※この作品はR-18です。

瀬名姫、首をもって尾張を訪う   作:キューブケーキ

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4 あいがけの様な物

 尾張に入って、初めての夜。

 わたくしは今川の名を背負いながらも、もはやの家の娘ではなかった。

 懐剣を抜いたあの瞬間、父の庇護も、母の憂いも、過去のわたくしも断ち切っていた。

 織田家。

 信長という男の傍に立つということが、どれほどの矛盾と危険に満ちているか、よく分かっていた。

 尾張の国はまだ一つではなかった。

 北西の清洲では、信友と斯波氏が城を構え、岩倉の信安も、信友に同調して動く。

 信長が支えるのは弾正忠家――最も血筋が低く、しかし最も鋭い男の家。

 尾張は三つに裂けていた。

 そこへ今川が東より手を伸ばし、美濃では道三と義龍が血で争っていた。

 信長には、敵も味方も境がない。

 わたくしがこの家に嫁いだことは――つまり、「敵の娘を、信長が受け入れた」という証。

 誰もが、何かが始まると知っていた。

 

 

 

 

 その夜、わたくしは濃姫と同じ部屋に通された。

 うなじに風を受けながら、濃姫が言う。

 

「女がふたり、同じ男に抱かれるのは不幸だと思う?」

「それを決めるのは男ではなく、女たちでございましょう」

 

 わたくしがそう答えると、濃姫はひとつ笑った。

 

「ならば、わたしたちは共犯ね」

 

 そうして信長のもとへと共に向かった。

 信長は焚火のような男だった。触れれば熱く、寄らねば凍える。

 彼はわたくしたちを交互に、そして同時に求めた。

 濃姫の唇がわたくしの首筋をなぞり、信長の手が腰を支える。

 男に抱かれながら、女に抱かれる。

 信長のご立派な根っこが腹に沈むたび、濃姫の手がわたくしの胸を包む。

 それは服従ではなかった。

 わたくしたち女は、己の身体で信長を測っていた。

 どれだけの野望を抱き、どれほどの孤独を背負っているか――

 そのすべてを抱かれながら探っていた。

 そして気づいた。

 わたくしも、濃姫も、信長も――

 誰ひとり、この国――尾張に愛など求めてなどいない。

 求めていたのは、生き残ることと支配すること。

 ならばこれは欲ではなく、契りだった。

 濃姫がわたくしの手を握る。

 

「ねぇ、文のやり取り通りに妹って思ってもいい?」

 

 わたくしは、涙が出るのを抑えながら頷いた。

 その夜、わたくしたちは、敵でも味方でもなく姉妹になった。

 夜明け前の空気は決して清らかなものではなかった。

 硝煙のような血のような匂いが、床の間の掛け軸にまで染みていた。

 わたくしは薄衣を羽織り、まだ横たわる信長の寝所のそばで静かに火を熾していた。

 

「……尾張はまだ、一枚ではない。だが、裂けていればこそ狙える」

 

 背後から信長の声がした。

 低く、眠気と冷徹の狭間で揺れる声。

 

「わたくしを、どう使うおつもりですか?」

 

 わたくしは振り向かずに尋ねた。

 

「使う?」

 

 信長は笑った。

 

「違うな。おまえは、俺の跳ね橋だ」

 

 振り向くと、信長の目がじっとこちらを射抜いていた。

 その目には快楽でも愛情でもなく、ただ純粋な計算と意志があった。

 

「今川に下る。頭を垂れ膝を折り、あの義元とやらに忠を誓う。そして――中から食う」

「まるで、飼い殺されに行く虎のよう」

「飼われてるふりができる虎だけが、主を食えるんだ」

 

 彼の言葉に、わたくしの喉がかすかに震えた。

 あの今川義元に頭を垂れる――それは屈辱であり策略でもある。

だが、それを選べる男がいるなら、それは信長以外にいなかった。

 

「わたくしは、その策に組み込まれても構いません。でも一つだけお伝えしておきます」

 

