※この作品はR-18です。

瀬名姫、首をもって尾張を訪う   作:キューブケーキ

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2 懐剣の正しい使い方

 その日、駿府の城中は奇妙なざわめきに包まれていた。

 誰も真実を知らぬはずだった。

 けれど瀬名の顔に残された痕跡は、たった数刻のうちに、女房の耳から奥方付き、奥方付きから重臣の側女を経て――やがて今川館の静かな中枢にまで届いた。

 驚くべきは誰も鶴丸の名を口にしなかったことだった。

 名もなき小姓は、気配すら疑われることなく朝の用務を終え、いつものように膝を折り、掃き掃除をしていたという。

 一方で、松平竹千代の名前だけが、やけに浮き彫りになっていた。

 

「瀬名さまが、あのような姿に……」

「しかしまだ、婚儀の話など何も……」

「まさか、駿府にて手前勝手な真似を?」

 

 城中の陰がざわめくたびに、「人質のくせに」「何を勘違いしているのか」と、目に見えぬ声が宙を舞った。

 けれど、わたくし――瀬名は、すべてを他人事のような顔で受け流していた。

 誰かが問いを投げてくれば、わたくしは決まってこう返した。

 

「夢のようでございますの。……なぜだか、あの方の顔が焼きついてしまって」

 

 それだけでよかった。

 あとは誰もが勝手に納得し、解釈し、断罪してくれる。

 女が沈黙を守るとき、男の名だけが泥に塗れる。

 それは、いささか哀れで、そして少しだけ快かった。

 

 

 

 

 竹千代さまが訪れたのは、年の暮れも迫った朝のことだった。

 庭の梅がほのかに香る季節。

 わたくしの部屋に、用意も告げられぬまま、突然に彼は姿を現した。

 

「姫さま。……瀬名どの」

 

 その声はまだ幼さを残していた。

 けれど、その視線には不思議な熱が宿っていた。

 まるで何かを試すような、深い底を探るような目。

 膝を突き、わたくしの前に座した彼は、ふと身を乗り出した。

 

「城中が騒がしいですね。……夢のようだったと、そう仰ったとか」

 

 わたくしは微笑んだだけだった。

 竹千代さまの手が静かに、しかし迷いなく、わたくしの膝に触れた。

 その指が、するすると裾の奥へと忍び込んでいく。

 何も言えなかった。

 声を上げれば、竹千代さまの不分別は咎められたかもしれない。

 けれど、咎められるのは男ではない。女は、傷を口にした瞬間に穢れになる。

 わたくしはただ、穢れになりたくなかっただけ。

 布の下、秘めたる裂け目に指が届いた。

 冷たい――けれど、恐ろしいほどに正確な動きだった。

 

「濡れてもいない。……夢ではなかったのでしょう?」

 

 囁きは耳の奥に絡みつくようだった。

 わたくしの身体は震え、膝がわずかに開いていくのを止められなかった。

 指先が秘裂の縁をなぞる。

 そこには、夜に触れてきた鶴丸の温もりも残ってはいなかった。

 わたくしは唇を噛み、答えた。

 

「……夢と現(うつつ)の境など、女には見分けられませんの」

 

 竹千代さまは笑った。

 少年の顔に男の影が宿っていた。

 指がもう一度、そこに触れた。

 わたくしの身体は、何も覚えていないはずの触れ方に、ぞくりと反応した。

 ――鶴丸ではない。

 けれどそれでも、わたくしの身体は、受け入れようとしていた。

 竹千代さまは、躊躇なく身体を重ねてきた。

 女が拒まぬことを「承諾」とみなす世で、わたくしの沈黙は、彼にとって許しの証だったのだろう。

 指が秘裂を割り、身体の熱が押し入ってくる。

 痛みはあった。けれどそれ以上に――身体が冷えてゆくのをわたくしは感じていた。

 これは、あの夜のものではない。

 鶴丸と交わした静かな熱、罪と知りながらも溶け合えたあのひとときとは、あまりに違う。

 それは、権威の名を借りた征服ではなかった。

 鎧の下に隠した劣等と、名もなき男の焦りが、わたくしの身体で、ようやく「男になろうとした」だけのこと。

 だからこそ――それが、いちばん惨めだった。

 そのとき、わたくしの指先が脇の懐に触れた。

 懐剣。

 女として生きることを強いられるわたくしに、母が持たせてくれた唯一の拒絶の手段。

 竹千代さまの身体が完全に沈み込もうとした、その刹那。

 わたくしは懐剣を抜いた。

 

