合唱祭の難点は練習量にある。
歌うこと自体は嫌いじゃない。独り言のように流行りの曲を口ずさむことはよくあるし、カラオケに行くのも好きだ。どう贔屓目に評しても上手くはないけれど、人前で歌うことへの抵抗感もない。合唱は高音パートばかりが楽しいのだと主張する声をネットで見たことがあるけれど、俺はそれにはあまり同意できない。合唱のことは特別嫌いでもなければ特別好きでもなく、低音パートを不服に思うことも高音パートに憧れることもなかったから。
生前の俺は、中三の夏までは合唱祭を好いてすらいた。それについては歌うことよりも、聴くことに関心があった。「君とみた海」だとか「COSMOS」のことが曲として普通に好きだった。唯一不満点があるとすれば、自分のクラスがそれらの曲を歌う機会には恵まれなかったことくらいで。
……けれどそんな幸せな認識は、中三の合唱祭練習が始まってから大きく塗り変わってしまった。
中学校生活最後の合唱祭なのだから、最高の出来にしよう。……と、要約すればそのようなスローガンがしきりに掲げられていたことを覚えている。
体育祭の時にはそれほど執拗に「最後」を強調することはなかったのに。夏休み以前の日々に至っては、進路の話をする時以外にはそのワードが取り上げられることすらなかったのに。暦が二桁に達したことで唐突な実感にでも見舞われたのか、教師からも同級生からも狂ったように「最後だから」という大義名分が口にされるようになったことを覚えている。
ムカデ競走の練習が放課後に行われることに不服を感じていた時期を振り返って、あの頃はまだ誰しもが正気だったのだと実感させられた。そちらの練習はせいぜい三十分前後だったけれど、中学三年の合唱祭練習はそんなものでは済まなかった。万年帰宅部だった俺はあの時、放課後に行われる活動が何の予告も説明も断りもなく、当たり前のように一時間を遥かに超過する様を初めて見たのだ。……そしてそれが毎日続いた。
学校側は、帰宅部に夕方のチャイムを敷地内で聞かせさえしなければ、何をしてもいいと思っている。それが当時の俺の感想だった。そしてそれは全く穏やかな心境ではなかった。
あの頃の俺は、もしも誰かが楽譜を燃やせば、内心で手を叩いて笑っていただろう。ロクな考えもなしに馬鹿の一つ覚えで引き伸ばされていったとしか思えない練習時間に対して、常にそのくらい明確な憎しみを持っていた。
そしてその憎しみはプールの授業と違い、中学卒業以降十年以上の時を経てなお、臨界点を下回るほどには衰えていない。
……だからこそ天国の合唱祭練習は、最初の一年目からフルスロットルで実施される。先延ばしにしては天国に来た意味がないから。俺はどうにかしてここでそれを克服して、私怨に取り憑かれていた時期もあったねと、笑って年を越さなければならないのだ。
ただまずいことに、その目的を果たすための妙案は未だに思いついていない。春頃、天国に来たばかりの俺が考えていたそれは、半年ほどの季節が過ぎるうちに使い物にならなくなってしまった。
あからさまにこちらのことが好きな美少女たちに囲まれてしまえば、長時間の合唱も苦にならないだろうと春には考えていた。両隣の女子と手を繋ぎながら歌い、歌唱と歌唱のインターバルにはキスでもしてイチャついていれば、一時間でも二時間でもすぐに過ぎるだろうと思っていた。……けれど俺はこの半年で、異性に好き勝手触れることに慣れすぎてしまった。当初考えていた作戦は使い物にならない。
輪上さんが俺の過去を、抱いていた感情まで含めて把握しているなら。そして現在進行形の内心まで読み取っているなら。それはこちらの身を案じるように気の毒そうな視線を送りもするだろう。俺も自分自身が哀れに思える。
天国の主の権限を振りかざせば、合唱祭の練習を免除してもらうことは可能だろう。なんなら本番はステージに上がらず、特等席で適当な美少女をはべらせながら鑑賞に徹することも可能ではある。けれどそれでは意味がない。憎しみをほどくには、トラウマを避けるのではなく、克服しなければ……。
体育祭本番があった日の帰り道も、普段通り輪上さんと一緒に帰った。
「で、どうするの」
「合唱祭ですか」
「そう」
「……逆に練習以外の全てをサボるのはどうです? 放課後の練習の長さが許せないのは、その日疲れてるからだと思うんです」
「でもそれだとたぶん、……まぁ考えようではあるけど、あくまでも一般論としては、皆勤賞を諦めるってことになるんじゃないかな」
「ですよね……」
そうなってしまうとやはりまずい。なまじ紆余曲折があって皆勤賞を維持してきただけに、それを邪魔されることはまた別の怨念へと直結してしまう。
この調子では、一見すると八方塞がりな話であるようにも思える。けれどここは天国なのだから、そうではないはずだと俺は信じている。またその根拠もある。
今バッグに入れて持ち帰っている安物の仮面を、俺はきっと遠い未来まで捨てずに取っておくだろう。
「でも輪上さん。僕は、今日の体育祭は楽しかったんです。天国に来てよかったと思った。そこにチャンスがあると思うんです」
「おお、チャンス?」
「良くも悪くも、僕の感情は上書きされやすいじゃないですか」
その自己評価を、輪上さんは苦笑で肯定した。
十月後半には合唱祭本番が、その前には当然練習が控えていることなんて、天国に来た頃からずっと知っていた。合唱祭への憎しみは生前に中学生だった頃からずっと文字通り死ぬまで燃え続けていて、それは死後も変わらなかった。……にも関わらず、これまでの学校生活には楽しいことがたくさんあった。一時的に憎しみを忘れていたことは山ほどあって、今日もそうだった。そこが自分にとっての活路になる。
死ぬほど根に持つかわりに、一時的な上書きがかなり容易。それが己の精神構造であることに疑いはなく、だからこそ天国には、その特徴を突いてトラウマを克服する方法があるはずなのだ。
合唱祭の練習はなにも定年まで続くわけではない。せいぜい数週間のそれを卒業までに三セット繰り返すだけ。それを上書きで乗り越えることは十分に可能なはずで、実際にこれまでの俺はそうやって様々なトラウマをうやむやにすることに成功してきた。合唱祭だけが不可能なんてことはない。絶対にない。不可能だと断じられる理由が何一つとしてないのだから。
「何か方法があるはずなんです。それに僕が思いつかなくても、天国が思いついてくれることもありますし」
「夏休みの宿題みたいに?」
「そうです」
通学路に横たわる横断歩道の前で、信号が変わるのを待つ。赤い光がいつか青に切り替わることを確信しているその時間は、天国のあらゆる希望に似ている。
すべてが思い通りになる天国という空間は、ある程度オートパイロットで機能する。明確に言語化した望みしか叶えられないというわけでは決してない。ただの人間に世界のすべてを詳細に想像することなど出来るわけがないから、天国は元々そういう仕様になっているのだろう。そしてその仕様は、現に俺の心を救ったことがある。天国への信頼感は増すばかりだ。
「どうにかなりますよ。こんなに順調な中学生活はないんですから」
天国の主としての力を使うまでもなく青くなった信号を確認して、俺は横断歩道を悠々と渡った。
有名な怪談に「リプレイ」という物がある。
ある日突然、なぜだか「リプレイ!と叫ぶことで、時間を巻き戻す能力」を得た少年が、その能力を乱用してバラ色の人生を送っていく。しかし調子に乗った少年は、子どもらしい好奇心で廃墟探索に乗り出してしまい、老朽化して今にも崩れそうな梯子にもお構い無しに足をかけた。
すると案の定、終点まであと少しというところまで登りつめた梯子の上部がバキッと折れて、少年は硬い地面へと頭から真っ逆さまに落ちていく。けれど彼は余裕だった。なにせ無敵の能力がある。少年は叫ぶ、リプレイ!
……バキッ。梯子の折れる音が再び鳴る。
時間は巻き戻ったけれど、梯子が折れる手前までは届かなかった。少年はさすがにあわてて、今度は一度目よりも早いタイミングで叫ぶ。リプレイ!
バキッ。また梯子が折れる。
また叫ぶ。リプレイ!
バキッ。
リプレイ!!
バキッ。
リプレイ!!!!
バキッ。
リプレイ……!!!!
バキッ。
……どれだけ急いで何度繰り返しても、梯子が折れる前の時間には戻ることが出来ず、物語はそこで幕を閉じた。
その話を読んだのは、保健室登校をしていた小学生の頃のことだ。怪談に関心があった当時の俺は図書室の本を読み漁っていた。そしてそこで確かに教訓を得たはずだった。得体のしれない力を過信してはならないのだと。
天国の主としての力は、もはや得体のしれない力ではない。それは神の使いである天使に保証された、今となってはれっきとした俺自身の力である。
けれどオートパイロット機能の方は、お世辞にも全容を把握しているとは言い難い。それを「得体のしれない力」と呼ぶのは、かなり妥当なことだろう。
合唱祭の放課後練習が始まった初日。一緒に校門を出た輪上さんは、まるでDV被害者のような警戒心で俺の様子をうかがう。
「…………大丈夫?」
「…………分かりません」
暦が十月に突入すると、さっそく合唱祭に向けた放課後練習が始まった。
今年の合唱祭でうちのクラスが歌う曲は、生前の三年時と同じく「瑠璃色の地球」に決まった。
よく考えてみると美少女で埋め尽くされた世界に低音パートなんて存在するのだろうか? とも思ったけれど、実際のところサキュバスの発声には思ったよりも融通が利くらしかった。生前にネットで見られた「合唱」のすべてはサキュバスに置き換えられた状態で天国にも現存していて、クラスメイトの中にも、その気になればテノールどころかバスまで出せる人がちらほら居た。
……おそらくそれは天国の存在理由から逆算されて出力された結果なのだろう。仮に世界を埋めつくしていたのがサキュバスではなく人間の女性だったとしても、その人たちは低音を出せていたはずだ。合唱が成立しなければ、俺の天国はその存在理由の数割を失うのだから。
そしてそれと同じ理屈で、初日から練習は約二時間実施された。
俺は完全に、生前の中学生当時の負の感情を取り戻していた。
三年生になって初めて合唱祭練習をした時の気持ち。教室の壁かけ時計の長針が丸々一周したあと、五分経っても十分経っても練習を切り上げる気配がない時の、あの気持ち。ハハハ、でもまさか、二時間も続けるってことはないだろう。……そう思っていた自分は、無根拠にたかを括っていたわけではない。ただ自分が物事を許せる範囲の限界を、大雑把に認識していただけだ。
楽譜を燃やしてやりたいだなんて、生ぬるかった。当時の俺の感想は、正しくはこうだ。「関係者を全員殺してやりたい」。この、放課後に無断で授業一コマ以上の時間を強制的に徴収して悪びれもしない制度に、関わった全員を。
このままいつもの通学路を歩き下校すれば、自宅のインターホンを押せば、玄関を開けた母は少し笑って言うだろう。「遅かったね」と。そこに俺は「合唱祭の練習が長引いたんだよ」と返す。次の日も、その次の日も、さらにその次の日以降だって、似たようなやり取りを繰り返す。……そしてそのうち学校へ行かなくなる。
何の理由がなくても元々半不登校だったのだから、俺が登校を拒否したくらいでは誰も、その原因について大して気になどしない。はっきりと言葉にして語ったところでそれは同じだ。けれどそれ自体は仕方のないことだし、自業自得でもあるから、不服はない。第一、では当時から練習を免除されていればきちんと毎日まともに登校していたのかといわれれば、その答えはノーだろう。
けれど、もはやそういう段階の話ではなく、俺は自分が一生その一連の出来事を許さないことを予感した。子どもが学校から一時間も二時間も遅れて帰ってきて、今日も練習、昨日も練習、明日も練習、望んだわけでもないのにこの先ずっとそんな感じ。で、それを聞いた親が、へ〜そうなんだ、みたいな態度を取っておしまい。ちょっと練習が長すぎるんじゃないの? の一言もない。
俺が「殺してやりたい」と思っていた「関係者」には、自分の両親も含まれている。初日でそれを思い出した。
天国がなんとかしてくれるだろうなんて楽観的な考えは、今まで偶然上手くいっていただけのことを必然だと勘違いした人間の、大きな誤りだったのだ。
「でも、初日をやりきったのはすごいよ」
輪上さんが褒めてくれる。湧く嬉しさは皆無だったけれど。
横断歩道を前に見上げた信号の赤色が、いつもとほんの少しだけ違って不吉な色に見えた。夕焼けに照らされているのだ。帰宅部であれば、通学路の風景としては見るはずのなかった日暮れ直前の夕焼けに。
信号を渡れば大きな下り坂に差しかかる。その坂の途中にある分かれ道で輪上さんとはいつも解散する。まっすぐ下を目指す俺と違って、彼女の方は一足先に坂道から解放される。
……ちょうどその分岐地点に、見覚えのある銀髪の少女が立っていた。彼女はこちらの存在に気づくと、しばしの逡巡を経て小走りで駆け寄ってくる。
笹川美玲、またはスゼンミュー・レルネイト。合唱祭練習を取り仕切っているクラスメイト。
最近知ったけれど、彼女は合唱部所属らしい。
「百合園くん。ごめん、待ち伏せなんてして。でも話したいことがあって」
言いながら、笹川さんはチラと輪上さんの方を見た。その視線から察するに彼女の話したいこととやらには、どうも第三者の同席が望ましくないらしい。
今度は輪上さんが俺に目で問うてくる。「帰った方がいい?」。俺は無言で頷いた。
「ん、じゃあね」
輪上さんは、置き去りにする男女のどちらにも平等に手を振って、分かれ道を曲がった先の道へと消えていった。
一台の車が俺たちの横を通り過ぎて、勢いよく坂道を下っていく。小学生の頃に友達がこの坂で走って転んで、その拍子に近くを通り過ぎた車に腕を轢かれたことがあった。この坂の下り方向で背後から来る車とすれ違うたびに、俺はその出来事と、自分は一度も轢かれていないという結果を思い出す。まるでそれは、トラウマとその克服方法の象徴のようでもある。
笹川さんの目を見るに、まず楽しい話をしに来たわけではなさそうだった。
「……それで話って?」
「あ、うん。あのね。……単刀直入に聞いてもいい?」
「なんだろう」
「…………百合園くんは、合唱が嫌い?」
「…………」
ワンッ! と、数メートル先にある家の庭で犬が吠えた。凶暴な奴がいるんだ。そして噛まれたことはない。
笹川さんは合唱部である。合唱が嫌いなのにその部活を選択するなんてことは、まぁあり得ないだろう。普通に考えてむしろその逆であるはずだ。
俺がすぐには答えられないところを見て、彼女は自身の言葉の引き出しをとっちらかしていく。
「……合唱、合唱祭? 歌うこと? あ、人前で歌うこととか。……とにかく、そういうの、嫌い?」
「いや」
俺は、それだけ手当り次第に出した候補の中に正答が含まれていないことに少し苛立ちながら、答える。
「どれも嫌いじゃないけど、帰りが遅くなるのは嫌かな」
「あっ……」
盲点だった……と言わんばかりに、笹川さんはポカンと口を開けた。こんなに癪に障る人だっけ、と思った。
しかし冷静に考えてみれば、疲れるという概念がおよそ無さそうな不死身の生物であるサキュバスにとって、それは本当に盲点その物だったのかもしれない。
ただそうだったとしても、笹川さん的には、細部はともかく大筋は予想通りだったらしい。彼女の表情にはすぐに納得が浮かんだ。俺のげんなりした顔がよほど目立っていたのだろう。合唱祭におけるクラスのリーダーとして、きっと彼女にはそれが放っておけなかったのだ。
……だからといって待ち伏せまでしなくても、とは思ってしまう。俺たちはすでにLINEを交換している。話があるならそれで十分なはずだ。
夕暮れはすでに夜になりつつある。例にないおどおどした素振りの笹川さんに、俺は再び小さな苛立ちを取り戻しかけていた。……けれどふと嫌な予感がする。
早く帰りたいのは、LINEで済ませたいのは、普通なら相手だって同じはず。……今の状況がすでに「普通」ではないなら、それが楽しいことであるはずがない。
もごもごと唇を震わせて、喉まで出かかった言葉を何度も飲み込んでいる様子だった笹川さんが、突然スッと暗い目つきに変わった。
「ごめん、百合園くん。私、言い方選ぶの下手だから、失礼だけど言うね」
「うん」
「……百合園くんは、合唱練習が嫌で学校に来なくなったりする?」
エンジンを大きく鳴らして、運送トラックが俺たちのすぐ横を通り過ぎていった。
俺は、思わず鼻で笑ってしまった。そういえば彼女がどうしてこちらの通学路を把握しているのかも俺は知らない。そのことに思い至って、笑った。
「誰から聞いたの?」
「え?」
「俺が小学生の頃から不登校だったって」
「……え?」
きょとんとした顔が返信代わりに寄越された。「何の話?」と。
俺はリプレイと叫びたくなった。
てっきり相楽さんか、相楽さんから又聞きした誰かが、その話を笹川さんに伝えたのかと思ったのだ。同じように通学路も誰かしらが教えたのかと。なにせ俺は女子同士の交友関係に疎く、誰に何を口止めした覚えもないから。悪意がなくても、いやむしろ善意を共有するためにこそ、誰が誰にどの話を流していてもおかしくはないと思ったのだ。
しかしそれはどうやら思い違いだったらしい。そういえば笹川さんは、観察眼で俺の内心の臆病さを見抜いた人だった。「こいつ明日学校来ないかも」と不穏なオーラを感じ取ることも容易だったのかもしれない。
吐いたつばは飲み込めない。そもそもべつに不登校を隠したいわけでもないけれど、何にせよ、会話を先回りしたつもりで失敗したという事実のダサさだけがこの場に残った。
「……あー、まぁ、その、不登校だったんだよね。四年生くらいから。だからたぶん、そのオーラが出たんだと思う」
「あ、そっか。……あ、いや、違って、そういうことを言いたかったわけじゃなくて」
「じゃあどういう……?」
「えっと、その、だからね。……これからもしばらく練習はあるでしょう? それも毎日。だからそれで、百合園くんのことが心配になったの」
「それはありがとう。……でもまぁ心配してもらっても、本当に練習はずっとあるからね。本番の日までずっと」
「い、嫌なら出なくてもいいと思う!」
突然張られた彼女の声が、どこか悲痛に響く。
同じ台詞を生前に聞いたかどうか、俺は覚えていない。けれどいずれにしろその手の話には、今も昔も「そういう問題ではない」が唯一の回答になってしまう。憎しみとはそういう物だから。プール授業の克服は俺が泳げるようになったからであって、譲歩されたからではなかった。
……しかしどうもその悲痛さは、俺の心の持ちようでそう聞こえただけとは限らないらしい。実際に笹川さんの声には、少しずつ怯えのようなものが滲んでいった。
「百合園くん、せっかく皆勤賞だし。こんなことで途切れたらもったいないし、嫌だろうし。それに合唱なんて、……いや、ううん、他の何でもそうだけど。べつに、嫌なのにやらなきゃいけないことではないし」
教室の後ろに集まって歌っていた時の壁掛け時計の針と違って、日暮れ間際の太陽の沈む速度は速い。話している間にも目に映る世界の影は濃くなって、笹川さんの表情を少しずつ隠していく。
彼女の感情を読み切ることは俺にはできない。けれど、彼女が次に何を言うのかは大方見当がつく気がした。
彼女は合唱部所属で。今は、進んで着任したクラスのリーダーなのだ。そういう人が言うことの相場は大体決まっている。
「でも、でもね、私最低だけど。自覚あるけど。……でもできれば、クラス全員で合唱できたら嬉しいなって。思っちゃうんだよね……」
「…………中学最初の合唱祭だもんね」
俺は思ってもないことを口にした。それは伝わらない嫌味だ。「最初の一年」「まとまってきた二年」「最後の三年」。それっぽい理由なんていくらでも後付けできる。そしてたぶん、全員で力を合わせてこその合唱祭だとか考えている人は、そういう理由付けが好きだ。
昼間の気候は夏の暑さを大いに引きずっているのに、十月の日暮れは風が吹くとかなり冷える。俺は適当に「分かったよ」と言うつもりだった。どうせ、練習を避けては天国に来た意味がないのだから。
けれど続く言葉を先に紡いだのは、笹川さんの方だった。
「百合園くん。私と取り引きしてくれない?」
「……え?」
「百合園くんが練習を嫌がってること、それが本当にどうしようもないことなのも、分かってるつもりだから。だからもし、私のお願いを聞いてくれるなら、私も百合園くんのお願いを全部聞く。……そういうことにしてくれないかな」
「……全部ってなに。俺はべつに」
「他の子に頼めないことも、本当なら誰にも頼んじゃいけないようなことも、全部だよ」
影の中に、銀色の瞳が光る。
狂気の目だった。
初めにあったおどおどした態度は、言葉を選ぶことの不得手に由来していたのだろうか。自己都合と自己犠牲をどちらも貫くと決めてその取り引きとやらを口にした彼女の目には、えぐりとっても消えないような暗い輝きがあった。
なんでだよ……と。正直なところ思う。
なんでみんな、そんなに合唱祭に必死になるんだよ。
なんでみんな、悪意なく俺を追い込むんだ。
浅く、ため息が出た。電柱に取りつけられた街灯が光りだして、もう夜になる。
「……考えさせて」
「うん」
「今日のうちにLINE送るから。もう遅いし、一回帰るね」
「あ、ごめん。うん、分かった」
笹川さんと別れて、今さら急ぐこともないからゆっくりと歩いて帰る。今日の活動はもう終わりだ。あとは夕飯を食べて風呂に入って、せいぜい一時間程度の自由時間を満喫して終わり。明日になればまたいつもの学校生活と、それに加えた合唱祭練習が待っている。
バカらしい考えかもしれないけれど、ド変態に生まれていればよかったと思ってしまう。そうすれば今頃、笹川さんに何をさせるのかで頭がいっぱいになり、合唱練習の苦痛なんてどうでもよくなっていたかもしれないのに。
俺が彼女に無理難題を押しつけるとしたら、それはせいぜい、単なる八つ当たりにしかならないだろう。
それで気が晴れるなら苦労はしない。
家に帰って諸々のことを終わらせて、寝巻きに着替えて布団に入った頃。俺はようやく笹川さんに返事をする気力を取り戻した。
『練習出るよ。学校もちゃんと行く。大丈夫』
……口先ばかりの文言を送ってしまう。生前の親とのやり取りもこういうことが多かった。
既読はすぐについた。そして返信も、用意してあったかのようにすぐに飛んでくる。
『私にさせたいことは決まった?』
『一つだけ?』
『何個でも』
『決まってない』
『決まったら教えて。合唱祭が終わったあとでもいいから』
……ん?
了解、と打ちかけて手が止まった。「合唱祭が終わったあとでもいいから」とは、どういう意味だろう?
