天国に来てから数ヶ月、いろいろなことがあった。
なろう小説よろしく上手くいっていない人生の途中で突然轢かれて死んだ俺は、死後しばらくの間状況に気づかないまま、天使の
天国とは、最大で地球一つ分の範囲を貸し出される、あらゆる望みが叶う箱庭的な空間である。前世の行いにせよ性根にせよ、とにかくありとあらゆる善悪に左右されず、全ての人間が死後、その天国を支給される。いわくそれは神からの、人間という手に負えなくなった存在に対する贖罪であるらしい。
ともかくそんな夢の箱庭を支給されるからには、死者の選ぶ道は大きく二つに分けられる。天国を得る権利と共に自分自身としての意識を永久に手放して、輪廻転生の輪に組み込まれるか。それとも、全ての望みが叶う空間で幸せを追求するか。
言葉だけで聞けば、大抵の人が後者を選びそうなものだけれど、実際に幸せを追求することはそれほど簡単ではない。たとえば天国では望めば当然、労働からも永久に解放されるけれど、そんな世界を控えた状態でそれを知らされず、右も左も分からないままにバイトをさせられていた俺は一度、輪上さんに物申した。何のためにこんなことをさせるのかと。
すると彼女からの答えはこうだった。
「働くことに慣れずに労働から解放された天国に行けば、労働から解放された君は一生働かないまま、労働へのコンプレックスを抱えながら生きていくでしょう」
……そう、すでにままならない現世で出来上がってしまった人間が完璧な幸せを手にすることは、思っているよりも遥かに難しい。俺はバイトごっこを通じてそれを実感した。そしてだからこそ、どんな手を使ってでもそれを実現すると決めた。
決意を胸に、天国に来てから約半年。中学時代から人生をやり直している俺の前には、合唱祭の三文字がついに立ちはだかる。
天国ではほぼ全ての人物がサキュバスに置き換わっている。
両親、弟、祖父母、顔を知ってる友人、顔を知らない友人、学校の先生、クラスメイト、近所の様々の店の店員、各種の公共交通機関の運転手、あらゆる通行人、隣の家の夫婦に子ども、テレビで見る芸能人、その他諸々。とにかく他人の全員が全員、魅力的な女性の見た目をした不死身の異種族「サキュバス」に置き換わっている。
俺の幸福追求作戦の核がそれなのだ。ままならない現世に塗り固められた人間が思うように幸せになれないなら、人生をやり直せばいい。しかしただやり直すだけでは同じ轍を踏むだけだから、「理想の二周目」を歩むためには特別な何かが必要になる。
そこで俺が考えたのが美少女作戦。この世の全ての他人がこちらに好意増し増しの美少女なら、世の中の嫌な部分も全て霞むのではないかというアプローチ。そしてその作戦に、天国の受付にいた天使からのアドバイスに従って「サキュバス」という要素も付け加えた結果、俺の天国はそのようになった。
置き換わるという仕様上、現世に居た人物は誰一人として天国には存在しない。家族も別人、仲の良かった同級生も別人、恩人の先生もお気に入りの芸能人も別人。自分を芯から不幸にする要因が具体的にどこにあったのかが分からないから、まずは人物を片っ端からの総とっかえにするしかなかった。そしてそれを実現して真っ先に感じたものは、一抹の寂しさと、それを一瞬で霞ませる快適さだった。
天国の中学校に登校した初日、俺はクラスメイトとセックスした。元々童貞ではなかったから世界が変わるほどの衝撃を受けはしなかったけど、校舎の中でセックスをしたのはさすがに初めてだった。……いろいろと流れがあったのだ。
生前の中学時代の俺は半不登校だった。引きこもっているとまでは言えないかわりに莫大な欠席数があった。けれど行事には基本的に参加していた記憶がある。体育祭や修学旅行、職場体験、それに卒業式。もちろん入学式もきちんと出席した。が、入学式に関してはこれといった印象が残っていない。だから幸福追求のために人生をやり直すに際して、中学時代の二週目を律儀に入学式から始める必要はないと考えた。やり直す必要があるのは、授業への苦手意識が本格化し始める頃からだと考えたのだ。
それを踏まえた天国初日、クラスメイトは初対面の時点で全員とも、ある程度の知り合いということになっていた。
この「初対面」というのは、現世での意味合いとは少し異なる。サキュバスに置き換わった別人たるクラスメイトに実際に対面したことはそれが初めてだったけれど、俺の脳にはあらかじめ、彼女らの人となりが思い出じみて刻み込まれていた。「天国ではあらゆる望みが叶う」。初対面であることと最低限の親しみを持ち合わせていること、その二つを両立させるという望みもまた、当然のように叶うのだ。
全てのサキュバスが俺への好意に満ちているという仕様も、おそらくは似たような仕組みで実現しているのだろう。初めて会うクラスメイトの誰しもが「はじめまして」という感じではなかった。目が合えば誰しもが、何なら小学校からの付き合いかと思うほど気さくに話しかけてくる具合だった。
そしてそのうちの一人と放課後の校舎にて、誘われるがままに何だかセックスをすることになったのである。その時になって気づいたのだけれど、性行為に一切の抵抗をもたないサキュバスという種族が世間を埋め尽くすと、公共の場でのセックスを咎める人物がこの世にいなくなってしまうのだ。
もちろん授業中に行為に及べば、真面目に授業を受けなさいと叱られるのだろうけど。つまるところこの天国におけるセックスは、声量大きめのお喋りに相当する物なのだと思われる。校舎内でのそれだっておそらくは、あまりに遅い時間にしていれば「下校時刻ですよ」と叱られるだろう。逆に言えばそれ以上の扱いをされることはないし、それ以下の扱いをされることもない。
生前とは世界観が違いすぎて、まるで二度目の童貞を卒業した気分だった。俺はこれを天国童貞の卒業と呼んでいる! と輪上さんに話した際には、初日からセックスをしたことまで含めて呆れられたけれど。
……そう、天国と三途の川の間のような空間でお世話になった天使の輪上さんは、この天国の中にも居る。ただしそれは本人ではなく、多忙な本人に代わって召喚されたクローンだけれど。
「思ってた美少女まみれライフと違ったなぁ」
天国童貞を卒業した俺に輪上さんがかけた言葉はそれだった。正直、俺も同じ感想を抱いていた。
美少女にちやほやされることで悪感情のすべてをうやむやにする作戦ではあったけれど、「ちやほや」がここまで即物的な物であるとは思わなかった。セックスに簡単にありつけることがあるとしても、それはせめて恋愛的なお付き合いを経由してのことになるのだろうと、それが当然だろうと思い込んでいた。しかしいざ実装されたサキュバスの実態はその斜め上を行っていた。
輪上さんが苦笑いするのも分かる。俺だって同じだ。けれど、好意的な美少女からそういう行為を迫られて、しかも「相手はそういう種族なのだ」ということまで分かっていて、なのにあえて誘いを断固拒否するという男はそうそういないだろう。
それに、生前の俺なら、仮にヤらせてくれるクラスメイトの一人や二人がいたところで、お構い無しに半不登校を続けていた気がする。天国での俺の目標は「トラウマ潰しの皆勤賞」なのだから、天国童貞の卒業は、その意味ではまだ最初の一歩に過ぎない。
……と新人気分でいたのが数ヶ月前のこと。現在の俺は刻一刻と、「性的関係を持ったことのないクラスメイトの方が珍しい状態」へと近づいていた。
幸いにもその環境は、言うまでもないことかもしれないが、まぁすこぶる快適である。何か少しでも困ったことが起きれば、それを察知したクラスメイトの誰かしらが救援に駆けつけてくれるし、先生たち(これももちろんサキュバス)も専属かというほど親身に接してくれて、登校するたびに世界が自分中心に回っている感覚に陥る。……というか実際、その通りなのだけれど。俺の天国は俺を中心に回っている。
将来の自分像を紙粘土で作る授業には、我ながらの力作「シャドウ・ヒャクガッエン・百合園」を提出し、難なく受理された。今は美術室の後方にクラスメイトの作品共々それが飾られている。意外だったのは、角を生やしたヒャクガッエンとネタ被りした作品、アイドル衣装を身にまとう巨大な角の生えた美少女像「パンドラ・シャドウアビス」が提出されていたことだけれど。
サキュバスには日本人風の名前とサキュバスとしての名前がどちらもある。パンドラの提出者、山田真緒ことヨマイユ・アマロムの作品説明文いわく、その像の表す物はVtuberであるらしい。
向こうとしても角どころかネーミングの一部までもがネタ被りしたことは意外だったらしく、山田さんとはそれを機に話すことが少し増えた。そしてそのように仲良くなった流れで、俺は彼女ともセックスした。
