※この作品はR-18です。

瀬名姫、首をもって尾張を訪う   作:キューブケーキ

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3 狸の最期

 四月。春はもう過ぎたのかとふと疑うほどに、今年の椿は早く散った。

 朝の光が障子の影に淡く咲き、冷たい廊の先に父の背があった。

 関口氏純。

 老いたというにはまだ早いが、家中では隠居然と呼ばれる佇まいだった。

 わたくしは、文机の前に腰を下ろす父の後ろに立ち跪いた。

 言葉を選ぶ沈黙が流れ、やがて紙に墨を落とす音が止まった。

 

「戦のことを考えているのか」

 

 問われたのはそれだけだった。

 返事の代わりに、わたくしは背筋を伸ばし目を閉じた。

 

「男の戦は槍で、女の戦は声を上げぬこと」

 

 それが、幼い頃から教わった処世だった。

 けれど今は違う。

 

「父上。わたくしは……名を汚さずに、血を流す術を知りとうございます」

 

 父は笑わなかった。

 ただ墨を置き、わたくしの方を振り返った。

 

「――女に刃は握らせぬ。それでもなお立つ気か」

「刃の代わりに言葉を。声の代わりに沈黙を。わたくしが信長と結べば、道は開きます。義元様が京を目指されるなら……今、わたくしが火種となりましょう」

 

 しばらく父は何も言わなかった。

 春の風が簾を揺らし、庭の枝垂れ桜が音もなく散る。

 

「……よいか。戦に咲く花は、必ず枯れる」

「――咲かずに散るより、よろしゅうございます」

 

 父は筆を拭い巻物を脇に退けた。

 その手つきは、まるで長く仕舞い忘れていた記憶に触れるようだった。

 

「……おまえが生まれたとき、わしはひどく戸惑った」

 

 唐突にそう言われて戸惑うのは、わたくしのほうだった。

 

「男子なら、手を引いて道を教えるつもりでいた。だが、おまえが女に生まれたとたん、手を伸ばすことさえどこか恐ろしくなった」

 

 その声音に責める色はなかった。

 ただ過去を噛みしめるように穏やかで、少しだけ遠かった。

 

「父上は、わたくしを遠ざけていたのですか」

「遠ざけたのではない。……ただ、どうしてよいかわからなかった。母上が手をかけ、言葉をかけ、衣を選び、礼を教えてくれた。わしがしたのは、ただ見守ることだけだった」

 

 わたくしは黙って膝を正し、頭を下げた。

 見守られていたのだと、はじめて知った。

 廊下の障子が、夜風にかすかに揺れた。

 柱の影が、わたくしたちの間に落ちる。

 

「今さら女の戦を語るとは思っておらぬ。

 だが、おまえは戦うというより、引き受ける顔をしておる」

 

 父の声が、わずかに熱を帯びる。

 

「信長の傍に行けば、名を挙げることも、命を落とすこともある。そのすべてを、女の背中で受けるのだぞ」

「はい」

 

 返事はひとつしかなかった。

 静かな夜の中で、それは音ではなく重みとして降りた。

 

「ひとつだけ命じる。決して自分を恥じるな。どれほど辱められようと、裏切られようと、自分の手で決めた道を貫いてみせろ」

「……心得ました」

 

 わたくしの言葉は、もう父の耳に届いていたかどうかはわからない。

 けれど背中がわずかに動いた気がした。

 わたくしは、深く一礼して立ち上がる。

 春の名残をかすかに残す縁側から、庭を一瞥した。

 すべてを背にして歩くその瞬間、父が小さくひとことだけぽつりとつぶやいた。

 

「……おまえは、わしの誇りだ」

 

 わたくしは振り返らなかった。

 それでも、その言葉は胸にしっかりと残った。

 

 

 

 

 義元公の間には、沈香の香が満ちていた。

 その香りは、命令よりも先に人の意識を侵すようで、言葉を選ぶ舌先が自然と湿る。

 畳の縁に膝を揃えたわたくしの前で、義元はゆるやかに筆を滑らせていた。

 濃墨の先が地図の上にしなやかに曲がり、やがて尾張の境で止まる。

 

「瀬名。……おまえの申す火種とやら、聞こうか」

 

