ、もっかいいこっか!」
「んぶっ゛!? んひゃめっ゛! ひゃめっ゛! ひゃめ、ッでぇ゛!!」
殴り潰されて溢れた血が、口の中にたまる。上あごや細かい所に入り込み、うまく舌は回らない物のそれらしい単語を連ねることは出来た、が、それだけである。
目の前で立っている少年が、再び構える。その拳を握りしめ、目の前のアオバにめがけて拳を叩き込もうとする準備をすでに終えていた。
再び、空を切る様に拳が放たれた。吊り下げられているサンドバッグに、渾身の一撃が沈む。
「ぼぎょぉぉお゛っ゛!?? ぼ、ッぎょぉぉ゛ォおお゛っ!!」
くぐもった音が、口元の血と共に吐き出されていく。顔に広がる痛みを、精一杯伝えるために。
再び、拳が空を切る。目元にめがけて、潰す。
「ふぎ、ィああぁあああ゛っ゛!!!」
再び、拳が空を切る。豚の如く潰れた鼻筋にめがけて、殴り潰す。
「ふ゛、ごぉぉおおぉぉ゛ォお゛っ!!? ォ゛! オ゛ぉおっ゛!!」
再び、拳が空を切る。勢いづいて閉ざされた口元が、噛んだ舌に再び傷跡を残す。
「ッぎょぉぉお゛おおおお゛っ!!! ぎょっ、おおおおぉぉおっ゛!!!」
目元を、鼻を、口元を。あどけない顔だちをしていたアオバの顔が、青あざと血にまみれた凹凸のある岩肌のように見るに堪えぬ物へと変貌させられていく。
先ほどまでの目元が開かず、血まみれの口よりももっと酷い。無様に殴り潰された顔立ちは、少なくとも長い間表で歩くことなんて不可能なほどに乱されてしまった。
殴るだけ殴り、満足気に少年はため息を零した。目の前にある光景を眺めて、満足気な表情を浮かべる。丹念にこね回した餅のように殴りつけられたアオバの顔を、自身が作り上げた芸術品のようにまじまじと見つめていた。
「……ふぅーん。ま、いい感じじゃない。こっから仕上げて――」
「――な、っで……ご、んなごどっ……」
ぴたりと、少年の動きが止まった。
壁にかけられている歪なオブジェが、ヒクつきながら少年をにらんでいる。潰れた目元から涙を流している。溢れた流血を止められないまま、どうしてこのような事をするのかと、訴えかけてきている。
「な゛、なに゛っがっ゛……も、もぐ、れぎ、なんれ、ずがっ゛……!! ど、じでっ゛……!! ど、ぢでっ……!!」
「……んー……まぁ、ね。言っちゃなんだけどさ、キミが悪いんだよ。内海さん」
疑問を投げていく中で、少年のがアオバの名字を読み上げた。それを耳にした途端、ぐちゃぐちゃに潰されていた彼女の表情が、無様なりにも驚きの表情を浮かべた。
「わ、わだ、じのこど……じっで……?」
「うん、知ってる。たまーにさ、通学路でキミのことを見かけていたんだよね。ハイランダーの子で、いっつも暗そうだなーって覚えてたんだよ」
思い出すようにして語り掛けてくる少年の姿に、アオバは疑問の言葉を脳裏に浮かばせた。つまり、この少年は自分と顔見知りなのか、と。
「な、なにが、も、もぐでぎ、でっ……」
「いや、そんな大したことじゃないんだよ。たださ、ほら。キミってさ、ここの所調子に乗ってたじゃん? 内海さんの分際でさ」
「――………………ぁ、え……?」
内海さんの分際で。この言葉を耳にした途端、アオバの体がぴくりと硬くなった。
「俺さ、毎朝毎朝キミを見ていると元気がもらえるんだよ。こんなしょうもねぇド底辺がいてくれればさ、見ているだけで元気になれるなぁって思ってさ。先生にあってからだよね、キミが元気になったのって」
少年がつらつらと語った内容は、しっかりと当たっていた。