合唱祭本番にこぎつけるまでの間は、俺のモチベーションを保つために、笹川さんがなんでも何個でもお願いを聞いてくれる。そういう話なら理屈は分かる。あるいは、お願いできる数が最初から決まっていて、それを消費さえしなければ本番後にも権利が残るというなら、それも分かる。
けれど笹川さんが言っているのは「何個でも+いつまでも」だ。これを言葉通りの意味で受け取ると、彼女は今後永遠に俺のお願いを聞き続けるということになる。それはさすがに取り引きとして意味が分からない。
何か読解に見落としや勘違いがあるのかと思い、何度もそのやり取りを読み返す。けれど文章中から明確かつ新たに読み取れる情報は何もなかった。
『本番が終わるまでに決めないと、お願いは一つだけになるってこと?』
彼女の中ではそういうことになっているのではないかと、絞り出すように推測して送る。
既読はついたけれど、それから数分返信が途絶えた。俺の眠気がもう少し濃ければ、危うく続きを待ちきれずに寝落ちしてしまうところだった。
『練習時間の3倍の時間、私のことを自由にできるっていうのはどうかな』
……画面の向こうにいる真剣な顔をした笹川さんが、目に浮かぶようだった。
漢字テストの補習課題をした時にも、彼女は似たようなことを言っていた。あの時は書いた画数一つにつき1分が俺の持ち時間だった。今度はそれが、練習時間の三倍になるのだという。
……つまり今日の練習は約二時間あったから、それをカウントに含めるとすれば、すでに俺には六時間近い持ち時間が与えられていることになる。
俺は指折り計算しようとしてすぐに、そんなことを考えるまでもなくそのレートが狂っていることを理解した。なにせ現在時刻は二十三時。笹川さんと別れてから、まだ六時間も経っていない。
週五日、毎日練習が二時間あれば、毎日六時間の持ち時間が加算されていく。それを使い切るタイミングは土日を抜けばそうそうない。どう考えても莫大な時間がストックされていくことになる。
ちょっと適当に喋りすぎなんじゃないか? そう思った俺は、今日という日がまだ放課後から六時間前後しか経っていないことを彼女に伝えようとした。
するとそれよりも早く、向こうから追加のメッセージが送られてきた。
『もし話に乗ってくれるなら、感謝の気持ちをこめて練習とは別の10時間(600分)も付ける。それともちろん、今日の練習分の348分も』
……俺はスマホの電卓アプリを立ち上げた。
348を3で割ると、116。つまり今日の練習約二時間は、笹川さんいわく正確には116分であったらしい。そしてそれを三倍した数字である348分に謎の初回特典600分を足して、すでに持ち時間は948分。時単位に戻して言うと、15.8時間。
それはつまり、8時間睡眠を確保すると、丸一日ぶっ通しでギリギリ消化しきれるかどうかの量であることを意味している。そしてそれに加えて、今後しばらくの間週五日のペースで、約6時間分の持ち時間が上乗せされていくことになる。五日で30時間。それを、ほとんど土日だけで消化することになる。
……あるいは、来年まで持ち越すか。
『ちょっと莫大すぎない?』
混乱が収まりきらない思考から、厳密には少し矛盾した日本語が出力されて、メッセージとして送信される。
向こうの既読と返信は、最初の爆速に戻っていた。
『足りないくらいだよ。嫌がってる人に、嫌がってることをさせようとしてるんだから』
……それを見て呆気にとられていると、さらに補足が入る。
『今は気乗りしなくても、あとで気が変わったら言って。もしあれだったら、本番に出てくれるだけでもいいから。最初の600分は、その時でももちろん付けるからね』
本番に出るだけで、一曲歌うだけで、600分。それなりに頑張って書いた漢字の群れは、せいぜい220分くらいだったのに。
やっぱりあの時、夕暮れの中に見た気がした狂気は、見間違いではなかったんだ。俺はそれに若干引きながらも、同時に敬意の念が湧いてくることを感じた。
『とりあえず明日の練習は出るよ。たぶんその次も、ずっと先の次も、もちろん本番も』
『ありがとう!! 頑張って恩返しする』
会話の終わりを見届けて、俺はスマホを机の上に置き、布団の中で目を閉じた。
俺がもし変態だったら、笹川さんはどこかで自分の甘い見積もりを後悔していたに違いない。そうならなかったのは彼女にとっての幸運だと、負け犬の遠吠えのように思う。
振り切った自己犠牲に対する敬意はあっても、有り余る持ち時間の有効な使い道を、俺は翌朝になっても一つも発想できなかった。
通学路で合流して第一声、輪上さんに言われた。
「なんかウシジマくんみたいなことになったね」
「あぁ、何か思い出すと思ったらそれですね」
笹川さんこと、合唱ちゃん。現在の借金、948分。利子は十日で約3600分。
朝の教室に入って席に着く分には、これといって前日までの生活と変わらない。笹川さんは遠くの席に集まって普通に友達とお喋り中で、どこにも狂気の気配はない。物騒な例え方をするからおかしなイメージを持ってしまうけれど、彼女は実際に借金を背負っているわけではないし、そりゃあ平和で当然だ。
……けれど放課後になれば、そんな変化なき日常は成立しなくなる。俺はある意味では天国にふさわしく、そして別のある意味では天国にあるまじき「新たな視点」を、合唱の最中に見出してしまった。
練習中、相変わらず時計の針の進みは遅い。けれど秒針が一周するごとに、笹川さんの借金は三周分増える。そう考えるとやはりとんでもないことのように思えるけれど、その一方で、俺は本当に彼女への要求を思いつけずにいた。それがまずかった。
せっかくの機会に思いつくべきことを思いつけない。それによって、加算されていく三倍の時間に宝の持ち腐れ感が付与されて、時の進みの遅さに対する苛立ちと両立された、時の進みの速さに対する苛立ちまでもが湧いてくる始末だった。俺が何も思いつかない間にも、ものすごい速度で持ち腐れた宝はかさばっていく。にも関わらず、練習の終わりは遥か彼方で一向にたどり着けない。その二重苦には、今まで感じたことのない種類のストレスがあった。
……練習開始から約二時間後。なんとか今日の日を耐えきった俺は、結局のところ初日と大差ない負の感情を抱えていた。既知のストレスだろうと未知のストレスだろうと、要するに諸悪の根源は練習時間の長さにあるわけで、問題は何一つとして解決されていない。
やはり根本的なところをどうにかしないといけない。しかしどうすればいいのかが分からない。天国の力を持ってしても、アプローチの方法が分からなければ手詰まりになるのだということが嫌というほど身に染みる。
……教科書の詰まったバッグの重さにまでとばっちりのように苛立ちながら教室を出る頃には、俺の頭の中は合唱祭への憎しみと「笹川さんに何をしてもらうべきか」でいっぱいで、彼女本人の動向などはすっかり視野から抜け落ちていた。
けれど彼女は、廊下で俺を待っていた。
「あ、百合園くん。……その、私、何かしなくてもいい?」
用がなければ帰るけど……というその物言いにもイラっと来たあたりで、さすがの俺も自身の愚かさを省みる。どうやら今の自分は、自分で思っている以上に機嫌が悪いらしい。
普通であれば、八つ当たりをしないように努めて理性的に返事をするか、それさえ困難なら「ごめんだけど今ちょっと話しかけないで」と危険サインを発するべき場面だとは思う。思考としてはそれが分かっている。けれど……。
笹川さんの調子はまた、おどおどした物に戻っていた。そんな調子の彼女からは、あの時確かに見たはずの狂気も覚悟も感じ取れない。
なぜそれが思考に矛盾した行動を選ぶ理由になるのか、自分でも分からなかった。けれど彼女がそんな調子でさえなければこちらの出方も変わっていたはずだと、他人事のように確信している自分がいた。
俺は無言で笹川さんの手を引く。「あっ、えっ」と戸惑う彼女にかまわず、男子トイレの中に引きずり込む。
道中、背中に輪上さんの視線を感じたことが、最後のリミッターとして機能していたような気はする。頭の中に「先に帰ってるね」という声が聞こえて、天使はそういうことも出来るのかと驚くやら感心するやらした。
誰もいない場所で、笹川さんと二人きりになった。
「なんでも言うこと聞いてくれるんだよね」
「え、あ、うん。なんでも」
「……じゃあ俺が何をしたいのか、笹川さんも考えてよ」
「へ……?」
「前にも言ったけどさ。なんでもしていいって言われても、何がしたいのか自分でも分からないから」
丸投げ、他力本願、責任転嫁。いつかのダンス会議の時と同じで、今の俺に出来ることはそれが精一杯。
でも同時に、純粋に笹川さんに期待している面もある。彼女なら俺の深層心理か何かを見抜いて、画期的な答えを提示してくれるのではないかと。一度それに相当することをやってのけた彼女なら、このモヤモヤというにはどす黒すぎる負の感情のほどき方を、見つけ出してくれるのではないかと。
……だけどそれは買いかぶりだったのかもしれない。というか、俺もほとほと学習能力に欠けている。一度上手くいったからといって次もそうであるとは限らないのだということを、天国のオート機能から学んだはずではなかったのか。
「……あー、えっと。私にできることは、その、体でお礼をすることくらいかな……? 他は、雑用とかならできるけど、そういうのって何かある?」
「……じゃあそれやってよ。お礼ってやつ」
「あっ、うん! それじゃあ、えっと、失礼します」
タイル状の床に直接膝をついて、笹川さんはカチャカチャと馴れた手つきで、俺の制服のベルトをゆるめていく。そして何のためらいもなく、現れた半勃ちのものを口で咥えこんだ。
……正直、気分ではなかった。
性的なことをする気分では……というわけじゃない。悲しいかなそこは俺も男だから、美少女に奉仕されて悪い気がするなんてことは基本的にない。けれどだからこそそういったことは、天国においては日常にあるべきことだと感じる。
合唱祭練習、遅すぎる下校、莫大な時間的債権に、コントロールしきれない苛立ち。それらを日常と呼ぶことはできない。そんな非日常の中で起きる「いつもの天国」には、これまでの生活とのギャップがひどくて、気持ち的についていけなかった。
いまいち喜んでいないことが相手にも伝わってしまったのか、一応は満足に勃起したものをぷはっと吐き出して、媚びるような様子で手でしごきながら、笹川さんはこちらを見上げてくる。
「ごめんね。あんまり気持ちよくない……?」
「いや、そんなことないけど」
「そう……? ……したいことがあったら遠慮せずに言ってね」
それだけ言って、彼女は口での奉仕を再開する。サキュバスらしく平気で喉まで飲み込んで、息継ぎもせずに動き続ける。
セックスは体よりも心だなんて、現世にしか通用しない考えだと思っていたけれど、天国においてもそれはあながち間違いではないのだということを俺は今さらながらに実感した。美少女をとっかえひっかえすることが珍しくもない天国の在り方は、恋愛的な関係を育む現世の喜びに容易に匹敵する物だと前々から思っていて、実際のところそれ自体は間違っていない。けれど結局のところ、自分自身の精神衛生を保つことができなければ、それを性行為で補うことは叶わないらしい。
合唱祭とその練習に対する憎しみが、フェラチオで浄化されるということはまったくなかった。他のどんなプレイだって同じだろう。今までの酒池肉林の天国が順当に天国らしかったのは、まず快適な生活があって、その上にセックスがあったおかげだったのだ。
気持ちいいことには気持ちいい。けれどいつもと違って、いつまで経っても射精感が込み上がってこなかった。これで帳尻合わせということにされてもなぁ……という意識が、絶頂を決定的に妨げているように感じる。
……しかし笹川さんの覚悟は、実際のところ大したものだった。窓の外に見える空に夕闇の気配が垣間見え始めても、彼女は一度も奉仕を中断しなかった。
口でダメなら本番でも……とすら言い出さないのは、言葉で求められていないことは実際にも求められていない……と判断しているからなのか。あるいは、早く終わらせたがっていると思われることをおそれているのか。
「……笹川さん、もう外暗くなったよ」
さすがにそろそろ帰ろう。と、ただそれだけの意味で言ったつもりだった。
口は離さないまま、潤んだ瞳がこちらを見上げてくる。
「
「え」
その瞬間、何か良くない物の噛み合わせが狂った。開かない方がいい扉の施錠が、何かの間違いでカシャンと外れてしまった。
発音よりも奉仕の継続を優先したその謝罪を耳にした瞬間、せき止められていた射精感が一気に上ってきたのだ。
「うぐっ。むっ、んっ、んっ。…………んぐぅ」
許可も得ずに彼女の頭を掴んで腰を振り、急激な欲求をすべて彼女の喉に向かって吐き出す。笹川さんはうめき声を上げていたけれど、表情を見るに別段苦しんでいるわけではなさそうだった。
……ふと現世のことを、人間のことを思い出す。サキュバスしかいない世界で暮らし続けていたせいか忘れかけていたけれど、「合唱が好きな子の喉奥を使って射精する」というのは、人間基準で考えると相当ひどい話だ。
力ずくの形から解放された笹川さんが残った精液も自ら吸い出して、ハキハキとした声で「ごちそうさまでした」と言ってくれた時。ここが天国でよかった、彼女がサキュバスでよかった……と心底思った。
放課後に二時間近く拘束されるとなると、部活動の実施も困難になる。部によってはそれでも少しずつ活動しているのかもしれないけれど、俺たち二人が廊下に戻るとそこは不自然なほど静まり返っていて、教室を挟んだ向かいにある校庭からも人の声は聞こえてこなかった。
男子トイレからサキュバスと出てくる。そんな明らかな事後を人に見られることは少なくない。見る側もサキュバスなのだから、それが同級生でも教師でも、普通なら支障はないはずなのだけれど。廊下の向こうから、鼻歌混じりの担任、小川先生が歩いてくる。彼女は俺たち二人の存在を認識すると、幽霊でも見たかのように目を見開いた。
見開かれた先生の目は、みるみるうちに穏やかではない物へと変わっていく。そこには明らかに怒りが浮かんでいて、俺は咄嗟に「まずい」と身構えた。天国の大人は未成年淫行には寛容だけれど、不良行為の全てに寛容なわけではない。
「ちょっとそこの二人!」
釘で打ちつけるような声に、笹川さんも肩をこわばらせる。人の観察に長けた彼女にとって、そのプレッシャーは一際大きな物として感じられたのかもしれない。
……が、意外にも、小川先生は浅いため息をついたあと、仕方なさそうに微笑んだ。
「何してるのよ、こんな時間まで。車で送っていくから、百合園くんは下で待ってて」
「え。あ、はい」
「……笹川さんはちょっと来て」
目を泳がせながら、笹川さんは無言で先生の近くまで歩み寄っていく。俺は手振りでその場から追い払われて、靴を履き替えるべく昇降口へ向かった。
外はすっかり夜だった。
「…………今何時だと思ってるんだ!!!!」
背中に怒声を受けて、心臓が跳ねる。
振り返ると、昇降口から廊下へと繋がる直角の交差点には誰もいなかった。
怒鳴られたのは俺ではない。ただ廊下を曲がった先で起きた説教の流れ弾が、俺の背中まで届いただけだった。
天国の力だ……と直感的に理解する。身を守るために咄嗟に主としての力を行使していたのか、あるいはこれもオート機能の一環なのか。俺は無意識のうちに「叱られない」という特権を手にしていたらしい。……そしてその特権は自分以外には及ばなかった。
廊下の向こうから聞こえてくる声が二度荒らげられることはなく、何かしら二人分のやり取りは聞こえてくるけれど、音量が小さくて内容までは聞き取れない。仕方がないからおとなしく靴を履き替えて嵐が過ぎるのを待っていると、ものの五分程度で先生と笹川さんの二人が並んで歩いてきた。
「ごめんごめん。お待たせ」
俺に向かっては優しそうにそう言う先生の横で、笹川さんは青ざめた顔をしていた。こっぴどく叱られた子どもがよくする顔だった。
小川先生の容姿も、何なら同級生のように見える。数ヶ月もの間彼女が教師として振る舞う様を見ていれば、彼女のことを本気で同級生のようだと感じることはないけれど。それでも、年齢と容姿が一致しないこの環境が自分の感覚をどこかずっと狂わせていることを、俺は改めて自覚した。
笹川さんは本当に中学生なんだな。……並んだ二人を見比べることで、今日初めて、それを実感したのだ。
「後ろ乗ってくれる?」
小川先生の軽自動車の助手席は荷物置きと化していて、俺たち不良生徒二人は並んで後部座席に座った。
思い詰めたような顔をした笹川さんはその日そのあと、一言も喋らなかった。俺の方が先に家に送り届けられるまでの間、ただずっと、向こうから絡めてきた指と無言で手を握り合っていた。
自分の奥深くに眠る、開けてはならないはずの扉。施錠の外れたその扉が内側から震えるような、そんな感覚があった。
家に着いて親と顔を合わせると、さすがの俺も小言を言われた。「暗くなる前には帰りなさいよ」と雑談の一環のように言われたそれにはまるで圧がなく、だからこそ「叱られない」の網目をくぐったのだろう。
練習初日だって暗くなってから帰ったのに、その時は「練習が長引いた」といえば小言の一つすら言われなかった。今回は担任に送られたせいで親視点から見える事情が違ったのだろうけど、こちらからすればその判定にはそれなりの理不尽を感じる。
……と、理屈の上では思うのだけれど、そこから生じる不服は、生前とは比べ物にならないほど小さかった。やはり親の言葉に圧が感じられなかったことが大きいのだと思う。不服は理不尽その物ではなく、理不尽に伴う圧から生じるのかもしれない。
夜、眠る前に、さすがにLINEで笹川さんに一言謝っておいた。するとすぐに寄越された返事には、逆に心配になるほど気丈な態度が戻っていた。
『わざわざありがとう。でも百合園くんは何も悪いことしてないよ。私のわがままを聞いてくれただけ。またしてほしいことがあったらいつでも、何でも言ってね』
俺はその文面の「いつでも」という点から、今日のような日が繰り返される未来が大いにあり得ることを想像した。当然、同じような不良の態度を二度三度と取られれば、それを受けた大人の怒りが今日とは比べ物にならなくなることまで含めて。
いざという時には、笹川さんにも天国の力を分けてあげよう。そう決めて、適当な返信をしてから俺は眠りにつく。……その場であらかじめ彼女に叱られない力を分け与えることは、出来るのにしなかった。
翌朝起きると、笹川さんから深夜のうちに追加のメッセージが入っていた。俺がスマホを手放して布団に入った直後のことだったらしい。
『今日の練習→115分×3=345分。エッチした時間→54分。計、+291分で、残り1239分(約20.6時間)』
……俺はその日登校して朝一で、笹川さんの肩を叩いて言った。
「おはよう。……あの、例のカウントなんだけどさ。10時間を切った時だけ教えて」
輪上さんから性的な話をされるとどうにも居心地が悪くなるのは、今でもどこかで彼女のことを、職場の上司として見ているからなのかもしれない。
「そういえば、一時間近く口でさせるなんて、百合園くんも結構鬼畜だよね」
それは、サキュバスしかいない世界だからこそ咎められも眉をひそめられもしない、単なる昼休みの雑談の一つだった。
「そんなつもりはなかったんですけど。なんか気づいたら、外が暗くなってて」
「合唱練習もそのくらいパッと通り過ぎればいいのにね」
「あー……。それかサキュバスみたいに、疲れ知らずでケロッとしていられるかですね」
「できるでしょ? 天国なんだから、無限の体力くらい」
「精神的な体力の方が問題なんですよ」
天国の力で、精神に直接干渉はしない。それが幸せを追求するためのルールだ。
今日もこのあと午後の授業が終われば、二コマあるそれに匹敵する量の練習が待っている。毎日の授業が八時間目まであると聞けば明らかに異常なのに、それが行事関係のことだとなれば誰も異を唱えない現象は、本当にいったい何なのだろう? この世からサービス残業が消えない理由の根源が案外ここにあるのではないか。
練習が控えているせいで、単体で見れば平和であるはずの昼休みが、なんだか死刑執行日を待つ囚人のそれにも感じられてくる。メンタルに対するこの腐った蜜柑のような影響力は生前に感じた物そのままだ。つまり今のところ、まるで何も克服できていない。
「これは成り行きで思ってるだけなのかもしれないけどさ」
壁と窓枠を背もたれにしながら、輪上さんは言う。
「笹川さんを上手く使うことが鍵なんじゃないかな」
「と言いますと……?」
「百合園くんは天国に来た当初、ハーレムパワーで合唱祭を乗り越えようとしてたわけでしょ? でもハーレムには慣れちゃって、上手くいかなかった」
「まぁ、ですね」
「でも逆にいえば、もしも合唱祭が四月にあれば、序盤にいきなり成功してたはず。……そうでしょ?」
「あー。まぁ、たぶん」
「ってことは、方向性は間違ってないはずなんだよ。笹川さんを使って「まだ慣れてない良いこと」ができれば、今回のことだって乗り越えられるんじゃないかな」
「まだ慣れてないこと……」
心当たりは、ある。
あの時、帰宅を促したつもりの発言が嫌味として捉えられて、奉仕中の笹川さんから謝られた時。なぜ自分があんなに興奮したのか、俺にはまだハッキリとは理解できていない。それに笹川さんが怒鳴りつけられて叱られる様を遠目に見たあと、送迎される車内で彼女から無言で手を握られた時、それと同種の妙な感覚にとらわれたことも印象深い。
ハーレムに慣れてしまったがゆえに、俺には何か、今までの自分では把握できなかった新種の性癖が芽生え始めているのではないか。正直自分でもそう考えはしたけれど、しかし考えたところで、ではその性癖とは具体的に何なのかということが、ちっともピンとこない。
「その慣れてないことが何なのか、パッと分かればいいんですけどね」
「片っ端から試してみるのはどう? 時間は山ほどあるみたいだし」
「試すってどんなことを」
「そうだなぁ。……たとえば、ちょっと乱暴なことをしてみるとか」
「乱暴……」
笹川さんの髪を掴んで引っ張ったり、セックス中にビンタや首絞めをすることを想像する。……ものすごく気が引けた。やりたくない。
「めちゃくちゃ気が進まないんですけど」
「えー。鬼畜モードの百合園くんが活き活きするかと思ったんだけどな」
「だからそれは事故みたいなもので……」
言いながら、教室の対角線を見ると、仲良しグループで話していた笹川さんが何か失言したのか、冗談めかした調子の友達から「この口か〜!」と両の頬をひっぱられていた。
いひゃい、いひゃい。そうリアクションしながら笑う彼女を見ても、やはりピンと来ない。百合園翔に鬼畜モードとやらがあったとして、それと暴力は無縁な気がする。
結局、具体的な策は思いつかないまま昼休みは終わって、囚人にはさらに憂鬱な午後の授業が課せられた。実際の死刑と違って練習には終わりがあるかわりに、最後の晩餐的なご褒美どころか普通にしんどい授業が直前に二コマも控えているというのが、半不登校児にとどめを刺すミソである。
世界が美少女だらけで、なおかつ昼休みに輪上さんと作戦会議をする前に、最近見たYouTubeの話をしてメンタルを回復していなければ危なかった。どんなマイナーな動画の話題にも天使は追いついてくる。その点ではサキュバスよりも強い。
必死にノートを取らなければならなかったり、中一の時点ですでに内容についていけなくなることもある授業と違って、合唱練習への向き合い方はひたすら耐えることにある。仮に芯の出ていないシャーペンを握り続けていればいずれ授業のサボりは目に見える形でバレるけれど、合唱練習の際にもしも口パクをしたらバレるのかどうか、それすら疑わしい。
というのも、練習時間の長さに見合わず、これといって合唱のクオリティは上がっていかないのだ。世の中の大半の技術的作業がそうだけれど、「とりあえず数をこなせば上手くなる」というのは才能がある人専用の理屈である。生まれつき合唱の才能を持った人なんてそうはいない。そしてこの場には、数十名の生徒を適切に率いることができるほどの音楽的指導者もいない。
一曲歌い終えるごとに、あるいはネックとなるパートを繰り返すごとに、笹川さんが改善点や評価点を述べることがある。小川先生が同じ役を務めることもある。音楽科の教師が時々見回りに来ることもある。けれどどれもクリティカルな要素にはなれない。それこそ部活動のように、適切な能力をもった指導者が常にそばにいて指導するなら、……そして何より参加者全員に向上心があるなら、話は別なのかもしれないけれど。実際にそんなことは起こらず、俺ほど致命的ではなくても、俺と違って真面目ではあっても、そもそも合唱という行いの出来にあまり関心のない生徒というのは、この教室の中にもちらほらと居る。
体育祭のダンスと同じだ。覚えることはできる、段取りもよくなる。でも、仮に夏休みの時空が無限ループ現象に突入したとして、その間毎日ダンスの練習をしたとして、「体育祭のダンスに取り組んでいるだけの普通のクラス」が「ガチ勢の集まりに匹敵」することは絶対にない。当たり前のことだ、極論、そうでなければプロなんて概念は成立しないのだから。
だからその手の練習において、ある一定のクオリティを確保したあと(合唱においては歌詞とメロディーと音程を覚えたあと)、俺にできることは耐えることしかない。目立たないように立ち回りながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。上手くなりたいだとか、上手くならないことに腹が立つだとか、そういう気持ちは根本的にあり得ない。
一言で言うと、長すぎる練習には意義もやりがいも感じられないのだ。そしてその中で耐える二時間は、確実に精神をむしばむ。まるで無意味に穴を掘っては埋めて、掘っては埋めてを繰り返す拷問のように。
……そんな練習をどうにか切り抜けたあと、必要最低限の相槌以外はもはや喋る気力もなくなりながら下校しようとすると、今日も廊下で待っていた笹川さんに遭遇する。
彼女と目が合うと、輪上さんは空気を読んだ顔をして無言でその場を離れていった。俺はそれを合図にして、また笹川さんの手を引き昨日と同じ場所へ連れ込む。もう向こうが戸惑いの声を上げることもなかった。
けれど、今日も彼女の顔には、怯えたような小心ぶりが浮かんでいる。
俺は率直に聞いた。
「今、どんな顔してる? 俺」
「……すごく疲れてそうに見える」
どこか言葉を選んだような間があった。
トイレの流しの前には鏡が取りつけられている。チラとそちらを確認すると、見覚えのある表情をした自分が映っていた。
生前、学校側が合唱祭の映像をDVDとして残していて、卒業生全員にそれが配られた。俺がそれを再生してみる気になったのは成人後しばらくしてからのことだった。
その映像に見る昔の自分は、通り魔のような顔をしていた。実際の通り魔の表情などは見たことがないけれど、この人生が何も上手くいっていない他責思考の男が、明日にでも取り返しのつかないことをしたとして、そこには何の意外性もない。そう思わせるだけの、不満と憎しみと疲労の表情がしっかり映像に残っていた。
鏡の中の自分も同じだ。若返った体に過去がそのまま宿っている。練習が始まってたったの三日で、すっかり当時の有り様に戻っている。
正面に立ち尽くす笹川さんは、天国の無力さの象徴のようにずっと居心地が悪そうにしている。
「……昨日と同じことして」
「あ、は、はい」
彼女はあわてて俺の前にしゃがみこむ。自尊心など概念ごと忘れてしまったかのような態度に反して、手さばきは熟練して的確だった。
似たようなことを、俺はきっと誰にでもさせられる。休み時間中の暇そうなクラスメイトに「ちょっと来て」といえば、きっと誰も断らないし、逆らわない。笹川さんとの契約は、初めて俺が自分から相手を選んだ時と同じように、口実めいて背中を押すことだけに機能している。……理屈の上ではそのはずだ。