「姫……? なにを――」

 

 竹千代さまは、わたくしの身体の奥にその身を沈めていた。

 その瞬間だった――

 彼の声を聞き届ける前に。

 わたくしは刃を、古のフリアエの様に己の喉元に真っ直ぐ当てた。

 一閃。

 冷たい鉄が肌を裂き、温かいものが噴き上がる。

 赤い滴が竹千代さまの顔を濡らした。

 彼は目を見開き、動けずにいた。

 わたくしの身体が彼の上に崩れ落ちるまで、言葉のひとつも出せなかった。

 

「わたくしの初めては……あの夜に、もう……終わっておりますの」

 

 喉から漏れる声は、もはや声ではなかった。

 けれどその意志だけは、確かに彼の胸に刻まれた。

 血の味と、涙と、未だ沈みきらぬ身体。

 瀬名姫の決断は、誰にも止められぬ、誇りと絶望の刃だった。

 温かな血が、彼の頬に、胸に、滴り落ちていく。

 

「ひ、姫……?」

 

 竹千代さまは、わたくしの体内にまだ繋がったまま目を見開いた。

 その幼い顔に、真っ赤な血が縞のように流れていた。

 震える両手でわたくしを抱きかかえるが、彼の股間からはまだ幼い硬さが抜けきらず、それが余計に惨めだった。

 

 そして――

 

 襖が開いた。

 

「失礼いたしま――あっ……!」

 

 湯を運ぶ二人の女房たちが、ふたりの姿を目にした瞬間、茶器を抱えた手が震え、器が畳に落ちた。

 血に濡れた姫の身体。

 竹千代さまの顔にまでべったりと広がる鮮血。

 そして彼の腰が姫の下半身と密着したまま動けずにいる――

 惨劇と淫らさが混在するその光景は、誰の目にも言い逃れのできない現実だった。

 

「た、竹千代さま……っ、それは……っ!」

「ち、違う……違……!」

 

 彼は口走ったが、何を否定したいのかすらわかっていなかった。

 その背後で、わたくしの口がかすかに動く。

 

「夢の続きを……見ただけで、ございますの」

 

 女房のひとりが膝をつき泣き出した。

 もうひとりは、逃げるように襖を閉めた。

 その音は、まるで誰かの命を閉じる音のようだった。

 

 

 

 

 瀬名姫は――助かった。

 深くはあったが、喉の傷はかろうじて大動脈を外れていた。

 女房たちの必死の止血と、奥医師の迅速な処置によって姫は命を繋いだ。

 その報せが今川義元の耳に届いたとき、彼はただ一言、「良きにせよ」と呟いたという。

 だが――その刃が抜かれたのが誰と交わった直後だったかなど、問うまでもない。

 誰もが知っていた。

「松平竹千代が、瀬名を傷物にした」

 それが、この国で生きる者にとって、ただの風聞ではなく既成の事実となった。

 竹千代は、誰よりもそれを知っていた。

 姫の血を浴びた肌をいくら洗っても、記憶は剥がれ落ちなかった。

 その日以降、彼は姫の前に姿を見せようとせず、部屋に籠るようになった。

 一方、鶴丸は瀬名の寝所の外に立ち尽くしていた。

 戸の向こうから、姫の微かな寝息が漏れていた。

 

「姫が生きてくださって……それで、わたくしは……」

 