サキュバスの下腹部には淫紋がある。事の最中、それを見下ろしながら思った。
もしも生前の世界にサキュバスがいて、人間社会で共存していたなら。こんなに簡単に体を許してくれることが秘密にすらなっていないサキュバスという種族がアイドルをするには、きっと正体を隠さなければならなかっただろう。そうするとヘソ出しの衣装なんかは着られなくなる。けれどパンドラ・シャドウアビスの衣装はヘソ出しだった。天国は人の数だけあり、サキュバスが居るのがここだけとは限らない。Vtuberという媒体がサキュバスのアイドル活動手段として一役買うような世界線も、どこかには実在しているのかもしれない。
ともかくそういうわけで、俺が長年抱えていた「将来の自分像と、紙粘土」に対するトラウマは、首尾よくうやむやになった。作戦は幸先よく成功したのだ。
輪上さんは天使だから、超常的な力でいろいろなことを知っている。他人のプライバシーへ配慮する気持ちは人一倍ある彼女だけれど、その「配慮」とは「態度」の話であって、俺がどこで何をしているのかの全ては、実際のところ彼女にまったく筒抜けなのだと思われる。ただ輪上さんはそれについて、全力で知らないふりをしてくれるというだけで。
けれど俺は天国での生活を続けるうち、だんだんとその構図に不便を感じつつあった。無力な人間だった生前ならプライバシーの侵害に怯え、そこに配慮してくれる天使の姿勢に感謝することもあったのだろうけど、「無力な」という前提が消えれば話も変わってくる。
俺は輪上さんに、知らないふりはしなくてもいいと伝えた。ただしそのかわり、百合園翔にまつわる輪上さんの記憶のうち、俺の望んだ範囲に限っては俺の権限でいつでも消去してしまえることを容認する……という約束をした。もちろん記憶消去云々はあくまでもセーフティの話であって、よほどのことがなければ実際に発動するつもりはない。
輪上さんはその約束をあっさりと受け入れてくれた。そしてある日の登校中、意地悪な笑みを浮かべて言った。
「百合園くんさぁ、今までセックスした相手の名前ってちゃんと全員覚えてる?」
「えっ」
嫌なところを突いてくるなぁと思った。輪上さんは素で完璧に覚えているのだろうけど……。俺にはまず生前のクラスメイトの名前を空で全員分は思い出せない程度の記憶力しかない。
「天国のってことですよね。まず最初の相楽さんでしょ。間戸さん、瀬尾さん、山田さん、横峰さん、あと小川先生と中谷先生と……。……じゃないですか?」
「矢野さんが抜けてる」
「あっ! いやめちゃくちゃ覚えてますよ、あの、眼鏡を外してほしいっていうと不服そうにする」
「合ってるけどねー」
一度で完答できなかったことに対してジト目が寄越される。おまけにそういえば輪上さんも眼鏡をかけているから、そのジト目はレンズ越しに寄越される。
俺は居心地の悪さと共に、生前のいつだったかに見た「ルフィって、仲間の名前は加入順にしか思い出せなさそう」という話を思い出した。シャッフルして答えろと言われれば自分もさらにまずい結果になりかねない。
記憶力の悪さは、生前の様々なトラウマを思い出させる要因にもなる。仕事でも日常生活でも、ただ記憶力が悪いというだけで人に迷惑をかけてしまった経験がポツポツとある。「あとで○○しといてね」系とは特に相性が悪い。それから、人の誕生日を祝うことだとか……。
つまり輪上さんは、すべてのトラウマをうやむやにする俺の作戦において、セックスが手段として完璧ではないことに気づいているのだ。
けれど、完璧な記憶力を「天国に望む」ことで手に入れる選択肢はありえない。その選択肢が有りなら労働に対するコンプレックスだってロボトミー的に取り除けるけれど、それをすると今度は「外科的な手段でしか救えなかった」という事実にコンプレックスが残る。ならばロボトミー関連の記憶の根こそぎの消去をあらかじめ予約しておく……という手もあるけれど、それは本当の最終手段だ。俺という人間が消滅したあとそっくりさんが代わりに生きることとそれとの区別が、自分には今のところ見出せないから。
天国で目指す物を厳密にいうなら、それは単なる完璧な幸福ではなく、「連続性の中で完璧な幸福を手に入れたという実感を得ること」になる。
平たく言うと、俺は俺の脳をいじる以外の方法で天国を享受しなければならない。その都合上、肉体関係をもった相手の名前を覚えることの難は、「生前にはなかった」という意味で一層象徴的なハードルと化している。
輪上さんはいつも、俺が俺にとってのハードルを前にするとどこか胸を躍らせる。俺がそれをどう乗り越えるつもりなのか、アニメの次回予告を見るようなテンションで聞いてくる。今回もそれは同じだった。
「それで、女の子の名前を覚えなくても幸せになる方法には、どんな物があると思う?」
「覚えてなかったり間違えたりしても怒らない子だけでこの世を埋め尽くすとか?」
「百合園くんはそれでも自己嫌悪しちゃうタイプでしょ」
「そうなんですよねー……」
そういう弱点をうっかり忘れないための、見ないふりをしないための、輪上さんでもある。
俺は歩きながらしばらく考えた。考えて、考えて、しかし一つの仮説にも思い至らないまま、校門をくぐってしまった。
ちょうど話題に出ていた眼鏡っ娘の矢野さんが、自分の靴箱から上履きを落としつつ、おはようと声をかけてくる。俺は彼女の、脱ぐと思ったより大きい胸に視線を引き寄せられないよう気をつけながら、おはようと返して、ついでに決めた。
「輪上さん、分かりました」
「おお?」
「名前の件に関しては、今後の人生の課題にします」
「えぇ」
「だってほら。美少女まみれなのは、中学だけの話じゃないですし。焦ることないかなって」
「あー。それは確かにそうかも」
生前の中学時代のトラウマは全て、天国の中学時代が終わる前に克服しなければならない。けれど生前に存在しなかった問題なら、解決はべつにいつになってもいい。俺はこの好意全開な美少女まみれの世界で、将来を見据えて問題を保留した。
ちなみに享年26歳が何のためらいもなく中学生とセックスしていることについては、自身の体と肩書きが中学生に戻っていることに加えて、サキュバスという生物の容姿に一定以上の老いがない性質が関係している。
そもそもサキュバスは人間と寿命の長さが違うため、年齢三桁の人とクラスメイトの見た目の若さが変わらないことも茶飯事だ。そんな世界で中学生として生きるにあたって、どうやって未成年とのセックスに躊躇いを感じろというのか? 自分の母親のポジションに収まっているサキュバスですらクラスメイトと似たような見た目をしているというのに。
……これについては俺が心からそう思えることが幸いなのかもしれない。事実に沿った肩書きが(そして人間的な価値基準で見た容姿が)中学生である人物とまぐわうことにどうしても抵抗がある人は、天国を別な形にすることをおすすめする。
合唱祭に至るまでの話はまだしばらく続く。
言い方を選ばずに言うと、天国で生きている限り、女に困ることはない。そして中学生として生きるに当たって、それが直接的に役立つことがある。
ある日の国語の授業のテーマはスピーチだった。そしてそのスピーチのお題は「結婚式」。新郎もしくは新婦の友人としてスピーチを披露するという設定で自分で台本を考えるところから始まるそれは、生前の中学時代に実際にあった企画だ。
俺は当時の憤りを未だ鮮やかに覚えている。その授業は隣の席の(つまり生前の世界においてもほぼ必ず異性の)結婚式に出席するというていで行われたのだ。「歳頃の男女にさせることじゃない」。憤りはこの一言に尽きる。それに隣の席の女子というのはかなりの確率で「ただ隣の席である」という以上の接点がないものだ。だからあえて正確に、こう言い替えてもいい。「歳頃の男女に強制させていいことじゃない」。
……だけど幸い天国の中学校は、すべてのクラスメイトがサキュバスで、すべてのサキュバスが俺に好意を持っていて、ただ隣の席であるというだけのことが、セックスに至る理由になったりする。そしてそれが当たり前のこととして世の中が回っている。生前の世界で新婦と肉体関係にあった男がスピーチを務めるとなれば事だけれど、天国にはもはやそういう意識すら存在しない。
歳頃の男女……なんて概念がそもそも成立しない。それが俺の天国だ。ロクに話したこともない異性とお互いの結婚式を想定して台本を相談するような気まずさはそもそも存在しない。セックスができればそのくらいの冗談も当然交わせる。半不登校をやっているような人間がそもそも結婚なんて出来るのかというツッコミ所すら存在しない。俺はずっと暫定皆勤賞を保持しているし、そうでなくても世界の全員から好かれているのだから。