 信長は黙ってわたくしを見つめていた。

 

「虎は、手なずけようとした者の手にも噛みつくことがございます」

 

 その一言に、信長はわずかに唇を吊り上げた。

 

「それでいい。俺は女に喉を裂かれる男が、一番強いと思っている」

 

 たしかに彼は――そういう男だった。

 即日、織田信長は今川義元に臣従の書状を送り、尾張東部の安全を対価に、外交上の主従関係を結んだ。

 駿府では祝賀の声が上がり、尾張では「織田家が頭を垂れた」と安堵と侮蔑が交錯した。

 けれど、それが信長の腹の中まで従ったという意味でないことを、わたくしだけは知っていた。

 なぜなら――信長に抱かれたあの夜、わたくしの腹の中にもまた、まだ鶴丸の熱が確かに深く残っていたから。

 

 

 

 

 義元さまに呼ばれたとき、わたくしはすでにすべてを決めていた。

 言うべきことはひとつ。

 言わずにおいては、信長の身も、わたくしの身も保たぬだろう。

 義元さまはいつものように香を焚き、膝に薄紫の衣を垂らしていた。

 扇を開いたまま、声もかけずにわたくしを見下ろす。

 

「瀬名、よう来た。……語れ」

 

 わたくしは額ずき、そして静かに言った。

 

「信長さまは、今川家に従うと申しておりますが、忠節は表のみにございます」

 

 扇の骨がひとつ、軽く鳴った。

 わたくしは顔を上げ、義元さまの目を真正面から見据えた。

 

「中より力を得て、やがて尾張を、そして――天下を射るおつもりです。信長さまは、今川家の家中を食らう虎。その目には常に次がございます」

「……なるほどな」

 

 義元さまはあくまで落ち着いたまま扇を畳み、わたくしの前に置いた。

 

「だがそれを、なぜ今さら語る?」

「知られることも、織田さまは承知の上かと存じます。――飼われるふりをする者は、見られることも見せることもまた、策のうち」

 

 しばしの沈黙。

 やがて義元さまは唇を吊り上げ、こう呟いた。

 

「……無能より、野心家のほうがよい」

 

 扇の先で床をなぞる。

 

「牙を持たぬ者は使えぬ。牙を持つ者は、飼い慣らせば軍になる。――信長は、尾張の狗にして上洛の先鋒とせよ」

 

 その言葉は命令ではなく、預けられた火種だった。

 

「おまえが見張れ。裏切るなら、その喉元を裂いてこい。懐剣の使い道はおまえが一番知っておろう?」

 

 わたくしは頭を下げた。

 その手の中には、懐に忍ばせた銀の細身が今も冷たく重かった。

 飼う者の手。

 それが主であり、母であり、女であることの証なのだと、わたくしは知っていた。

 

 

 

 

 夜の庭は風もなく、灯明がじりじりと軋むように揺れていた。

 信長は庭先に胡坐をかき、杯を弄んでいた。

 その横に座すわたくしの手には、今川義元から戻ったばかりの気配がまだ指先に残っていた。

 

「……義元さまに報告しました」

 

 信長の動きは止まらなかった。

 ただ杯の中の酒を一口、ゆっくりと飲み干した。

 

「おまえが俺の腹を割ったと?」

「はい。今川家に伏せる者として、それが役目と存じました」

「そして、あの男はなんと言った?」

 

 わたくしは迷いなく答えた。

 

「無能より、野心家のほうがよい。牙を持つ者は飼い慣らせば軍になる――と」

 

 そのとき信長が初めて杯を置いた。

 

「飼われるのは嫌いだが、飼われているふりは得意だ」

 

 その目が、炎の向こうからわたくしを射抜いていた。

 

「……怒りはありませんか?」

「ないな。むしろ、おまえを信じられるようになった」

 

 思いがけないその言葉に、わたくしは呼吸を忘れた。

 

「俺の腹を義元に告げ、義元の腹を俺に告げる。それができる女は、味方にしておきたい」

 