 声には笑みも威圧もなかった。

 けれどそのひとことが、わたくしの命を左右するものであることはわかっていた。

 

「尾張の信長公。浅井・斎藤を封じ、京の門を開く道には、欠かせぬ御方にございます」

「敵に嫁げと申すか」

 

 義元の横に控えていた寿桂尼が、やわらかに言った。

 その声音には、警めではなく期待を包んだ試しがあった。

 わたくしは、額を下げる。

 

「嫁ぐのではなく、明け渡すのでございます。わたくしを尾張へ。御家の名と血を刻み込んだ姫として送り、その花を以てして信長を囲い込むのです」

「……そして道が開く」

「はい。駿河から三河を貫き、濃尾へ。いずれ上洛を果たされるその日まで、わたくしは――道の花として、踏まれ、耐え、咲いて参りましょう」

 

 沈黙が落ちた。

 やがて義元は筆を置き、ふっとひとつ笑った。

 

「花は散るが香は残る。……よう申した」

 

 そのとき寿桂尼の目が細くなった。

 

「――女が戦を語る時代が、来たのかもしれませぬな」

 

 その後、寿桂尼様の間に招かれた。

 白梅香が焚かれていた。甘やかすようでいて、肺の奥にまで冷たく沈む香りだった。

 わたくしは、女たちしかいない部屋で初めて膝を崩した。

 寿桂尼様は扇を閉じ、視線を落としたままこう仰った。

 

「女を使うと申したが、そなたはそれを武器と見るか、代償と見るか」

 

 わたくしは即座に答えられなかった。

 それは、ずっと考え続けていたことだったから。

 やがて口を開いた。

 

「武器であれば奪われます。代償であれば消えます。わたくしは――灯として使います。焼かれても、道を照らすものとして」

 

 寿桂尼様はわずかに笑みを浮かべた。

 それは母のようでもあり、書物に出る魔女のようでもあった。

 

「女の灯は、女にしか見えぬ。男たちには、ただ燃えたという記憶しか残らぬ」

「それで構いませぬ。男の歴史に名が残らずとも、わたくしの灯は――濃姫様に届きましょう。信長様に残りましょう。そして、父の掌に影を落としましょう」

 

 寿桂尼は扇を机に置いて言った。

 

「ならばよい。そなたの名で、今川は尾張に風を送る」

 

 その言葉を聞いて、わたくしは初めて、生きて戦場に立つ女として火の前に座した気がした。

 

 

 

 

 義元公がもう一度わたくしを呼ばれたのは、日が沈む前の刻だった。

 部屋に差し込む光はもう薄く、障子の外で椿の花が風に散る音がかすかにした。

 

「文を起こせ。信長宛だ。――あくまで我よりの書状とする」

 

 そのひとことにわたくしは一礼したが、筆を取る前にほんの少しだけ手が震えた。

 

「……口調も意図も、わたくしが起こしてよろしゅうございますか」

「よい。そなたは嫁ぎ先に名を伏す女ではなく、我が名を通じて道を拓く女よ」

 

 義元の声音には、もはや迷いがなかった。

 墨を摺る音が静かに響くなか、わたくしは白紙に向かう。

 男たちが剣を帯びるように、女は筆を帯びる。

 この夜のわたくしは、身体ではなく言葉で身を投げる女であった。

 

「駿河今川義元、尾張織田信長公に書を通ず。そちらの民安からんこと、道を隔てぬよう尽力ありし姫あり。これは我が家に咲きし花なれど、その花の影をもって尾張に陽を落とさんと思う。陽の落ちたのちは駿府より灯を送らん。女の名を軽んずることなかれ。その名の下、火の道が開かれる」

 

 文を巻き上げたとき、鶴丸がいつの間にか控えていた。

 何も問わず文を手に取ると、静かに言った。

 

「筆跡は、義元様の癖で書き写します。けれど……姫さまの言葉だと、きっとわかるでしょう」

 

 その背を見送りながら、わたくしは思った。

 女の身体が誰のものかではなく、女の言葉が誰に届くかで国が動く時が来たのだと。

 文を巻き上げたあとの筆先には、まだ墨が残っていた。

 その黒がわたくしの爪の間にまで沁み込んでいるようだった。

 部屋の灯は落とされ、白く冷えた水で手を洗っても、

 心まで洗われた気はしなかった。

 夜の庭に出ると、鶴丸が控えていた。

 何も言わず、ただ一歩だけ近づいてくる。

 