アオバは、先生に出会ってから明日に対して希望を持てるようになっていた。こんな自分でも、しっかりと前を向けばいいことがあるんだと、そう思いながら、願いながら。
「それからだよ。キミが前向きになってからさ、すっごい損しているんだよね。世の中さ、キミみたいなどうしようもないゴミクズを見て楽しむ人種がいるわけ。それをさ、なに前向きになってるわけ? 何やっても出来もしない屑なんだからさ、身の程をわきまえてくれよ、なぁ?」
身勝手。彼の言葉を、一言で表すのならばこれだけだろう。ただ一人の少女に対し、自分の身勝手な理由と都合でアオバに消えることのない傷を残そうとしている。
少年自身の身勝手な都合が言葉で並べられていく中、逞しい男の指先が伸ばされていく。触れた物は、アオバの頭髪だった。
ふわふわとカールのかかった髪の毛が、逞しい指先によって掴みかかられていく。力が込められている感触が、毛髪の根元からも感じられた。
ぎりりと……力を込めて、引っ張られていく。痛みを伴った、ちぎれるような感触。神経を無理やり引っこ抜かれるような痛みが、アオバの頭に広がっていって――
「な、ぎひぃぃいい゛っ……!! な、ひゃ、ひゃめっ゛……! ひゃめ、えぇええっ……!!」
「ま、そういうわけだからさ。とっとと、身の程に合わせた姿になってくれよっ……なっと!!」
――ぎ、りりりりっ……ぶっ…………づんっ……!!
「ンぎぃぃいいい゛ィィイ゛っっ゛!!! ぎぃ゛ぃぃぃぃぃぃぃぃ゛っっ゛!!!」
指先に髪の毛を絡めて、根元から一気に毟り上げていく。細い神経が通った鋭い痛みが迸り、アオバの毛髪が金糸の如く舞い散った。
「っっっっっだぁぁぁぁあぁ゛っっ゛!!! いぢゃぁぁあぁぁぁぁぁぁぁっ゛!!!!」
「あーあー、うるせぇなぁ……ま、見てて面白いからいいんだけどさ。ほれ、もっとキッツイのいくぞー?」
※
「いやぁ~、良い感じになってくれたよな! これで満足だよ、ほんと!」
廃ビルの目の前にて。二人の男女がその場で立っていた。
すっきりとした顔立ちの少年は、一つの仕事をやり遂げた表情で額の汗を拭っている。自分の中にある心のしこりを取り除き、目の前の仕事の成果を満足気に眺めていた。
「ぁ゛……りがと、ござ、まひ゛ゅ……」
ズタボロの顔立ちをした少女が、少年に見下ろされる形で立ち尽くしていた。でこぼこになるまで殴りつけられた顔、丸裸にされたかのような青あざと血まみれの頭部。素手無理やり引きちぎられたがために、所々毛髪が残っているのはあまりにも悲惨の一言。
さながら品質の悪いジャガイモのごとく頭部をしたアオバには、もはや夕方ごろの面影はどこにも残っていない。
口の中が、擦り切れて潰されて痛い。言葉を紡ぐのすら難しい彼女の口先は、自分の顔を使って遊んでくれた少年に感謝の念を捧げた。
「んじゃ、これでもう俺は帰るからさ。これからはちゃんと自分の身の程をわきまえて生きていってくれよな! ゴミカス!」
与えられたおもちゃを全力で楽しんだかのように、少年はアオバに背中を向けて去っていった。
遊び尽くした彼女に対し、背中を向けて手を振る。それだけ。今後の生活において、表通りを歩くことすら困難になってしまった彼女に対し、なんら感情を向けることなく、一度も視線を向けることもない。
立ち尽くしたアオバは、その場から動くことをしなかった。呆然として、立ったままであった。
彼の姿を見送った後、アオバは……泣いていた。ずっと、ずっと。潰れた目の方で泣いていた。