尾張に入って、初めての夜。
わたくしは今川の名を背負いながらも、もはやの家の娘ではなかった。
懐剣を抜いたあの瞬間、父の庇護も、母の憂いも、過去のわたくしも断ち切っていた。
織田家。
信長という男の傍に立つということが、どれほどの矛盾と危険に満ちているか、よく分かっていた。
尾張の国はまだ一つではなかった。
北西の清洲では、信友と斯波氏が城を構え、岩倉の信安も、信友に同調して動く。
信長が支えるのは弾正忠家――最も血筋が低く、しかし最も鋭い男の家。
尾張は三つに裂けていた。
そこへ今川が東より手を伸ばし、美濃では道三と義龍が血で争っていた。
信長には、敵も味方も境がない。
わたくしがこの家に嫁いだことは――つまり、「敵の娘を、信長が受け入れた」という証。
誰もが、何かが始まると知っていた。
その夜、わたくしは濃姫と同じ部屋に通された。
うなじに風を受けながら、濃姫が言う。
「女がふたり、同じ男に抱かれるのは不幸だと思う?」
「それを決めるのは男ではなく、女たちでございましょう」
わたくしがそう答えると、濃姫はひとつ笑った。
「ならば、わたしたちは共犯ね」
そうして信長のもとへと共に向かった。
信長は焚火のような男だった。触れれば熱く、寄らねば凍える。
彼はわたくしたちを交互に、そして同時に求めた。
濃姫の唇がわたくしの首筋をなぞり、信長の手が腰を支える。
男に抱かれながら、女に抱かれる。
信長のご立派な根っこが腹に沈むたび、濃姫の手がわたくしの胸を包む。
それは服従ではなかった。
わたくしたち女は、己の身体で信長を測っていた。
どれだけの野望を抱き、どれほどの孤独を背負っているか――
そのすべてを抱かれながら探っていた。
そして気づいた。
わたくしも、濃姫も、信長も――
誰ひとり、この国――尾張に愛など求めてなどいない。
求めていたのは、生き残ることと支配すること。
ならばこれは欲ではなく、契りだった。
濃姫がわたくしの手を握る。
「ねぇ、文のやり取り通りに妹って思ってもいい?」
わたくしは、涙が出るのを抑えながら頷いた。
その夜、わたくしたちは、敵でも味方でもなく姉妹になった。
夜明け前の空気は決して清らかなものではなかった。
硝煙のような血のような匂いが、床の間の掛け軸にまで染みていた。
わたくしは薄衣を羽織り、まだ横たわる信長の寝所のそばで静かに火を熾していた。
「……尾張はまだ、一枚ではない。だが、裂けていればこそ狙える」
背後から信長の声がした。
低く、眠気と冷徹の狭間で揺れる声。
「わたくしを、どう使うおつもりですか?」
わたくしは振り向かずに尋ねた。
「使う?」
信長は笑った。
「違うな。おまえは、俺の跳ね橋だ」
振り向くと、信長の目がじっとこちらを射抜いていた。
その目には快楽でも愛情でもなく、ただ純粋な計算と意志があった。
「今川に下る。頭を垂れ膝を折り、あの義元とやらに忠を誓う。そして――中から食う」
「まるで、飼い殺されに行く虎のよう」
「飼われてるふりができる虎だけが、主を食えるんだ」
彼の言葉に、わたくしの喉がかすかに震えた。
あの今川義元に頭を垂れる――それは屈辱であり策略でもある。
だが、それを選べる男がいるなら、それは信長以外にいなかった。
「わたくしは、その策に組み込まれても構いません。でも一つだけお伝えしておきます」
信長は黙ってわたくしを見つめていた。
「虎は、手なずけようとした者の手にも噛みつくことがございます」
その一言に、信長はわずかに唇を吊り上げた。
「それでいい。俺は女に喉を裂かれる男が、一番強いと思っている」
たしかに彼は――そういう男だった。
即日、織田信長は今川義元に臣従の書状を送り、尾張東部の安全を対価に、外交上の主従関係を結んだ。
駿府では祝賀の声が上がり、尾張では「織田家が頭を垂れた」と安堵と侮蔑が交錯した。
けれど、それが信長の腹の中まで従ったという意味でないことを、わたくしだけは知っていた。
なぜなら――信長に抱かれたあの夜、わたくしの腹の中にもまた、まだ鶴丸の熱が確かに深く残っていたから。
義元さまに呼ばれたとき、わたくしはすでにすべてを決めていた。
言うべきことはひとつ。
言わずにおいては、信長の身も、わたくしの身も保たぬだろう。
義元さまはいつものように香を焚き、膝に薄紫の衣を垂らしていた。
扇を開いたまま、声もかけずにわたくしを見下ろす。
「瀬名、よう来た。……語れ」
わたくしは額ずき、そして静かに言った。
「信長さまは、今川家に従うと申しておりますが、忠節は表のみにございます」
扇の骨がひとつ、軽く鳴った。