「墨の香りが、姫さまの袖に残っております」

 

 その声にわたくしは微笑んだ。

 

「そう……。今日は、誰かを斬る刃の代わりに、わたくしが墨を持ったの」

 

 鶴丸がわたくしの指をとった。指先はまだすこし冷たかった。

 

「それでも……刃より鋭くございます。あの文は、姫さまの命を詰めたものです」

 

 わたくしは、その言葉に胸を打たれた。

 

「命を燃やしたつもりはないの。ただ灯しただけ――誰かが見てくれたら、それでいい」

 

 ふたりの間に夜風が通る。

 鶴丸がわたくしの袖を直す。

 まるで、もう袖を引かれずに済むようにという仕草だった。

 

「もし……あの文が、信長様に届かなければ?」

 

 そう問いかけると、鶴丸はきっぱりと答えた。

 

「それでも、わたくしには届いております」

 

 その言葉に何かがほどけた。

 墨では書けなかった言葉が、胸の奥に溶けていった。

 

 

 

 

 その文は、夕刻の水音とともに戻ってきた。

 雨ではない。川でもない。

 ――それは尾張からの風だった。

 巻かれた文は短く、封蝋に香も墨の匂いもなかった。

 けれど、それを手に取った瞬間、わたくしは知った。

 読まれたと。

 義元様の御前で封を切ると、信長の筆致は思いのほか、柔らかかった。

 

「駿河の春、遠く尾張にも届きしこと、しかと知る。花は咲くのみを良しとせず、風とともに舞えば道を導く。貴姫の言の葉、誠に香高し。火を通すに足る花なれば、我、道を開く。」

 

 義元はひとつだけ笑った。

 

「言の葉を見よ、瀬名。男は咲かせた女には頭を下げぬ。だが見送った花には道を譲るものだ」

 

 その言葉に、わたくしは頭を下げた。

 花のように――ではなく、灯のように。

 その夜、鶴丸がそっと問うた。

 

「信長様は……どなたに書いておられましたか」

 

 わたくしは返答せず、ただ文を胸にあてた。

 

「女に、です」

 

 信長が誰のために筆を取ったのか、それは言葉にせずともわかっていた。

 この胸に灯った火が、いま静かに応えていたから。

 

 

 

 

 五月。信長からの返書が届いた翌日、廊の空気は変わった。

 女たちは誰も口に出さなかったが、わたくしの袖を見ていた。

 新しく縫われた裏地の紅。

 それが祝言の色であることを、皆が知っていた。

 まだ「輿入れ」とは呼ばれていなかった。

 けれど、それはもう決まったと同じ意味だった。

 朝餉の膳を運ぶ女房が、わたくしの椀に湯を注ぐ手をわずかに震わせた。

 

「お加減はいかがに……?」

 

 問いかけられた声はやわらかかったが、奥にあるものは別だった。

 同情か、軽蔑か。あるいは――嫉妬。

 わたくしは微笑んで返した。

 

「昨日より、すこし熱が引きました」

 

 熱。

 それが墨によるものか、胸に届いた文の返火か、

 あるいは肌に残る夜の火か。

 ――自分でも、わからなかった。

 廊下を歩くと、衣擦れの音にまじって囁きが追いかけてきた。

 

「松平様のときとは、違うのね」

「今度は斬られずに済むのかしら」

「灯ですって。火に焼かれるのが好きな姫ね」

 

 足を止める理由には、ならなかった。

 火に焼かれるのが怖ければ、あの日、喉に刃は当てていなかった。

 わたくしは歩く。

 城中の陰、女たちの声、名もなき視線――

 すべてを袖の裏にしまいながら。

 火の色は隠している。

 けれど誰よりも熱く燃えていることを、わたくしは知っていた。

 輿入れと呼ばれるものが、ただの婚礼ではないことを、この月のわたくしは身にしみて知っていく。

 

 

 

 