 信長は身を乗り出し、わたくしの顎に手をかけた。

 その手は熱くも冷たくもなく、まるで刀の柄のように無骨で確かな感触だった。

 

「それで……おまえはどちらの飼い主になるつもりだ?」

 

 問いに、わたくしは静かに答えた。

 

「――檻の鍵を持つ者が、必ずしも主ではありません。檻の中で虎に牙を許される女こそ、真の飼い主と心得ております」

 

 信長は笑った。

 その笑みは、かつての誰とも違う。

 心を許したのでも、欲望を示したのでもない。

 自分と同じ影を見た者にだけ向ける、唯一の笑みだった。

 政も、謀も、肌の熱もすべて交わしたあと――

 ただ、ひとりの女として、ひとりの男に、たった一つの言葉を伝える必要があった。

 

「それと、わたくしは織田にも今川にも与しませぬ」

 

 信長の指がぴくりと止まった。

 

「……何?」

 

 彼がいつもより少しだけ低く、声を抑えるのがわかった。

 

「わたくしは主のために戦うのではなく、国のために血を流すのでもなく、ただ――恋しい者と平穏に暮らすために、精一杯戦うだけです」

 

 沈黙が部屋に張り詰めた。

 信長は立ち上がりもせず、ただ静かに杯を手にしたまま目だけを向けていた。

 

「……恋しい者。誰のことを言っている?」

 

 わたくしは答えなかった。

 けれど答える必要もなかった。

 彼の目が一瞬、すべてを悟ったように細められる。

 

「ふ……女は恐ろしいな。そうまでして、ひとりの男を守るために政の毒に身を浸せるとは」

 

 わたくしは直接の答えを返さなかった。

 ただ香炉の火を見つめたまま、ゆっくりと言った。

 

「今川家こそ、天下統一の近道でございます。上洛の道筋を整え、尾張と美濃の血を洗い流し、駿府から京へ迷いなき直線を描ける家……それは、今川以外にございません」

 

 信長は頬杖をつき黙っていた。

 けれど目だけがわたくしを、深く、暗く、えぐるように見つめていた。

 

「あなたが、いずれ今川家を内から喰らおうと考えていると……」

 

 その一言に、火がぱち、と音を立てた。

 

「……それでも構いません。家というものは、いつか誰かに喰われることを前提に生き延びてゆくもの。喰われぬことを恐れる家は、やがて骨を晒すだけです」

 

 信長は、初めて口の端を吊り上げた。

 それは苦笑とも称賛ともつかない、獣が獣を認めたときだけに見せる牙のない笑みだった。

 

「……では、そのときが来たらどうする?」

「わたくしは――すでに牙を抜いて喉元に飾っております。この身を飼う者が誰であろうと、愛おしき者にだけは刃を向けさせませぬ」

 

 それが、わたくしの答えだった。

 信長の中に眠る虎と、今川の高貴な鳳凰――

 どちらが食い合おうとも、わたくしの戦場はたった一人を守ることなのだと。

 沈黙がふたりの間に落ちる。

 けれどその沈黙は、どこか静かに燃えていた。

 それは信頼ではない。理解であった。

 それ以上の絆は、戦国には不要だった。

 信長は杯を干し、立ち上がった。

 

「いいだろう。おまえが本当に恋しき者と生きられるかどうか――その戦、見届けてやる」

 

 彼は去り際に振り返り、声を潜めて言った。

 

「俺は、天下のために女を抱く。おまえは、ただの男のために天下を騙す。……おあいこだな」

 

 襖が閉まる音が、やけに静かに響いた。

 その夜、瀬名姫は初めて泣いた。

 誰にも見せぬ涙だった。

 恋しい男の顔を思い浮かべながら、その男が今どこで何をしているかすらわからぬままに。

 けれど、その涙は弱さではなかった。

 生き延びると誓った者の、ただ一度の浄めだった。

 

 

 

 

 春の風が尾張の野を吹き抜けるころ、駿府から届いた命は、ただひとこと――

 