けれど実際にそれを行使してみると、かつてあった「日常的な天国」とは何かが決定的に違うことが、俺にも分かる。ただクラスメイトの手を引いてフェラチオを要求することと、今目の前で起きていることの間には、何か大きな差がある。
俺にはまだ、その差の正体が分からない。けれどおそらくそこに突き止めるべき何かがあるという予感自体が、そのまま希望でもあった。
笹川さんはもう「気持ちよくない?」と尋ねてくることもなく、ひたすらに黙々と奉仕を続けていた。一方で俺は昨日と同じで、負の感情にせき止められて射精に至ることができない。別の言い方をするなら、これでとりあえず「昨日のことは偶然ではない」という説がかなり有力になった。
偶然ではないなら、再現性があるかもしれない。俺はそれを確かめようとする。
「このままだと、また夜になっちゃうよ」
びくっ、と笹川さんが反応する。
口をはなさないまま、目だけでこちらを見上げてくる。その目が俺に何かを訴えているのか、それとも俺の何かを探っているのか、鈍感な観察眼では分からなかった。
彼女はまた自分が怒鳴られることを想像して怯えているのだろうか。それとも、百合園だけが叱られなかったことの不思議、理不尽について悶々と考えているのだろうか。
……その頭の中にあるらしき思考は何も読めないけれど、ただ彼女は俺の腰元に添えていた手をそっと下ろして、両手を自らの背中側に回した。ちょうど、見えない縄で拘束されているかのように。
笹川さんも輪上さんと同じようなことを考えたのかもしれない……とすぐに察する。百合園という男は実は鬼畜で、暴力的で、イラマチオをすれば満足して射精するものなのかもしれない……と。
実際、試してみる価値はあったと思う。自意識と性癖が乖離しているという可能性もなくはないだろうから。俺が自分でも知らないうちに暴力に魅入られているという説もなくはなかった。
……しかし実際のところ、笹川さんの頭をおさえて好き勝手に腰を振ってみたところで、結局、昨日のような射精感は湧き上がってこなかった。そしてそんなことをしているうちにも、窓の外は着実に暗くなっていくのだ。
笹川さんはそろそろ、自分のもちかけた話を後悔し始めているんじゃないか。そう思いつつ一度彼女の口を引き離すと、当たりどころが悪かったのか、解放された彼女が珍しく咳き込んだ。それもうっかりすると嘔吐を伴いそうなほどに激しく。
……しばらくして落ち着いた彼女が、肩で息をしながらこちらを見上げた時。その目に宿っていたのは怯えではなかった。狂気でもなかった。ましてや、怒りや不服でもない。
潤んだ銀色の瞳が、哀れみをこめてこちらを見上げていた。
「……百合園くん、昨日誰かに怒られた?」
「え……?」
「お父さんとかお母さんとか。家に帰ったあとに」
「いや、特には」
「そっか。結構そういうのに、寛大な家なんだね」
そう言う彼女はあの日家に帰ったあと、両親からもこっぴどく叱られたのだろうか? LINEのメッセージが気丈だったから、そういえばそこまでは想像もしていなかった。
生前のそれとは大きく事情が異なるとはいえ、結局のところ俺たちはまだ中学生だ。どちらかの親が状況に物申せば、それに逆らうことは非常に難しくなる。それを避けるために天国の力で「叱られない」という特権を笹川さんにも与えれば、いつでもなんでもしてくれるという約束を遵守させることは出来るけれど、今のところそこまでして彼女にやらせたいことも思いついていない。
親に怒られるから帰りたい。彼女がそう言うなら、素直にそれに従おうと思った。
……けれどそれが彼女の本意なら、俺を哀れみの目で見つめるようなことはしなかったはずである。許しを乞うなら、もっと別の表情がふさわしいはず。
だからなのか、笹川さんの次の言葉は、俺の予想とはまったく違う内容になった。
「百合園くんのことを満足させられなかった時の持ち時間は、使わなかったことにするから」
「……え、なに?」
「無駄に時間だけかけて満足させられないのに、約束は守りましたよって言われたら、はぁ?って思うでしょ。だから、今日は1分も使ってないってことでいい」
「え、いやでもすでに結構な間……」
「いいの。私が悪い」
淡々と、心をすり減らす様子すらなく、彼女は言葉を紡ぐ。
そしてにこりと、慰めるような笑顔を浮かべて、俺に問うてくる。
「どうする? 百合園くんが怒られないなら、このまま続けてもいいし。もう遅いし帰るっていうならそれでもいい。……どうしたい?」
「え、えぇ……」
そうやって、こちらの都合しか存在しない二択を提示されて。俺はようやく、彼女の視点から見えている景色を想像できた。
疲労と憎しみを隠しもせず自分の手を引く、合唱の練習が嫌いな男。そいつは自分に奉仕を求めるわりに、どれだけ尽くしても満足そうな素振りを見せず、ただただ不満げな態度で夜へと向かっていく。
笹川さんの計画ではきっと、もっと別の光景を思い描いていたに違いない。嫌なことに付き合わされるストレスを全て自分に吐き出して、あーすっきりしたという顔で相手が家路につくこと。それを想像して、それを後押しするために、あの取り引きをもちかけたはず。
そんな笹川さんが、何をさせたいのかが自分でも分からず、とりあえず奉仕を命じてみたはいいものの全く満たされていない男の様子を見たらどう思うか。その男が帰宅後、もしも自分の知らない場所でこっぴどく叱られていたらと想像して、何を思うか。……その答えが哀れみの目なのだ。
彼女はどこまでも俺に譲歩する。彼女から見た俺は、ただの生きづらくて可哀想な人だから。
「……帰ろうか」
「うん、わかった。ごめんね」
「こっちこそごめん。……今日は先生に見つからないように気をつけて帰ろう」
「あはは。いいのに」
笹川さんは本当におかしそうに笑った。
先生に見つかりませんように。……天国の主がそう念じながら廊下に出たなら、実際に見つかることはない。俺たち二人は音を立てないように下駄箱でこっそり靴を履き替えて、暗闇に紛れるようにそそくさと門を出た。
笹川さんの家は、ウチとは真逆の方向にあるらしい。門を出たところでさっそく解散になる。
……その日の布団の中で、俺はまた彼女にLINEを送った。
『親に怒られたりした?』
『大丈夫だった。昨日も平気だったし』
俺にはその言葉を信用することはできなかった。
そしてそれと同時に、段々と自分の厄介さに気づいていく。
『それならよかった。あと、いろいろ考えてみて、一つお願いしたいことを思いついたんだけど、いい?』
『なんでもいって』
……次のメッセージで俺が要求した非倫理的な内容は、取り引きによって得た多くの時間を消費するものだった。
翌朝からさっそく、その約束は果たされた。
「笹川さん、約束守ってくれたか見せて」
「……はい」
朝のホームルーム前の騒がしい教室の只中で、彼女はスカートをたくし上げた。
彼女が下着を身につけていないことを、俺と輪上さんと、その他おそらく数名の生徒が確認する。……笹川さんはその中でも特に、輪上さんの視線を気にしていたように見えた。俺と輪上さんが特別な関係にあると思っているのか、それとも、彼女だけがサキュバスでないことに気づいているからなのか。詳しい理由は分からないけれど。
笹川さんはこちらが「いい」と言うまで、決してスカートの裾を下ろそうとしなかった。
用の済んだ彼女が自分の席に戻ったあと、輪上さんが全女性を代表したかのようなドン引きの視線で俺を見る。
「いや、輪上さん。まぁ聞いてくださいよ」
「ノーパンしゃぶしゃぶの素晴らしさを?」
「違いますよ。……いや、あながち違ってもないかもですけど」
「うわぁ」
「うわぁじゃなくて」
まぁ、引く気持ちも分かるけれど。
仮に生前の世界にサキュバスがちらほら居たとしても、あの職場の休憩室で話す仲でしかない限り、輪上さんとこういう話をする日は来なかっただろうから。徐々に自分の線引きがおかしくなっている自覚はある。それが今に始まったことではないという自覚も。
しかしその分の成果もある。
「僕、分かった気がするんですよ。自分の性癖が」
「ほう」
「たぶんなんですけどね。……僕は自分に尽くしてくれる女の子が好きなんです」
「それは知ってる」
「はい。で、その上でですよ。……僕に尽くしてくれる課程で、なんというか、割をくってる女の子を見るとですね。なんかこう、扉が開くような感覚があるんです」
「新しい性癖のってこと?」
「たぶん」
それがこれまでの体験から算出した、ひとまずの結論になる。
人に尽くす際、その労力とは無関係なところに、割をくうかどうかという観点がある。たとえば笹川さんが休み時間のたびに俺の性欲の相手をさせられていたら、それは俺に尽くしてるということになるけれど、だからといってそれだけではそこに「尽くしたせいで先生や親から叱られた」という構図は生じない。かといってそれの生じないことが、彼女に課せられる労力の重さを否定するわけでもない。
割をくう尽くし方と、割をくわない尽くし方。労力とはまったく関係ないところに、そういう区別がある。日常的なサキュバスとのセックスと、合唱練習が始まってからの笹川さんとのセックスに感じた差は、おそらくそういった点にある。
日常のセックスにはそもそも「割をくう可能性」がない。なぜなら仲良くエッチをするためには、その良き関係性を続けるためには、お互いの生活を脅かさないことが当然の前提になってくるから。笹川さんが俺に捧げているのは時間的拘束というよりも、その前提の排除と考える方が正しい。
それに、自分だけ先生に叱られなかったことを機に、気づいてしまったことがある。
「よく考えたら僕って、天国の力を使えば、顔パスでラブホに入れるはずじゃないですか。何でも叶うんだから」
「え? あぁ、うん」
「そう考えると、普段仕方なくそこらへんでエッチしてる女の子が可哀想じゃないですか?」
「えぇ、うーん。まぁ相対的に、あと客観的に、いや、それプラス人間的価値観から見れば……そういうことにもなるのかなぁ」
「僕はその可哀想さを心のどこかで気に入ってた気がするんですよね」
「うわぁ」
「うわぁなんですよ、本当に」
だからラブホに行くことを本気では考えなかったし、笹川さんのノーパンをわざわざ人がいる教室の中で確かめてみた。本当は人のいない場所で確認してもよかったのに、たぶん、自分はそういうのが好きだから。
合唱祭を乗り越えるためには、笹川さんにもっと割をくってもらう必要がある気がする。……そう考えるとワクワクするどころか罪悪感が湧いてきてしまうことが、この仮の結論に残された唯一の謎なのだけれど。
「百合園くんさぁ」
と、輪上さんはその話を聞いて、軽蔑するでもなくたしなめるでもなく、ただニヤニヤして言う。
「勃起しながら真顔で自己分析してるの、だいぶ面白いよね」
「えぇ……? 天使ってそうなんですか?」
「アハハ」
真に受けてなさそうな笑い声と共に、彼女は自分の席へ戻っていった。俺が時計を見上げると同時に担任が教室にやって来て、朝のホームルームが始まる。
笹川さんはその日ずっと下着を身につけずに過ごす。授業六コマに加えて休み時間や給食や掃除、登下校の道のりまで考えると、契約上から消費される時間は相当な物になるはずだ。……と思っていたのだけれど、今日からは音楽の授業が合唱祭練習に当てられるようになって、少し事情が変わった。
音楽室から教室への帰り道で、制服のスカートをひらひらさせながら小走りの笹川さんが隣に来て、言う。
「今の授業の分も、3倍にして付けとくから」
「え? あー、あぁ、うん」
授業は一コマ50分。放課後の約360分にプラスして150分が追加されたことで、笹川さんの借金は大して減らないことになった。
彼女は俺の苦手としている物を勘違いしているのかもしれない。はっきり言ったはずだけれど、俺は合唱祭の練習その物ではなく、それが長すぎることを憎んでいる。もしそれが合唱練習ではなく七時限目以降の授業だったとしても当然同じように憎むことの裏返しで、元々授業だった時間が合唱になる分にはべつにどうでも良いのだ。
けれど仮にそれを説明したところで、初回10時間特典を付けてくれたような笹川さんが「あ、そっか」とすぐに納得するようなところは想像できなかったから、あえて黙っておいた。
その日の放課後の自分は、練習中どこか上の空だった。現実逃避じみて、どうすれば自分の性癖を満たせるのかを考えることに必死だったのだ。
しかしその必死は本望だった。確かに二周した時計の針が、道中いつもより早く動いた気がしたのだ。まさしく克服への第一歩だった。
問題は、二時間も考えた末に、性癖を満たす方法を思いつけなかったことだけれど。
「んっ、あっ、あっ、あんっ」
せっかく下を穿いていないのだからと考えて、その日の練習を終えたあとは、笹川さんのことを犯した。立ちバックの形でスカートだけめくり上げて、彼女にはトイレの窓から顔を出させた状態で喘がせている。ここは一階だから、誰かが傍を通れば「目が合う」では済まないだろう。
……けれどそれは茶番だった。サキュバスである笹川さんは、べつに誰にそれを見られても平気であるはず。これまでサキュバスたちが俺とまぐわう場所に空き教室やトイレといった隔離空間を選んできたのは、自分が恥ずかしいからではなく、人間であるこちらに気を使っているからに違いなかった。というか実際、どちらかといわなくても俺の方が、他人に自分のセックスを見られたくはない。
割をくう尽くし方を求めるということと、人間基準で考えて相手の尊厳を脅かすプレイを要求することは、必ずしも同じではないらしい。朝のたくし上げと何が違うのかといわれれば言語化して説明することは難しいけれど、とにかくあれは趣のあることで、今自分がしていることは茶番だと感じてしまう。それが事実だった。
練習が短く感じたことで、多少機嫌を保てていたことが幸いだったのか、前日までと違い射精に苦労することはなかった。けれどそれで心が満たされるわけじゃない。
窓枠から顔を引っ込めてこちらを振り返った笹川さんの紅潮した顔が、みるみるうちに通夜のようになっていく。俺はまたロクでもない顔をしていたのだろう。
「……他にしてほしいことはある?」
頼むから何かあってほしいという様子で、笹川さんが聞く。気持ちだけは俺も同じだったけれど、思いつかないものは思いつかない。
特にはないと答えて、合唱練習が初めて以来初めて日暮れ前に帰宅した。今日の結果だけを見れば過去一番の好調だったけれど、このままでは明日以降も同じ調子が続くとは思えない。笹川さんとお互いにそれは確信している。
夜眠る前に、俺は真剣に考える。ノーパンを強要した笹川さんに教室でスカートをめくらせることと、セックスを強要した彼女に窓から顔を出させて黙る権利すら奪うこと。自分はどうして前者には興奮して、後者には白けたのか。……あるいはそもそも、なぜ自分はサキュバスがこちらのために身を粉にした上で、それに報われない境遇に見舞われる様を見ると興奮してしまうのか。
割をくうといえば、クラス全員で合唱に励むという目的のために彼女一人だけが犠牲になっているということ自体、その一種だ。けれど俺の性癖はそこに反応しない。その理由はきっと、彼女の尽くしている対象が合唱祭であって、俺ではないから。
けれどそれを言い出せば、彼女の行動はすべてがそうであるはず。不機嫌そうに長時間の奉仕を強いられるのも、理不尽に叱りつけられるのも、学校生活の丸一日を通して辱められることも、すべては合唱祭のためであるはず。なのに俺はその要所要所に、自分の新たな一面を見てしまう。
……何か条件があるのだろうか? 元々自分は感情を上書きされやすい性格をしている。「合唱祭に尽くしている」という前提が「百合園翔に尽くしている」に塗り変わったかのように勘違いするための条件がどこかにあって、それがこのコントロールしがたい負の感情を克服するための鍵なのだろうか。
日付が変わっても、明確な結論にはたどり着けなかった。天国に来て以降、眠らない夜ならともかく、眠れない夜を過ごしたのはそれが初めてだった。
あれこれと考え、試行錯誤しているうちに、とりあえず最初の一週間を乗り切ることには成功した。授業にも合唱練習にもなんとか皆勤賞を維持している。
笹川さん相手には色々なことを試した。好意を向けられていると感じれば尽くされている実感も強まるのではと考え、何度も「好き」と言わせてみたり。言葉にすることで割をくっている感が強まるかと思って、ここ最近の感想を言わせてみたり。
その結果、まず俺は茶番に興奮できないという自身の性質を確信することになった。いくら「好き、大好き」と言われても、それがプレイでしかないことが分かっていると何も感じるところがない。元々間違っても嫌われてはいないことは天国の主として知っているところであるし、サキュバスが性への奔放さと引き換えに恋愛感情を尽く持ち合わせていないらしいことは、この半年近くの生活を通してなんとなく分かっているから。あからさまな茶番は、苦手を乗り越えるモチベーションにはなれなかった。
また感想を求めたことについても、返ってきた答えは拍子抜けする物だった。下着を身につけずに過ごしたことについては、少しスースーするくらいで、べつに何が困るわけでもなかったと言って笑うし、長時間の奉仕を強いられることは、元々エッチが好きだから苦ではないのだという。……その感想を聞いて、俺は一つの矛盾に気づく。
自分の天国の初期設定に採用しただけあって、俺は男性の一般的感覚そのものとして、異性から好意を向けられることに心底の心地良さを覚える。しかしそれと「自分のために割をくってほしい」は微妙に噛み合いが悪い。こちらに好意のある相手は、自然と「全然平気だよ」というリアクションを見せがちになる。不憫な印象とそれは必ずしも相反するものではないけれど、それが本当に丸っきり平気に見えてしまえば、性癖からは遠ざかっていくのではないか。
けれどそれは本来、俺が望んでいるはずのことでもある。他人がそこかしこで自分よりもつらそうに生きていれば、俺は自分のトラウマの克服に集中できなくなる。天国においては自分自身が最も不幸な人間でなければならない。だから「平気に見える」というのは想定通りのことであるはずなのだ。
実際、笹川さんとの関係は、彼女が音を上げたその瞬間に終わる。そうすれば俺が自身の性癖について考察する機会もなくなる。合唱祭の克服方法も別のアプローチを考える必要に迫られる。……そんな「平気でなければ成立しない話」の中に不憫を求めるとは、いったいどういうことなのだろう? 自分でもよく分からなくなってくる。
合唱練習の時間をやり過ごすネガティブな無心の気構えや、それを克服せんと繰り返す堂々巡りの自問自答的考察の暗中模索ぶりは着実に心を蝕み、練習が始まって以降初めての土曜日が訪れた頃、俺はその日の午前中のうちから、すでに「月曜からの練習について」に思考を侵食されていた。この土日が終わればまたあの生活に戻るのか……と。正直言って、練習はもちろん、性癖について考えることにも嫌気がさしてきていた。
けれどその一方で、この土日が笹川さんの時間をめいっぱい使う貴重なチャンスでもある。自宅で昼食をとったあと彼女を呼び出す時、単なるもったいない精神でこちらに負い目のある異性にセックス前提で声をかけることに、若干の興奮を覚えている自分がいたことは否定しきれなかった。
呼び出しは文章メッセージではなく通話で行った。
「笹川さん、今ひま?」
「うん。呼ばれるかなって思って」
「どこかで会いたいんだけど、どこがいい?」
「どこでも大丈夫だよ」
「……本当にどこでも?」
うん。……と即答した彼女を、俺は自宅に呼び出した。
休日は親も家にいる。生前の世界の休日の自宅でクラスメイトとセックスなんかしようものなら家族会議では済まなかっただろうけど、幸いにも今は両親すらサキュバスに置き換わっている。教師同様、性行為自体が咎められるということはない。
笹川さんはまったく動じなかった。住所を伝えると地図アプリを片手に三十分程度で玄関前に現れ、友人というていでウチの親に挨拶しながら普通に家に上がってくる。
天国に来て以来、輪上さん以外の異性を自室に招き入れたのは初めてだった。天国ならばそれが簡単に可能なことなのかどうか、なんとなく確かめてみたかったのだ。
「瑠璃色ってどんな色なのか、何回調べても覚えられないんだよね」
どうでもいいことを言いながら部屋の扉を閉め、回転椅子に腰を下ろす。朝起きた時から敷かれたままの布団は乱雑に放置されていて、キョロキョロとまわりを見回した末に、笹川さんは勧められるまでもなくその布団の上にちょこんと座った。
今日も彼女の私服は架空の制服を彷彿とさせる。袖口にフリルのような物が目立ち襟がきっかりした、胸元にボタン付きの白いシャツ。首元を彩る真っ赤なリボンは本人の銀髪にも映えて、チェックのスカートの丈は膝より僅かに上。……それを見てももはや俺は、彼女にミステリアスな雰囲気を感じたりはしないけれど。
放課後と違って、今日の笹川さんには警戒心というものが感じられなかった。喫茶店でお喋りするみたいな気軽さで彼女は言う。
「ラピスラズリって知ってる? 宝石の」
「え。知ってるけど」
「あれの色だよ? 瑠璃色って」
「うそっ」
あわててスマホで検索すると、本当だった。瑠璃色はラピスラズリ色。
宝石の国という漫画があって、そこでラピスラズリはかなり印象深い登場をする。瑠璃色がラピスラズリ色だと知っていればそれを忘れるはずがないのに、俺の記憶には「何度調べても覚えられなかった」という情報が色濃く残っている。
いったいどういうことなのかと考えてしばらく後、心の中で一人で膝を打った。中学三年の合唱祭で歌った「瑠璃色の地球」。そこから瑠璃色をググッた当時、俺は宝石の国を知らなかった。その後自分が高校生になった頃、アニメ化を機に宝石の国を知ったわけだけれど、アニメ化された範囲にはまだラピスラズリが登場していなかった。
つまり俺は、そのあたりの時期に何度か「瑠璃色」を検索して、関連付ける情報を持たないばかりにその色のことを上手く覚えられずにいた。そしてその印象だけを失敗体験として抱えたまま、ラピスラズリを知ったあともずっと、自分には瑠璃色が分からないと思い込み続けていたのだ。
まさかこんなところで、思い込みのおそろしさを垣間見ることになるとは。
「それで百合園くん。今日は私に何をしてほしいの?」
傍から見れば些細なことに取り乱す俺を見てくすくすと笑いながら、笹川さんは余裕たっぷりに言う。合唱練習後の放課後だけでなく、先生に叱られた時に見た弱り具合を鑑みてもそうだけれど、彼女は相手の機嫌に自分のペースを大きく左右される性格をしているのかもしれない。
親がいるから声出さないでね。数日前、窓から顔を出させた時の趣向とは相反することを求めても、彼女は何の疑いもなく「わかった」と頷いた。そして生活感の塊みたいな場所で押し倒されるがまま犯されながら、本当にうめき声一つ発さなかった。
自室でセックスすると、他のどの場所よりも少し割増でドキドキする。けれどそのことと、壁一枚隔てた向こうにいる親の存在は無縁である気がする。そのドキドキはスリルではない。ただ自分のテリトリーでそれが行われているということに、言葉では表しがたい特別感があった。学校のような、本来許されない場所で性行為に及ぶことの特別感よりも、それはさらに確かなものだった。
いつもより機嫌がいいと見たからなのか、笹川さんも目が合うと嬉しそうに微笑む。そこに含まれた魅惑の色が、セフレというよりも恋人に近かった気がするのは、つい最近求めた「好きと言わせるプレイ」を踏まえて気を利かせてくれた故だったのだろうか。
他のクラスメイトと仲良くセックスをしていた時とは何かが違う、妙に生々しい好意が漂う異様な雰囲気の中、笹川さんが口パクで何かを言う。「なに?」と耳を近づけると、図書館で話した時と同じように小さな声がささやく。
「お願いしていい?」
「なに?」
「くび、絞めてほしい」
幸せそうな笑みを浮かべながら、彼女は確かにそう言った。
首絞め、暴力。……それに紐づいた記憶が脳裏を駆けていく。乱暴なことを試してみれば? と軽く言う輪上さん。友達とのじゃれあいで頬をつねられる笹川さん。そういえば彼女が頻繁に言っていた、「他の子に出来ないようなことでも」というフレーズ。
……俺は改めての確認を取ることもなく、言われるがままに笹川さんの首を絞めた。
「かっ……あっ……」
ほんの少し力をこめただけで、彼女は舌をつきだして苦しみだす。握力が強い方ではないはずだけれど、自分から望むわりに、不死身のサキュバスであるわりに、窒息への耐性は持ち合わせていないのだろうか。
俺はすぐに手をはなした。すると解放された彼女の息はまったく上がっていなくて、困ったような微笑みを返される。小心者だと思われたのかもしれない。
以降、彼女が暴力的なプレイを求めてくることは一切なかった。そのかわりに、空いた枠を埋めるかのように、しきりにキスをせがまれた。それ自体は他のサキュバス相手でも珍しいことじゃない。
サキュバスとキスをすると、必ず舌を入れられる。こちらからそれをして拒否されることがないのはもちろん、こちらが何もしなければ向こうから仕掛けてくることも「必ず」だ。経験の数が増すごとに、彼女らがキスを性行為の一つとしてしか捉えていないことを実感する。笹川さんもそれと全く同じだった。
遠慮なく中に出すことも、頼まなくても時間があればお掃除フェラをしてくれることも、全てがサキュバスのいつも通りだった。家に呼び込んだことが特別なだけで、自分から誘ったことが特別なだけで、大きく変わったといえることは何もない。相変わらず、文句のつけようもない天国の待遇があるだけった。
……それを相殺し得てしまうトラウマの威力って、現世に存在が許されていい物じゃなかったんじゃないか? 着崩れた服のまま次の指示を待つ笹川さんの無垢っぽい目を見つめながら、俺はそんなことを思った。
自分はまだ天国を活かしきれていない。間違っているのは生前の世界の在り方ではなく、有り余る恵みを活かしきれていない今の俺の方。なんでも言うことを聞いてくれる美少女を前にやることがただのセックスだけでは、いかにも宝の持ち腐れだ。
俺はその日、日が暮れるまで笹川さんの体を弄んで、翌日は彼女を呼ばなかった。慣れは次第に、飽きへと変わっていく。同じ相手と連日長時間交わったのは、実はそれが初めてだったように思う。
真面目に生きている人には「レールを外れる恐怖」が付き纏うものらしい。ランドセルとお別れをする前にレールから外れてしまった俺には分からない感覚だと思っていたけれど、皆勤賞を維持することで、似たような感覚は得られたような気がする。
ぶっちゃけ本心としてはもう学校に行きたくない。月曜の朝、自らの足で教室にたどり着いた俺は黙ってその苦渋を噛みしめていた。こんなに嫌気がさしているのに輪上さんの手を借りずに教室に来られたという点に、逆に本格的に歯車が狂い初めている感触がある。いわゆる躁のような感触が。
「ところで暴力が嫌いっていうのは、本当だったみたいだね」
いつものようにこちらの席まで来て話していた輪上さんが、雑談の一環として言う。すべてを見通す彼女は土曜の俺の様子も知っていて、例の約束によりそれを隠すこともない。
「嘘かどうかなんて、天使の力で初めから分かってるんでしょう」
「天使も未来のことは分からないよ。百合園くんのそれは、つい最近までは食わず嫌いだった」
「あー……」
「私もいろいろ考えてみてるんだけどねぇ……」
「いろいろ?」
「百合園くんが、どうしたら楽しめるかなって」
輪上さんからそう言われると、給料に関する話が連想された。