結局、台本の半分くらいは隣の席の相楽さんが考えてくれた気がする。それを皆の前で読み上げることに緊張や不安はなかった。自分がホームグラウンドに居る確信があったからだ。茶化すような声があったとしても、スピーチの相方がその時どんな顔をしているのかと、不安に思うような必要は一切なかった。
その他、情けない話で、人生二周目であっても自分の学業的な成績は生前と大差なかったけれど、それについて新たなコンプレックスを持ってしまうということもなかった。そもそも俺は立派な人間になるために人生をやり直しているのではなく、ただトラウマを克服するために人生をやり直しているわけで、完璧な幸福の中で再度ニートになるならそれはそれで問題はないと分かっている。ダメ人間であること自体は問題にならないと知れている分、平均点未満の答案紙を見ることにも生前ほどの負い目は感じなかった。
ただ、漢字の小テストで間違えた物はノートに10回書いて提出するようにと言われた時はトラウマが蘇りかけた。俺は文字を書くことがそもそも苦手で遅いのだ。けれどそれだって、「私もそれやらないとだから一緒にやろう?」と声をかけてくれるクラスメイト(サキュバス)が居るならどうってことはなかった。
その時声をかけてくれた彼女の名前は笹川美玲。またはスゼンミュー・レルネイト。地毛が輝くような銀色の、それまではまだ話したことのないクラスメイトだった。
漢字テストのペナルティ課題の共同消化は、土曜に近所の図書館で実施された。その頃にはすでに休日をクラスメイトの誰かと過ごすことも珍しくはなくなっていたけれど、笹川さんの私服姿は妙に印象に残った。私服でありながら、どこか私立校の制服のようなデザインをしていたから。
なんとなく、弱点なんか一つも持っていなさそうな人だなと思った。
「百合園くんはこういう課題やる時さ、一個一個普通に書いていく派? それとも一画ずつ工場みたいにバーッて書いちゃう?」
横長の大きなテーブルの隅で向かい合って、笹川さんが言う。館内に人はちらほらいるけれど、そのテーブルは今のところ貸切だった。
「普通に派かなぁ」
「おぉ、えらいね」
「いや、なんていうか、完成ありきなことが苦手なんだよね。普通に書いてれば仮に書ききれなくても、途中までは頑張りましたって言えるでしょ」
「あ、たしかに。そっか、バラバラに書いてたら完成するまで見せられないもんね」
「どっちにしろ完成させなきゃなんだけど、気分的にね」
と建前では言いつつ、生前は実際に「途中までは書きました」で押し通ったこともあったなぁと思い出す。いや、俺が押し通ったというよりは、単に先生が恩情をかけてくれただけなのだけど。
天国といえども図書館は、厳密に私語を禁じるとまではいかなくても、出来る限りの静寂を推奨している。それに従って、笹川さんの声は消え入りそうに小さく、それでいて妙に聞き取りやすかった。
彼女は身を乗り出して、メガホン代わりに片手を口元に添える。
「これ終わったらエッチしよっか」
「……いいの?」
また建前。本当は今日無事に合流できた時から、間違いなくそうなるだろうと確信していた。
……そう、そこまでは笹川さんも、他のサキュバスと同じだったのだ。彼女の独特な性格があらわになりはじめたのは、すべてのノルマ漢字を書き終えて、彼女に手を引かれ男子トイレに入ったあとのことだった。
全ての人物をサキュバスに置き換えた以上、天国には俺以外に男がいない。けれどあらゆる建築物には生前の世界と同じように男子トイレが用意されている。……サキュバスはそれを上手く使う。見た目が大人と変わらなくても彼女らは中学生で、サキュバスしかいない世界のラブホの受付がルール的に寛大だったとしても、そもそも中学生のお小遣いはなけなしだから。
要するに、トイレが性行為の場所に選ばれること自体は初めてではなかったし、珍しくすらなかったのだ。
「それで百合園くんは、どんなプレイが好き?」
「え。俺はなんか、なんていうか、普通の?」
「他の子とも普通にしてる?」
「それは、まぁ」
サキュバスは不貞やそれ以下の爛れを基本的に気に留めない。そういう生物……のはずだから。
サキュバスではなく天使である輪上さんを除けば、他の人との性的な関わり方について聞かれたのはそれが初めてだった。正直、焦った。笹川さんはレア個体で、サキュバスらしからぬ独占欲を持っているだとか、そういう展開があるのではないかと危ぶんだ。
けれど真相は違った。俺の天国に、俺にとって都合の悪いことはそうそう存在しないのだ。
「他の子には頼みづらいこととか、私にならしてくれてもいいけど」
「えっ」
「漢字練習がんばったご褒美。……私になら何してもいいよ?」
抱きつかんばかりの距離まで歩み寄り、髪と同じ銀色の瞳がまっすぐにこちらを見つめてくる。
そして彼女は、明らかに冗談ではないと分かる態度で言った。
「ただし、218分だけね」
「……なにって?」
「218分。百合園くんが書いた漢字の画数と同じ」
「画数……?」
あまりにも予想外の角度から来たご褒美に、俺は話の内容を理解するまでにかなりの間を要した。
テストで間違えた漢字を10回書く……というルールに則って課題をこなした結果、どうやら俺は合計で218画の線を引いたらしい。だから1画につき1分の換算で、笹川さんは今から218分の間だけ「どんなエッチでもさせてくれる」……ということらしい。
218分といえば約3時間半だ。誰も立ち入ることのない男子トイレの中で銀髪の美少女と向き合い、俺はとりあえずの感想を言う。
「……長くない?」
「余った分はまたの機会に持ち越しでもいいよ」
「えぇ」
「……迷惑だった?」
「いやそんなことはないけど。ただ……」
もしも俺が口に出すのもはばかられるような性癖を持つド変態だったなら、今頃内心で万歳三唱をしていたのだろうけど。生憎そこまでの物を隠し持ってはいない。校舎内でとっかえひっかえクラスメイトとセックスしたり、男子トイレの中で平然と性行為に及んでおいて何を言うといわれればそれまでだけれど、しかし結局それ以上の物は何もないのだ。
何でもしていいと言われると、特に「他の子に頼みづらいことでも」と付け足して言われると、これは困ってしまう。普通でいいですとは言い出しづらい。天国に都合の悪いことはないと思っていたけれど、これでもかというほどに蔓延している好意が、結果としてこのような形を成してしまうこともあるらしい。
だから俺はそれについて、言葉を濁しつつも真実を答えるしかなかった。
「……ただ、何でもしていいと言われると、逆に分からないっていうか。自分が特別何をしたいのかって、考えたことなくて。とにかくセックスができればそれで、みたいな」
「そうなの……?」
「うん」
「でも私には、百合園くんは我慢してるように見えるけどなぁ」
笹川さんの人差し指がこちらの胸をなぞる。体を二分するかのように、服越しの中心をすーっと降りていく。
「……私、百合園くんが自分から女の子を誘ってるところ、見たことない」
「そ、それは……」
それはそうするまでもない文字通りの天国が形成されているから……と内心で自慢紛いの弁明をする。けれどそれは我ながら、どこか言い訳がましかった。
我慢という言い方は正確ではない。けれど本当は、ほとんど図星だったのだと思う。俺には勇気がない。異性を遊びや、あるいは性行為に誘う勇気が? いや違う。俺にないのは……。
「……ねぇ百合園くん。218分は、持ち越してもいいし、何をしてもいいから。百合園くんが何をしたのかは、誰にも内緒にしてあげるから。……ね?」
笹川さんの銀色の瞳は、俺の心の中を読んでいるかのように見えた。
きっと天使の力がなくても、俺という人間は元々分かりやすい部類なのだろう。彼女がこちらを理解し、その上で何に誘っているのかを察すると、正直そこには大きな魅力を感じてしまった。いや、あるいはそれは、ここでその誘いに乗らなければ、新たなコンプレックスに苛まれることになるという危機感だったのかもしれない。
その日、俺と笹川さんは普通のセックスをした。要した時間は30分程度だった。残った約190分は、俺が笹川さんに何でもさせられる権利として残った。
後日、学校の昼休みにて。俺は離れた席にいる笹川さんのもとまで行き、友達とお喋りしている最中の彼女の肩を叩いて、図書館のトイレで決めた合言葉らしくもない合言葉を口にする。
「ちょっと来て」
それが、残りの持ち時間を消費する合図だった。