 それ以上、言葉にはできなかった。

 ただひとつ、胸の奥で燃える思いを噛みしめていた。

 誰が忘れようと、自分だけは忘れまい。

 姫が守ったもの。

 命と、名誉と、そして名も告げなかった恋。

 鶴丸は沈黙を守り続けた。

 彼はただ深く頭を垂れ、両の拳を強く握った。

 守られた。女として、武士として、何よりも「誰かの手に触れられた者」として――姫は、鶴丸の名を口にせず、すべての罪を黙して背負った。

 

「命、差し出します」

 

 その夜、鶴丸は姫の病床の外で膝を折り、声に出さぬ誓いを立てた。

 

 

 

 

 

 傷が塞がり、ようやく湯に入れるようになった永禄元年正月のある日。

 瀬名は、父・関口氏純のもとを訪れた。

 薄紅の衣をまといながらも首元には白絹が結ばれ、刃の痕を隠していた。

 

「父上……お願いでございます。あの人のもとへは、嫁ぎとうございません」

 

 わたくしは初めて、父の前で膝を突いた。

 松平竹千代の名を、口に出すのさえも苦しかった。

 傷の痛みよりも、踏みにじられたという記憶の方が、深く、冷たく、わたくしを蝕んでいた。

 父は黙っていた。

 やがて、ため息とも呻きともつかぬ声を漏らし、目を閉じた。

 

「……まだ、案でしかなかったのだ」

 

 その言葉を聞いたとき、わたくしは胸の奥で何かが崩れ落ちるのを感じた。

 まだ決まってもいなかった――にも関わらず、あの男はわたくしを手にかけた。

 父は続けた。

 

「おまえをあの家にやる道理は、もうない。いや、やれるはずがない。……あの仕打ちの後ではな」

 

 今川義元は表立って何も言わなかった。

 だが駿府館の帳面には、静かに書き記された。

 

 

 

「松平、瀬名を傷物にせし件。縁談破れたり。女一命を絶たれしことに等しきゆえ罪重く、謝辞も届かず。以後、女を差し出すことあらば、誠意の徴ありて然るべし」

 

 

 

 それは外交記録ではなく、記録としての咎だった。

 松平家が正式に処罰を受けたわけではない。

 だが、諸国の目は冷たかった。

「人質の分際で、今川家の姫に傷をつけた」という噂は、三河を越えて広がっていった。

 

 

 

 

 

「瀬名。おまえの意志を聞こう。嫁ぎたい家は――あるか?」

 

 それは、父ではなかった。

 今川義元本人が静かに問いかけた。

 わたくしはしばし沈黙した。

 天井を仰ぎ、胸に手を当てて、ひとつだけ深く息を吐く。

 あの日の血も、屈辱も、許しも、恋も――すべて終わった。

 これからは名を守るためではなく、主君と家のために生きる。

 だからこそ言えた。

 

「……織田家に嫁がせてくださいませ」

 

 義元の眉がかすかに動く。

 周囲の者たちが息を呑んだのが、空気で伝わった。

 わたくしは迷いなく続けた。

 

「義元様のご構想――東海道を西へ進み、尾張・美濃を越えて、上洛されるその道のり。その露払いとして、わたくしの命を差し出しましょう」

「織田信長……我が宿敵ぞ」

「だからこそ。敵とて、呑めば力となりましょう。わたくしひとりの命で、尾張が手に入るなら、安いものでございます」

 

 義元の瞳が、まるで鏡のように冷たく光った。

 そして、彼は口元にうっすらと笑みを浮かべた。

 

「姫としてではなく、武家としてものを申すな。……気に入った」

 

 翌日、駿府の奥で囁かれた。

 

「瀬名姫が、織田家を所望なさったそうですわ……」

「竹千代との破談の後、あのような振る舞いができるとは……」

「今川の女狐……」

 

 城中の声はざわめいたが、誰も瀬名の前では何も言わなかった。

 喉を裂きながら生き延びた姫に、刃向かえる者などいない。

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