 白粉と香の向こうで、行軍序列と兵の数が決まり、経路が記され、御台所への文が交わされていた。

 関口家からの嫁入りとして形式は保たれる。

 けれど、それは「今川の名代」であることの隠れ蓑にすぎなかった。

 わたくしが尾張に行くということは、

 尾張の中に「義元の目と耳」を据えるということ。

 だから調整は多岐にわたった。

 どの家臣を随行させるか。道中で通る村の名主に何を持たせるか。女房のなかに誰を入れ、誰を排すか。

 衣の丈ひとつ、香の種類ひとつにさえ「戦」の下図が含まれていた。

 夜ごと、寿桂尼様から筆の走った小紙が届く。

 

「背を見せる女にこそ、矢は届くもの。前へ歩くなら、うなじに紅をひくがよい」

 

 わたくしは鏡の前で、紅をほんのひと筆だけ首筋に落とした。

 それは射られる覚悟ではなく、目を逸らさせぬための印だった。

 鶴丸は黙って荷を整えていた。

 言葉を交わすことは減ったけれど、その手つきがすべてを語っていた。

 

 ――「これは、戦ですか」

 ――「いいえ、これは通過です。燃えて残るものだけが、わたくしの証になります」

 

 

 

 

 六月が近づくにつれ、風が湿り気を帯びてきた。

 その空気のなかで、わたくしの身体は冷えもせず、熱も持たず、ただひとつの芯を灯し続けていた。

 文は、薄香を焚き込めた絹に包まれて届いた。

 使いは「贈り物です」とだけ言い置いて去った。

 文箱には信長の家紋ではなく濃姫様――斎藤の娘、今は尾張の正室として名を残す方の花押があった。

 わたくしは膳を前にしていた手を止めた。

 指先に紙の感触が伝わる前に、心が震えた。

 香が柔らかく立ち昇り文をほどくと、

 そこには墨ではなく、紅がひかれていた。

 まるで、唇から吸い出された血のような、色。

 そして文は短かった。だが筆の運びには守る者の手があった。

 

「瀬名へ。火に向かう女が誰の灯を継ぐかで、その焔の色は変わります。わたくしも戦のために名を捨て、肌を捧げて嫁ぎました。けれど、それでも女として終わらぬために、あなたには妹でいてほしい。尾張で扉を開けて待っています。男たちの火ではなく、女たちの灯を交わせる日を」

 

 妹――

 それは、血を分けぬ絆の名。

 戦の道に置かれた女同士だからこそ結べる、沈黙の盟だった。

 わたくしは手の中の文を閉じ、心の中でひとことだけ返す。

 

「はい、お姉さま」

 

 文はそれだけだった。

 しかし、そこに記されていたのは、姉妹という政治であり祈りだった。

 鶴丸が文の匂いを感じて、障子の外で動きを止めた。

 

「姫さま……? どなたから……?」

「風のような方から。わたくしと同じく、焼かれる香を選んだ女からよ」

 

 そう返したとき、わたくしははじめて気づいた。

 この輿入れは、敵地に向かうものではない。

 火を交わした女が待つ居場所へ向かう道なのだと。

 返書の筆を取ったのは夜の帳が落ちてからだった。

 膳も下げられ、灯を一つだけ残した部屋に、わたくしと紙だけがあった。

 火に照らされた白紙は、まるで肌のようだった。

 汚せば汚れる。触れれば熱が伝わる。

 

 濃姫様――お姉さまへ。

 

「あなたが扉を開けてくださると仰ったこと、

わたくしは、それを帰る場所だと思いました。火に向かう女は、背に誰の手があるかで立ち方が変わります。わたくしは義元様と父の言葉に背を押されてここまで来ました。けれど、これからは……あなたの呼吸に合わせて歩いてみたい。わたくしも姉を持たぬ身。どうか、もう少しだけ甘えてもよろしゅうございますか」

 

 文を巻いて封をしたとき、鶴丸が声をかけずに灯を整えてくれた。

 墨の香と火の音だけが、まだ心に残っていた。

 

 数日後。再び届いた濃姫の文は、絹ではなく紙に包まれていた。

 けれど香は同じ。白梅の香。

 

「よく呼吸と言ってくださいました。

女が女に寄りかかると、息が深くなるものです。あなたの声は届きました。今、確かに胸の奥で響いています。次は尾張の花を一輪、あなたに送ります。どうか火の中でも香りを忘れぬように」

 