サキュバスだらけの教室では、百合園と複数のクラスメイト(あるいは教員)が肉体関係にあることは暗黙かつ周知の事実であって、「ちょっと来て」なんて台詞は何のカモフラージュにもならない。ではなぜそんな合言葉が決まっているのかというと、それはひとえに、「百合園が笹川に、どのように声をかけていいのかと戸惑わないため」にある。
笹川美玲は見抜いていた。
百合園翔が自ら誰かを誘うことがないのは、自身に好意をもってくれる複数人の中から、一時的にでも一人を選ぶ勇気がなかったからだと。
俺には贔屓をする勇気もなければ、当事者の前で異性の好みをさらけ出す勇気もない。だから誰も誘わないかわりに、誰の誘いも断らなかった。笹川さんはそれを見抜いていて、その殻を破るきっかけをくれたのだ。
「げほっ! げほっごほっ! …………ご、ごめん」
空き教室の床に膝をついて、フェラの終わりに精液を飲み込もうとした笹川さんが、うっかりむせて咳き込む。基本的には生まれつき性のプロフェッショナルであるはずのサキュバスにしては珍しい姿だった。
潤んだ銀の瞳に見上げられて、俺は彼女のことを不思議に思う。笹川美玲、スゼンミュー・レルネイト。彼女はいったいどういう人物なのだろう? 日本人としては現実離れした容姿に、人の心を見透かすような観察眼と行動力。漢字を文字数ではなく画数でカウントする変な律儀さに、サキュバスらしからぬ些細なミス。
あの土曜日、彼女の私服を見た時の自分の感想の不可思議さが、そのまま笹川美玲という人物の親しみやすいミステリアス感に通じている気がした。
俺はあの時どうして彼女を見て、弱点なんて一つもなさそうだと思ったのだろう? 彼女は漢字を間違えたからこそ、そこに来ていたというのに。
皆勤賞の維持は、楽勝というわけではなかった。それどころかむしろ、首の皮一枚といった方が正しい。
通信制の高卒からバイトも満足に出来ずニートになったような人間では、二周目の中学生活を送ったとして成績は何も変わらない。あの頃ちんぷんかんぷんだった勉学は今でもさっぱりで、一日六コマの体感時間は相応に長い。美少女だらけの世界が自分を中心に回っている実感と、各種のトラウマをうやむやにする達成感で初めのうちは楽しく通えていたものの、ドラマチックな克服は毎日のようにあるわけではなく、自分のような人間は結局、恵まれていることに慣れてしまう。
週五日、生活の過半数を、毎日毎日、朝は時計の針を見ながら薄らとした焦燥感に追われながら準備をして、下校すればすぐに外が暗くなり、またしても夜更けの針に薄らと追われ続ける。……天国に来て数ヶ月が過ぎる頃には、俺は快適極まる中学生活にさえ疲れていた。
皆勤賞と無遅刻無欠席は違うよなぁ、俺に後者を目指す理由はあったんだっけ……? ある平日の朝、自室の勉強机に備え付けられた回転椅子にうなだれて座りながら考えていると、いつの間にか遅刻ギリギリの時間が迫っていた。幸いにも制服に着替えてバッグの中身を揃えるところまでは済んでいたけれど、皆勤賞は無遅刻でなければならないのか? その思考に結論が出るまでは足が動く気がしない。
すると俺が奮い立つ前に、家のインターホンが鳴った。誰が来たのかは勘で分かった。
「絵瑠ちゃん来たよ」
母が呼びに来る。本当の母親とは似ても似つかない、見た目10代の母が。
重い腰を上げると、玄関の扉を開け放った向こうには輪上さんがいた。いつも通学路の途中で合流して一緒に登校する彼女は、天使の力で俺の体たらくを察知して、天使としてなのか友人としてなのか、ともかく迎えに来てくれたらしい。
「百合園くーん。皆勤賞はどうするの」
「すいません……。行きますよ」
その日はそれで登校することが出来て、遅刻もギリギリ回避できた。
次の日は一人で家を出られた。けれど、そのまた次の日は椅子の上から動けなくなった。前日の俺を見て輪上さんが「彼は立ち直ったんだ」と思っていたならがっかりするだろうなと思いながら、しかしその一方で、彼女が迎えに来てくれることで動き出せるならそれで何の問題があるのか、分からなくなっている自分もいた。
しかしその日は、輪上さんが玄関まで来てくれてもなお、俺はなぜなのか、動き出す気になれなかった。
自室まで来た制服姿の輪上さんを前に、恵まれた環境に慣れる速度が異常なものになっていることを我ながら感じた。
「百合園くん。どうしても言ってみたかった台詞があるんだけど、いいかな」
「なんですか……?」
「みんな待ってるから、学校おいでよ」
「……ふふっ」
それを「どうしても言ってみたかった」という輪上さんのセンスに、俺も笑った。
みんな待ってるからというのは、生前に聞いたならあまりにも月並みな嘘でしかない。けれどそれが天国なら真実になる。本当に「みんな」が待っている。どう足掻いても嘘になるしかないはずの台詞を真実として言えるタイミングがあったなら、それは確かに言ってみたくもなるだろう。
俺は笑った。……笑ったけれど、それで立ち上がれるわけではなかった。
みんなが待っているわけではなくても、生前の中学時代の俺にだって友達はいた。友達は俺を待っていたかもしれない。あるいは、今のように人が家まで迎えに来てくれたことだって一度や二度ではなくある。小学生の頃は近所の友達が登校がてら、中学生になってからは担任の先生が、家まで来たことがあった。……生前の俺はそういった時にも立ち上がることができなかった。
待ってくれている人との仲も、数も、どうやら重要な問題ではないらしい。他人事みたいにそう思う。ここが天国でなければ、そろそろ親の怒声と平手が飛んできてもおかしくない頃だった。
「ちなみになんだけど」
天気予報の話でもするみたいに何気なく、輪上さんは言う。
「私が百合園くんのことを学校まで運んでいったら、怒る?」
「運ぶ?」
「担いでヨイショって」
「……怒りはしませんけど」
聞いた話によるとサキュバスはみんな、その細腕でトラックでもバスでも持ち上げられるらしい。「人間ではない」という点で彼女らと大差ない天使の輪上さんにも、中学生一人抱えて歩くくらいのことは余裕なのかもしれない。
俺はこの時、さっきとは打って変わって笑いどころの分からない冗談だなと、輪上さんの言葉をそう捉えていた。けれど彼女がのしのしとこちらへ近づいてきてしゃがみこみ、胴に腕を回すところまで来るとさすがに印象が変わる。
「えっ、えっ? 本当に?」
「やっぱり嫌?」
「いや、嫌ではないですけど」
彼女は自分の学校指定バッグをリュックサックのように背負った状態で、片手で俺のバッグを、もう片手で俺自身を持ち上げ、後者については昔話に登場する力自慢のキャラが米俵をそうするように、あるいは馬車の時代の人攫いのように、肩で担いだ。
「じゃあお父さんお母さん、行ってきます」
俺のかわりに輪上さんが挨拶をして、いってらっしゃーいというのんきな声に見送られながら、俺たちは家を出た。
公道でバイクの二人乗りをすると違法になるけれど、人を担ぐのは法的にセーフなんだろうか? 見たことのない角度で通りすぎていく通学路の景色を眺めながら、輪上さんの歩調に合わせた揺れを常に感じつつ、俺はそのまま学校まで運搬されていった。道中、通行人としての美少女何人かとすれ違い、そのうちの一人とは目も合ったけれど、特に恥の感覚をおぼえることはなかった。今さらなことを言うなら、たぶん俺の心は何かが大きくズレているのだと思う。
「一回降ろすね」
下駄箱の前に降ろされた頃には遅刻ギリギリで、昇降口付近には人影がなかった。
俺が自力で上履きに履き替えると、輪上さんが「おっ」と上振れを見た時の声を出す。がっつり教室まで運搬してくれるつもりだったらしい。
「歩けそう?」
「病人じゃないせいでギリギリ」
精神科の診断を受けたことはないけど。
教室に入って席に着くとほぼ同時に一時限目の授業が始まる。科目は英語だった。
……科目としての英語はいろいろな意味で苦手だ。テストでも赤点しか取ったことがない。しかし理解が悪いこと自体は他の科目でも五十歩百歩だから、その中でも際立って苦手だと感じる要因はもっと別の点にある。
俺は文字を書くことが苦手だ。綺麗に書くこともできなければ、人並みの速度で書くこともできないし、何より疲れる。遅さに関しては特に致命的で、バカ正直に向き合っていると、ただ板書を取るだけで授業時間が終了してしまう程度には遅い。バイトの履歴書を手書きすることも人一倍の苦行に感じたものだ。
しかし生前の中学時代に比べれば、大人になった俺は文字をいくらか素早く書く手段を身につけていた。一筆書きの要領で、一度下ろしたペン先をできるだけ離さないこと。それが字の美しさと引き換えに、俺が人並みの速さで課題を終わらせるために編み出した術だった。