給料をもらっても、それを使って上手く人生を楽しむことができない。働くことに関する自分の問題点の一つはそれだった。考えてみれば最近の状況はそれに似ているところが多い。笹川さんから奪う時間は給料で、俺は上手く買い物ができていない。決して悪いものを買っているわけではないはずなのに一向に満たされず、このために頑張っているんだという確信が得られない。
そうか、問題は初めからずっと地続きだったのか……。体育祭までの天国が楽しかったのは、起こるイベントの尽くが、労力と対価の関係にはなっていなかったからだ。笹川さんも初めはただの面白い人で、自分自身の抱える問題の確信には触れてこなかったからこそ、上手くやっている気になれていたのだ。
その点は生前と同じなんだな……と虚しさを覚える。自分が労力と対価の関係に問題を抱えていると自覚したのは高校を卒業したあとのことだった。学校という場所は往々にしてそれに気づかせない構造になっている。今回は笹川さんという狂気がその基本形を覆しただけで、そうでなければきっと俺は今頃……。
……今頃、どうしていたんだろう? まるで想像できない。妙案を思いつかず、心折れて練習をサボり、完全に意気消沈していたのか。それとも来年こそはと前向きに問題を先送りしていたのか。何にせよ大した世界線ではない上に、想像してもいまいち真実味に欠ける。むしろ今自分が立たされている現状こそが正史であるように感じる。
きっと合唱祭は、なぜなのかは分からないが、学校で起こる他のどのイベントよりも労働と近しい関係にある。だから生前の俺からも一番のヘイトを買っていたのではないか。俺は潜在意識で気づいていたのかもしれない、自分が一番苦手としている物は何なのかということに。
「……克服しなきゃいけないのは、合唱祭じゃないのかもしれない」
「え?」
「体育祭のダンスは、それだけを克服すればよかったですけど。合唱祭の練習は、克服するべきものが、パッと見の見た目とは違うのかも……」
生き物が住めなくなった環境を再生するためにまずすることが、生き物を連れてくることではないように。本当はひどく根本的である話を、俺は甘く見積もりすぎていたのかもしれない。
考えるほどに、だんだんと、皆勤賞のことがどうでもよく感じられてきた。
チャイムが鳴って、担任が来て、朝のホームルームが始まる。
合唱祭当日まで残り約二週間。その二週間が、果てしなく遠い。蜃気楼のように、見えている距離と体感距離に開きがありすぎる。二週間と永遠の境目は、今の俺にとって限りなく曖昧に感じられる。嫌な懐かしさだった。バイトをバックれる前にも、同じようなことを思っていたのだ。
誰かを殺してやりたいと思うほどの気力も、もはや残っていなかった。むしろ逆のことを思う。誰か、苦しまないように俺を殺して、合唱祭が終わり次第生き返らせてくれないか……。
授業中、また隣の席の相楽さんに心配された。当てられた時にパスすることはしなかった。パスしたところで問題が何ら解決しないことの虚しさが、手に取るようにはっきりと感じられたから。
やり場のないストレスをどうにか紛らわせないかと、机の下で陰湿に、相楽さんの太ももを撫でてみる。すると彼女は、食欲を見せ始めた病人を見るみたいな微笑みを見せた。「少しでも楽になるなら、いくらでもいいよ」。無言ながらそんな声が聞こえてくるかのようだった。……こんなことで楽になるものかと、苛立ちと共に我に返って、俺はくだらないセクハラをやめた。
そしてそんな錯乱を繰り返すうち、三時限目の授業の途中で、ふと気づいた。
そうだ、一回家に帰ろう。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り次第、俺は一人で男子トイレに駆け込む。そして天国の力を使って自宅へ瞬間移動した。四時限目までの休み時間は10分しかない。俺は9分後に自動で学校に戻る瞬間移動能力をセットして、家にいた母に洗脳の力をかけて、今日を土曜日だと一時的に勘違いさせた。
「テレビ見ていい?」
「うん」
ソファに全体重を預け、ちょっと離れた位置にあったリモコンを念力で引き寄せ、弟(この世界では妹だけど)が録画していたアニメを見る。自分が録画している物はちゃんと腰を据えて見たいから、こういう時には見ない。
お菓子とジュースを、冷蔵庫から出すのではなくもはや無から召喚する。そして9分間全力でくつろいだあと、自分以外の記憶を含めたすべての痕跡を抹消して、学校へ戻ってくる。残りの1分で席につき、机の上に教科書とノートと筆記用具を広げる。
天国の力をこれでもかと行使した10分間の有効活用だった。まさかこれだけ力を乱用する機会がこのタイミング・この形で訪れるとは十分前まで想像もしていなかったけれど、やれば出来るのが天国という場所で、それなりに気持ちをリフレッシュできた実感もある。
その実感は、ただ単に家でくつろいだことによる物だけではない。人智を超えた力を次々に駆使したことで、俺は確かに天国の主なのだという実感が改めて得られた。それが希望の光として胸中に灯ったのだ。
昼休みになればまた家に帰って、今度は自分の録画していたアニメをゆっくり見た。天国の力がなければ合唱練習によって二時間もお預けをくらっていたはずの娯楽を、むしろ先取りしたのだ。
時間に余裕をもって教室に戻ってくると、輪上さんから「やるね」と茶化されて苦笑した。なんだか峠を超えたような気がした。
……しかしそれは気のせいなのだということを、放課後になって実感させられた。
練習が始まって十五分程度が経った頃、あれ? という感じがした。昼にあった充実感が、午後の授業中も余韻を引いていた全能感が、みるみるうちに萎んでいくことを感じたから。
三十分が経った頃、一時のテンションを過信したことを心から反省した。一時間が経った頃、余裕ぶって練習に参加したことを後悔し始めた。今日の練習はまだあと一時間もある。
やはり何かがおかしいと感じた。人は、三十分ほどアニメを見るだけでも気を持ち直せるものなのに、一時間も二時間もかけてやることがこれなのか? まるで納得できない。授業のように実のあることですら「過密にやりすぎては非効率だ」と感じるのに、この練習のどこに実があるのか、俺にはそれすら分からない。せいぜい一週間程度しか時間がとれなかったから詰め込むしかない! というならまだ分かるけれど、練習は先週もしたし、今週もずっとあるし、まだ来週いっぱいもあるじゃないか。正気とは思えない。何をそんなに覚えることがある。どこにそんなに学べることがある。なぜ現場に参加しているはずの俺がそれを認識できない? なぜ数年後にDVDを見返した俺すら、それを認識できなかった?
……精神摩耗により失われかけた憎しみの炎を完璧に取り戻すうちに、どうにか二時間の時は経過していた。疲れた様子もないサキュバスたちが、それぞれの仲良しとお喋りしながら、教科書やノートのたっぷり詰まったバッグを軽々背負って、上機嫌に教室を出ていく。
笹川さんだけは、不安そうな顔をして廊下で俺を待っていた。
みんなで横に並んで歌う時、笹川さんは俺とは離れた配置にいて、歌唱中の彼女の表情を盗み見ることは叶わない。合唱リーダーとして笹川さんがみんなの前に立つ時、そこには責任感を背負った面持ちの彼女がいる。そして練習が終わったあとは、不機嫌そうな面の俺に怯えた彼女が廊下で待っている。
俺は合唱絡みの生活の中で、しがらみの外にいる状態の彼女の顔を、まだ一度も見たことがない。
「……笹川さん」
「なに……?」
「合唱、楽しい?」
終わったあとはそんな顔をするのに、それでも楽しい?
俺の気持ちだって嫌というほど分かってるだろうに、それでも楽しい?
察しの良い彼女が、俺の質問のニュアンスに気づかないわけはなかったけれど。俺はべつに、彼女と決別したいわけではないし、彼女を恨んでいるわけでもない。ただ純粋に、それが本当に気になっただけなのだ。
だけど正直、どうにでもなれという気持ちがなかったといえば嘘になる。笹川さんがそれをどこまで察したのかは分からない。
「……ごめんね」
ただ彼女はその時、俺にはできない笑みを浮かべていた。
哀れみなのか罪悪感なのか、とにかく後ろめたい感情が、後悔をしらない者の浮かべる笑みを建前じみて歪めていた。
初めてまともに話した頃の笹川さんの第一印象に得体のしれないものを感じた理由が、ようやく分かった気がした。彼女は、これで結構な利己主義者なのだ。
その笑顔を見て、少し好感度が上がる。元々高い方だったけど更に。本人が楽しんでるなら仕方ないか、と思えた。誓って本当だ。
頭の中に聞き覚えのある声が直接、発信者の姿もなく聞こえてくる。「先に帰ってるね」。
俺は向こうにも返事のテレパシーを送りつつ、笹川さんの手を引いていつもの場所に連れ込む。かつては自分も異性の手を握ることに特別な緊張を覚えていたのに、その頃の感覚は怨念のようには帰ってこない。
スカートをめくると、指示していないはずなのに、今日も彼女は下着を身につけていなかった。
「あ、これはね、サービス」
勝手に時間を引いたりしてないから安心してね……と言わんばかりの、恥じらいの欠片も宿っていない早口。根が利己主義だけどサービス精神が旺盛で、肝が据わっているのか小心者なのかよく分からない。
そんな彼女を抱きしめるようにして犯すと、これもまた頼むまでもなく、好き、百合園くん、大好き……と愛をささやいてくれる。嫌いな相手にここまでしないという意味でなら、その言葉はプレイ抜きで間違いではないのだろうけど。
「俺と合唱、どっちが好き?」
そう尋ねると、彼女は分かりやすく言葉に詰まる。薄い色の唇が惑いに歪む。
「……百合園くんの方が好きだよ」
「本当に?」
「ほんとう。信じて」
「……どうやって信じればいい?」
卑怯な問いだと、この上なく理解した上で尋ねる。笹川さんの立場からすれば、むしろどうしてそんなに合唱を目の敵にするのかと、逆に問いただしたいくらいだろうけど、彼女はそれをしない。彼女は卑怯ではないから。「どうして?」と聞かれても困ることがあると知っているのはお互い様で、あとは性根で決まるから。
言いづらそうに、彼女は答える。おそらく伝わらないだろうというダメ元のニュアンスを隠す気もなく。
「百合園くんのことが好きだから、百合園くんとも一緒に合唱したいって思うんだよ……?」
笹川さんの目には、顔色をうかがうような小心さと両立して、利己的な狂気が戻りつつあった。
俺は俺で、自分の心理の輪郭をようやくまともに掴み始める。あれこれ難しく考えていたけれど、本当の答えはきっとすごく簡単なことだったんだと。
「俺も笹川さんのことは好きだよ」
そうじゃないから練習を嫌ってるとでも思ったの?
好きだから一緒に歌いたいだなんて、まるで意味が分からない。
簡素な言葉にこめた意図が、悪意が、彼女に対しては面白いように通じる。まるで説教中に言い訳をしたら一言で論破されてしまった賢しい子どものように、彼女は泣き出しそうな顔をした。
俺はそのまま彼女の中に射精した。
不機嫌を引きずりながら笹川さんを犯すうちに気づいた、ものすごく簡単なこと。自分の性癖とはとどのつまり、嫌がらせをすることなのだ。それ以上の表現をひねり出す必要はない。
まだ僅かに沈みきらない太陽を背に、門の前で別れる時に、俺は聞いた。
「ちなみに笹川さんの好きって、友達としての好き?」
「んー。それと、クラスメイトとしての好きもあるよ」
じゃあ、また明日ね。
にっ、と笑って、回れ右。彼女は家路についた。
そういえば天国の受付にいた天使は、体だけ中学生に戻った自分が万が一同級生に恋心を抱いてしまった場合に備えて、天国の住人を単なる美少女ではなくサキュバスにすることを勧めてくれたのだった。ここ数日で聴き飽きたメロディーの鼻歌交じりに遠ざかる背中を眺めながら、それを思い出す。
予想外にも、どちらかといえばそれは根本的な解決だった。
いくら見た目が美少女で、こちらに対して底抜けに好意的でも、人ならざる者を相手に恋愛感情を持つことは困難を極める。
俺も笹川さんのことは、天国の住人として好きだ。
輪上さんはさすが天使だ。俺がどれだけダークサイドに落ちても、茶化すように笑ったり引いたりすることはあっても、軽蔑することは絶対にない。あるいはどんなに見下げ果てるに値する要素でも、何であれニートよりはマシだと考えているのか。
暴力によらない嫌がらせが自分の性的趣向だと自覚してから一日。新手の自己嫌悪が生じた反面、トータルの気分は以前よりもずいぶん良い。俺はその勢いに任せてすべての休み時間で天国の力を駆使し、短い時間のギリギリまで遊び倒すことを常習化した。ゲーセンに行ってみたり漫画を立ち読みしてみたり、カラオケに行って、歌うこと自体が嫌いになったわけではないことを確認したり。
そして、そうやってチャージした英気を糧に合唱練習へ臨み、参加したことを二時間たっぷりかけて後悔しながら、ようやく乗り切った後に溜まった鬱憤を笹川さんにぶつける。
「何か俺が喜びそうなこと言ってよ」
トイレでセックスする時、正常位なんかはさすがに床が汚い気がして、いつも立ったままの姿勢が多くなる。その日も彼女を壁に押しつけるようにして抱きしめたまま、耳元でささやくように、彼女の顔も見ずにそう要求した。
あっ、あっ、うっ……と、間をもたせるような喘ぎ声がいくつか響いたあと、答えがあった。
「あのねっ、あの、日曜日、呼んでもらえなかった時、もうダメかと思った。飽きられちゃったんだって」
「…………」
「だから昨日、エッチしてもらえて、求めてもらえてっ、すっごく嬉しかったよ。ありがとうっ。いつも本当に、ありがとねっ。嬉しいよ」
「……求められたいから、3倍だとか言って、時間をいっぱいくれるの?」
「うんっ! うんっ、そうなのっ。ごめんね、だって、クラスに男の子って、百合園くんしかいなくて」
「笹川さんって自分のことしか考えてないんだね」
「うぅ……ごめんなさい……。ごめんなさい……っ」
彼女の答えに本当のことが含まれているのかは分からない。けれどそんなことにはそもそも興味がなくて、俺はただその答え方に満足していた。
週末までずっと同じ調子だった。笹川さんは、悪趣味なやり取りへの対応が上手かった。
取り引きをするにしてももっと他に何かなかったの? と聞けば、私だって考えたけどこれしか思いつかなくて……と涙声で答え、いつもどんな気持ちで学校に来てるの? と聞けば、百合園くんの顔を見るまでは今日は来てくれないんじゃないかって不安で、来てくれたあとも途中で帰ってしまうんじゃないか、取り引きの話を白紙に戻されるんじゃないかって、毎日毎日不安で仕方がなくて……と答える。サービス精神がその裏返しなのだとは、聞いてもないのに教えてくれた。
正直、そこまで波長を合わせてもらってもなお、彼女と戯れるために合唱練習を頑張ろうとまでは思えない。思えないけれど、それでもなんとか皆勤賞を維持することは出来ていて、機嫌をコントロールできないせいで射精に困るようなこともなくなった。
合唱の出来よりも俺自身の方が、この数日でよほど大きな変化を遂げたように思う。けれどその変化は、春頃に夢想していた前向きな物とは違った。今の俺は合唱祭を克服しているわけじゃない。せっかく閉じていた悪趣味の扉をわざわざ開き、自分自身に振り回され、他人まで振り回し、傷つけて、その醜い一連の動きに生じる風圧のようなもので、副産物的に苦手をやり過ごしているだけだ。
こんな物は克服ではない。俺が欲しいのはそういうものではなかった。俺が欲しいのは、寄る辺として振り返ることのできる過去だったのに。俺の目的は、負の感情を克服することなのに。こんなやり過ごし方は、負の感情の副産物でしかない。
しかしそうだったとしても、克服の試みが好調だろうと不調だろうと、時間的な区切りは少しずつ近づいてくる。
金曜日の夜、就寝前に。しばらくLINEではやり取りをしていなかった笹川さんから、久しぶりにメッセージが入っていた。
『あとちょっとで、残り一週間の大台に乗るね』
合唱祭本番は、午前の授業をほぼすべてそれに置き換える形で、翌々週の水曜日に開かれる。生前の俺は二年生の頃まで、勉強嫌いであるがゆえにその仕様を気に入っていた。一方で三年生になってからの当日の印象は、もはや覚えていない。
何にせよ、本番まで残すところはあと一週間と二日。短いとはとても思えなくても、トラウマはトラウマのままでも、とにかく刑期のカウントダウンが始まることには一種の救いを感じる。
『体感的には、十月が三ヶ月くらいあった気がする』
俺は軽口としてそう送ったつもりだった。俺と笹川さんの関係は穏やかなものとは言い難いだろうけど、そのくらいの冗談は通じるものだと思っていた。
けれどすぐに付いた既読に反して、彼女にしては珍しく返信が数分途絶える。時刻を確認すればすでに二十四時に迫りつつあって、向こうも寝落ちしたのかと思い、俺はスマホをスリープモードにしておとなしく眠ろうとした。
その直後に通知が入った。間があったわりには、彼女からの返信は一行しかなかった。
『一つ、嫌なことを言わなきゃいけない』
『なに?』
送信を迷うかのように、また既読からほんの数分の間が挟まる。
その僅かな時間の間に、俺はふと生前のことを思い出した。自分がまだ精神もろとも中学生だった頃の、合唱祭練習の最後の記憶。本番までのカウントダウンが黒板の隅に書き込まれ、日に日に昂る熱心な層と、それとは対極的に冷ややかな態度を示す層。……そしてそのどちらにも内心でつばを吐く自分。
あぁ思い出した。俺は今まで、憎しみだけを当時のままに取り戻して、その実、当時の詳細な情景を忘れていたのだ。けれど今なら、俺には笹川さんの次の言葉が読める。
練習が好きな人たちは、俺が思うよりもずっと強く深刻に、執拗にそれを好むものなのだ。
『来週からは、昼休みにも合唱の練習をしようと思うの』
『それは笹川さんの希望?』
『ううん、それもそうだけど。小川先生がそうしたらって言ってるから。だからたぶん、誰にも覆せないと思う』
予想通りの返答を見てから枕に突っ伏すと、頭痛がし始めた。
笹川さんからの申告は、実のところ天国が始まって以来の決定事項だった。
生前の俺の中学でも同じことが起きたのだ。ラストスパートだと言わんばかりに、元々多すぎた練習はなぜか終盤になると昼休みにまで侵食し始めて、熱心な派閥(主に女子)と冷ややかな派閥(主に男子)が、それを機に若干の衝突を起こしたことがあった。いや、あるいは衝突はそれ以前からもずっと、さも青春のアクセントであるかのように起きていた。
やる気がないなら帰れと言われた男子生徒がブチ切れて、手近にあった私物を床に叩きつけ、そのまま帰宅したことがあった。今の今まで忘れていたけれど、思い出したからには、俺は彼のことを未だに軽蔑している。なぜ軽蔑するのか? 彼が翌日には普通に練習に参加していたからだ。
合唱練習をめぐるあらゆる人間関係の衝突、摩擦は、すべて茶番だった。どんなトラブルが起きても起きなくても、練習はなくならない。改善もされない。愚痴を言う者がいても不貞腐れる者がいても、それが大局に何らかの影響を及ぼすことはまずあり得ない。だからそんな物には大した意味があるはずもなかった。半不登校児が、練習期間中だけ登校拒否の理由を「練習が嫌だから」にすげ替えることと同じで、それは本当に何の影響ももたらさない。
もめるなら、もっと大いにもめてくれればよかった。ボイコットやストライキがあってもよかった、数日に渡って派閥間で口もきかなくなるようなことがあってもよかった。練習どころじゃなくなればよかった。逆にそうでなければ、全ての摩擦はただ不愉快なだけで、時間と心的疲労の無駄だった。……だから俺はピリついていた全ての人物を今でも軽蔑している。
それに比べて天国のサキュバスたちは良い。彼女らは一切練習を批判しないかわりにいつも平和だ。疲れないからか苛立たず、寿命が長いからか時間を奪われることにも寛容で、愚痴らないピリつかない。そういう徹底的な平和でもって、知らず知らずのうちに彼女たちは、俺の「軽蔑」という負の感情を、トラウマを、取るに足らない過去の過去として蹴り飛ばしてくれていた。
しかしだからといって、「昼休みにまで練習が侵食してくる絶望感」を記憶に放置していいわけではない。天国の存在理由からして、克服されるべきそれがまず目の前で起きることは、初めから確定していた。ただ余裕をなくしすぎた俺が、そのことをすっかり失念していただけで。
誰がなんと言おうと、来週からは昼休みにも練習が行われる。それは笹川さんのせいではないし、小川先生を恨むのも筋違いになる。恨むなら、生前の三年時の合唱祭に関わった人物を、やはり片っ端から恨んでみるしかない。
だから、もしその恨みの矛先が天国の住人に向かうなら、それは絶対に八つ当たりでしかない。いくら天国ですることでも、八つ当たりはナンセンスだ。虚しいことだ。
……理性ではそう分かっているのだけれど。その理解も今となっては、白々しい。
『笹川さん、一つお願いしてもいい?』
頭痛の中で、歯ぎしりをしながら、俺は夜空の暗さを想像した。
『いいよ。なんでも』
『じゃあ今から会える?』
負い目を握った相手に向けてこの時間帯に送るその一言は、嫌がらせ以外の何物でもない。
何も克服できていない俺は、そうでもしないとやっていられなかった。
サキュバスになった親も中学生の深夜徘徊を二つ返事で許してはくれないだろうけど、それはまともにやった場合の話で、天国の力を行使すればそのあたりはどうにでもなる。
学校の門の前で待ち合わせをすると、笹川さんはこちらが着いてから五分もしないうちに平然と現れた。眠気を感じさせない軽快な歩みを遠目に見ると、どうやら彼女はパジャマのまま出てきたらしかった。私服と違って、そのデザインに特に変わった点はない。
一方の俺も、体感温度は天国の力でどうにでもなるのを良いことに、上下ジャージにクロックスを履いて、何を取り繕うつもりもない。笹川さんが少し先で気さくに手を挙げたから、俺も同じようにそれに応じた。
彼女は早足で近寄ってくる。まるでデートが始まるかのようで、俺は少し笑った。
「来れるものなんだね」
我ながら呼んでおいてひどい言い草だけれど、実際に感心もしている。自分自身は生身では親の目をかいくぐれる気がしなかったから。
「部屋が二階だから、窓から飛び降りたの」
笹川さんはさらりとそう言った。
彼女は不死身のサキュバスであって人間ではない。言われてみればそういうことも可能なのだろうと納得する。帰りだってきっと、跳躍で二階まで届くのだ。
あえて口にはしないけれど、俺たち二人には今「叱られない」の加護が付いている。その加護の適用範囲は広く、誰に姿を目撃されようと補導されることもなければ、後々になって小言を言われることもない。自分たちがこの場に居ることによる全ての不都合は起こらないと考えていい。
笹川さんはただ純粋に俺個人のみから嫌がらせをされている。やり過ごしの風圧を生み出すために。
「それで、これから何するの……?」
「まぁ座ってよ」
校門の前に設けられた花壇の縁をベンチ代わりに勧める。彼女と隣合って座ってみると、十月の夜風を延々と吸い込んだ石造りのそこはしんみりと冷えていた。
足元には白線ではなく高低差によって区切られた歩道、目の前には一車線のみの狭い車道。その向こうには庭の広い民家がぽつぽつと建っていて、こんな時間でもいくつかの窓には明かりが灯っている反面、物音は聞こえてこない。虫の音が最も目立って聞こえるほどに、夜の学校前は静かだった。
俺はいつも、一人で夜の外出をすることに特別感をおぼえる。ついぞまともに働いたことのない人間にとっては、夜とは家族と行く場所か、家の中で過ごす場所のどちらかでしかなかったから。
かつて自分は、その特別さを失いたくないと思っていた。しかしどうやらそれは、働きたくないがゆえの言い訳に過ぎなかったらしい。俺は今日、自ら望んで楽しくもない理由で、その特別感を浪費してしまったのだから。
笹川さんが呼び出しに応えてくれたことで、正直少し満たされたところがある。心に余裕がない時ほど、誰かが自分の思い通りになることが沁みる。生前は何も思い通りにならなかった。俺は満たされたかった。
俺がずっと黙っていれば、笹川さんは朝まででも隣に座っていてくれる気がした。
「……昼休みに練習をするのはものすごく嫌だ」
吐露すると、彼女は黙って頷いてくれる。
「でも、なにが嫌なんだと思う? 練習が嫌いだからじゃないんだけど」
「んー……」
笹川さんがうつむく。それに釣られて俺も彼女の視線を追うと、その先にある物を見て一瞬息を飲んだ。
彼女は靴を履いてなかった。校則にも違わない白い靴下だけが足を覆っていて、「窓から飛び降りて来た」という話の実情を物語っていた。
俺はなにも、そういうことを強いたかったわけではない。ただ考えが浅かった。
「自由を奪われるから」
「え?」
目の前の光景に動揺するあまり、何を言われたのか理解し損ねる。
笹川さんの顔を横目に見ても、そこにどんな感情が宿っているのか俺には分からなかった。ただその捉えどころのない表情を見ていると、漠然と、俺は彼女に何も敵わない気がした。
「百合園くんは、自由時間を奪われるのが嫌なんでしょう? 放課後とか、休み時間とか」
「……どうしてそう思うの?」
「見てたら分かるよ」
ポツリと呟くように答えて、力なく笑う。そんな笹川さんは、女の勘のようなものでそういう見通しをしているのかと思ったけれど。
続く彼女の言葉は、論理的で饒舌だった。
「百合園くんは、帰るのが遅くなるのが嫌っていうわりに、エッチする時はべつに焦ってる感じでもないし。音楽の授業として合唱練習をする分には、いつもみたいに暗い顔をしない。それでちゃんと人並みに、自分たちみたいな未成年は、夜中には行動が制限されるものだって思ってる」
「……え、うん。そうだね」
「っていうことは、百合園くんにとって大切なのは自由時間なんだなってことになるでしょ? 夜が自由じゃないなら、早く帰らないとそれが減っちゃう」
「……すごいな」
笹川さんの言ったことは、本当にまったくその通りだった。
一日が48時間あって、そのうち24時間がすべて遊びに費やせるなら、生前の俺だって放課後の練習に今ほどの文句はつけていなかったかもしれない。けれど実際の24時間しかない一日には、これはニートの経験を踏まえて確実に言えることだけれど、「何もしない日が続いてもなお自由時間が足りない」。
セックスに慣れてしまってありがたみが薄れるのと同じように、自由にも慣れてしまえればよかったのだけれど。それは毎日が宿題のない夏休みになってさえ叶わないことだった。なぜなら人には生きている限り生活がある。眠って食べて家事をして、どんな金持ちもニートも、一日24時間のすべてを可処分時間にすることはできない。にも関わらず、その上からさらに納得しかねる理由で拘束時間を増やされるというなら、恨みだって湧いて当然だろう。
笹川さんがそのロジックに気づいていることが意外だった。そうあり得なくもない最悪のケースとして、「昼休みの練習なら下校時刻には響かないでしょ」くらい言うのではないかと思っていた。しかし実際の彼女は鈍感な俺と違って、俺のことを本当によく見ている。
そしてそんな見る目のある彼女が、続けて俺に問いかける。
「私ね、百合園くんのことで一つ、意外というか、分からないことがあるの」
「なに?」
「百合園くんはどうして、私に八つ当たりしないんだろうって」
「……なに?」
言っている意味が分からなかった。
もとい、言葉の意味だけは瞬時に理解できたからこそ、そこに特大の不可解が生じた。
彼女の言葉を何度も脳内で反芻する。花壇の縁をなでると指が石のざりざりとした感触を伝え、二人の吐く息はわずかに白く、笹川さんの目は笑っていない。怒ってもいない。負の感情の類が、今の彼女にはどこにもない。
……何度考えてみても、今彼女は実質的にこう言ったのだ。「私は百合園くんから八つ当たりされたことがない」。
あれだけの仕打ちを受けて、どんな神経をしていたらそういう言葉に至るのだろう?
