※この作品はR-18です。

瀬名姫、首をもって尾張を訪う   作:キューブケーキ

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プロローグ

 永禄七年 遠江・山間の小庵にて

 

 春が遅れてやってくるこの土地では、椿も梅も、花は静かに咲く。

 香りは濃くはないけれど、風に運ばれるやさしさがある。

 庭先に敷かれた踏み石を、鶴丸が丁寧に洗っていた。

 その後ろ姿を眺めながら、わたくしは針仕事の手を止め、そっと唇に指を当てた。

 この人が傍にいるということだけで呼吸が整う。

 背に背負っていたものを、少しだけ降ろしていいのだと身体が覚えていく。

 かつての夜のように、刃を抜かなくていい。

 唇を噛まなくても、涙を隠さなくていい。

 ただ、笑っていいという暮らしは、はじめてだった。

 日も高くなりし頃、文が届いた。

 駿河からの早馬。

 差出人の名は、濃姫――そして、信長さま。

 一枚目の文は、彼女の筆だった。

 

 

 

「春の香に、あなたの袖がふわりと揺れていそうで。また、あの夜の話をしましょう。笑いながら。生きているうちに、必ず。」

 

 

 

 二枚目は、彼の筆。

 

「世が広くなったが味気なくもなった。昔、膳の上に毒が乗っていようとも、そなたと濃がいたあの席の方が、遥かに楽しかった」

 

 

 

 わたくしは文をそっと胸に当てて、目を閉じた。

 やわらかな陽が射しこみ、鶴丸が湯を沸かす音が、どこか遠くから聞こえる。

 もう、戦は終わった。

 今もどこかで剣は交わされているかもしれない。

 けれど、わたくしの戦は、もう終わっていた。

 手の中にある文も、庭に咲いた椿も、そして振り返った先で笑う鶴丸も――「今ここに生きている」という証なのだと、ようやく思えるようになった。

 文を机に戻すと、鶴丸が湯を入れた木椀を両手に持って縁側へ上がってきた。

 椀から立ちのぼる湯気が、春の光に溶け込んでいく。

 

「姫さま、お湯がぬるめです。けれど……」

「いいの。熱いと、あの頃を思い出してしまうから」

 

 そう言って笑うと、鶴丸は肩の力を抜いてわたくしの隣に腰を下ろした。

 ふたりの間には沈黙が流れていた。

 けれど、それは決して不快なものではなく、むしろ何も言わなくてもよいという贅沢だった。

 

「……信長様から文が」

「そうですか」

 

 鶴丸は、湯を口に含みながら目を細めた。

 

「また、城へ戻られますか?」

「いいえ」

 

 わたくしは即座に答えていた。

 それはまるで長く用意していた返事のようだった。

 

「もう行く必要はないの。あの人たちはわたくしの役目を終えさせてくれた。そして、あなたがここにいてくれるから……わたくしはようやく、ただの女でいられる」

 

 鶴丸の手がそっとわたくしの膝に触れる。

 細く、でもしっかりとした手。かつて刀を握り、わたくしを守った手。

 

「……姫さまは、ただの女なんかじゃありません。けれど、わたくしは……ただの男として、隣にいたいのです」

 

 わたくしはその言葉に、何も返せなかった。

 胸の奥がじんわりと温かく、苦しくなったから。

 誰にも奪わせなかった唇を、鶴丸に向けて、わたくしはそっと口づけた。

 何も誓わず、何も契らず、ただ――

 今だけを確かめるように。

 

 

 

 日が傾き、鶴丸が針仕事の道具を片づけているあいだに、

 わたくしはふと思い出したように、鏡の前に座った。

 襟を緩め、白い肌の奥に薄く残るあの痕を、指でなぞる。

 喉元の傷跡――あの時、自ら抜いた刃が刻んだもの。

 もう痛くはない。

 けれど、それに触れるたびに身体の奥がわずかに揺れる。

 あの夜、鶴丸の手を裾に導いたわたくし。

 ただひとつの肌を選んだ少女――それが、始まりだった。

 縁側から鶴丸の声がする。

 

「姫さま。夜が来ますよ」

「ええ。……灯りを、ともしてくださる?」

 

 そう返しながら、そっと目を閉じた。

 あの頃の記憶が、あたたかく灯る。

 紅の襦袢。沈む指。かすかな呻きと、ふたりきりの秘密。

 あの日からすべては始まったのだと。今、静かに、わたくしは思い出す。

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