ただ、その術には難点がある。それは他の文字ならともかく、アルファベットだけは上手く書けないということ。「どうすれば一筆書きで書けるか?」という点に思考リソースを割いてしまっては速く書けるはずがない一方で、アルファベットを書く時には一筆書き云々以前にどうしても頭で考えて書いてしまう。日本人らしく書き慣れていないせいだろう。独自の速筆を編み出したのが高校生活の途中と遅めであった点も不慣れの要因として大きい。そして二周目の中学一年の前半戦において、それは未だに克服できていない。
意識してもついぞ死ぬまで直せなかった強すぎる筆圧。思った通りに引けない線。俺が必死に板書をしている間にもよどみなく進む授業。……上履きを履いた時に自身のメンタルが復活したと思ったのは気のせいだったようで、俺はその日、真面目に授業に取り組むことが唐突に馬鹿らしくなってしまった。
だってここは天国なのに。生前と変わらないことを生前と変わらない気持ちでしていたって仕方がないじゃないか。
机の上に広げられたノートの上に、芯を引っ込めたシャーペンを投げ捨てる。俺は板書を諦めた。そうしてみるとどうなるのか、天国の出方を確かめようと思った。
するとその直後、ちょうどお声がかかる。
「……百合園くん?」
英語教師の阿蘇先生の声と共に、教室内の時間が一時静止する。
何も特別なことはない。授業では今、教科書の読み合わせをしていて、その順番が俺まで回ってきただけだった。どのあたりを読んでいるのかは、板書をしながらでもなんとか把握している。
けれどあえて、おそらくはほとんど自暴自棄で、俺は自らの役目を放棄した。
「…………パスで」
その舐めた発言と共に、静止から蘇りつつあった教室の空気は再び芯まで凍りついた気がした。
世界が自分を中心に回っているからといって、全てが許されるとは限らない。校舎内のセックスは咎められなくても、それが授業中や最終下校時刻以後であれば叱られるように。……俺は線引きを誤ったのかもしれない。
と、肝を冷やしたのは、きっと秒数にすればほんの一瞬のことだったのだろう。
「じゃあ次の人」
何事もなかったかのように、阿蘇先生はそう言った。
読み合わせはその後も滞りなく進行していく。そして俺が板書を終える頃、ちょうど授業終了のチャイムが鳴った。その後に呼び出しをくらうということもなかった。
休み時間になると、隣の席の相楽さんが、心の底からこちらを案じるような声で話しかけてくる。
「百合園くん、今日体調悪い……?」
「……いや、たぶん良いはず」
「昨日何かあった? 大丈夫……?」
「うん、大丈夫。…………ただ」
「ただ?」
「なんかちょっと、疲れちゃって。俺、元々不登校みたいな感じだったから」
「えっ」
「……あ」
言ってからハッとした。俺が輪上さん以外に生前の話をしたのは、それが初めてだった。なぜだろう口がすべったのだ。
べつに、天国の住人に生前の話をしてはいけないという決まりはない。話すことで起こる不利益もない。けれどなぜだか俺はずっと、それを輪上さん以外の誰にも話す気になれないでいた。今だってその気があったわけではない。ただバイト中のミスのように、自分には制御しきれない現象として、ほとんど勝手に舌が回っただけだった。
けれど天国の住人は、自分たちの生きる世界を箱庭だとは思っていない。すると話の解釈は自然に、この世界の中で完結する方向へと流れていく。
「小学校の頃から……?」
「……うん」
嘘は言っていない。俺は小学生時代の途中からすでに半不登校だった。
相楽さんは、騒がしい教室の中で他の誰にも聞こえないように、そっと俺に耳打ちをする。
「学校苦手なのに、今日まで皆勤賞なのすごいね。偉いね」
彼女はそう言って、机の下でひっそりと俺の手を握った。
肌に触れることが珍しいわけではないのに、何か不思議な感じがして彼女の目を見ると、まるで性別の垣根を越えた親友のような微笑みが返ってくる。中学生活の中で最初にセックスをした相手は彼女で、俺たちは知り合ってまだたった数ヶ月の仲なのに。長年に渡る友情をそこに錯視した。
同級生のうち、誰が皆勤賞かなんて。そんなことを気にしている人がいたんだと、心底意外に思った。そして、それに少し救われた気がした。
だけどそれと同時に、自分はその救いに報いることが出来ないとも感じる。これで明日から再び意欲的に登校できるようになれば美談にもなるのだろうけど、どうせそのように振る舞うことはできない。自分という人間はそういうものだという確信がある。なぜなら、褒められたその皆勤賞すら、輪上さんに運ばれてようやく保てたもので、そのことを俺はまったく恥ずかしいと思っていないから。救いに報いることが出来ないことについてだって、本心を正直に言うなら、べつに無念だとまでは思っていないような、俺はそういう人間なのだ。だからバイトだって平気でバックれることが出来る。
二時限目の授業が終わったあと、俺は相楽さんを男子トイレに連れ出して、彼女のことを犯した。合言葉なんて決めていなくても、「ちょっと来て」と言えば彼女はついてきた。そして断りの一つも入れずに体のあちこちに触れたところで、あるいはそれ以上のことをしたところで、突然のことにほんの少し狼狽えた以外には、これといった抵抗も拒絶もされなかった。
たかだか十分程度の休み時間をいっぱいに使って彼女を性欲のはけ口にすると、たとえ事後に満足そうに微笑まれたとしても、先程の彼女が手を握ってくれた時の温かさは取るに足らないものになるまで貶められたような気がして、なんというか、しっくり来た。
そう、俺の関わることにエモーショナルな美談なんてどこにも無い。一切無い。輪上さんとのことだって、彼女が天使ではなく人間で、あれがあの世ではなく現世だったなら、俺は翌日にでもバイトをバックれていたはずだ。ただその代わりとして天国へ来ただけなのだ。
「……皆勤賞は今日までかも」
乱れた制服を整える相楽さんに俺は言う。
顔も見ずに好き勝手犯されたあとの彼女は、ちょっと困ったような調子で笑った。
「なら、無理そうな日は、わたしがヨイショって担いで連れてきてあげる。ノートもかわりに取ってあげるし、当てられたらかわりに答えてあげる。百合園くんは、教室にいてくれるだけでいいから」
……神様みたいな女の子、というフレーズが頭をよぎる。たしか自分が、天国に注文を出す時に使ったフレーズを。
そういえば俺は天国に来てから、テレビドラマの中にあるような演技を除けば、誰かの悲しむ顔を見たことがない。
「せっかく頑張ってる皆勤賞なんだもん。もったいないよ」
そう言って、どうしようもないダメ人間をなお元気づけようとする彼女の笑顔に、さすがの俺も心苦しくなった。
幸いにも、結果としてそれ以降、俺は一日も休まずに学校に通い続けている。輪上さんに運ばれる経験は一度や二度では終わらなかったけれど、ノートは自分でとったし、授業中に当てられれば可能な範囲で答えた。
生前にバイトをバックれたあと、正式に辞める際に、責任者の人から言われたことを覚えている。
「せっかく頑張ってたのに。本当に続ける気はないの?」
俺はそれに即答してニートになった。
天国で相楽さんから言われたことも、それと大差ないはずだった。
だけど俺はなぜか、二周目の人生の中にだけ、確かに「もったいない」を感じている。自分の性根自体は相変わらず、相楽さんだろうと輪上さんだろうと平気で裏切ることのできる腐り方をしているはずなのに、なぜなのか、今はそれを実行に移すことにためらいがある。……いや実際、体たらくを晒すたびに輪上さんが迎えに来てくれなければ、とっくに裏切っていたような気もするけれど。
生前にはなかった、言葉で表すことの難しい何かしらの要素全てがギリギリの噛み合い方をして、百合園翔の皆勤賞はなんとか保たれている。そしてその糸が切れるよりも先に、二周目の人生には初めての夏がやってきた。
夏休み明けの体育祭。インドア派陰キャにとってはなかなかに手強そうなその行事の後にこそ、真の難関は潜んでいる。
合唱祭の開催は十月の後半。それに向けた練習は必然的に、体育祭の余韻も冷めやらぬ内に始まる。
生前の体育祭の恨めしい記憶の一つに「ムカデ競走」がある。
怪我をすることが容易に想像できる仕様、実際に起こる事故。そしてそれの対策のつもりなのか、放課後にまで及ぶ練習。その上やっていてまったく楽しくないし見栄えもしない。百害あって一利ない種目。
それをどう克服するべきか、俺は輪上さんと一緒にいくらか考えたけれど、これといって良い案は思い浮かばなかった。ただ、そもそもクラスメイトが全員美少女ということもあって、その面子で密着しながら行う作業ならあらゆる物がご褒美になるのでは? という考えが正しいことに祈りを捧げるという苦し紛れの手はあった。