「尾張、平らぐべし」

 

 今川義元の名のもとに、鳴海・大高・沓掛の城が次々と制圧された。

 山口教継、大沢次郎左衛門らが今川に膝を屈し、東から伸びる力の前に、尾張東部は音もなく沈黙した。

 信長さまは、黙ってそれを見ていた。

 あの方が黙るとき、それは内なる準備を意味していた。

 やがて信長はわたくしの前で、ひとことだけ呟いた。

 

「借りるぞ――あの家の名を」

 

 わたくしは頷いた。

 今川の威光という外套を纏いながら、その中身を織田の意志で染めていくつもりなのだ。

 それは、見せかけの従属を演じることで、内から尾張を掴む策だった。

 清洲の信友、岩倉の信安、津島の市場勢力――

 尾張を三つに裂く敵を前に、信長は今川の軍勢を盾にして動き始めた。

 今川から供された補給路、兵糧、金、そして天下人の構想――

 うなぎと親子丼のあいがけの様に、それらを巧みに用いて、織田は次々と同族を制していく。

 信友を討つ口実も、信安を退ける名分も、すべて今川の信任を受けた織田の代理という建前に包まれていた。

 わたくしはその戦の裏に座し、文を綴り、命を預ける者たちに耳を貸していた。

 

「瀬名。尾張が一つになれば、次は――あの家だ」

 

 そう。

 信長の刀が向かう先は、美濃の斎藤氏。

 そしてやがては、あの義元さまの背へと届くのだ。

 けれど、わたくしは止めはしない。

 信長が今川を利用するなら、

 わたくしは信長の心を利用してみせる。

 

 

 

 

 その夜、濃姫とわたくしは、織田の旗がたなびく城の一室で、肩を寄せ合いながら茶をすする。

 

「今川の旗の下に、織田の兵が立つのね」

「ええ。けれど、いつかその旗は裏返る。そのとき、誰がその裏側を染めたのか……見極めるのは、わたくしたち」

 

 わたくしたちは、女であることを捨てぬままに政を変えていく。

 誰にも気づかれぬところで、恋しい者と生きる場所を守るために。

 戦がない日々が、こんなにも静かに心を潤すのだと知ったのは、濃姫と過ごす部屋に花を飾るようになってからだった。

 政の帳面も、軍議の図も、すべては男たちの手に委ねられる。

 けれど――女が女と向き合うとき、そこには言葉を超えた記憶が残る。

 濃姫はわたくしの指を取るのが上手だった。

 ただ、そっと。触れるか触れないかの指先を掌の中に包み込む。

 

「手が冷たいわ」

 

 そう言いながら、わたくしの小指を自分の指に絡める。

 火鉢の前で、肩が並ぶだけの距離で――

 ふたりの心は、音もなくほどけていった。

 ある日、濃姫がわたくしの髪を梳いてくれた。

 女に髪を触れられるのは、思っていたよりも心をほどくものなのだと知った。

 

「わたくしね、最初はあなたが怖かったの。あまりに静かで、あまりに優しくて。それが仮面に見えたの」

「わたくしも。あなたの笑い方が戦のときだけ鋭くなるから」

 

 笑いあいながら、いつしか、わたくしたちは背中を預けるようになった。

 同じ帳面を覗きこみ、同じ器で菓子を分け合う。

 そして眠る前には必ず――指先を重ねて、名もなき祈りを交わす。

 夜、信長のもとから戻ってきた濃姫が、何も言わずわたくしの隣に座る。

 わたくしは黙ってその手を取り、指を絡めた。

 それは慰めでも癒しでもない。

 ただ、「あなたの痛みは、わたくしの中にもある」という証だった。

 

「あなたがいなければ、きっと、わたくしは喉を裂いていた」

「あなたがいるから、わたくしはまだ女でいられるの」

 

 ふたりは、口づけを交わすことはなかった。

 けれど、誰よりも深く魂を重ねていた。

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