その日、駿府の城中は奇妙なざわめきに包まれていた。
誰も真実を知らぬはずだった。
けれど瀬名の顔に残された痕跡は、たった数刻のうちに、女房の耳から奥方付き、奥方付きから重臣の側女を経て――やがて今川館の静かな中枢にまで届いた。
驚くべきは誰も鶴丸の名を口にしなかったことだった。
名もなき小姓は、気配すら疑われることなく朝の用務を終え、いつものように膝を折り、掃き掃除をしていたという。
一方で、松平竹千代の名前だけが、やけに浮き彫りになっていた。
「瀬名さまが、あのような姿に……」
「しかしまだ、婚儀の話など何も……」
「まさか、駿府にて手前勝手な真似を?」
城中の陰がざわめくたびに、「人質のくせに」「何を勘違いしているのか」と、目に見えぬ声が宙を舞った。
けれど、わたくし――瀬名は、すべてを他人事のような顔で受け流していた。
誰かが問いを投げてくれば、わたくしは決まってこう返した。
「夢のようでございますの。……なぜだか、あの方の顔が焼きついてしまって」
それだけでよかった。
あとは誰もが勝手に納得し、解釈し、断罪してくれる。
女が沈黙を守るとき、男の名だけが泥に塗れる。
それは、いささか哀れで、そして少しだけ快かった。
竹千代さまが訪れたのは、年の暮れも迫った朝のことだった。
庭の梅がほのかに香る季節。
わたくしの部屋に、用意も告げられぬまま、突然に彼は姿を現した。
「姫さま。……瀬名どの」
その声はまだ幼さを残していた。
けれど、その視線には不思議な熱が宿っていた。
まるで何かを試すような、深い底を探るような目。
膝を突き、わたくしの前に座した彼は、ふと身を乗り出した。
「城中が騒がしいですね。……夢のようだったと、そう仰ったとか」
わたくしは微笑んだだけだった。
竹千代さまの手が静かに、しかし迷いなく、わたくしの膝に触れた。
その指が、するすると裾の奥へと忍び込んでいく。
何も言えなかった。
声を上げれば、竹千代さまの不分別は咎められたかもしれない。
けれど、咎められるのは男ではない。女は、傷を口にした瞬間に穢れになる。
わたくしはただ、穢れになりたくなかっただけ。
布の下、秘めたる裂け目に指が届いた。
冷たい――けれど、恐ろしいほどに正確な動きだった。
「濡れてもいない。……夢ではなかったのでしょう?」
囁きは耳の奥に絡みつくようだった。
わたくしの身体は震え、膝がわずかに開いていくのを止められなかった。
指先が秘裂の縁をなぞる。
そこには、夜に触れてきた鶴丸の温もりも残ってはいなかった。
わたくしは唇を噛み、答えた。
「……夢と
竹千代さまは笑った。
少年の顔に男の影が宿っていた。
指がもう一度、そこに触れた。
わたくしの身体は、何も覚えていないはずの触れ方に、ぞくりと反応した。
――鶴丸ではない。
けれどそれでも、わたくしの身体は、受け入れようとしていた。
竹千代さまは、躊躇なく身体を重ねてきた。
女が拒まぬことを「承諾」とみなす世で、わたくしの沈黙は、彼にとって許しの証だったのだろう。
指が秘裂を割り、身体の熱が押し入ってくる。
痛みはあった。けれどそれ以上に――身体が冷えてゆくのをわたくしは感じていた。
これは、あの夜のものではない。
鶴丸と交わした静かな熱、罪と知りながらも溶け合えたあのひとときとは、あまりに違う。
それは、権威の名を借りた征服ではなかった。
鎧の下に隠した劣等と、名もなき男の焦りが、わたくしの身体で、ようやく「男になろうとした」だけのこと。
だからこそ――それが、いちばん惨めだった。
そのとき、わたくしの指先が脇の懐に触れた。
懐剣。
女として生きることを強いられるわたくしに、母が持たせてくれた唯一の拒絶の手段。
竹千代さまの身体が完全に沈み込もうとした、その刹那。
わたくしは懐剣を抜いた。
「姫……? なにを――」
竹千代さまは、わたくしの身体の奥にその身を沈めていた。
その瞬間だった――
彼の声を聞き届ける前に。
わたくしは刃を、古のフリアエの様に己の喉元に真っ直ぐ当てた。
一閃。
冷たい鉄が肌を裂き、温かいものが噴き上がる。
赤い滴が竹千代さまの顔を濡らした。
彼は目を見開き、動けずにいた。
わたくしの身体が彼の上に崩れ落ちるまで、言葉のひとつも出せなかった。
「わたくしの初めては……あの夜に、もう……終わっておりますの」
喉から漏れる声は、もはや声ではなかった。
けれどその意志だけは、確かに彼の胸に刻まれた。
血の味と、涙と、未だ沈みきらぬ身体。
瀬名姫の決断は、誰にも止められぬ、誇りと絶望の刃だった。
温かな血が、彼の頬に、胸に、滴り落ちていく。
「ひ、姫……?」
竹千代さまは、わたくしの体内にまだ繋がったまま目を見開いた。
その幼い顔に、真っ赤な血が縞のように流れていた。
震える両手でわたくしを抱きかかえるが、彼の股間からはまだ幼い硬さが抜けきらず、それが余計に惨めだった。
そして――
襖が開いた。
「失礼いたしま――あっ……!」
湯を運ぶ二人の女房たちが、ふたりの姿を目にした瞬間、茶器を抱えた手が震え、器が畳に落ちた。