そして体育祭の練習が体育の授業に取り入れられ始めた頃。本番当日の種目スケジュールの話を聞いて、俺は盲点を突かれた気分になった。
ムカデ競走は種目のラインナップに含まれていなかった。ただただシンプルに、他の採用候補に負けて落選していたのだ。
それを知った瞬間、頭の片隅にほんの少しだけ、「サキュバスだらけのムカデ競走を体験してみたい気持ちが、なかったといえば嘘になるかも」という感想がよぎった。そしてそれが救いになった。俺の中ではその瞬間に、ムカデ競走の「百害あって一利なし」という構図にヒビが入ったのだ。それだけで大収穫だった。
ただ、体育祭にまつわる悪感情はそれ一つだけではない。生前にあった安全性の難が頭一つ抜けている種目は軒並み落選していたけれど、そういった方向とは全く別の方面にも乗り越えるべき課題はある。
もう一つの課題とは、現代体育の必修科目こと、ダンスだ。
踊ることその物は特別苦手なわけでもない。使う音楽、振り付け、全体の構成といったものの決定は、すべてクラス内の一家言ある人が受け持ってくれる。その他大勢の素人は言われた通りに動けばいい。そして俺のような運動神経に劣った人間にも、それはそれなりにこなせることだった。
練習時間の枠の不足から、それが夏休み期間にまで侵食してくることについてもこの際かまわない。主に精神的に疲れている放課後と違って、夏休みの暇な数日程度なら、捧げる必要に駆られてもそこまでの苦痛ではないから。
……ではダンスのいったい何が問題なのかというと、それは表情にまつわること。生前、中学時代の俺は段取り通りに、可もなく不可もなく指示通りの踊りをこなせたはずだった。しかしそこでこう言われたのだ。「もっと笑顔で!」。
俺は意識的に笑うことが苦手だ。いや、苦手どころか、まったく出来ないと言ってもいい。ウインクと同じなのだ。なぜということはなく、出来ないものは出来ない。
俺だって面白いことがあれば笑うし、嬉しいことがあっても笑う。状況によっては愛想笑いだって自然と浮かんでくる。しかしそれは「自然と」……つまり無意識のことであって、意識していることではない。そして意識的に笑顔を作れない人間にとっての天敵が、写真と、ダンスなのである。
自分の写真映りの悪さにもコンプレックスはある。が、それはそもそも自分の容姿を気に入っていないことを含むものであるし、何より写真を撮られるのは一生を通してつきまとう話なのだから、なにも中学時代にこだわる必要はない。けれどダンスは違う。学校行事以外で自分がそれに励むことなどまずあり得ない。だからこそこの問題は保留が許されず、体育祭の中で解決しなければならない。
段取り通りに動けても、笑顔を作れなければ及第点以下。……パフォーマンスとしてはそれが実情だと分かっていても、どうしても納得がいかない。最低限の踊りも覚えられなくて困るというならまだ分かる。しかし表情なんて、いったいそれのどこに、体育があるのか。俺たちの目的は、体を動かすことではなかったのか。
テレビ番組で、あるいは何かのイベントで、あるいはCMや動画広告で、「ダンス」を見るたびに、居心地の悪さを感じるのはもう御免だ。……そこで俺は、交流のある何人かのクラスメイトにそのことを相談した。卑怯なことに、自分の手を汚そうとはしなかった。それが許されてこその天国だと思った。
ダンスについての諸々を取り仕切るのは、俺とはまだ特に縁のない高身長サバサバ系女子の新田さんだった。ある日のホームルームに、彼女を主体として、一応は相談という形で振り付けの提案が行われる。通常であればそこに異議を唱える人なんていないけれど、実際には笹川さんが手を挙げた。
「提案があるんですけど」
「おぉ、なに?」
「ダンスの衣装として、仮面を取り入れるのはダメですか?」
「仮面?」
特に気を悪くした様子もなければ驚いた風でもなく、ただ意外そうに眉を上げた新田さんが、担任の小川先生に目配せする。学校的にそれはどうなんです? と。
教室の隅に椅子を用意して場を静観していた小川先生は、まるでそれが想定内であったかのようになめらかに答えた。
「仮面自体はいいけど、デザインを決める時間と、予算がないんじゃないかな」
「デザインはなんでもいいんです。なんなら統一されてなくてもいいかも。全員が仮面をかぶってパフォーマンスするなんてこと自体、今までなかったはずだから。新しいことをやりたいんです」
笹川さんも、まるでそれが本心であるかのようにつらつらと反論してくれた。
彼女はただ俺から相談を受けたうちの一人であるだけなのに。きっとその数人の間であった何らかの取り決めの結果として、発言役を務めることになっただけのはずなのに。当たり前かのように整然と奮闘してくれている様を見て、卑怯な黒幕である俺は胸を締めつけられる気分になった。けれど同時に、だからこそ、自分がその役に立つことは無理だとも確信してしまった。他力本願を選んだのは正解だったのだと。
「……じゃあ予算はどうする?」
渋々といった様子で先生は問う。
笹川さんは、なおも落ち着いた様子で答えた。
「それなんですけど。実は家にちょうど人数分以上の、ドンキで買った仮面があるんです」
「…………なんで?」
「……こんなこともあろうかと?」
最後の最後で、笹川さんは自らの言葉に首を傾げた。
このクラスには全部で30人の生徒がいる。ちょうど30個の手頃な仮面が転がっている家なんて、そしてそれを正確に把握している住人なんて、普通に考えて存在するわけがない。笹川さんは大嘘をついている。「これから買う」が真実だけれど、それでは揉め事になるから嘘をついたのだ。
俺は彼女を嘘つきにしてしまった。そう頼んだ覚えはないけれど、それはただこちらの想定が甘すぎたせいだ。俺は実際には、彼女に嘘つきの汚名を背負わせることを選んでしまっていたのだ。
……そしてそんなあかさまな嘘を、大の大人が見抜けないはずもないのだけれど。
「……あー。じゃあ、承認で。新田もそれでいい?」
「もちろん」
仕切り役の二人が嘘を黙認したことで、俺は笑顔を作れなくても気兼ねなく踊れるようになった。
幸いなのは、新田さんと笹川さんには元々交流があったらしいこと。ホームルームが終わったあと、二人がひそひそと、
「仮面のやつ、あれ嘘でしょ」
「やっぱりバレる?」
と笑いあっているところを見て、俺は少し救われた気がした。
それからその日の帰り道の輪上さんは、親じみたことを言ってきた。
「で、ちゃんとお礼したの?」
「一応、LINEで」
「現代っ子か」
「現代っ子なんですよ」
「アハハ。まぁでも、相談した一人一人にちゃんと送ってたところは感心。笹川さんにだけ一層丁寧だったし」
「天使の力ってそういうところも見るんですね」
「百合園くんがいいって言ったんでしょ」
もちろんそうだ。記憶を消すつもりもない。
その日の夜は、いつにも増してよく眠れた。そしてそのあたりから体育祭が終わるまでの間、一年目の夏には嬉しいことが続いた。
まず、夏休みには宿題がなかった。「皆さんは一年生なので宿題はありませんが」という先生の言葉から察するに、どうやら天国の中学校では一年目だけ宿題が免除されるらしい。それは俺が意図して望んだことではないけれど、だからこそ逆説的に、天国の在り方が肌に馴染んできていることを実感した。
夏休みの宿題は俺のトラウマの一つだ。文字を書くのが遅い上に頭も悪い人間にとっての宿題は、そうでない人に比べて圧倒的に「量」が問題になる。あるいは「消費される時間」と言い換えてもいい。夏休みの時間のうちの多くと、それに伴う印象を、宿題にもっていかれてしまうのだ。
そのつらさ自体もかなり嫌な記憶ではあるけれど、一番印象に残っているのは、主人公が学生である某ノベルゲームを遊んでいた時のこと。作中で部活仲間から「夏休みといえば?」という話題が投げかけられた時に、俺は数ある選択肢の中から「宿題」を選んだ。……するとゲームのキャラにものすごく哀れまれたのだ。今までの夏休みはあんまり楽しくなかったんだな、今年は一緒にたくさん思い出を作ろうな……と。
生前の俺は、中学時代の夏休みを人一倍エンジョイしているつもりだった。海で釣りやバーベキューをして、山でキャンプや渓流下りを体験して。夏祭りの露店で買い食いをして、花火を見て、午前中から門限まで友達と思いきり遊んで、たくさん笑った。……けれど「夏休みといえば?」に対する答えは、本心から「宿題」だったのだ。
哀れまれてみて初めて、その現実に愕然とした。どんなに充実した夏休みを過ごしても、一番の印象は宿題に持っていかれてしまう。そして人はそれを「楽しくない」と呼ぶ。