「八つ当たりって、たとえばどういうの」
「んー、殴ったりとか? お前さえ余計なことを言わなけりゃ、みたいな」
「よくも合唱祭に誘いやがって、おりゃー、みたいな?」
俺は正面の何もない空間にスローなパンチを繰り出す。暴力の愚かさと滑稽さを誇張するために。
そもそも合唱祭は、誰に誘われる誘われないの話ではなく、原則としてクラスの全員が参加する物である。さすがの俺もそこをはき違えたりはしない。仮にズル休みをすることがあったとしてもだ。
笹川さんはそのパンチを見て、くすくすとおかしそうに笑った。
「そう、おらおらーって」
虚空に向かって弱々しいパンチが、へにょっへにょっと数発連打される。自分が本当に殴られる日なんて一生来ないと思っていそうな、ゆるい雰囲気だった。
しかしその雰囲気に対して、俺の脳裏には違和感がよぎる。先週の土曜に彼女を自室へ連れ込んだ時のこと。セックスの最中に、首絞めプレイを求めてきたのは笹川さん自身だった。……彼女は暴力のないお花畑の中を生きている人ではない。
俺は笹川さんのことが好きだけれど、その実、この人がいったいどういう人なのか、未だによく分かっていない。
「最初はそれを想定してたんだよ」
拳を引っ込めた彼女が呟く。視線はまっすぐ、虚空に向かったままだった。
「百合園くんが私に八つ当たりして、それでストレスを発散して。なんとか合唱祭を頑張ってくれないかなって。行き場のない怒りや不満の分かりやすいぶつけ先があれば、いろいろと上手くいくんじゃないかって」
「……実際そんな感じになった」
「え、どこが」
「物理的な暴力だけが八つ当たりじゃないから」
「それはそうだけど。でも、じゃあ本当に思ってた? よくも合唱祭に誘いやがってーって」
「それは思うわけないけど。というか合唱祭は、誘う誘われるの物じゃないし」
「うん、だよね。だから百合園くんは、私を目の敵にはしなかった。いじめられて当然の存在だとは、全然思ってなかったんじゃない?」
「それは、」
いじめられて当然……とは。それについては、言葉の定義によって答えが大きく変わる。
サキュバスは性行為に抵抗がない。この半年で多くの人物と数え切れないほどのセックスをしたけれど、それが原因で揉め事が起こったことは一度もなかった。だから笹川さんから取り引きを持ちかけられた時、俺がそれに乗ることや、彼女が約束を守ることは、ある種の当然であると確信していた。大しておかしなことをしているという認識は無かった。
けれどその一方で、確かに俺は、合唱祭への恨みつらみを笹川さんに結びつけてはいない。彼女はただのよくいる「クラスみんなで取り組む合唱祭を是とする人」で、そこに性格的な狂気とサキュバスらしさが加わっているだけ。べつに悪の権化でもなければフィクサーでもなく、担任から言われ次第昼休みにも練習を行おうとするだけの、単なる合唱好きのクラスメイトの一人でしかない。そんな彼女が俺からヘイトを向けられて当然だなんて、そんな無茶苦茶なことは思えるはずがない。
……笹川さんはそう考えていないのだろうか?
「だって笹川さんは、悪いことをしてるわけじゃないから」
「客観的にはそうかも。でも百合園くんにとってはどう?」
「俺にとってもそうだよ。だってそうじゃないとおかしい。俺は、笹川さんと知り合う前から合唱祭が嫌いだったんだから」
「……小学生の頃から?」
「…………そうだよ」
嘘をついた。生前の小学生時代、俺はむしろ合唱祭が好きだった。でもそんなことはもはやどうでもいい。
咳払いで話を元に戻すかわりに、笹川さんは一つため息を吐く。解けた謎が思ったよりも陳腐だった時みたいに、それは気の抜けた吐息だった。
「……そっか。なら納得」
「いや、俺は全然納得できてないけど」
「え、どのあたりに……?」
「八つ当たりの話。俺は結局、笹川さんに嫌がらせみたいなプレイをさせた。正直それは合唱練習にイライラしてたからだ。八つ当たりっていうのは、罪のない人にするから八つ当たりなんだろ。俺のしたことはその物だった」
「うーん……。でもそれは偶然だから」
「偶然……?」
「だってさ。今後もし合唱祭と関係ないところで、すごく機嫌がいい時に、他の子から「百合園くんが一番したいプレイをして」って言われたら、本当に何をしても大丈夫だってその相手の子を信頼できたら、その時はどうする?」
「……どうするって」
「百合園くんの言葉を借りて言うなら、嫌がらせみたいなプレイをするんじゃないの?」
どうして自明のことを……というくらい、笹川さんは不思議そうに首を傾げる。俺としてはそこまで説明されてようやく、彼女と同じ納得にたどり着けたのだけれど。
言われてみればそうだ、俺は自分自身でも似たようなことを考えていたはずだ。合唱祭の克服と性癖を満たすことは繋がっていない、それはただの副作用だと。そう思っているならなぜ、八つ当たりと性癖を分けることには思い至らなかったのか。指摘されてみると分からない。
性癖に気づいたきっかけが合唱祭のストレスにあっても、一度確立された性癖と合唱祭には何の関係もない。合唱祭と何ら関係なく、ストレスさえない場面でその性癖を解放する機会が訪れることは、この天国の中で暮らしていれば大いにあり得ることだ。そしてそうであるからには、ただ性癖を解放しているだけのことを、「合唱祭の八つ当たりをしている」とするには根拠が弱い。
「ただ好きなエッチをしてるだけじゃあさ、足りないよね。そんなのはあって当たり前というか。ほら、あれ、「健康で文化的な最低限の生活」ってやつだから。アルバイトに例えたら、お給料じゃなくて賄いのご飯みたいな物だし」
自嘲じみた調子で、笹川さんは言う。
合唱祭が仕事なのだとしたら、賃金を払うべき立場にいるのはどう考えても彼女ではないはずなのに。
深夜に突然呼び出されたクラスメイトは、小言の一つも言わない。
「ごめんね百合園くん。私、下手だった。下手だし馬鹿だから、正直言うとさ。もうこれ以上、どうすればいいか分からないんだよね」
そう言って苦しそうに笑う彼女を見て、俺は彼女が一つ勘違いしていることに気づく。
呼び出され、座って話そうと言われた彼女は……つまり「性行為のために呼び出されたわけではない」と悟った彼女は、これが決別の会話か何かだと思っているらしい。けれど俺にそんな意図はない。俺にはそんな、自分が頑張るとか頑張らないとか、そういう決定を事前に済ませられるような気概はない。
笹川さんは今、ただ俺の八つ当たりによって呼び出されているだけなのだ。
「どうすればいいのかは、俺も分からない。……けど八つ当たりのやり方なら、分かる」
「え……?」
「俺が合唱祭を克服できないのは正しく八つ当たり出来てないからだなんて、そんなの全然思いつかなかった。他に何も思いつかないなら、もうそれを試すしかないんじゃないか?」
「え、でも、どうやって……?」
「プールを使う」
俺は立ち上がり、施錠された門をよじ登る。ただ大きくて重くて施錠が可能なだけで、忍び返しの類がない無防備なその門は、天国の力を使うまでもなく軽々と乗り越えられる。
「ちょ、百合園くん!」
「大丈夫、怒られないから。誰にもバレない」
「でも……」
「いいから信用して。で、笹川さんもこっちに来て」
門の上から飛び降りて、内側にて待つ。二階の窓から飛び降りて無傷でいられるサキュバスが、この程度の物を乗り越えられないはずもない。
ためらう彼女に、俺はまた追い打ちをかける。天国の力について説明しないことまで含めて、すでに八つ当たりの一環は始まっている。
「早く来てよ。なんでも言うこと聞くっていうのは嘘だったの?」
弱みを握られた彼女は、その一言で唇を引き結び、おそらくはまた色々な大人からこっぴどく叱られることまで覚悟して、一息に門を飛び越えた。
プールは校庭を挟んで校舎の向かい側にある。笹川さんの手を引き、まるで偶然鍵をかけ忘れたかのように開いていた扉を抜けて、その中へ侵入する。扉からは軋むような音が鳴り、暗闇のシチュエーションから怪談を連想するけれど、そこにはさほどの恐怖心が伴わなかった。うっかり物のはずみで生前のトラウマをロボトミーしないようにセーフティをかけることと同じで、天国から望まないネガティブ感情を得ることをオート機能が幅んでいるのかもしれない。
笹川さんも幽霊を恐れるタイプではないようだった。けれど、校舎内で着替えを済ませられるがゆえに使われている気配のない更衣室の半端に開いた扉は、夜闇の中だとやたらと不気味に映って、さすがの俺も彼女の手を引いて足早にプールサイドを目指した。
目隠しのトタン一枚を隔てた歩道に伸びた電柱には街灯が付いていて、ナイター球場のように……と表現するにはいささか足りない光量で、月明かりと合わせてプールサイドを照らしている。水は抜かれていたけれど、天国の力を使えばそれくらいは、瞬きするよりも早く満タンにできる。
「脱いで」
「えっ」
棚に片付けられていたビート板を一つ手に取り、笹川さんに渡す。彼女はわけもわからずにそれを受け取る。
「服が濡れたら、帰りとかさすがに困るでしょ。脱いで」
「あ、えっと……。泳ぐの……?」
「笹川さんはね」
言って、俺はプールサイドの端、日陰を作るためのテントが張られたベンチに座る。光量不足の夜のプールでその場所はあまりに暗かったけれど、貸し切るにしては広い25mプールと美少女のストリップが目の前にあれば、オバケのことはしばしの間忘れられる。それにそもそもオバケなんてものは天国において、俺がいないと思えばいないのだ。
パジャマも下着も綺麗にたたんで足元に置いた彼女は、ビート板を脇に抱えて、体のどこを隠そうともしないまま指示を待って立ち尽くす。やはりサキュバスはサキュバスだった。
「バタ足でいいから泳いできてよ」
「わ、わかった」
言われるがままに、準備運動もなく水中へ。十月の夜に普通の人間がそれをやれば最悪凍えて死ぬのかもしれないが、サキュバスは歯をがちがち鳴らすことさえないし、それが分かっているからか入水に躊躇いもない。
笹川さんは指示通りに泳ぎ始めた。彼女に唯一できるバタ足で。それも律儀に水面へ顔をつけて、定期的に息継ぎをしている。授業に忠実だ。
夜の静寂を、バシャバシャと水を蹴る音がかき乱していく。もどかしい速度でなんとか25mを泳ぎきった笹川さんは、そこで俺の方を振り返る。
「往復!」
25m先にも届くように声を張って命じると、彼女は慌てたように指示に従った。
そしてまた頑張ってスタート地点まで戻ってくると、指示を仰ぐ目でこちらを見る。
「もう一回!」
笹川さんは怪訝そうな顔一つせず指示に従った。そしてもう何も言わなくても、ちゃんと往復して戻ってきた。道中ずっと、息継ぎのくだりも忘れていない。
「もう一回!」
ノータイムでそう命じられたあたりで、向こうもなんとなく流れを理解したのだろう。三回目の往復を終えた時、彼女はもうこちらに視線を送りはしなかった。
ただ黙って、指示されるまでもない従順さで四往復目に向かう。彼女の頭の中にはこんな疑問があるだろうか。「百合園くんはいつまでこれをさせるつもりなんだろう?」。
いくらバタ足を繰り返したところで、ある日突然クロールや平泳ぎのやり方をひらめいて理解できるわけじゃない。笹川さんのやらされている作業は「無駄」だ。無駄その物だ。そしてその無駄はいつ終わるのか分からず、貴重な睡眠時間を犠牲にして、何の成果もやり甲斐もないまま延々と続いていく。
笹川さんは合唱が好きだ。サキュバスだからエッチもどちらかといえば好きだろう。しかしそんな彼女にだって苦手はあって、苦手を強制されることまで好きでいられるとは思えない。放課後に練習が長引くことより、歪んだ性欲のはけ口にされることより、今の時間の方がよほどストレスに感じるはずだ。
……すなわち今彼女が行っていることこそ、生前の俺が中学三年生になって初めて臨んだ合唱祭練習に相当する苦行なのだと言える。まさか一時間を遥かに超えて続けさせられるはずはないと思っていた当時の俺のように、彼女もどこかで思うはずだ。まさか○○往復もさせるつもりではないだろう……と。
笹川さんは脇目も振らずに、黙々とバタ足で貸切のプールを往復し続ける。虚しく響く水の音が、人々の笑顔に満ちたあの夏休みのプールとは対照的だった。
俺はただただ無気力にそれを見守る。数十分後か、数時間後かに、いつか笹川さんが疲労を隠しきれない目で許しを乞うように再度こちらを見つめれば、その時俺の気は晴れるのだろうか。百合園くんの気持ちがやっと分かったよとそれで言われれば、満足して合唱にも励めるというものだろうか? ……どうにもそうは思えないけれど、「やってみなければ分からない」という言葉に今は縋るしかない。他に思いつく手はないのだから。
もはや正確に数えてすらいないけれど、おそらくは笹川さんの往復が二桁の台に乗った頃。少しの眠気がまぶたを重くした。変わり映えのしない景色を眺めながら規則的な音を聞いて座っていると、夜だもの、眠くもなる。
バシャバシャ、バシャバシャ。笹川さんは水を蹴り続ける。水の飛沫によって、一糸まとわぬ肌色はわずかに隠される。バシャバシャ、バシャバシャ、バシャバシャ。
……子守唄がほしかったわけではないけれど。普段、風呂に入ったり食器を洗ったりしている時、俺はよく歌を歌う。そしてそういう時、ここ最近の選曲は、無意識であればあるほどに、恨めしくも、洗脳かというほど身に染みつかされた一曲に吸い寄せられていく。
水の音が、今の俺にとっては呪いの歌を呼ぶ。
「……夜明けのこない夜はないさ あなたがポツリ言う。灯台の立つ岬で 暗い海を見ていた……」
……水飛沫の中の肌色と、わずかな光の中でも輝く銀色の髪。目に映るそれに突然ハッとさせられて、その先を歌う気にはなれなかった。
まるで好きで歌っているかのようで、特に、笹川さんにそう思われるのは御免だった。
それから何往復分のバタ足を見たのか分からない。俺は途中でふと、彼女の泳ぎが異常であることに気づく。
休み無しで何往復も泳がされていたら、普通は疲れが見えるものだ。サキュバスだからそれは無いのだとしても、しかし少しくらい、往復の合間に息を整える時間があってもいいのではないかと、か弱い人間である俺は考えてしまう。……けれど笹川さんは息を整えるどころか、一秒たりともバタ足を止めていなかった。バシャバシャ、バシャバシャと、電池で動く魚の玩具が浴槽の中を延々と泳ぎ回るみたいに、彼女はずっとバタ足を続けていた。
ダメだこれは、向こうが音を上げる前に朝が来る。
そのように力の差を思い知ったことと、いい加減眠気がうっとうしいこともあって、俺は潮時を悟った。ベンチから立ち上がり、ちょうど手前まで戻ってきていた笹川さんに声をかける。
「もういいよ。終わりにして」
陸に戻ってきた彼女は、許しを乞うどころか、どちらかといえば俺のことを心配するような顔をしていた。
翌日の土曜は午後まで寝た。起きたあとも、モヤのかかったような寝ぼけた思考の中でわざわざ笹川さんを呼ぼうとは思えず、日曜には家族で出かける予定も入っていた。昨晩見抜かれた通り、俺には俺の自由時間が必要で、その土日にセックスが入り込む隙間はなかった。
父の釣り好きはサキュバスに置き換えられても据え置きで、家族共々日曜の朝から車に揺られて海へ向かう。その移動の最中そういえばと気になって、俺は笹川さんにLINEで聞いた。
『そういえば、いつものプレイは八つ当たりじゃなくて性癖だって、なんで分かったの』
待ちくたびれない程度の間で返信が来る。
『勘だけど、八つ当たりなら「好き」とかは言わせない気がしたから。自分のことしか考えてないんだねって言い方も、優しすぎたし』
まだ海の気配など欠片もない窓の外のビル群を眺めながら、俺はしみじみと、笹川さんの観察眼に敗北感をおぼえた。彼女はセックスの最中に演技と同時進行でそんなことを考えていたのか、それとも夜眠る前に一日を振り返ってそういう結論に至ったのか。どちらにせよ、俺なんかとは視野の広さが違うことがよく分かる。
土日を二日挟んでそれを謳歌すると、なんだか週明けから始まる日々には、先週と同じような内容が用意されているような気がしてくる。昼休みにも練習が入るという話は気のせいだったのではないかという気さえする。
月曜の朝、輪上さんと共に登校すると、下駄箱の前で笹川さんに鉢合わせた。あのLINEのやり取りのついでに日曜の予定(つまり二日とも笹川さんを必要としなかった理由)をざっくり伝えていたこともあって、彼女はいかにも社交辞令っぽく言う。
「釣り、どうだった?」
「帰りの買い物がメインだった」
お互い、示し合わせたかのような苦笑を交わし合った。天国の多くの要素は生前の現実準拠であり、日本経済に第二のバブルが訪れはしないように、我が家の釣りは大体不振に終わる。
昼休みになると、その日の笹川さんは仲良しグループで何かをこそこそと話し合っていた。するとそのうち、彼女ではない一人が少し声を張って、誰に向けるともなく言いだす。
「みんなちょっと聞いて」
教室中の視線が一斉に、笹川さんとその友人たちを囲うように集まった。
一歩前に出た笹川さんが、各々の顔色をうかがうような面持ちに反して、芯の通った声で言う。
「合唱祭本番まで、もう少しで残り一週間を切ります。当日に悔いを残さないためにも、今週からは昼休みも練習時間として使いたいと思うのですが、どうでしょうか?」
……案外と、教室の反応は冷たかった。
どうでしょうかと言われても……といった風に、各々が探り合うように視線を交わす。標準的な中学生サキュバスの傾向として、何かに誘われれば基本的には快く話に乗るけれど、べつに自ら何かを成し遂げたい気持ちがあるわけではない……という機微があるのかもしれない。
とはいえ教室の端から小川先生が目を光らせているからには、誰にも流れに逆らうほどの理由があるはずもなく。「いいと思う」という誰かの声を皮切りに、うんうんと同意の連鎖が広まっていった。生前の俺が見た軋轢に比べれば、はるかにスムーズで平和なやり取りが実現していたように思う。
俺としてもいっそのこと、そのくらい明確にアウェーである方が気が楽だった。満場一致の集団の中に居て孤独に「いいと思う」じゃねーよと内心ぼやくことは、敵の敵が味方ではない状況などよりはよほど良い。……ただ、ここ最近の休み時間は天国の力を使って全力で遊び歩いていたからこそ、休み時間その物を奪われるということの威力には若干ながら想像以上の物があった。
そろそろ次の授業の準備をしようというなんとなくの流れで、昼休み終了五分前には練習が切り上げられる。本来は休憩時間だったはずの枠にねじ込まれた練習はどこか士気も弛緩していて、疲労感に反して手応えの類は皆無だったけれど、俺以外には誰も、そんな時間の使い方に不満を持っている人はいないようだった。
わずかに余った五分のうちに、笹川さんが駆け寄ってきて小声で言う。
「無理させてごめん」
俺はそれに応える言葉を持ち合わせておらず、苦笑で返すしかなかった。笹川さんも今さら本気で詫びたくなったのではなく、ただ無言ではいられなかっただけなのだろう。
午後の授業二コマを経て、俺を含むクラスメイトは全員、また果てしない放課後練習へと身を投じる。もはや笹川さんに付いている時間的借金の残高は気に留める必要もないほどに嵩張っていることが明らかで、時計の針を見て考えることは生前と同じ「もっと早く進んでくれ」のただ一つに戻った。
しかしその日は確実に、時の進みがこれまでで一番の遅さを記録していた。道中に何があったわけでもない。変わったことは何もなかったはずなのに、延々と繰り返される練習に付き合っているといつも以上に腸が煮えて、練習が終わる頃には、今日が水曜日のような気がしていた。
まだ月曜日ですよと自分の中の理性が呟けば、ならば間違っているのは世界の方だと感情が叫ぶ。間違いだらけの世界がその振る舞いを改めるまでの間を根気よく付き合ってやれるほど、自分は寛容ではないのだとも。
欲しい服が高いだとか、スタバの新商品がなんだかんだと、クラスの皆は和気あいあいとお喋りしながら教室を去っていく。明日も明後日もその先も、学校に通って求められるものをこなすことに何の躊躇いもないかのような明るい声で、俺の目の前を通り過ぎていく。
俺は、恒例となったくだりにより輪上さんとは早々に解散して、廊下で待っていた笹川さんの手を掴み、今日はトイレではなく空き教室へ連れ込んだ。勢い任せに扉を閉め、予備として捨て置かれている机の一つにドンと腰かけて、今さっき出た結論を述べる。
「ごめん笹川さん、無理だ」
喋ると自然に笑いが漏れた。相容れなさの果てに湧いた失笑だった。
「俺が練習に出るのは今日が最後だと思う。本番はさすがに出るけど、約束、取り引き? あれの件は白紙にしてもらっていいや。もう無理だね、無理。あと一週間ちょっととか。話にならない。ハハハ」
何が可笑しいのか、自分でも分からない。ただ油断すると、次の瞬間にはその謎の笑いに「死ねクソボケ」くらいの無意味な暴言が付随し始めるような気がした。
よく考えたら自分にしては相当頑張った方だと思う。生前は練習どころか登校そのものを拒否したことが二日三日では済んでいなかったはずだ。それが今日まで皆勤賞となると、快挙といえば快挙である。
そんな快挙の中で、昼休みに練習が侵食してきたことの何がそんなに気に入らなかったのか、そもそも悪い方向に吹っ切れてしまった理由が本当にそこにあるのか、何も分からないし考える気力もない。いや、どちらかといえば、今日ダメになったことの理由以前に、そもそも先週までを耐えられていたことの方が不思議に思えてくる。取り引きをアルバイトに見立てたあの例え話は言い得て妙だった。給料なんかいらねぇ人の迷惑なんか知るか、とにかく辞めなきゃいけないんだ……とバイトをバックれてきたような人間がここまで来られたこと自体、今となっては何かの間違いだったと思えてくる。
……しかし何にせよ失敗だ。俺は生前よりも頑張るために天国に合唱祭を用意したわけじゃない。可能な限り頑張ることと苦手意識を克服することは、似てすらいない。
一度天井を仰いだきり、そういう利己的な不甲斐なさもあってのことだろうか。俺は笹川さんの顔を見られなくなった。
「白紙になんかならないよ」
視界の外から聞こえるその声は、ひどく穏やかなものだった。
「私と百合園くんの約束は、練習に出てもらった時間の3倍を捧げること。決めてたのはそれだけだよ。すでにカウントされた分の時間は、何があっても白紙になんてならない」
「……それ、そっちに何のメリットがあるの?」
「ないよ。元々そういう約束だっただけ。少しでもその気になってもらうためのね。それで今日までの間に、それは十分成功した。感謝の印に、約束は守る」
華奢な両手が頬に伸びてくる。さっきまで俺が乱暴に掴んでいた、我を通す力なんて持っていなさそうな細い手。
少し背伸びした笹川さんが、ガラクタの玉座の上で吠える俺の顔を引き寄せてキスをする。
唇に触れたぬくもりはすぐに離れていった。サキュバスだって必要とあれば、情欲を煽らずに唇を合わせられるのだということを知った。
「今日までたくさん頑張ってくれてありがとう。本番に出るって言ってくれてうれしい、楽しみにしてるね。……お疲れさま、ゆっくり休んで」
