永禄七年 遠江・山間の小庵にて
春が遅れてやってくるこの土地では、椿も梅も、花は静かに咲く。
香りは濃くはないけれど、風に運ばれるやさしさがある。
庭先に敷かれた踏み石を、鶴丸が丁寧に洗っていた。
その後ろ姿を眺めながら、わたくしは針仕事の手を止め、そっと唇に指を当てた。
この人が傍にいるということだけで呼吸が整う。
背に背負っていたものを、少しだけ降ろしていいのだと身体が覚えていく。
かつての夜のように、刃を抜かなくていい。
唇を噛まなくても、涙を隠さなくていい。
ただ、笑っていいという暮らしは、はじめてだった。
日も高くなりし頃、文が届いた。
駿河からの早馬。
差出人の名は、濃姫――そして、信長さま。
一枚目の文は、彼女の筆だった。
「春の香に、あなたの袖がふわりと揺れていそうで。また、あの夜の話をしましょう。笑いながら。生きているうちに、必ず。」
二枚目は、彼の筆。
「世が広くなったが味気なくもなった。昔、膳の上に毒が乗っていようとも、そなたと濃がいたあの席の方が、遥かに楽しかった」
わたくしは文をそっと胸に当てて、目を閉じた。
やわらかな陽が射しこみ、鶴丸が湯を沸かす音が、どこか遠くから聞こえる。
もう、戦は終わった。
今もどこかで剣は交わされているかもしれない。
けれど、わたくしの戦は、もう終わっていた。
手の中にある文も、庭に咲いた椿も、そして振り返った先で笑う鶴丸も――「今ここに生きている」という証なのだと、ようやく思えるようになった。
文を机に戻すと、鶴丸が湯を入れた木椀を両手に持って縁側へ上がってきた。
椀から立ちのぼる湯気が、春の光に溶け込んでいく。
「姫さま、お湯がぬるめです。けれど……」
「いいの。熱いと、あの頃を思い出してしまうから」
そう言って笑うと、鶴丸は肩の力を抜いてわたくしの隣に腰を下ろした。
ふたりの間には沈黙が流れていた。
けれど、それは決して不快なものではなく、むしろ何も言わなくてもよいという贅沢だった。
「……信長様から文が」
「そうですか」
鶴丸は、湯を口に含みながら目を細めた。
「また、城へ戻られますか?」
「いいえ」
わたくしは即座に答えていた。
それはまるで長く用意していた返事のようだった。
「もう行く必要はないの。あの人たちはわたくしの役目を終えさせてくれた。そして、あなたがここにいてくれるから……わたくしはようやく、ただの女でいられる」
鶴丸の手がそっとわたくしの膝に触れる。
細く、でもしっかりとした手。かつて刀を握り、わたくしを守った手。
「……姫さまは、ただの女なんかじゃありません。けれど、わたくしは……ただの男として、隣にいたいのです」
わたくしはその言葉に、何も返せなかった。
胸の奥がじんわりと温かく、苦しくなったから。
誰にも奪わせなかった唇を、鶴丸に向けて、わたくしはそっと口づけた。
何も誓わず、何も契らず、ただ――
今だけを確かめるように。
日が傾き、鶴丸が針仕事の道具を片づけているあいだに、
わたくしはふと思い出したように、鏡の前に座った。
襟を緩め、白い肌の奥に薄く残るあの痕を、指でなぞる。
喉元の傷跡――あの時、自ら抜いた刃が刻んだもの。
もう痛くはない。
けれど、それに触れるたびに身体の奥がわずかに揺れる。
あの夜、鶴丸の手を裾に導いたわたくし。
ただひとつの肌を選んだ少女――それが、始まりだった。
縁側から鶴丸の声がする。
「姫さま。夜が来ますよ」
「ええ。……灯りを、ともしてくださる?」
そう返しながら、そっと目を閉じた。
あの頃の記憶が、あたたかく灯る。
紅の襦袢。沈む指。かすかな呻きと、ふたりきりの秘密。
あの日からすべては始まったのだと。今、静かに、わたくしは思い出す。