血に濡れた姫の身体。
竹千代さまの顔にまでべったりと広がる鮮血。
そして彼の腰が姫の下半身と密着したまま動けずにいる――
惨劇と淫らさが混在するその光景は、誰の目にも言い逃れのできない現実だった。
「た、竹千代さま……っ、それは……っ!」
「ち、違う……違……!」
彼は口走ったが、何を否定したいのかすらわかっていなかった。
その背後で、わたくしの口がかすかに動く。
「夢の続きを……見ただけで、ございますの」
女房のひとりが膝をつき泣き出した。
もうひとりは、逃げるように襖を閉めた。
その音は、まるで誰かの命を閉じる音のようだった。
瀬名姫は――助かった。
深くはあったが、喉の傷はかろうじて大動脈を外れていた。
女房たちの必死の止血と、奥医師の迅速な処置によって姫は命を繋いだ。
その報せが今川義元の耳に届いたとき、彼はただ一言、「良きにせよ」と呟いたという。
だが――その刃が抜かれたのが誰と交わった直後だったかなど、問うまでもない。
誰もが知っていた。
「松平竹千代が、瀬名を傷物にした」
それが、この国で生きる者にとって、ただの風聞ではなく既成の事実となった。
竹千代は、誰よりもそれを知っていた。
姫の血を浴びた肌をいくら洗っても、記憶は剥がれ落ちなかった。
その日以降、彼は姫の前に姿を見せようとせず、部屋に籠るようになった。
一方、鶴丸は瀬名の寝所の外に立ち尽くしていた。
戸の向こうから、姫の微かな寝息が漏れていた。
「姫が生きてくださって……それで、わたくしは……」
それ以上、言葉にはできなかった。
ただひとつ、胸の奥で燃える思いを噛みしめていた。
誰が忘れようと、自分だけは忘れまい。
姫が守ったもの。
命と、名誉と、そして名も告げなかった恋。
鶴丸は沈黙を守り続けた。
彼はただ深く頭を垂れ、両の拳を強く握った。
守られた。女として、武士として、何よりも「誰かの手に触れられた者」として――姫は、鶴丸の名を口にせず、すべての罪を黙して背負った。
「命、差し出します」
その夜、鶴丸は姫の病床の外で膝を折り、声に出さぬ誓いを立てた。
傷が塞がり、ようやく湯に入れるようになった永禄元年正月のある日。
瀬名は、父・関口氏純のもとを訪れた。
薄紅の衣をまといながらも首元には白絹が結ばれ、刃の痕を隠していた。
「父上……お願いでございます。あの人のもとへは、嫁ぎとうございません」
わたくしは初めて、父の前で膝を突いた。
松平竹千代の名を、口に出すのさえも苦しかった。
傷の痛みよりも、踏みにじられたという記憶の方が、深く、冷たく、わたくしを蝕んでいた。
父は黙っていた。
やがて、ため息とも呻きともつかぬ声を漏らし、目を閉じた。
「……まだ、案でしかなかったのだ」
その言葉を聞いたとき、わたくしは胸の奥で何かが崩れ落ちるのを感じた。
まだ決まってもいなかった――にも関わらず、あの男はわたくしを手にかけた。
父は続けた。
「おまえをあの家にやる道理は、もうない。いや、やれるはずがない。……あの仕打ちの後ではな」
今川義元は表立って何も言わなかった。
だが駿府館の帳面には、静かに書き記された。
「松平、瀬名を傷物にせし件。縁談破れたり。女一命を絶たれしことに等しきゆえ罪重く、謝辞も届かず。以後、女を差し出すことあらば、誠意の徴ありて然るべし」
それは外交記録ではなく、記録としての咎だった。
松平家が正式に処罰を受けたわけではない。
だが、諸国の目は冷たかった。
「人質の分際で、今川家の姫に傷をつけた」という噂は、三河を越えて広がっていった。
「瀬名。おまえの意志を聞こう。嫁ぎたい家は――あるか?」
それは、父ではなかった。
今川義元本人が静かに問いかけた。
わたくしはしばし沈黙した。
天井を仰ぎ、胸に手を当てて、ひとつだけ深く息を吐く。
あの日の血も、屈辱も、許しも、恋も――すべて終わった。
これからは名を守るためではなく、主君と家のために生きる。
だからこそ言えた。
「……織田家に嫁がせてくださいませ」
義元の眉がかすかに動く。
周囲の者たちが息を呑んだのが、空気で伝わった。
わたくしは迷いなく続けた。
「義元様のご構想――東海道を西へ進み、尾張・美濃を越えて、上洛されるその道のり。その露払いとして、わたくしの命を差し出しましょう」
「織田信長……我が宿敵ぞ」
「だからこそ。敵とて、呑めば力となりましょう。わたくしひとりの命で、尾張が手に入るなら、安いものでございます」
義元の瞳が、まるで鏡のように冷たく光った。
そして、彼は口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「姫としてではなく、武家としてものを申すな。……気に入った」
翌日、駿府の奥で囁かれた。
「瀬名姫が、織田家を所望なさったそうですわ……」
「竹千代との破談の後、あのような振る舞いができるとは……」
「今川の女狐……」
城中の声はざわめいたが、誰も瀬名の前では何も言わなかった。
喉を裂きながら生き延びた姫に、刃向かえる者などいない。