道半ばで、それもあと少しというところで投げ出したダメ人間にも、彼女はそんな労いの言葉をかけてくれる。これで俺が感涙でもしようものなら何か違ったのかもしれないが、実際には乾いた笑いが漏れただけだった。
連れて来られた場所がいつもと違ったことで、今日は求められていないかもしれないと察したのだろう。スカートの裾をほんの少し持ち上げた彼女が口パクで「する?」と尋ねてくる。義理で聞いているような感じだった。
彼女にとって、今後数十時間に渡って訪れる負い目の徴収は、何の成果にも繋がらないことが分かりきっている単なるツケだ。それを払い続ける気持ちはどんなものなのだろう? と、「自分だったら耐えられないだろうな」の文脈で思いを馳せるけれど、その妄想に意味がないことを俺は知っている。あの夜のプールでそれを確かめたから。
俺が首を横に振ると、笹川さんは納得したように頷いてこの場を去った。……その背中を見送ったあとしばらくしても、俺は椅子替わりの机から降りる気になれなかった。
「輪上さん、今何してますか」
テレパシーを送る。LINEと違って既読が付かないのが不便だけれど、それを補って余りある返信速度があった。
「家でテレビ見てる」
「迎えに来てくれませんか」
「いいよ。……動きたくなくなっちゃった?」
「ですね」
十五分ほどで彼女は来てくれる。教えてもないのに空き教室へ真っ直ぐに。
肩に担がれることを恥じらう心を持ち合わせていなくても、一度降ろされるとどうにも、再度担がれる前には気が変わる。廊下を運ばれた俺は自分で靴を履き替えた拍子に気を取り直して、輪上さんは単に下校時の話し相手になった。
どの立場で茶化しているのか分からないが、隣を歩く彼女を眺めて、俺は熱を出した子どもを引き取りにきた親を連想する。親にしては見た目が若すぎるだろうということも、この天国を生きる者らしく、もはや全く気にならなくなっていた。
「笹川さんに先を越されちゃったけどさ」
照れるように彼女は言う。
「実際、百合園くんはよく頑張ったよ。すごい」
「どうも」
「頑張れただけじゃ何の意味もないって思ってるでしょ」
「思ってますね」
何なら、耐える努力を最後までやり遂げられたとしても「終わり良ければすべて良し」にはならない。学校生活の一つの区切りが丸く収まることのめでたさは、怨念の浄化には役立たない。体育祭までは全てが少なからず上手くいっていたのにな……と、考えれば考えるほど気持ちは落ち込んでいく。
「難しいね」
輪上さんがしみじみ呟く。天使がそう言って、天国の主が解決できないのだから、それは本当に難しいのだ。
頑張ることを諦めても諦めなくても、今日がまだ月曜日だとは、どのみち信じられなかった。
笹川さんとの関係に名前をつけろと言われたら、少し迷った末に「友達」を選ぶけれど。俺は彼女と、尊くとも必然性のない雑談をわざわざLINEで送り合うようなことはしたことがない。
だから笹川さんからメッセージが入ったなら、それは必ず「送らなければならない物」だったのだと思っていい。
やけに長く感じる月曜日の、その夜のことだった。
『そういえば百合園くんって、自分の性癖のことを「嫌がらせみたいな」って言うけど。百合園くんのそれは支配欲だと思うし、嫌がらせじゃないよ。嫌がらせだと特別いじわるっぽく聞こえるけど、支配欲は、男の子なら持っていて当たり前のものだから。気に病むことないよ』
こちらが風呂に入っている間に。何通かに分けられて、そんな内容が送られてきていた。
象徴的なキスをされたことで、なんとなく、彼女とは「約束の履行」以外で二度と口を利かなくなっても不思議ではないような気がしていた。だからその日の夜に当たり前のようにメッセージが飛んできたことには、正直なところ安堵に似た嬉しさを感じた。
けれどその気持ちを上手く文面に乗せる技術が俺にはない。「LINEを送ってくれて嬉しい」なんてわざとらしく書けば、二人の間に空いた溝が強調されてしまう気がするし。
『嫌がらせをせずに支配欲を満たすには、どうしたらいいと思う?』
『ワンちゃんに対する「お手」みたいなことをすればいいと思う』
『たしかにお手は嫌がらせではないね。でも人間にとってのお手ってなんだろう……?』
ペットから見た飼い主はご主人様で、どう言い繕っても対等にはなれない。それを支配と呼ぶのは妥当だけれど、人に手を差し伸べてそれを取ってもらうことの喜びは、犬のお手とは違う。
自分としては難しいお題を掲げたつもりだったけれど、笹川さんはあらかじめ答えを見出していたのか、即答だった。
『つまらない話を聞かせて、笑ってもらうこと』
『なるほど……』
絶妙に嫌な権力関係の象徴が、そんなにパッと出てくるなんて。支配欲に寄り添う技術の高い彼女の言うことだと思えばさすがだった。
それに彼女の言う方法は、遠隔でも可能だという点が良い。俺はさっそく試してみる。
『布団が吹っ飛んだ!』
……真顔の顔文字が送られてきた。
『ご主人様、もう少し面白いことを言ってください』
笑かされたのはこちらの方だった。
負けました、と返信してスマホを置く。上手くオチもついて、やり取りはそれで終わったと思ったけれど。
眠る前に歯を磨きながらYouTubeでも見ようと再びスマホを手に取ると、いつの間にか追加のメッセージが入っていたことに気づく。
『昼休みに練習してる間、百合園くんはどうするかって決まってる?』
聞かれて、自分で自分に驚く。まったく考えていなかった。
『保健室で仮病でも使おうかな』
『私が先生に相談しようか?』
『え、いいよ。大丈夫』
『そっか。困ったら言ってね』
そこまでやり取りを続けて、ふと気づく。
あぁ、笹川さんは俺のことを心配してくれているのか。明日からの身の振り方についてだけではなく、俺自身のメンタルのことまで含めて。
そのことに気づくと、素直に嬉しい・ありがたいと感じる一方で、不可解に思うことがあった。
こちらから頼んではいない以上、彼女の自発的な気遣いは全て「取り引き・約束」の外にある物のはず。どうしてそこまで良くしてくれる義理があるのか? もちろん学校で俺が困っていれば、近くにいる誰かが助けの手を差し伸べてくれることは日常茶飯事なことだけれど、それは夜中のLINEにまで至る話ではない。
かつて彼女の言った「友達として・クラスメイトとして好き」という気持ちは、そこまでする理由に足るものなのだろうか。もしかするともう気軽にお喋りをすることは叶わないかもしれないという予感が脳裏をよぎった際、それを放置しようとした俺に、笹川さんのことを一応は友達だと思っていたはずの俺に、逆の立場であれば同じことが出来ただろうか?
そんな自戒的な疑念が生じたことがきっかけで、今まで見逃されていたある根本的な不可解さが思考の内に浮上する。俺はその不可解の答えがどうしても気になって、チャンスは今しかない気がして、本人に聞いた。
『ところで笹川さんとの取り引きって、なんで3倍だったの?』
『なんでって?』
『苦手なことをさせるからそれくらいは当然、みたいな話は聞いた気がするけど。それなら2倍でもよかった気がするし、なんで3倍なんだろうって』
……コンスタントに続いていた返信が、既読の表示だけを残してぴたりと途絶えた。
フィーリングで決めたことに理由があると決めつけたせいで困らせてしまったのかもしれないと、俺は少しだけ反省する。自分だってたとえば植物に水をやる時、この植物には多めに水をやってくださいと注意事項に書いてあったら、目分量で多めにして具体的な量の理由なんて考えないのに……と。
俺という人間にはそういう、普段の言動や思考は理屈っぽいくせに、いざというところをフィーリングで済ませる雑な側面がある。そしてこれは非常によろしくないことに、何度「他人と自分は違う」ということを実感させられても、俺はそれを芯から理解することができない。
笹川美玲は、俺とは別種の人物である。何度目かも分からないその証明が、文面としてポンと送られてきた。
『等倍だと妥当、2倍だとお得、3倍だと破格って感じがしない? 苦手なことがある人にそれを知った上で苦手を強要する時は、破格まで行ってやっと一考の余地を生み出せると思うの』
……笹川さんはいろいろなことを言語化している。フィーリングに属するようなことにしても、「なんとなく」の一言では済ませない。
3倍だと破格。破格になってようやく一考の余地が生まれる。
その論を目にした時、己の内に未知の感情が押し寄せてくることを感じた。それは輪上さんから「なぜ天国に送る前にバイトをさせたのか」の理由を聞いた時の感覚と似ていた。自分自身の中に確固としてあるにも関わらず、その存在に気づいてすらいなかった深層心理のようなものを、他人からずばり言い当てられた時の感覚。感心とも感動とも驚愕ともつかない、独特に心を揺さぶられる感覚。
不意に、笹川さんの考える「妥当」の真理を垣間見た気がして、俺は思わず聞いた。
『俺はモヤシが苦手なんだけど。もし笹川さんがどうしても俺にモヤシ料理を完食してほしくなったら、どんな取り引きをしてくれる?』
トーク画面上に、まったく会話の噛み合っていない文章が貼り付けられて、晒し物のように淡々と残る。まるでまともな会話を放棄することで、まともではない何かを期待しているみたいに。
返信を待つ一分一秒が、それこそ3倍ほどの長さに感じられた。だけどそれは永遠には遥かに及ばない。
『一本食べるごとに5分なんでもする。……って思ったけど、百合園くんがあまりにもつらそうだったら、10分にしちゃうかも』
……寄越されたその返事は、俺の期待にぴったりと当てはまる物だった。
『助かるよ』
『どういたしまして』
噛み合っているのか微妙なそのやり取りを最後に、俺は満足して眠りに入る。布団の中で目を閉じて、夢との境目が曖昧な暗闇の中で、笹川さんが俺にくれた時間の法則について振り返る。
漢字は一画につき1分。合唱は一分につき3分。モヤシは一本につき5分または10分。……それら全ての共通点は、「途中で投げ出しても報酬が付くこと」。
漢字は最後まで書ききれなくてもいい。合唱練習は途中で投げ出してもいい。モヤシ料理は完食しなくてもいい。笹川さんは必ず「過程にあった努力」を見てくれる。成果を重視しないというよりも、少しでも努力した形跡があるならそれ自体を成果として認めてくれる。
だから彼女は途中で投げ出した人間にも優しい。初めからそれを想定した上で評価してくれているから。本人としては相手の眼前にニンジンをぶら下げているつもりなのかもしれないけれど、実際の彼女は、成果や結果でしか努力を評価することの出来ない大抵の人間とは明らかに異なる視点で生きている。
俺は笹川さんの視点に触れて初めて自覚した。自分は生前にあったことのうち、思ったよりも多くのことを恨んでいる。彼女のような存在を「極めて珍しい」と感じさせるに至った生前の世界を、己でも気づかないほど深い無意識下から恨んでいる。そしてそれゆえに、笹川美玲という人物の振る舞いに感動した。
過信は禁物だと思い知ったとはいえ、天国のオート機能はそれでもやはり優秀だった。笹川さんは俺が意識的に望んで生み出した存在ではない。だけど間違いなく、彼女は俺が求めていた人格者だ。
噛みしめるように思う。あぁやっぱり、天国に来てよかった。
翌日火曜の朝、教室に居た笹川さんに告げる。
「やっぱり、とりあえず昼休みの練習は出てみる」
「え」
意外を通り越して何が起こったのか分からない、といった反応だった。
気をとりなおした彼女は何も言わずに頷いたけれど、その表情には「無理だけはしないでね」と書いてあった。見栄を張って頑張りを見せたあげくに本番を欠席されるという流れをおそらく一番危惧しているのだろう。だけどそれはこちらとしてもあり得ない。俺は生前、憎しみの始まりである三年生時にすら、本番当日には間違いなく出席していたのだから。
一方で残念ながら、俺は自身の心変わりが極めて一時的なものであることを自覚している。笹川さんの優しさに気づいてそれに報いるべく頑張ろうと決意しただとか、そういう美談はまぁあり得ない。今の俺は性格上の特性として感情の上書きをされているだけだ。そしてそういったものはまず間違いなく長続きしない。
実際、早くも恒例のようなスムーズさで開かれるようになった昼休みの練習に参加した際、一時間にも満たない苦行の中で、俺のモチベーションはあっという間に萎えていった。真夏のアスファルトに打たれた水の跡並に短命な心変わりだった。
六時限目が終わったあとは掃除の時間があり、それが終わればホームルームを挟んで放課後の練習が始まるというのが段取りになっている。だからその日、同じ教室内の掃除担当に当てられている輪上さんに、俺は箒を片手に卑怯なお願いをした。
「これが終わったら早退するんで。先生に言っといてもらえませんか」
自分で言いなよ、とは言われなかった。輪上さんはただ「了解」と頷いてくれた。
苦しい要素など何もないホームルームに、どこに合法性があるのかも分からないまま生えてきた放課後の練習。それらをわざわざ避けなければならないこと、それを「早退」と呼ばなければならないことが、まったくもって不本意ではある。けれど、今の俺にはもう不本意もクソもなく、放課後の練習に付き合えるだけの精神的余裕が残っていなかった。ホームルームから直接帰ろうとすると目立ってしまうから、掃除のどさくさに紛れてお暇する。
一人で下校するのはそういえば初めてだな……と、平常時の同じ時間帯ならあり得ない空き具合の昇降口を出ながら、ぽっかりと穴が空いたような寂しさを感じる。放課後の合唱練習がある限り、天国につき早退を咎められることがなかったところで、平常時の生活にあった全てを取り戻せるわけではないということだ。
逃げ帰る背に向けて、どこかの教室から早くも電子ピアノの音が聞こえてくる。
「おーい」
それに混じって、ものすごく聞き覚えのある声がした。テレパシーにしては声に指向性がありすぎる気がして振り返ると、靴を履き替えている最中の輪上さんの姿が見えた。
しっかりバッグまで背負って駆け寄ってきた彼女は、どう見ても伝言のために来たわけではないらしい。
「私も早退してきた。用事があるって」
「えぇ」
来てくれた嬉しさに匹敵して、道連れにしてしまった申し訳なさが湧く。肩書きとしては輪上さんだって単にクラスメイトの一員であって、出席できる行事には出席するべきなのに。
「百合園くん、一人じゃ寂しいでしょ」
「でも俺は明日からも早退しますよ」
「じゃあ私も、しばらくは用事ができる」
「そんな毎年死ぬ親戚みたいな」
「それが通るのが、天国のいいところでしょ」
「そうなんですけどね」
他のクラスメイトは認知すらしていない天国の話をされると、一気に「中学生」という枠組みの外に出た感じがする。いつの時代から生きているのかも分からない天使である輪上さんが中学校の合唱の練習をサボったところで、それがどうしたって感じなのかもしれないと、つい数秒前の自分とは矛盾したことを思う。
長くはない帰り道に話したことは、合唱にも学校にも全然関係のないことばかりだった。ほぼサキュバスしかいない世界の甲子園球場にも急いで屋根をつけるべきなのかだとか、インクレディブル2の地上波放送が叶う日は天国の主が直々に願わない限り永遠に来ないのかだとか。言ってしまえばどうでもいいことばかり。
わざわざクローンにしてまで輪上さんをこの世界に呼び込んだ以上、そういう愉快でナンセンスな雑談は有ることが当たり前だと思っていたから、そこに懐かしさを感じた自分に内心ハッとする。そしてどこかセンチメンタルに思う。もしかすると自分は、笹川さんともこんな風に普通に仲良く帰りたかったのかもしれない。
けれどそもそも彼女の家の方向は真逆で、どうしても仲良く一緒に帰りたいのなら、取り引きによって得た時間でそのように命令しなければならない。あるいはこちらが向こうについて行くか。近いうちに合唱祭当日を終えて、放課後の時間に余裕が生まれればそうしたっていい。練習から逃げ出した負い目を忘れる面の皮の厚さが、自分にあると思うのならば。
しかし合唱祭がなければ、俺がそれをあからさまに憎んでいなければ、笹川さんとここまで深く付き合うことは初めからなかっただろう。「もっと別の出会い方をしていれば」なんてフレーズは物語に絡んでよくある物だけれど、実際に自分が登場人物の立場に立ってみると、そんな言葉にはあまりにも現実味がない。
「食欲の秋は、花より団子に比べると、小馬鹿にした雰囲気が薄いと思うんですよね」
「何とも比較してないからかな、食欲の秋は」
「たしかに。「読書より食欲の秋」っていうと、だいぶ悪口っぽくなるような」
「そう考えると花より団子って、めちゃくちゃ性格悪く聞こえてくるかも」
「実際相当悪い気もしますけど……。……じゃあ、また明日」
「うん、またね」
下り坂の途中、いつもの分岐点で別れる。クラス一丸となった練習よりも二人きりの下校を選んだ、その道のりの終わり。……良いはずのものに後ろめたさを生むあらゆる要素は悪であると、俺はそう思う。
翌日以降、俺は昼休みの練習もサボるようになった。早退した日の夜も笹川さんはLINEで心配してくれたけれど、感情の上書きに二度同じ作用は起こらなかった。
給食を食べ終わるなり同伴者もなく保健室に直行して、自分の卑怯さは楽をするための物であって問題解決の唯一の手段ではない……ということを証明するかのように、自分の口で言ってのける。
「仮病をしに来ました」
今年の俺は幸いにもまだこれといった怪我をしておらず、天国であるがゆえに病気とも無縁で。その一言が、保健室の先生との実質的なファーストコンタクトになった。
教員にしては目立つ茶髪が印象的なその人の名前は、たしか「宮坂」。先客のいない消毒液の香りがする部屋の中で、彼女の目が微笑むのは早かった。
「いいよ。ベッドも空いてる。何時に起こしてほしい?」
「午後の授業には出ます」
「りょーかい」
上履きを脱ぎ、カーテンによって隔離されたベッドに寝転がったところで、俺はようやく気づく。不死身のサキュバスしかいない世界では、男子トイレ同様に、保健室にしろ病院にしろ、医に関わるあらゆる場所が俺だけのためにあるのだと。
需要と供給のバランスがめちゃくちゃで、まともな理屈では成立するわけがない世界。天国の力はそれをどのようにしてか常に成立させている。そして俺はそういう背景を今みたいに忘れかける。ありとあらゆるトラウマも、同じように忘れられればいいのに。
小学生の頃どころか、保育園に通っていた頃まで遡って思い出す。幼児期の俺は、定められた昼寝の時間が苦手だった。子どもの頃から変なところが神経質だったのか、寝ろと言われて寝られるタイプではなかったのだ。……なぜそれを今思い出すのかといえば、保健室のベッドは保育園の布団と、ある意味で同じ性質をしていたから。
体感で十五分ほどが経った頃、カーテンの向こうから宮坂先生の声がかかる。
「百合園くん、いい?」
「はい」
シャッと開いたカーテンの向こうには、丸椅子を持った宮坂先生がいた。彼女はその椅子をベッドの横、こちらの胸のあたりの位置に置いて座る。
「眠れない?」
「まぁ……」
「退屈しない?」
「しないといえば嘘になりますけど」
「だよね、やっぱり。……わたしでよければ暇つぶしの話し相手くらいにはなるけど、どう?」
「話って、今月の保健だよりの感想とかですか」
「ははっ。読んでるんだ?」
先生は可笑しそうに笑う。なんとなく、真剣に読んだわけではないとは言いづらくなった。
宮坂先生は、ズボンのポケットからガサゴソと何かを取り出す。いったいこのタイミングで何が出てくるのかと思えば、それはグミの袋だった。
「食べる?」
一粒差し出される。いただきつつ、さすがに自由すぎるだろと内心でツッコむ。グミはハード食感で、俺は仮病だから良いにしても、およそ寝込む病人に出す物ではないチョイスだった。
……保健室は一年生の教室と同じく一階にある。合唱の声やピアノの音色は、集合住宅の壁を抜けるみたいにして、この部屋にも微かに聞こえてくる。昼休みの練習はウチのクラスだけの物ではないようで、どうやらそれは別のクラスの課題曲だった。
「合唱祭の練習が嫌なんでしょう」
無意識に眉でもひそめていたのか、言い当てられた。
「そういう顔してました?」
「いいや。笹川って子が言ってた」
「あー……」
いいと言ったのに、結局彼女は根回しをしてくれていたのか。どうりで天国基準にしたって、初対面にしては話がトントン拍子すぎたわけだ。
笹川さんには頭が上がらないと思う一方で、彼女に報いることなくベッドに寝転ぶ自分に矛盾を感じる。自分のクラスでないにしても合唱の声は、離れた場所から聞いた途端に、ひどく後ろめたい物として鼓膜に訴えかけてくる。
その不愉快な感覚が、憎い歌詞の一つを思い出させた。
悩んだ日もある哀しみに 挫けそうな時も
あなたがそこにいたから 生きてこられた
……合唱の課題曲の歌詞には美談と希望ばかり。後ろめたさは、だから影絵のようになる。
「話はざっくり聞いたけど。君も大変だよね」
「え……?」
「合唱祭が嫌いってこと、誰かと共有できてる?」
「……そりゃあ、まぁ」
笹川さんは当然知っているし、輪上さんはもっと当然に知っている。前者の相手には話しづらいにしても、後者の相手とは作戦会議を開けるくらいに遠慮がいらない仲で……。
心の中で、そうやって一人で弁明するうちに。あれ……と何かが引っかかる。
輪上さんは、午後の授業のあと早退する俺に、きっと今日もついてきてくれる。……けれどそんな彼女は今、昼休みの練習に参加している。保健室の位置がもう少し自分の教室に近ければ、俺に後ろめたさを与える声の中には彼女の物も含まれていたはずだ。それを裏切りと呼ぶほどには、いくら俺でもとち狂った覚えはないはずだけれど……。
「わたしもね、合唱祭が嫌い」
宮坂先生は、しれっと素直すぎることを言う。固いグミを噛みながら。
「音痴なんだよね、シンプルに」
「……でも意外と気にならなかったりしませんか、そういうのって。どれが誰の声かなんて、参加してても分かったことないですし」
「ふふ」
含むように笑った先生の顔を、俺はよく見ていなかった。
「それはね、自分が恵まれてるから言えることだよ」
「え」
思わず枕の上で首をめぐらせると、穏やかにニヤついた顔の先生と目が合う。悩める若者に自身の過去を重ねて、懐かしんで眺めるような、間違っても悪意はこもっていない大人の笑みだった。
けれど確かに彼女の言葉には、語気には、憎しみの熱が宿っていた。
「百合園くんって、同類と話したことないでしょ」
「同類……?」
「優しくしてくれる人はいるけど、みんな聞き分けがよかったり優秀だったり。……そんな人にだけ話を聞いてもらえても、それって共有と呼べるのかな」
空になったらしい袋を、彼女は再びポケットにしまう。狭いスペースに上手く収まるように、あくまでも理性的に、ぐしゃぐしゃに握りつぶして。
ほんの微かにだけれど。昼休みの保健室には、隣の教室の合唱練習の声が断続的に聞こえてくる。ここにいる二人とも、その声のことが好きではない。
「眠れなくて暇なら、わたしはぜひ聞きたいな。百合園くんが合唱祭を嫌いな理由とか、どのくらい嫌いなのかとか。それからここ最近、どんなことを考えながら生きてるのかとか。…………それともエッチなことの方がいい?」