 それから文は数日おきに往復するようになった。

 政のこと、着物のこと、信長様の機嫌、尾張の香の流行――

 そして誰にも見せられない、女としての沈黙の弱さと耐えてきたことの記録。

 わたくしたちは筆で支え合いながら、

 まだ会ったこともない姉妹になっていった。

 

 

 

 

 六月が来た。初夏の風は湿りを帯び、香の煙を濁らせた。

 今川館の奥、屏風を巻いた座敷に男たちとわたくしの影が並ぶ。

 地図が開かれるたび、ひとつずつ命が配されるようだった。

 美濃の稲葉山。近江の坂本。京都の東口。

 義元様が筆の尻で、京を示した。

 

「都へ入るだけでは足りぬ。将軍家の傀儡ではない、今川が京を治める姿をつくらねば意味がない」

 

 誰も口を挟まなかった。

 やがて、関口氏純が言った。

 

「足利義輝の御所を制すのは、軍勢ではなく言葉だ」

 

 それにわたくしが続けた。

 

「ならば、軍は示威にとどめましょう。三河・美濃・近江を順に平定する過程で、諸侯を脅かすのではなく吸い上げる。京には血のついていない草履で上がるのです」

 

 男たちの間に沈黙が落ちる。

 それは否定ではない――女が軍を語ったという驚きの静寂。

 朝比奈泰朝がやがて唇を開いた。

「女の言葉に、ここまで冷たい戦があろうとは」

 

 義元は扇をひらいた。

 

「火を使う女は火を恐れぬ。されど、火を出さぬ女のほうが余は好みだ」

 

 その夜、鶴丸にその話をすると、彼はそっと肩を落とした。

 

「戦を描く姫さまの背は……あまりに遠くて、触れられません」

 

 わたくしは微笑んだ。

 

「では、わたくしが前を向くたびに、あなたがその背を追ってくれれば――わたくしは立っていられます」

 

 文は、馬ではなく風に乗って届くものだと、わたくしは知った。

 墨の筆跡、香の選び、綴りの余白――それらがひとつの声になって相手の胸を打つ。

 輿入れの支度を横目に、わたくしは日々、京・畿内へ文を出していた。

 公家の娘には、歌会の題を。朝廷の女官には、香の調合についての質問を。

 堺の豪商には、尾張と駿河の物流をめぐる問答を。寺社には、戦乱を避けるための献香や祈祷料の献策を。

 それらのすべてが、今川義元の名を直接記さずにして、義元の道を清める火打ち石となっていた。

 返文にはこうあった。

 

「姫さまのお便りは、男の政にはない温みがございます」

「春の香とともに筆をいただき、御所の間にも安堵が流れました」

「そちらの姫君の道が、東より清らかに通ずることを祈っております」

 

 寿桂尼様は、それらの返文を見て、わたくしにこう言った。

 

「女の手紙に城は落ちぬ。けれど女の手紙で門は開く」

 

 義元様もまた地図を前にして頷かれた。

 

「火を焚く前に、道を乾かす女がいる。――それが瀬名であるか」

 

 夜、筆を置いたあと鶴丸が茶を運んできた。

 

「姫さまの文、もう二十通を超えております。……戦は、すでに始まっているのですか」

 

 わたくしは微笑んで言った。

 

「まだ始まってなどいないわ。でも――すでに誰も傷つかずに勝つ道が、あることを知らせているの」

 

 戦とは、刃の届かぬ場所で、すでに決まっている。

 それを女でありながら知ったとき、わたくしの筆は剣よりも早く走った。

 

 六月のある日、わたくしの手元には八通の文が重ねて置かれていた。

  香の種類も、筆の癖も、包みに至るまで違う。 けれど、すべてに共通していたのは、――瀬名殿へと丁重に記された宛名。

 

 三好長慶より

 

「拙者、男の戦より女の筆を恐る。そちらの姫が言葉で結びしもの、我らの槍では断ち切れぬ。尾張と駿府の道、拙者、守り申す」

 

 封には金泥の桐。文には鋭さの中に、勝者としての余裕があった。

 

 松永久秀より

 

「書をいただき、香の中に敵意がなかったこと、まずもって驚きに候。貴女のような方に殺されるなら本望、と笑った者もおります」

 