後々になって気づいた頃には手遅れだったけれど、俺の社会不適合性が育まれてしまった一因にはその件も含まれていたような気がする。楽しいこととつらいことがどちらもあった時、迷わず後者を最大の出来事として捉えてしまうような性格では、この世の中は楽しくない。俺は夏休みを楽しんでいるつもりで、心の闇を育てていたのかもしれない。
だから天国では絶対に、夏休みの印象に良い思い出を持ってこなければならない。そう意気込んでいた。しかしその一方で、夏休みの宿題の概念を世界から抹消することには躊躇いがあった。自分だけ免除してもらうという線でも同様だ。そういったことをしてしまっては、「相対的に見てもなお良い思い出」を作ることはできない気がしたから。
けれど事前の名案は思いつかないうちに夏休みは差し迫ってきて、そしてその宿題の仕様が明かされた時、俺はまた愕然とさせられた。
あぁそうか。俺が必要だと感じていたそれは、たった一度だけでもよかったんだ。一度きりでも「宿題に苦しまない夏休み」があれば、「夏休みの印象」は変わる。生前の俺のトラウマは、ただの一度もそれを体験できなかったせいで生じていたのだ……。そう一瞬で理解させられた。
来年の夏、俺はまた宿題に追い込まれているのかもしれない。サキュバスと一緒に取り組んだってその困難は変わらないのかもしれない。けれどその時の俺には「あの夏休みは文句なしによかった」と振り返ることのできる過去がある。それがあるのとないのとでは、天地の差だ。
天国の在り方に感動すると同時に、生前の自分を哀れむ気持ちが湧いた。そうか、あのノベルゲームのキャラクターはこんな気持ちだったのか、と思った。
実際に夏休みが始まってからは、生前の当時と同じくらいそれをエンジョイした。親の記憶は二周目を感知していないこと相応にリセットされているから、出かける場所は見覚えのあるところばかりだったけれど、むしろそれが良かった。将来の不安なんて遥か遠い話だと思っていた頃の自分の思い出に残っている景色に再び訪れ、当時の遊びをなぞることには、しかもそれを中学生の体で行うことには、生きていては味わえない格別のノスタルジーがあった。
キャンプ場で四苦八苦しながらテントを立てている両親の傍らで、まだ使われていないテントの骨組みを使ってエヴァンゲリオンの使徒ごっこをしていたら、生前と同じくらい笑いながら「手伝え……!」とキレられた。おそらく天国でも生前同様、今後十年以上に渡ってその日のことが笑い話として語り継がれるだろう。
ちゃっかり同伴してくれていた輪上さんは、「それ好きだね」という苦笑いでこちらを見ていた。ノスタルジーが一線を超えて、生前の記憶を共有できる相手がいないことが寂しくなった時には彼女がいる。本人すら忘れているようなエピソードまで、天使である彼女は覚えてくれている。
また、そのような「理想の夏休みのやり直し」を順調に実現する一方で、生前には影も形もなかったイベントが発生することもあった。クラスメイト数人からプールに誘われたのである。
生前に男友達とプールへ行ったのは小学生の頃が最後で、付き合っていた彼女と行ったのは高校生の頃だった。そこにサキュバスだらけの同級生からお誘いを受けたわけだから、更衣室から出ただけでもう感覚がバグりそうになる。断る理由もないから来たはいいけれど、俺はいったいどういう名目でお呼ばれしたのだろう?
その日集まった同級生は四人だった。隣の席かつ天国童貞の卒業相手である相楽さん、体育祭のダンスを仕切る新田さん、今日はコンタクトにしたらしい矢野さん、そして最近掃除の班分けで組んだことをきっかけに初めてセックスをした小田原さん。他人の人間関係には詳しくないけれど、どうやらこの四人はそれなりに仲良しらしい。また新田さんいわく、笹川さんが来なかったのは泳げないからなのだとか。
さすがにクラスメイトと頻繁にセックスする環境で数ヶ月の時を過ごしていると、美女しかいないプールに飛び込んだからといって緊張や興奮を覚えることはほとんどない。むしろ俺は適当に水の中を歩いたり浮かんだり、誰かが持参したビーチボールを追いかけ回したりしながら、泳げない笹川さんのことを考えてどこか上の空になっていた。といっても、べつに彼女に気がある訳では無いと思う。
生前の中一時点での自分は、プールの授業を心の底から憎んでいた。小学校に引き続いて授業でまともに泳ぎを教える気もないくせに、泳げて当然というていで進むその内容が許せなかった。より正確にいえば、そうやって人に恥をかかせることを是とする態度が教育としてあり得ないと考えていた。
本来ならその頃の気持ちもどうにかして、この天国の中で成仏させるべきだったのだと思う。けれど俺は生前の中二の頃には、とりあえずクロールだけは習得してしまっていた。スイミング教室に通った成果だった。
俺の愚痴を聞いて学校にクレームを入れるのではなく、そのまま息子をスイミング教室に放り込んだ両親の判断はどこまでも正しい。けれどそれによって「恥をかく側」から脱してしまった俺の憎しみの炎は、中途半端な形で熱を失ってしまった。
天国のプールの授業は、泳げない人は蹴伸びでもビート板付きのバタ足でも、とにかく進める範囲で進めばあとは諦めてもいいというスタイルだった。それによって俺はなおさら憎悪の心を忘れていく。けれどもやはり、納得することと忘れることは別物なのだ。その二つは、どちらか一方しか得ることができない。
そういえばプールの授業でも、笹川さんは数メートルだけのバタ足をしていた気がする。競泳をするわけでもあるまいし、それができるのなら今日のプールにだって来ればよかったのに。……素朴にそう考えたことが、上の空の始まりだった。
笹川さんは、本当は別の用事があって方便でそれを言ったのかもしれない。……でももしかすると、彼女は自分が泳げないことを内心ものすごく気にしているのかもしれないし、水に顔をつけることすら怖いのに我慢して授業に出ていたのかもしれない。いくら考えても、考えるだけでは真実は分からないけれど、とにかく事実として今日彼女はここへ来なかった。
生前に泳げるようになったあと、金槌の女子がじたばた頑張る様を、すでに泳ぎきって記録をつけた大半の生徒が気まずそうに見守る、なんともいえない時間があったことを覚えている。あの時間の中でだけ、俺は確かに、かつての憎しみを再燃させていたはずだった。こんなことが許されていいわけがないだろうと。
……だけどもうやっぱり、今の俺には当時の熱意がない。あれは義憤だ。自分のような人間にはあまりにも似合わない。笹川さんはどうせ十年後あたりに今日の日のことなど綺麗さっぱり忘れているような気がする。
「裸眼だからよく見えないの……!」
大振りのスパイクを空振りした矢野さんがそう叫んでいた。
公共のプールは、一定時間が経つごとに全ての客が強制的に陸へ上げられる。その間に水質や設備の点検をしているのか何なのか詳しいことは知らないけれど、とにかくしばらく遊んでいるうちにちょうどいい休憩時間がやってきた。
この休憩時間に場内の屋外フードコートで昼食を確保するのが、このあたりの市民プールの定石だ。……が、それは人間しかいない世界の話でもある。
日陰に入ったサキュバス四人は何も言わず、ただジャンケンを始めた。最初に勝った新田さんだけが輪から外れて、残る三人が口々に目当ての食べ物の話をする。そして、
「百合園くんはなに食べたい? あとで割り勘ね」
と言われた時、俺は大体の流れを察した。
なんでも大丈夫だよと答えると、各自一時解散となる。ジャンケンに負けた三人は混み合うフードコートへの買い出しへ。そして新田さんは俺の手を引き、男子トイレの方へ。
水着の相手とセックスしたのは、そういえばそれが初めてだった。
新田さんは、口でするにしても挿入するにしても、とにかくやたらとこちらの表情を確認したがる人だった。それもべつに顔色を伺うというわけではなく、ただ面白いものを見ているという風に。たぶん滑車を回すハムスターを見る時も、彼女は同じような顔をする。
途中、思わず相手の目を手で覆うと、冗談めかして笑われた。
「え〜見られるの嫌だった? ごめんって〜」
茶化した雰囲気でも「ごめん」と言うだけあって、彼女は目隠しから逃れようという素振りをこれっぽっちも見せなかった。……するとだんだんこちらが悪いことをしているような気になる。
「ね、プール汚しちゃうかもだし、中はダメだよ」
出す寸前で、ここに来て初めて、サキュバスから中出しを拒否された。彼女らは自らの意思一つで避妊を成立させられる生物だから、普段は絶対にそういうことを言わない。