「いや」
まるっきり冗談というわけでもなく付けられた最後の一言に、俺は思わず笑ってしまう。
しかし天国に慣れた、天国の中ですら生きづらくなる人間にとって。本当に悪魔的な誘惑は、まったくもって前段の方にある。
「俺は、本当に合唱祭のことが嫌いなんですけど」
同級生にならともかく、教員側の人を相手にそれを言う日が来るとは思わなかった。きっと宮坂先生の見た目がもっと明らかに大人であれば、俺ももっと躊躇したのだろうけど。
「どのくらい罵ったらさすがに見過ごせないとかって、ありますか?」
「ないよ、そんなの」
誰も怪我をしないから、誰も傷つかないから、保健室には他に人が来ない。
昼休みの終わりまでには、まだ三十分以上時間が残っている。どのクラスの練習も、その間ずっと続く。
踏みとどまる理由が何もなかった。
「なら言いますけど。…………俺は、合唱祭をこんな風にした人を、それに関わった全員を、殺してやりたいと思ってますよ」
過激な言葉を口に出して気づく。
それを誰かに面と向かって話したのは、今日が初めてだ。
宮坂先生は、弱った人間へ向けるにふさわしい優しい顔をして、「わたしも」と言った。
気づいた頃には、五時限目の授業が半分ほど終わっていた。
俺はまだベッドの上にいた。
十数年かけて煮詰めに煮詰めた憎しみの丈を語るうちに、いつの間にかチャイムの音すら聞き逃していた。
宮坂先生は、完全にこちら側の人だった。どんどんヒートアップしていく俺を、それを自覚できているのに止まれなかった俺を、彼女はずっと優しげに、ずっと冷静に見つめていた。先生の心は俺よりもずっと大人だった。にも関わらず、間違いなく彼女は俺の同類だったのだ。
彼女は言った。
「百合園くんは、私怨を私怨として燃やしてるのが偉いよ。わたしもいつも思うんだよね。仮に合唱祭が学校にあるべきとても素晴らしい文化で、百害あるかわりに百億利があることが論理的に証明されたとしても、それで納得できるなら苦労しないって。正しいとか間違ってるなんて観点から憎しみを語る人は二流のガキでさ。わたしたちみたいな傷のある人にとっての本当は、何が起ころうと天地がひっくり返ろうと、許せないものは許せないんだよ」
それを聞いた俺は、呆然と思った。
あぁ本当に、天国に来てよかった。
宮坂先生との見解の一致には、意気投合という言葉は似合わなかった。俺たちは同調によって同じ熱を高め合ったわけではなかったから。ただすでに上限いっぱいに焼け爛れた感情を持ち寄って、やっぱり根っこは似ているねと、お互いに見比べるだけだったから。でもそれが、意気投合という表現が似合う関係性よりもずっと遥かに確かな、比べ物にもならないほどの救いになった。
合唱祭の練習が始まって以降、俺は二度救われた。一度目は笹川さんに、二度目は宮坂先生に。……だけどその救いは、やはり合唱祭の克服には繋がらない。克服とはいったい、どこにあるのか。救われるほど余計に分からなくなる。そのままならなさによる焦燥がまた、暇つぶしを名目にした語り合いを行き過ぎて長引かせた。
結局俺は六時限目の授業にも出なかった。
「やっぱりわたし、百合園くんのこと好きだな」
愚痴の怨念が遅すぎる底をついた後。こちらの顔を覗き込みながらそんなことを言った先生に求められて、断る理由もなく交わった。そしてそれが終わったあと、俺は心地よい疲労感の中で眠りに落ちた。
おーい起きろー。……肩を揺さぶられて目を覚ますと、二人分のバッグを持った輪上さんが隣にいた。開いたままのカーテンの先に見える窓には、暗くなりつつある空が映っている。
「……放課後の練習が終わってたり?」
「そうだよ。ずいぶん寝たね」
全部知っているくせにわざとそんなことを言って、輪上さんはからかうような笑みを浮かべる。
その先は毎日、似たような暮らし方をした。仮病初日以外は、午後の授業にはさすがにちゃんと出席したけれど。その一方で、昼休みは必ず保健室のベッドの上で過ごして、放課後の練習が行われている間もそうした。俺が本当に眠るかどうかは日によってまちまちで、またそれとは関係なく、宮坂先生とお互いの私怨を共有することは最初の一度きり以外にはなかった。お互いにその一度で完全に満足できたのだと思う。
放課後、ピアノの音が止んで私語が騒がしくなる雰囲気を待ってから保健室を出ると、廊下にはいつも笹川さんが待っていた。彼女には時間の借金があるから、俺が練習に出なくてもその返済を誘いに来てくれる。宮坂先生に毒気を抜かれた俺は、もう笹川さんに鬱憤をぶつけるモチベーションを持っていない……と一時は思ったのだけれど。
彼女と鉢合わせて、今日はどうする……? と問われた矢先、背後から肩を叩かれた。宮坂先生だった。
「わたしはちょっとこのあと、しばらく保健室から離れるから」
そう言って彼女は廊下の端から階段を上り、おそらくは職員室の方へと去っていく。
きょとんとした顔でそれを見送る笹川さんを見た時に、先生の言葉の意図が分かった。俺は笹川さんの手を引いて保健室に連れ込む。「元気だねぇ」と、輪上さんがテレパシーで呆れた。
ベッドを隠すカーテンは、俺を安心させるためだけにある。そこで笹川さんに対して行われることは、言動まで含めておよそ紳士的なものではない。笹川さんが言う通り、悲しいかな、八つ当たりと性癖は必ずしも連動していないことがそれで証明された。そしてその流れはもちろん、一日二日にはとどまらなかった。
練習にさえ参加しなければ、やはり時の流れは見違えるように早くなる。あっという間に週末が来て、それが明ければ合唱祭本番がいよいよ目前に迫ってくる。
週末に笹川さんを呼び出すことはなかった。定期的な相手が宮坂先生との二人体制になったことで、さすがにそこまでの元気が残らなかったのだ。しかし宮坂先生との関わりはおそらく、合唱祭の終了と共にその機会を失う。サボらずにはいられない物がなくなった後の生活で、笹川さんはきっとまた俺に呼び出される。ちょうど大人が昔の私怨を思い出すみたいに。
合唱祭前日の火曜日の放課後も、俺は保健室に居た。
相変わらず聞こえてくる音色を微かなBGMに、丸椅子に座った宮坂先生がどこか遠くを見るような目で羨ましそうに言う。
「三年生は今日、練習ないんだって」
「え、なんで」
「体育館に椅子を並べるんだよ。入学式みたいにパイプ椅子をずらーって」
「あぁ、それで」
どこか一学年がその役を担うなら、たしかに三年生が適任なのかもしれない。卒業式の椅子は在校生が並べることの裏返しとして。
いくら俺でも、健康な体で毎日ベッドを占拠することに罪悪感がないわけではない。可能なら椅子出しを手伝わせてほしいと思う。宮坂先生の遠くを羨むような目は、きっと中学生当時の心に戻った目なのだ。まぁ往々にして羨ましいものとは、ただそう思うだけで終わるものなのだけれど。
「百合園くんがここにいてくれてよかったよ」
不意にこちらを向いた彼女の表情には、一転して小狡い大人らしさが浮かんでいた。
「じゃないと、わたしも椅子出しを手伝いに行かなきゃいけないところだった」
「あぁ」
同類ゆえか、先生の言うことが一瞬で理解できて、俺は笑った。中学当時の自分を思い出せば練習が雑用にかわることは喜ぶべきことだけれど、教員になった今の心としては、合唱祭になど出来るだけ関わりたくないのだろう。
しかし、敵の敵が味方であるとは限らないように、同類が必ずしも同志であるとは限らない。宮坂先生の羨むような目は、ふとした拍子に、いとも簡単にベッドの上にも向けられる。
「百合園くんは、本番には出るんだっけ」
「え? あぁ、まぁ。出ます」
「偉いね」
お褒めの言葉は、どこか地に足のついていない感覚を残して、宙に舞った。
俺は練習の長さが嫌で合唱祭を嫌っている。一方で宮坂先生は、音痴な自分を強制的に歌わせる行事である合唱祭を嫌っている。憎しみの火力は貴重なほど似ていても、実は炎の色が違う。俺たちは意気投合はしていない。
今日の先生はポケットからこんにゃくゼリーの小袋を出して、狭い口の封を切った。両手を使いながらそれを吸い出して、ゴミは反対側のポケットにしまう。そしてもう一つ新品をとりだして、いつものように言う。
「食べる?」
俺はありがたくそれを頂戴する。もし自分が未成年でなければ、差し出されたものは煙草だったのではないかと想像しながら。
合唱練習最後の日。宮坂先生とセックスをすることはなかった。やはり合唱祭が終われば彼女と特別に関わることはないのだろうと予感する。
いつもの頃合いで廊下に出ると笹川さんがいて、目が合うなり彼女は、数日の昏睡から目覚めた友人を見たかのように安堵の笑みを浮かべる。
「やっと終わったねぇ」
本番前日を「終わった」と表現してくれるのは、彼女が俺に寄り添ってくれている証だった。
一学年にクラスは四つ。計十二クラス、計十二曲。授業三コマをたっぷり使って合唱祭は行われ、残った午前の一コマは、作文もとい感想文を書く時間に当てられる。
曲自体の尺はそれぞれ五分前後と大したことはないけれど、何事にも段取りというものがある。開会の言葉と閉会の言葉、十二もある各クラスの壇上への入退場のくだり。歌う前に数分ほど挟まる曲紹介という名のスピーチに、長丁場であるがゆえの間の休憩時間。ただアルバムを一枚聞き終えるだけの時間では、それらの全てが終わるわけもない。
壇上に上がる順番は下の学年から順当に、A組→B組→以下略と続く。自分の所属はB組だから、まずはトップバッターを眺める余裕があった。
知らない女子が、生前の俺が一年時に歌った曲の紹介をしている間に、まわりを見回す。ぎっしりと人の詰められた体育館には当然教員も数名いて、各クラスの担任や学年主任、音楽科教師あたりが一箇所にまとまって生徒たちの様子を見守っている。
……宮坂先生の姿はどこにも見当たらなかった。忙しくて来られなかったというよりは、そもそも来たくもなかったのだと考えた方が妥当に思える。
A組の合唱は、素人の感想としては、まぁまぁ可もなく不可もなくといった物に聴こえた。彼女たちだって相当練習しただろうに、少なくともその成果は、聴く者を圧倒するには至っていない。
自分の出番を控えたまま他クラスの合唱を聴いている時の気持ちは、生前とまったく変わらなかった。あってもいいはずの感慨はなく、あってもいいはずの緊張もなく。ただ俺は、自身が待ち望んでいたはずの「終わり」の中にいることを、過程にあった怨念とは不釣り合いな無感情のままに通り過ぎていく。
宮坂先生の姿を探したことで、ふと、スクールカウンセラーの先生の存在を思い出した。生前の半不登校だった俺は、週に一回やって来るカウンセラーの先生と放課後に話すことを楽しみにしていた。悩み相談のようなシリアスな話をした覚えはおよそなくて、いつもただ自分の趣味の話をしていたように思う。それこそ輪上さんとの登下校時のように。
けれど一度、俺はその先生に面と向かってキレてしまったことがある。いや厳密には、その先生に向かってキレたのではなく、苛立ちを隠すことが一切できないままカウンセリングを受けたというのが正確なのだけれど。……まぁ要するに、毎週楽しみにしていた「いつもの放課後のカウンセリング」が、合唱練習を終えてからでしか受けられないという話になって、そのせいで沸いた殺意にも似た怒りを煮えたぎらせたままそこへ向かう羽目になってしまったという、ただそれだけの話だ。
カウンセリングの時間はいつも一時間近くあった気がするけれど、その日の俺は部屋に入るなり三十分以上は延々と苛立ちをぶちまけていたように記憶している。その烈火というにはあまりにも粘性の高い罵詈雑言の嵐は、天国の俺が宮坂先生に披露したものに似ていた。
そう、だから、宮坂先生に憎しみを語った時にも、俺はカウンセラーの先生のことを思い出していた。天国での自分は不登校どころか皆勤賞になっていたからか、同じ枠に該当する人物が再び現れることはなかった、あのスクールカウンセラーの先生。ただの人間で、合唱祭を恨んではいなかったはずの、趣味から私怨まで……社会不適合者の話を聞くプロだった人。
当時の俺は怒り散らかしながら、自分自身の制御のできなさを分単位で自覚していく毎に、自暴自棄に似た感情が沸いてくることを感じていた。
あぁ、こんな八つ当たりをしていたら、嫌われてしまう。今までは楽しい話ばかりしてきたのに、楽しかったのに、今日もそれを目当てに楽しみにしていたのに。先生はカウンセラーだから八つ当たりも受け止めてくれるだろうけど、それは仕事だから仕方なしにやっていることで、心では俺は嫌われてしまう。
……そう思っているのに、憎しみの言葉を止められなかった。宮坂先生との話でもチャイムを聞き逃す有様だったのだから、当時の自分にはなおさらブレーキなど効くはずがなかった。
結局、向こうはプロだから、その時は親身になって聞いてくれて、翌週以降はこちらがそれを望んでいることを察したのか、何事もなかったかのように接してくれたけれど。今にして思えば、あの自責の念とアンコントロールが現在進行形で両立されてしまった時の感覚は、俺のトラウマの一つと化していたように思う。
だから宮坂先生に同じような私怨の話をしてみて、そして合唱祭当日に至った今、俺は心の内でその対比を笑った。面白いと思った。
宮坂先生は、俺の憎しみをいくら聞かされても、俺のことを嫌いになったりなんかしない。けれど先生はその代わりに、俺が無感情に本番に出席することをこそ、快く思わないのだ。
ピアノが最後の音色を弾き終えるなり、会場いっぱいに響く拍手の音。それは俺の視点から見れば、宮坂先生の「偉いね」という言葉と同じくらい空虚に、体育館の中を埋めつくしていった。
「次は、一年B組です」
アナウンスに呼ばれて、クラスメイトたちが一斉に立ち上がる。俺もその一員として列を成し、壇上へ向かう。
俺が今日の日を良い思い出として振り返ることは、きっとまた一生叶わないのだろう。たった三段の階段を上る間に、そんな気がした。
合唱祭を無事に終えた日の昼休み。俺はいつもとは逆に、笹川さんの方から呼び出される形で、空き教室を訪れていた。
外は晴天。眩しいほどの日差しが窓から差し込んで、普段使いされていない部屋らしい宙の埃ごとこの場を照らしている。笹川さんはその中央で待っていた。
俺が後ろ手に扉を閉めるなり、彼女は拙い速度で駆け寄ってきて、そのままひしと抱きついてくる。
「百合園くん、ありがとう。本っっっ当にありがとう」
「えっ」
「終わったね、無事に、本番。出てくれたね、一緒に歌ってくれたね」
「あ、あぁ、まぁね」
「ありがとう〜!」
改めて思ったよりも力強く抱きしめられた。何度も弄んだはずの細い体から、人間ならざる力の片鱗が垣間見える。俺がうめき声を上げなかったのは男のプライドによることだった。
抱擁をといた笹川さんは数歩あとずさり、満面の笑みと上機嫌な声で言う。
「四コマ分の時間、ちゃんと取り引きの件に付けとくからね! あと無事にみんなで歌えた記念に、おまけの10時間も付けちゃう」
「……え? は、えっ?」
理解が追いつかなかった。ただ、彼女が本当に嬉しそうなことだけは真っ先に飲み込めた。
目的を達成した今、彼女にとって取り引きの履行は面倒事でしかないはず。そこにおまけの10時間をポンと乗せる感覚がまず分からなかった。そういうのは初回に俺をおびき寄せるための致し方ない特典ではなかったのか……? ……いや、しかしまぁそれについては納得できないこともない。
結局彼女はこれまでの間、音楽の授業として合唱練習をした時にも報酬時間を付けてくれていた。俺が練習を嫌う理由には当てはまらないと知っていてなおだ。それに彼女はすでに明らかな通り、人の努力を評価する天才かつ狂気の人でもある。だから目的達成後にポン出しされた10時間も、本当に心底から「よく出来ました」の意味でくれているのだと思えば、まぁ笹川さんならそういうことをするかも……と薄々納得できる。
本当に分からないのは、彼女が「四コマ分の時間」と言ったこと。
「いや、笹川さん。合唱祭は三時限目に終わったよ。その合唱祭自体も、俺の自由を奪う要素は皆無だったわけだけど、そこはまぁありがたく受け取っておくとして……。でもなんで作文を書いただけの四時限目まで計算に入れてるの」
合唱祭は極めて無事に、これといった遅延もなく終わった。四時限目は正真正銘作文を書いただけで、せっかくだから〆に一曲歌いましょうなんてとち狂ったことを言い出す人もいなかった。それが笹川さんとの取り引きに含まれる意味が分からない。
……と、俺は困惑したつもりだったけれど。はたして本当にそうだったのだろうか? 何もしていないのに報酬だけを受け取ることはできないだなんて、俺はそんな殊勝なことを言える人間だったか。
本当は、笹川さんに期待を寄せていたのかもしれない。彼女の「人の努力を見る目」への、さらなる期待を。
笹川さんのすごいところは、それにあっさり応えてくれるところだ。
「まぁたしかに、厳密に言えば違うんだけど。でも合唱祭あっての作文だし。それに百合園くんは合唱祭のことが嫌いなのに、先生に提出する作文にそんなことは書けないでしょ? 思った通りのことを書けないなんて、それこそ自由の侵害だから。だから、時間を付けてあげないと気の毒だと思ったの」
「……ありがとうございますっ」
自然と敬語が出た。笹川さんは笑った。
やり取りがひと段落したところで、彼女は壁掛けの時計を見上げる。放置されているそれは幸いにも正しく動いていて、昼休みがまだ三十分以上あることを示していた。
「時間あるけど、どうする?」
二人きりの教室で、幾度となく交わった相手が首を傾げる。今や俺の性癖を最も正しく理解して、なおかつそれをその身で体験したことのある相手は、彼女一人しかいない。
けれど今日はせっかくの、合唱祭から解放された記念日だ。悪趣味なプレイには似合わない。だけど一方で、都合の悪いことは忘れてお互いの健闘を祝い合うような方法も俺には分からない。笹川さんの上機嫌を前にして、今どんな風に彼女とセックスをすれば後悔せずにそれを終えられるのか、正解を引き当てる自信がなかった。
しかし幸いにも。合唱祭の最中に、俺は一つ興味を持ったことがある。
「あー、じゃあ、一つお願いがあるんだけど。エッチじゃないやつで」
「おぉ。なになに?」
「笹川さんが一人で歌ってるところ、見てみたいんだよね。瑠璃色の地球」
各クラスの合唱をすべて鑑賞しても、目立って音痴な人物など全く見つからなかった。もしも中学生当時の宮坂先生が居ればどうだったのだろう? そう考えた時に俺はまず、合唱大好きな笹川さんの歌声をそういえば知らないことに気づいたのだ。
何でもするというなら、アカペラだってしてくれるはず。どうせ今日を過ぎれば合唱祭の課題曲など聴きたくもなくなるのだから、頼むなら今しかなかった。
「え〜? いいけど」
笹川さんには少しの躊躇いもなかった。ここは全く防音室などではないのだけれど、窓を開けたセックス同様、彼女は何事も気にならないタイプなのかもしれない。
観客一人きりの場で、咳払いを一つ。彼女は淀みなく、自分が配属されていたパートを歌い始める。
始まって十秒ほどで、知りたかったことはすでに知れた。俺はしみじみ思う。あぁやっぱり、歌うことが好きな人は歌が上手いんだ……。
彼女の歌声を単体で聴けば、それを有象無象(特に自分)も大いに入り混じったクラスの合唱の中に放り込んでしまうのはもったいないことだと感じた。まぁだから実際、彼女は部活の方で大いに才能を活かしているのだろうけど。
一曲丸々を歌い終えた彼女は、文化部系が50m走のタイムを尋ねるような気軽さで「どうだった?」と言う。観客が一人きりでは、どうしたって拍手が白々しく聞こえることがネックだった。
「上手い」
「ありがと。……なんか百合園くんにこんなことリクエストされるなんて、ちょっと意外」
「それは俺もそう思う」
実際、ただ純粋に彼女の歌唱の腕前が気になっただけなら、俺はリクエストにまでは踏み切らなかったと思う。
そのリクエストは、彼女とのこれまでの経緯があってこそ出てきた物だった。
「でも、だから。……今のが俺の考えた「お手」だよ」
はっきり言うと、笹川さんは一瞬きょとんとした。そしてすぐに笑い出す。
「なるほどね。いいところ突いてるかも」
お墨付きをもらって、俺も笑う。誰かの前でアカペラだなんて、自分だったら絶対にしたくない。
エッチはせずに、俺たち二人はB組の教室へ戻る。笹川さんは自分の友達グループと合流して、俺は輪上さんと話しながら自分の席に着く。久しぶりにいつも通りの昼休みが戻ってきた。たった一週間保健室に逃げていただけなのに、ずいぶんと久しぶりに日常に戻ってきた気がした。
……その日の夜、真夜中に。俺は一人で家を抜け出した。
車もロクに通らない真夜中の通学路、その横断歩道にて、押しボタン式信号の機能を待つ。誰も見ていなくても、天使は見ているかもしれないから。
今回は誰とも待ち合わせしていない。一人で門をよじ登り、校庭を抜けて体育館の方へ向かう。月明かりが頼りの夜闇の中で、だだっ広い空間にザッザッと靴底が砂を擦る音が響くと、死角に何かが潜んでいるのではないかと気味の悪い気分になってくる。背を向けた校舎の方から、人体模型が走ってきたらどうしようか……。
……怪談好きな小学生時代を過ごした身としてそんな想像がよぎるけれど、それが一線を超えた恐怖として成立することはなかった。やはり余計な恐怖心にはリミッターがかかっている。
目当ての体育館には、全開にした照明による煌々とした光が灯っていて、それが外からでも見てとれた。そうなるようにと俺が望んだのだ。中には順当に誰もいない。
都合よく解錠されている分厚いガラスの扉を開き、土足のままで踏み入り壇上を睨む。願うだけで砂一粒として汚れがつかないのだから、誰もいない場所ではそのように振る舞うことが合理的で良い。
そして俺は、今日の合唱祭のリプレイ映像をその場に投影する。
スクリーンを下ろして映すのではない。天国の力でそれこそ霊のように、今日ここで実際に行われていた光景を映像としてよみがえらせる。一年B組が壇上に上がっていくその瞬間からを、観客の目線から捉えるために。
B組が移動して空いた席の一つを映像から本物に変えて座る。本来は誰もいるはずのない特等席から、眺められるはずのなかった景色を、自分自身の姿を眺める。
歌が始まる前に、曲紹介パートが入る。スピーチをするのは二名のクラスメイトで、丁寧に折られた原稿を二人ともが用意していた。
気をてらわない内容のそれを聞きながら、俺は生前の三年時のスピーチを思い出す。あの場に立っていたのも女子二名だった。そしてそのスピーチは、悲しいかな滑っていた。
なかなか素直になってくれない、思春期男子たち。
クラス内にあった軋轢と紆余曲折を軽快なジョークに昇華するにあたって、彼女らはそんな言い回しを選択した。幸いなこととして、その場だけを見ればそのジョークはウケていた。なぜならそうして茶化された軋轢が、はたして「思春期」の一言で流してしまって本当に良い物だったのか、疑問に感じてしまう当事者諸君は皆壇上にいて、観客席には一人も残っていなかったから。