 文には、南蛮製の小さな十字の護符が添えられていた。

 

 本願寺顕如より

 

「諸悪無血の願い、胸に染み入りました。争わずして道を開くならば、それが仏の意に叶うものと存じます。道中の寺々、当方が調えましょう」

 

 ともに届いたのは、京・山科の寺僧による朱印状。

 

 紀州の雑賀より

 

「風は戦を運び、女は風を読む。姫の言葉を聞いた者より、弓と鉄砲を控えよとの伝が回っております」

 

 乱筆ながら墨は濃かった。名は記されていない。だが文末に貼られた一片の矢羽根が答えだった。

 

 近衛前久公より

 

「姫君の雅にして緩やかな筆、まことに上様の御心を和ませ候。いずれ都にて、香と歌を以て世を正す日を期したく」

 

 筆跡は華麗で、紙には薄紅の刷毛目。

 

 一条内基卿の姫より

 

「わたくしもまた、名ばかりの姫として生きております。姫様のご筆を読み、はじめて女であることを肯じてもよいと思いました」

 

 同封されていたのは、小さな香包と丁寧に織られた金糸のしおり。

 わたくしは、それらすべてを箱に収め、香を焚いた。刃ではなく香と筆で得た縁。

 それこそが、わたくしの軍であり京を開く鍵となるのだった。

 

 

 

 

 七月。駿府を発った日、風はやわらかく、空の色は無垢だった。

 尾張へと向かう花嫁行列。今川の旗を掲げ、紅の衣をしずしずと運ぶわたくし。

  だが、この旅は祝福ではない。背には策、袖の奥には火を忍ばせている。

 峠に入る頃、胸の内が妙に冷えていた。 何かが来る。 女の肌は、ときに風より早く兆しを知る。

 三河の夜気が濃くなったそのとき、火の粉が視界の端に揺れた。

 守山衆と名乗るはずの一団が、野盗の装いで道を塞いだ。

  けれど、その偽装はあまりに粗く――あまりに、わたくしには明白だった。

 

 ――竹千代。

 

「姫……姫ぇ……!」

 

 獣のような声。

 わたくしの名を呼ぶその声が、皮膚を濡らした。

 護衛の叫びが響き、駕籠が揺れる。

 障子を蹴破って現れたその男の顔を、わたくしは静かに見た。

 焦りと劣情と、呪いのような幼さ。

 

「このままでは……男になれぬ! あのときのままでは……!」

 

 鎧の音も、血の匂いも、わたくしにはもう関係なかった。

 ただ、あの夜と同じ光景が繰り返されようとしている――

 指が動いた。迷いなく、懐剣へ。

 わたくしは、泣かなかった。叫びもしなかった。

 喉の奥が冷えるのを感じながら、刃を引いた。

 銀が音を立てて走った。

 血が噴き、ぬるりと胸元を濡らす。

 その熱に、ようやくわたくしの指先が震えた。

 竹千代の身体が、わたくしに覆いかぶさるように崩れ落ちる。

 息を止めていた。息を――していなかったのだ。

 静かに躯を押しのけ、わたくしは立ち上がる。

 白い衣に紅のしるし。

 夜の風が肌に触れる前に、わたくしは狸顔の首を拾い上げていた。

 道に血の香を残したまま、わたくしは歩いた。

 誰も言葉をかけない。誰も止めなかった。

 ただ、織田の迎えが待つ場所へと、足を運んだ。

 

 

 

 

 風に揺れる織田の旗。草を踏む音と護衛の足並み。

 そのすべてが、静かな舞台のようだった。

 

「……誰だ」

 

 平手政秀がそう呟いた。

 わたくしは止まり、姿勢を正す。

 手にある子狸の首の重みだけが、現世の証のように感じられた。

 

「松平家の罪、今川の名において、ここに清めました。どうかお受け取りくださいませ、織田の御方々」

 

 そして、その風を割って現れたひとつの影。織田信長。

 信長の目が子狸の首に釘づけになったとき、風がひとつ舞った。

 その目が、わたくしを貫いた。

 白と紅とに染まった姿を見て、彼は静かに頷いた。

 

「――みごとだ」

 

 そのひとことだけ沈黙を破った。

 わたくしの第二の名が、ここから始まったのだとこのときはじめて知った。

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