壁に相手の背中を押しつけるような形で向かい合ったまま交わっていた俺は、咄嗟に彼女の太ももに満足した印をぶちまける。すると彼女は、「汚れる」という言い回しは客観的なものですよということを弁明するかのように、指ですくったそれを躊躇いなく口に含んだ。……シャワーを浴びる必要がなくなるくらい、何度も何度も、丁寧すぎるほどに。
彼女の太ももと口元を、俺は馬鹿みたいに交互に見ていた。
「ねぇ百合園くん。勝手に相手を決められてどんな気持ち?」
「え?」
唐突な問いに顔を上げると、彼女と目が合う。
「ジャンケンで私たちが決めちゃったでしょ。どんな気持ちだった?」
「え、いや。……まんざらでもないみたいな?」
「あはっ。謙虚だ」
よく分からないがお気に召したらしい。新田さんは上機嫌に俺の手を取り、「行こっ」とその場を後にした。
元々陣取っていた日陰に戻ると、三人はすでに帰ってきていた。座り込んだ膝元には焼きそばと唐揚げとフライドポテトがそれぞれ容器に入って展開されている。人口がそこそこ多く、席の類は確保できなかったらしい。
はい、と手渡されたプラのパック入りの焼きそばには、具にモヤシが入っていた。
「新田さん、口開けて」
「へ?」
きょとんとした顔で彼女は素直に従ってくれる。その無防備さに一瞬さっきのエッチの終わりを連想しかけたけれど、すぐ我に返る。
俺は割り箸で可能な限り集めたモヤシを、彼女の口内へ置いた。すると、つつがなく閉じられた口の中から、シャキシャキと不快な音が聞こえてくる。
「モヤシ苦手なの?」
「なんでもいいって言ったじゃないですか」
「いや、あのね。世の中の焼きそばには、モヤシが入ってない物も結構あって」
「じゃあポテトも苦手?」
「なんで?」
「形が似てる」
「じゃがいもと生姜くらい違うでしょ」
「じゃがいもとモヤシくらいじゃなくて……?」
その後、俺がシャキシャキした食感の野菜を軒並み苦手としていることをカミングアウトすると、フライドポテトを食べながら口頭で「シャキシャキ!」と言う遊びが流行った。なんなら俺もそのブームに乗った。
ちなみに普段の給食では、味覚を26歳に戻すことで天国に対応している。大人の自分もシャキシャキした野菜は苦手だけれど、リアルタイムに中学生をしていた頃はもっとひどい偏食だった。だからとりあえず最初の一年は、いろいろと克服した物のある味覚で給食に再挑戦してみたかったのである。より自由で楽な給食の体験は二年目からでもいい。逆の順序では、さすがに試す気になれないだろうから。
昼食後に再解禁された水中では、ビーチボールに飽きた各々が本気で泳ぐパートに切り替わっていった。流れ作業の授業と違ってこの場で「とりあえず覚えただけ」の泳ぎを見せるのは小っ恥ずかしい気がして、頭の中では某男子生徒を肩に担いだ輪上さんが「どの口が言うの」と呆れていた。
結局、四人から「百合園も泳げよー」と平和な圧をかけられる形で、俺も少しだけまともに泳いだ。そしてそうすることで思い出した。……あぁそうだ、俺は泳ぎを気持ちいいと思ったことなんて、今日を含めて一度もなかったんだ。あくまでも嫌いではないというだけで、そのことを忘れていたんだ。
後日、ダンス練習のために学校へ足を運んだ際、ちょうど笹川さんと二人きりになるタイミングがあって、俺は聞いてみた。泳ぐことはどのくらい苦手なのかと。
すると、一本締めのような勢いの合掌と共に頭を下げられた。
「ごめん! あの日は妹と海に行く約束をしてて。なんか泳ぎ繋がりだし、断るの微妙に気まずくて、ちゃんと理由を説明しなかったの……」
「あ、そうなの。なるほどね」
それを聞いて安心すると共に、やはりプールにまつわる悪感情は今後とも、天国的な克服を必要とするような臨界点に達することはないような気がした。
体育祭にて、俺は王になった。戦績的な意味ではなく。
元々、なぜ夏休み明け直後という真夏もいいところなタイミングで、半日ほど屋外に出突っ張りになる体育祭なんて行事を開催する運びとなっているのか、俺には理解できないと思っていた。団扇と風鈴で夏を越せた頃の伝統を、ロクに考えもせずに引きずっているだけなのではないのかと疑っていた。
しかしどうやら、何と何の兼ね合いなのかは知らないけれど、とにかくどうしても九月の炎天下に体育祭を開かなければならない理由が学校側にはあるらしい。
……日傘とタオルと団扇と携帯式扇風機と凍らせたスポーツドリンクのボトルと凍らない程度に冷えてる麦茶が入った水筒と日焼け止めを持った手と、それから心配そうな声が四方八方から伸びてくる応援席に陣取りながら、俺は、サキュバスから見た人間がいかにか弱いのかを肌で感じていた。
人間は夏場にずっと外にいると意識を失うことがあるらしいし、それで後遺症が残ることや、最悪死ぬことまであるらしい。……というそれ自体は正しい情報が、不死身の存在であるサキュバスが人口のほぼ全てを占めるこの天国においては、ものすごく過保護的な解釈をされるものらしい。「油断すると百合園が死ぬ」という緊張感が、王様待遇の根に明らかに漂っていた。
一方で人の心配ばかりしているサキュバスたちには、誰一人として汗の一粒すら流れていない。彼女たちは魔力を用いることで身体機能を……というか、その一言では片付けられない身体に関わる様々な要素まで自在に操ることができる。きっと今の彼女たちは、そもそも暑さを感じてすらいないのだ。
そういう生き物の視点から見ると、確かにすぐバテる人間の安否は気が気でないのかもしれない。「いいご身分だねぇ」と、サキュバス同様に涼しげな輪上さんに茶化されながら、俺は天国の体育祭というものを満喫していた。
ムカデ競走と、各種の事故が多発しがちな競技が不採用になった理由も、これでなんとなく分かった。サキュバスたちは人間が怪我をすることを恐れているのだ。彼女らは首の骨が折れても秒で治るけれど、人間は擦り傷すら数週間は残ってしまうものだから。
……ただ、自分がすべてを思い通りにできる天国の主であることが皆にバレれば、その瞬間にこの待遇はなくなってしまうのかと思うと、暑さとは別の理由の汗が額を流れていくような気もする。
しかしともかく、王様待遇で養われた英気を糧に、俺は自分が参加する種目へ運動オンチなりに全力で取り組んだ。ただし天国の力で「絶対に転ばない」という保険だけはかけながら。
俺は生前、体育祭で転んだことが一度もない。天国に来てわざわざ新たなトラウマを作る必要はないし、か弱い人間を見守るすべての人たちを無駄に心配させるわけにはいかない。ズルをしたという気持ちはこれっぽっちもなかった。というか、多少ズルをしたところで、戦績上の俺はモブもいいところだった。
午前の部を無事に消化したあと、冷房のきいた校舎へ戻って昼食を取り、あとついでに縁のあった相手とセックスをしてから、いよいよダンスの発表が始まる。俺の所属するクラスの面々は各々が仮面を手に取ってグラウンドに戻った。仮面の経費は新田さんを主催としてすでにクラスメイト全員で折半してある。
ドンキで買った安い仮面をつけたまま踊ってみると、視界の狭さと跳ね返ってくる呼吸が思ったよりも不快だった。が、それについては練習の時点で分かっていたことでもある。笑顔の作り方が分からないまま晒し者にされる気分を味わうよりは、そっちの方がよほどマシだった。
入場した直後あたりに、どこからともなく観客の声が聞こえてきた。サキュバスだらけの世界と視界不良の中では、その声が生徒のものだったのか教員のものだったのか、あるいはカメラを構えた保護者のものだったのかすら判別できない。
「なにあの仮面……。…………かっこいい」
言葉の前半で新たなトラウマが生まれたかと思ったけれど、後半で生前のトラウマもろとも払拭された。
やっぱり来てよかった、天国!
踊りが終わったあと、盛り上がった新田さんが仮面を脱ぎ捨て応援席に手を振る様を仮面越しに見ながら。この日の俺は天国のすばらしさを確信していた。
とはいえ閉会式にたどり着く頃には、至れり尽くせりの待遇をもってしても俺だけが疲弊していた。クラス対抗の優勝争いには、競技の面でもダンスの面でもトロフィー獲得は叶わなかったけれど、生前同様、それはわりとどうでもよかった。
ただ、ホームルームを行うために一度教室に集まった面々が、ではそろそろ解散して下校しようという直前に、新田さんから司会を引き継いだ笹川さんが言った。
「それじゃあ次は、合唱祭で、がんばりましょう!」
疲れ知らずのサキュバスたちが、「おー!」とノリのいい声を上げる。
俺が蚊の鳴くような声すら発することができなかったのは、きっと疲労のせいではなかっただろう。
事情を……過去を知っている輪上さんだけが、気の毒そうにこちらを見ていた。