けれど合唱が始まって以降、「そのジョークがウケた」という認識は、客席の内からすら取り除かれてしまったはずだ。……なぜならその合唱は迫力に欠けていた。少なくとも「いろいろあったけど最後は大団円にたどり着けました」と言い張るにはあまりにも厳しい、中学校生活の集大成にしてはどうにもお粗末な、練習時間を大いに増やしたわりには、一年生と特には変わらないようなクオリティの合唱がそこにはあった。
冒頭のジョークは、合唱のクオリティが伴って初めて受け入れられる物だ。それが伴わなかった時の評価は悲惨になる。思春期男子が最後には更生・和解したという話ははたして本当だったのかと疑わしくなり、男子が練習に真剣になってくれないと苦言を呈する側にいたはずの女子は、五十歩百歩の存在に落ちぶれてしまう。あのDVDの中で、最もいたたまれない点はそこだった。
それに比べてサキュバスのスピーチは平和だった。まだ自分たちが一年生であるという点も、原稿の時点から変に力まずに済む良い要素だったのかもしれない。前奏が流れてくる頃にはもう内容の全てを忘れているような、毒にも薬にもならないそのスピーチは、しかし俺のトラウマよりはよほど美しい物だった。
客席から自分を眺めてみると、ハイティーンのアイドルみたいな容姿の同級生女子がゴロゴロ居る中に、陰キャ一般男子中学生が混じっていることの場違い感は凄まじかったけれど、これは集合写真等の存在からわりと今に始まったことでもない。……問題は、その表情にある。
俺は心のどこかで期待していた。こうして真夜中の体育館を訪れてリプレイを見れば、そこではあのDVDの映像に比べてずいぶんマシな顔をした自分が歌っているのではないかと。
けれどそれは叶わない夢だった。半日前に行われた合唱祭本番を忠実に再現したはずの立体リプレイ映像には、ただ確固たる事実として、通り魔のような顔をした男の渋々と歌う姿が映し出されていた。
薄々感じていたけれど、やはり俺は今年、合唱祭を克服できなかったらしい。苦労を理解され、憎しみを吐露し、いろいろと良いことはあった。生前よりはずいぶん多くの望みがあった。もしかしたらと思った。……しかしそれでもやっぱり、俺はまだ合唱祭のことを許せていない。他の行事と違って、「天国なら楽しかった」とはまだ言えない。言えば嘘になってしまう。本当に楽しかったなら、自分があんな顔をするはずがないのだから。
目の前で自分が、クラスメイトが、今も瑠璃色の地球を歌っている。下手なのか普通なのか、俺には分からない。ただ気分の問題でないのだとすれば、生前の物よりはマシな聴こえ方をする。特に声量が良いような、そんな気がする。
周囲を見渡してみる。リプレイを一時停止してまで探してみても、宮坂先生の姿はやはり見当たらなかった。唯一それが惜しかった。あの通り魔のような顔を彼女に見せたかった。「まぁ本番くらいは出ますよ」とスカした態度を取っていた男の見せるものがあの様なのだと分かってもらって、またお互いが同類であることを確かめたかった。
……そんな風に思ったことで、昔の記憶がまた一つよみがえる。
そういえば生前の自分も、宮坂先生とは別種ながら変わった教員を見たことがあった。その教員は技術科の男性教師だった。普段からユーモアに富んだ彼はべつに私怨を持っていたわけではないはずだけど、合唱祭が絡んだ時だけなぜか発言が尖っていて、大人の中では唯一の俺の思想に近しい人物だった。
ある日彼は、放課後の練習の見回りにやって来た。科目だけを見れば畑違いの彼だけれど、たしか学生時代に音楽関係の活動に勤しんでいただとか、あるいは大人になってからそういった活動に取り組んでいるだとか、とにかく何らかの根拠があって見回りをしていたとおぼろげに記憶している。
そんな彼は、生徒たちが一曲通しで合唱する様子を鑑賞したあと、表情も変えずに淡々と言った。
「やる気が感じられない。こんな調子で練習をするくらいなら時間の無駄でしかないから、やめた方がいい」
……俺ですら「なんだかヤバい人が来てしまったのか?」と思った。練習をいくら重ねようと手応えがないことからしてその先生と同意見ではあったけれど、それにしたっていきなり来てその物言いはファンキーすぎる。間違いなく大半の生徒が困惑していたはずだ。俺だってその一員だったし、担任に動揺する様子がないことを見て、そのことになおさら困惑していた。
全否定のダメ出しをくらったあと、クラス一同はもう一度歌った。各々がさすがにちょっと割増で頑張ったような気もした。するとそれを聴いた先生は、
「常にそのくらいの力を出せるといいと思います」
というようなことを言って、教室を去っていった。
結論から言って、常にどころか、本番の一回にすら、俺とクラスメイトたちはその時の力を出せなかったように思う。当日は自覚がなかったけれど、DVDを見た時に初めてその有様に気づいた。あぁ、これは確かに、あの先生が言っていたことが正しかったんだ。俺たちはまさしく時間を無駄にしたのだ……と。
時間の無駄。そんな表現を選んだところに、今となっては非常に好感が持てる。彼は最も正しい見解を有していた。俺とまったく同じ、練習時間を馬鹿みたいに増やせば全てが上手くいくと思っているのは馬鹿だけだと、要するにそう思っていたのだと捉えられる。同じことを言ってくれる大人は他に一人もいなかった。
その意味で、天国の合唱は全て例外なく、必ずしも時間を無駄にしたとは断言できない程度には仕上がっていたものだから、その点がとてもよかった。
とはいえ自分のクラスの発表を見終えれば、さすがにそのあとのくだりまで全て再放送で見る気にはなれない。壇上から退き客席へと戻ってくるリプレイ映像に押し流されるかのように俺は席を立ち、家に帰って眠ることにする。思えば体育館と家との往復にだって瞬間移動を使えばよかったのだけれど、どうしてだろう、そんなに急ぎたいとは思わなかった。無理やり遊び倒す休み時間の忙しなさを彷彿とさせるものを、心のどこかで敬遠していたのかもしれない。
二階通路沿いに設けられた体育館の窓はすべて暗幕を引かれたように黒い。半日前の行事をリプレイしても外は夜、窓に映るのは夜空。「時間の無駄」というワードを思い出したことで、それがいつか見た日暮れの記憶と合わさって、ある怒鳴り声が、皮肉のように記憶中に浮上する。
今何時だと思ってるの。笹川さんを怒鳴りつけた小川先生の声。あれが天国で起きたことでよかった。もしも生前に似たようなことが起きていれば、俺は殺意とともにこう思っていただろう。「こっちの台詞だ」。
…………いや、何かがおかしい。
放置されたリプレイの方ではC組のスピーチが終わり歌唱が始まる。客席の外で呆然と立ち尽くした俺は窓を見上げて、ささくれのような違和感に思いを馳せる。
何かがおかしい。何がおかしい? 怪談的な違和感ではない。ただ、現実的な何かが矛盾している気がする。夜空と合唱の組み合わせに、なぜだかものすごく違和感がある。
思えば俺は、中学生当時の憎しみを我が物として取り戻すことの速度に比べて、合唱祭にまつわる色々な出来事をあまりにも忘れていた。技術科の先生の尖った物言い、カウンセラーの先生にしてしまった八つ当たり、クラスの男女間のいさかい、昼休みに侵食してくる練習。……それらを一つ一つ拾い集めるようにして思い出してきた数週間だった。
あっ、と声が出る。リプレイの合唱の声量にかき消されたその気づきの声は、人知れず足元に落ちる。
夕暮れの教室で群れて歌いながら、時計を見上げては憎しみを積もらせていた当時の記憶。それは思い出せる。昼休みの練習のメリハリがない雰囲気、それも思い出せる。……けれど夜の記憶がない。夜空と合唱の組み合わせは俺の記憶をいくら探しても見当たらず、また制服を着て夜の通学路をとぼとぼ歩いたような記憶も、まったく見当たらない。
授業は六コマある。カウンセリングは一時間近くある。そして練習は、俺の憎しみを参照するに、二時間あったはずだ。
けれどその計算だと、合唱練習のあとにカウンセリングを受けた俺は、月を見上げて帰ることになる。「今何時だと思ってるの」。小川先生の声が脳裏によみがえる。
……学校側が、そんなことを推奨するはずがない。
練習は本当に二時間あったのか?
いや、間違いなく、少なくとも「二時間あった日」は何度もあったはずだ。さすがにそうでなければ、毎日の練習がたとえば一時間止まりなら、俺はここまで怒り狂っていないはず。十年以上も渦巻く憎しみや、その克服の困難さは生まれなかったはず。
……いや、でも、しかし、本当に? 一時間を超えて巡る時計の針を見て「まさか二時間はないだろう」とたかをくくったあの記憶は、本当に間違いなくそうだったのだろうか? 三十分を超えた針を見て、まさか一時間はないだろうと思ったわけではないと、神に誓って言えるだろうか。……あんなに多くの合唱祭にまつわる記憶を、俺は初めのうち忘れていたのに?
走馬灯のように様々な人の声がよみがえる。
破格まで行ってやっと一考の余地を生み出せると思うの。天地がひっくり返ろうと許せないものは許せないんだよ。時間の無駄でしかないからやめた方がいい。今何時だと思ってるの。遅かったね、合唱練習が長引いたんだよ。全員殺してやりたい。自由を奪われるから。百合園くんは、合唱が嫌い……?
……体育館が静まり返る。リプレイ映像の数百人が消えて、一人で居るには広すぎる深夜の箱の中に、照明の光ばかりが残る。
俺は冷たい木製の床に大の字で寝転がる。天井にはバレーボールが引っかかっているのが見えた。念力が使えても、あえてそれを取ろうとは思わない。その気力も出ない。
助けてほしいのは俺の方だ。
「……輪上さん、起きてますか」
「起きてるよ」
「今何してますか」
「布団の中でスマホいじってる」
「迎えに来てくれませんか。できれば車で」
「えぇ、いいけど。なんで車?」
「ちょっと、話したいことがいろいろあって」
「歩きながらはダメなの?」
「歩きたくないんです」
「あ、そうか。分かったすぐ行くよ」
テレパシーの会話を終えたあと、おそらく十分程度。俺はひたすら天井を見上げていた。休み時間一つ程度のその間が、おそろしく長く感じられた。
俺の憎しみは、いつの間にか独り歩きをしていたのだろうか? 十年以上かけて煮詰められたそれはマグマじみた他責思考の熱だけを残し、事実からはかけ離れて、その結果、天国に「生前にありもしなかった量の練習」を生んでしまったのだろうか。
もしそうなら、俺がもっと適切に生前の記憶を保って、事実に即したものだけを恨んでいれば、合唱練習の皆勤賞も狙えたのだろうか。そうすれば今頃は、合唱祭への負の感情を克服出来ていたのだろうか。もっとマシな顔で壇上に立てていたのだろうか。
いや、しかしそれは無意味な仮定だ。十年以上も間が開いたことが何よりも悪い。人は、十年前の出来事を詳細には覚えていられない。十年前の感情なら昨日のことのように思い出せても、事実を寸分違わず思い出すことは出来ない。
天井を見上げて、自分の人生を振り返る。おぼろげで幸せで、お先真っ暗だった、中学卒業後の十年間。この先の俺が天国でなぞっていく十年に、断片的にでも思いを馳せる。一年目の合唱祭克服に失敗したことは、その十年の幸せと引き換えだと思えば仕方なかったのだと思うために。だから楽しいことばかりを振り返った。事欠かなかった。
なのにどうしてだろう。楽しいことを考える時間とは、早く過ぎていく物ではなかったのか。一人きりの体育館で輪上さんを待つ時間は、夜明けを待つことに似て果てしないものだった。
ある時、入口の方から足音が聞こえた。キュッキュと床と擦れる上履きの音。その音の主は、寝転がったまま動こうとしない俺を頭上から見下ろす。
「えっ」
照明の逆光の中に見えたのは、あの職場の休憩室で見たのと同じ姿。大人になった輪上さんの姿だった。
思わず身を起こす。向こうは向こうで、ささやかなドッキリに成功した満足感を隠しきれていなかった。
「なん……え、そういうの出来たんですか」
「天使だからね。それに運転席で中学生の姿っていうのはちょっと」
「それはそうですけど」
思わぬタイミングで懐かしい姿が見られて、なんだか少し元気が出た気がする。車まで担いで行ってもらう気満々だった俺は気が変わって、自分の足で歩いて体育館を出た。輪上さんはまた「おお」と上振れを見た人の感嘆を漏らしていた。
リミッターに関係なく、夜の校庭も輪上さんと一緒に歩けば怖くない。自分だって今や異能の力の主なのに、天使が隣にいることはそれだけで頼もしく感じる。
重く閉じた門の先に、青い軽自動車が停めてあった。よじ登ってそっちへ行こうとすると、不意に体が空中へ持ち上がっていく。まるで自分が大きな一つの泡になって、海底から浮上していくような感覚だった。
輪上さんも同じように浮遊していた。彼女は俺の手を取り、門の外側へ誘導する。天国の主しか天国の力は使えないはずだけれど、それ以前に彼女は天使なのだ。頭の上に輪が浮かんでいないことが不思議に思えてくる。
助手席に乗ってシートベルトを締める。エンジンをかけた輪上さんはそのまま車を発進させた。
校門を開かない限りこのあたりの狭い道路ではUターンが出来ず、俺の家があるのと同じ方角からやって来た彼女の車は、一度家とは真逆の方向へ行き、大きく迂回するルートを取ることになる。子どもの頃に俺も自転車でよく通った、蛇行するように住宅街を抜けて大通りを目指すルートだ。
要するに、道中には何かを話すのに十分な時間がある。
「それで話したいことって?」
ハンドルを握ったまま輪上さんは言う。姿が大人なので、横目に見ると先生感が強くなる。
天使に未来視の力はないらしい。けれど逆に、既存のことなら輪上さんはきっと何でも知っている。特に少なくとも、俺の過去に関することなら確実にそうであるはず。
「……俺の生前の合唱練習って、二時間あったと思います?」
「百合園くんがあったと思うなら、あったんだよ」
「でも」
「記憶に矛盾がある?」
あらかじめ知っていた風に、彼女は微笑む。
「些細なことだよ。百合園くんが百合園くんのトラウマを克服するための世界なんだから、事実なんてさ」
「……でも克服には失敗しました」
「また来年がある。手も足も出なかったってわけじゃないんでしょう?」
「まぁ……」
「来年が楽しみだね」
ポジティブに考えるなら、まぁ、その通りではある。
生前は鉄壁で、事実すらねじ曲げるほど強固だった憎しみの塊に、笹川さんがヒビを入れてくれた。それは単なるヒビに過ぎず克服には至れなかったけれど、でもまぁ確かに、本当に、生前よりマシだったことは確実だとも思える。それにこの天国が俺のための世界である以上、来年の合唱祭練習の尺は今年よりも短くなる。希望があるといえば、そうなのかもしれない。俺は思ったまま「そうかもですね」と呟く。
ヒビが入った憎しみの中から、「中学最後の一年なんだから」というフレーズが染み出して頭に響く。今年が最後でなくて本当によかったと、胸を撫で下ろすような気持ちになる。
車の外を通り過ぎていく家々は、ほとんどが一つの窓も余さずに消灯している。通行人の姿もなく静かな夜更けの中にいると、人の消えた世界に取り残されたのではと錯覚しそうになる。けれど実際は知らないだけで、その景色の中にクラスメイトの家が混じっていたりもするのだろう。
「輪上さんに一つお願いがあるんですけど」
「なに?」
「笹川さんにお礼を言っといてもらえませんか。取り引きのレートを3倍にしてもらえたのがすごく嬉しかったって」
「……自分で言うのは?」
「いや、俺が言ってもたぶん、説得力がないんです。救われた〜って顔では言えないから。……人伝に聞いた方が信ぴょう性があることってあるでしょう?」
「……まぁそういうこともあるか」
何度目かのカーブを経て、遠くに大通りが見えてくる。こんな時間でも何台かの車が走っていた。ガソリンスタンドやコンビニが営業している明かりも見える。寝静まった世界は案外狭かった。
「……それで3倍が嬉しかった理由なんですけど。どうにか上手いこと、笹川さんに伝わるように言い方を調整できませんかね」
輪上さんが全てを知っている前提で聞く。すると彼女は「普通に、小学生の時と比べてでいいんじゃない?」と答えた。まぁそんなもんか、と俺も納得する。
笹川さんが3倍と言ってくれて嬉しかった理由。そのうちの一つはもちろん「破格でようやく一考の余地」という、苦手側の視点にこの上なく配慮してくれたことにあるのだけれど。俺が心を動かされた理由には、実のところもう一つある。
いくらなんでもそんなはずはないと、当時から頭では分かっていたのだけれど。俺は生前、中三の合唱練習を初めて体験した時、こう思ったのだ。……ダメだ、おかしい、こんなことが許されていいはずがない。練習量が体感で3倍になっている!
まさかその「体感」とやらの不確かさが天国にまで影響をもたらすとは、半日前までは想像もしていなかった。
大通りに出て早々、車は信号に引っかかった。
夜空の下に無機的に灯る赤信号。夜の外出に特別感があるとするなら、その象徴の一つ。免許を持っていない俺が生前にそれを車内から見上げた時、運転席には必ず父がいた。
そう、俺は車の免許を取ることなく死んだ。勉強という行為が苦手だったことと、そもそもエンジンの付いた乗り物を自分で操ること自体に恐怖心があったのが、その理由だ。父はずっと俺に免許を取ってほしがっていた。もう疲れたよ、そろそろ運転を変わってくれよと、どこまで本気で言っていたのか分からない言葉を、俺は成人してからずっと聞き飽きていた。
天国の父は一度もその台詞を口にしない。見た目なんか美少女になってしまって、不死身の疲れ知らずで、それに今の俺はまだ中学生だから。……けれどこの先俺が大人になっても、かつて父が言った「いつか不便に思うぞ」が現実になる日は来ないし、両親が衰えることもない。合唱祭があることと同じで、天国の父もいつかは同じ台詞自体を言うのだろうけど、そこに現実由来のプレッシャーが生じないことは明らかだ。
信号はまだ変わらず、輪上さんはハンドルを持ったまま背中を丸めている。
「……天国に来てよかったって、結構何回も思うんですよ」
「おぉ、いいことだ」
「……なんですかね? 天国に来てよかったって、要するに、死んでよかったってことになる気もしますけど」
青になった信号を見て輪上さんは背筋を伸ばす。ゆっくりと、車が再発進する。
「死んで悪かったよりは、いいんじゃないかな」
「そう。それは俺も思うんです」
死んでよかったというのは、本当にその通りである。
俺は精神的に追い込まれて自殺したわけじゃない。26歳でニートでアルバイト一つまともに出来たことがないという先の暗い人生を送る中で、ある日うっかり車に轢かれて死んだだけ。しかもなんなら、その事故の過失は全て車側にあった。俺が死の直前に渡った信号は青だった。
その日俺が外に出た理由は、家族と一緒に祖父の家へ遊びに行くという、暗い人生とはおよそ真逆そうな平和で明るい理由だった。なんなら祖父の家での夕食を楽しみにしてさえいた。……26歳の無職はまだその時点では幸せだったのだ。けれど十年後二十年後がどうだったかは分からない。人が人である限り、親は不死身などではないのだから。
俺は死んだことで、人生の幸せな部分だけを味わうことが出来た。そして死後の世界にはこの通り、文字通りの天国が待っていたのだから、これを「死んでよかった」と言わずになんと言うのか。
……そう考えて、納得していたつもりだったのだけれど。
「でも輪上さん。俺、最近はこうも思うんです。……死んでよかった。というか、もっと早く死んでいればよかった」
そうすれば、この先にゴロゴロと有る、天国でなぞらなければならないようなトラウマは、そもそも存在しなかったのに。そうすれば、合唱祭の憎しみは、独り歩きしなかったのに。
俺は中学生の頃も十分幸せだった。初めて異性と付き合った高校時代もかけがえがないと言える。酒が飲めるようになった20歳もよかった。……でも、いくらなんでも、26歳っていうのは、ちょっと長すぎたんじゃないか。それどころかべつに、20歳でも高校でも中学でも、そこで打ち切ってはいけないというわけではなかったように思う。そこで終わっていたら終わっていたで、若い俺は天国で幸せに生きていただろう。なにせ生前ですら幸せだったのだ、天国で幸せになれないはずがない。
……車の外では、ガソリンスタンドやコンビニが、すれ違う自動車が、今の自分には関係ない物として通り過ぎていく。
「もちろん生前には天国の存在が分からなかったんだから、結果論ではあります。だから後悔するとかじゃない。後悔はしないけど、でも、事実として、やっぱり僕は無駄に長く生きたんじゃないかって。生前の暮らしを悪いとは思いませんけど、というか楽しかったけど、でも近々死ぬことが前提になけりゃ、誰があの人生を良い人生だと思うのかって話でしょう。だからもっと早く死ぬべきだったんじゃないかって。…………天国に来て特に幸せって実感が湧くたびに、なんで僕は、いちいちそんなことを考えなきゃいけないんですかね? もしかして僕は、何かを根本的に間違えてたりするんですかね……?」
車は大きな交差点を曲がる。あとはこの先をひたすら真っ直ぐ行けば、お互いの家がある方へと近づいていく。
輪上さんは俺の既存の全てを知っている。俺がしっかり思考して話している限り、彼女が俺から何かを突然言われて驚くというシチュエーションは、まずあり得ない。
一方で輪上さんは、それを隠さなくていいと言ったあとでも、俺が俺のタイミングで話題を切り出すまで必ず待っていてくれる。……あるいは待つというよりも、天使として、彼女は待ち構えているのかもしれない。
「百合園くんはまだラピスラズリを見つけてないんだよ」
「…………え?」
俺がすぐには思い出せないような話を、天使はさらりと語る。
「ラピスラズリを覚えたら、瑠璃色もすぐに覚えられたでしょ? それと同じで、生前の人生にも全部意味があったんだって、天国に来たのはこのタイミングがベストだったんだって思える決定的なきっかけが、この先の人生に転がってるかもしれない。……今の時点で生前の人生を全部評価するのは、宝石の国を読む前に瑠璃色がどんな色かを覚えようとすることと同じくらい、本人が気づいてないだけで、ちょっとせっかちなことなんじゃないかって私は思うな」
「……………………なるほど」
長々と開いた間は、回答への不服を表すものではない。そういうことも、輪上さんには自動的に伝わる。
俺は熟考の末、ものすごく納得したのだ。「俺はまだ人生の意味のラピスラズリを知らない」。言われてみればその通りかもしれない。あるいはそんな物がこの先の人生に何一つ存在していないのだとしても、それが存在しないことの確かさを、今ここで証明することは出来ない。
確かにちょっとせっかちすぎた気がする。そう心から思えた拍子に、さっきまで己の内にあった、夜の闇との境目をなくしていくような暗澹たる心情は、コンビニの光にでも溶けて消えていった。
少し遠くの方に、ライトアップされたマックの看板が見える。店舗の方も明るく、そういえば生前の世界でも24時間営業をしていた気がする。俺と輪上さんはたぶん同時に、そのMの字を見上げた。
俺も天使の真似をして、先に答えを用意しておく。
「……マック食べていかない?」
「輪上さんの奢りなら」