わたくしは顔を上げ、義元さまの目を真正面から見据えた。
「中より力を得て、やがて尾張を、そして――天下を射るおつもりです。信長さまは、今川家の家中を食らう虎。その目には常に次がございます」
「……なるほどな」
義元さまはあくまで落ち着いたまま扇を畳み、わたくしの前に置いた。
「だがそれを、なぜ今さら語る?」
「知られることも、織田さまは承知の上かと存じます。――飼われるふりをする者は、見られることも見せることもまた、策のうち」
しばしの沈黙。
やがて義元さまは唇を吊り上げ、こう呟いた。
「……無能より、野心家のほうがよい」
扇の先で床をなぞる。
「牙を持たぬ者は使えぬ。牙を持つ者は、飼い慣らせば軍になる。――信長は、尾張の狗にして上洛の先鋒とせよ」
その言葉は命令ではなく、預けられた火種だった。
「おまえが見張れ。裏切るなら、その喉元を裂いてこい。懐剣の使い道はおまえが一番知っておろう?」
わたくしは頭を下げた。
その手の中には、懐に忍ばせた銀の細身が今も冷たく重かった。
飼う者の手。
それが主であり、母であり、女であることの証なのだと、わたくしは知っていた。
夜の庭は風もなく、灯明がじりじりと軋むように揺れていた。
信長は庭先に胡坐をかき、杯を弄んでいた。
その横に座すわたくしの手には、今川義元から戻ったばかりの気配がまだ指先に残っていた。
「……義元さまに報告しました」
信長の動きは止まらなかった。
ただ杯の中の酒を一口、ゆっくりと飲み干した。
「おまえが俺の腹を割ったと?」
「はい。今川家に伏せる者として、それが役目と存じました」
「そして、あの男はなんと言った?」
わたくしは迷いなく答えた。
「無能より、野心家のほうがよい。牙を持つ者は飼い慣らせば軍になる――と」
そのとき信長が初めて杯を置いた。
「飼われるのは嫌いだが、飼われているふりは得意だ」
その目が、炎の向こうからわたくしを射抜いていた。
「……怒りはありませんか?」
「ないな。むしろ、おまえを信じられるようになった」
思いがけないその言葉に、わたくしは呼吸を忘れた。
「俺の腹を義元に告げ、義元の腹を俺に告げる。それができる女は、味方にしておきたい」
信長は身を乗り出し、わたくしの顎に手をかけた。
その手は熱くも冷たくもなく、まるで刀の柄のように無骨で確かな感触だった。
「それで……おまえはどちらの飼い主になるつもりだ?」
問いに、わたくしは静かに答えた。
「――檻の鍵を持つ者が、必ずしも主ではありません。檻の中で虎に牙を許される女こそ、真の飼い主と心得ております」
信長は笑った。
その笑みは、かつての誰とも違う。
心を許したのでも、欲望を示したのでもない。
自分と同じ影を見た者にだけ向ける、唯一の笑みだった。
政も、謀も、肌の熱もすべて交わしたあと――
ただ、ひとりの女として、ひとりの男に、たった一つの言葉を伝える必要があった。
「それと、わたくしは織田にも今川にも与しませぬ」
信長の指がぴくりと止まった。
「……何?」
彼がいつもより少しだけ低く、声を抑えるのがわかった。
「わたくしは主のために戦うのではなく、国のために血を流すのでもなく、ただ――恋しい者と平穏に暮らすために、精一杯戦うだけです」
沈黙が部屋に張り詰めた。
信長は立ち上がりもせず、ただ静かに杯を手にしたまま目だけを向けていた。
「……恋しい者。誰のことを言っている?」
わたくしは答えなかった。
けれど答える必要もなかった。
彼の目が一瞬、すべてを悟ったように細められる。
「ふ……女は恐ろしいな。そうまでして、ひとりの男を守るために政の毒に身を浸せるとは」
わたくしは直接の答えを返さなかった。
ただ香炉の火を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「今川家こそ、天下統一の近道でございます。上洛の道筋を整え、尾張と美濃の血を洗い流し、駿府から京へ迷いなき直線を描ける家……それは、今川以外にございません」
信長は頬杖をつき黙っていた。
けれど目だけがわたくしを、深く、暗く、えぐるように見つめていた。
「あなたが、いずれ今川家を内から喰らおうと考えていると……」
その一言に、火がぱち、と音を立てた。
「……それでも構いません。家というものは、いつか誰かに喰われることを前提に生き延びてゆくもの。喰われぬことを恐れる家は、やがて骨を晒すだけです」
信長は、初めて口の端を吊り上げた。
それは苦笑とも称賛ともつかない、獣が獣を認めたときだけに見せる牙のない笑みだった。
「……では、そのときが来たらどうする?」
「わたくしは――すでに牙を抜いて喉元に飾っております。この身を飼う者が誰であろうと、愛おしき者にだけは刃を向けさせませぬ」
それが、わたくしの答えだった。
信長の中に眠る虎と、今川の高貴な鳳凰――
どちらが食い合おうとも、わたくしの戦場はたった一人を守ることなのだと。
沈黙がふたりの間に落ちる。
けれどその沈黙は、どこか静かに燃えていた。
それは信頼ではない。理解であった。
それ以上の絆は、戦国には不要だった。
信長は杯を干し、立ち上がった。
「いいだろう。おまえが本当に恋しき者と生きられるかどうか――その戦、見届けてやる」
彼は去り際に振り返り、声を潜めて言った。
「俺は、天下のために女を抱く。おまえは、ただの男のために天下を騙す。……おあいこだな」
襖が閉まる音が、やけに静かに響いた。
その夜、瀬名姫は初めて泣いた。
誰にも見せぬ涙だった。
恋しい男の顔を思い浮かべながら、その男が今どこで何をしているかすらわからぬままに。
けれど、その涙は弱さではなかった。
生き延びると誓った者の、ただ一度の浄めだった。
春の風が尾張の野を吹き抜けるころ、駿府から届いた命は、ただひとこと――
「尾張、平らぐべし」
今川義元の名のもとに、鳴海・大高・沓掛の城が次々と制圧された。
山口教継、大沢次郎左衛門らが今川に膝を屈し、東から伸びる力の前に、尾張東部は音もなく沈黙した。
信長さまは、黙ってそれを見ていた。
あの方が黙るとき、それは内なる準備を意味していた。
やがて信長はわたくしの前で、ひとことだけ呟いた。
「借りるぞ――あの家の名を」
わたくしは頷いた。
今川の威光という外套を纏いながら、その中身を織田の意志で染めていくつもりなのだ。
それは、見せかけの従属を演じることで、内から尾張を掴む策だった。
清洲の信友、岩倉の信安、津島の市場勢力――
尾張を三つに裂く敵を前に、信長は今川の軍勢を盾にして動き始めた。
今川から供された補給路、兵糧、金、そして天下人の構想――
うなぎと親子丼のあいがけの様に、それらを巧みに用いて、織田は次々と同族を制していく。
信友を討つ口実も、信安を退ける名分も、すべて今川の信任を受けた織田の代理という建前に包まれていた。
わたくしはその戦の裏に座し、文を綴り、命を預ける者たちに耳を貸していた。
「瀬名。尾張が一つになれば、次は――あの家だ」
そう。
信長の刀が向かう先は、美濃の斎藤氏。
そしてやがては、あの義元さまの背へと届くのだ。
けれど、わたくしは止めはしない。
信長が今川を利用するなら、
わたくしは信長の心を利用してみせる。
その夜、濃姫とわたくしは、織田の旗がたなびく城の一室で、肩を寄せ合いながら茶をすする。
「今川の旗の下に、織田の兵が立つのね」
「ええ。けれど、いつかその旗は裏返る。そのとき、誰がその裏側を染めたのか……見極めるのは、わたくしたち」
わたくしたちは、女であることを捨てぬままに政を変えていく。
誰にも気づかれぬところで、恋しい者と生きる場所を守るために。
戦がない日々が、こんなにも静かに心を潤すのだと知ったのは、濃姫と過ごす部屋に花を飾るようになってからだった。
政の帳面も、軍議の図も、すべては男たちの手に委ねられる。
けれど――女が女と向き合うとき、そこには言葉を超えた記憶が残る。
濃姫はわたくしの指を取るのが上手だった。
ただ、そっと。触れるか触れないかの指先を掌の中に包み込む。
「手が冷たいわ」
そう言いながら、わたくしの小指を自分の指に絡める。
火鉢の前で、肩が並ぶだけの距離で――
ふたりの心は、音もなくほどけていった。
ある日、濃姫がわたくしの髪を梳いてくれた。
女に髪を触れられるのは、思っていたよりも心をほどくものなのだと知った。
「わたくしね、最初はあなたが怖かったの。あまりに静かで、あまりに優しくて。それが仮面に見えたの」
「わたくしも。あなたの笑い方が戦のときだけ鋭くなるから」
笑いあいながら、いつしか、わたくしたちは背中を預けるようになった。
同じ帳面を覗きこみ、同じ器で菓子を分け合う。
そして眠る前には必ず――指先を重ねて、名もなき祈りを交わす。
夜、信長のもとから戻ってきた濃姫が、何も言わずわたくしの隣に座る。
わたくしは黙ってその手を取り、指を絡めた。
それは慰めでも癒しでもない。
ただ、「あなたの痛みは、わたくしの中にもある」という証だった。
「あなたがいなければ、きっと、わたくしは喉を裂いていた」
「あなたがいるから、わたくしはまだ女でいられるの」
ふたりは、口づけを交わすことはなかった。
けれど、誰よりも深く魂を重ねていた。