※この作品はR-18です。

水滸伝艶義   作:ドン・ドナシアン

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【地図・水滸伝艶義】


 この頃世間に流行るもの……。
 賊徒 強盗 闇奴隷 賄賂(わいろ)をせびるお役人
 正直者は馬鹿をみて 権力者たちは欲の華(はな)
 金、悪、毒の世の中で
 泣くのは弱い者ばかり
 悪法流行る社会から
 漏れはみ出した百八人
 梁山泊(りょうざんぱく)に集まりて
 驚天動地の活劇を
 繰り広げていく物語───。

 『水滸伝艶義(すいこでんえんぎ)』の始まりです。



1話   余興凌辱
1   香蘭、夫の解放を高俅に乞い願う


「高俅(こうきゅう)様には、気に入ってもらわねばなりませんよ、夫人。ご主人のお命がかかっているのです」

 

 祝朝奉(しゅくちょうほう)が、李香蘭(りこうらん)の身体を舐めるように見た。

 部屋に入ったとき、椅子は勧められなかった。

 だから香蘭は、祝朝奉が深々と座るその前に、立ったままだった。

 

 視線が、露骨すぎた。

 だが、耐えた。

 牢に入れられた夫を助けるには、この男と、その奥にいる高俅に頼るしかない。

 

 この東平城(とうへいじょう)の城郭で商家をしている夫が捕らえられたのは、十日前だった。

 突然だった。なにも聞かされていない。

 ある日、県軍の兵がやって来て、夫を連れていった。

 それだけだった。

 

 嫌疑の内容を知ったのは、三日前。

 ──塩の密売。

 ご禁制の“塩”を売った。

 信じがたい話だった。

 

 香蘭は、冤罪だと信じた。

 夫がそんな真似をするとは思えなかった。

 潔癖すぎるほどに、商売の筋を通す男だった。

 ──それが仇になったのかもしれない。

 

 香蘭は動いた。

 金をばら撒き、人を頼った。

 この時代、賄は黒を白に変える。逆も同じ。

 だから足掻いた。

 

 祝朝奉が現れたのは、その最中だった。

 東平県近くの祝家荘の長者。

 莫大な財を持ち、皇都にも顔が利く男。

 

 彼は言った。

 ──高俅がこの東平にいる、と。

 元は禁軍の将校。地方に左遷された形だが、いまだに影響力を持つという。

 

 確かに、名は聞いたことがあった。

 若い。だが、国の腐敗を象徴するような男という噂だ。

 兄の高廉(こうれん)は皇帝に近い道術師。弟の高俅も、その縁で動かせぬ者は少ないらしい。

 ──夫を救うには、それしかない。

 

 祝朝奉の目が、香蘭にまとわりついたままだった。

 沈黙が長すぎる。

 香蘭は、無意識に両手で胸を覆った。

 

 ──妓女のような装い。

 大商家の若夫人が身につけるには、あまりに露骨だった。

 白と桃の薄衣。肌に密着する生地。胸元は大きく開き、脚には深い切れ込み。

 香蘭は、自分の姿に羞恥を覚えた。

 

 だが、そうしなければ夫は助からないと、祝朝奉に言われた。

 すがるしかなかった。

 

 香蘭は包みを卓に置き、中から金子を取り出した。

 それを祝朝奉に差し出す。

 

「祝朝奉様。このたびのこと、何卒、お願いいたします。どうぞ、これをお納めくださいませ」

 

 夫が捕らえられ、商いも立ち行かなくなりつつある。

 それでも香蘭は、手元の品を金に換え、なんとか持参した。

 ──後がない。

 

 夫が刑死すれば、家は潰れる。

 財も、名も、すべて失われる。

 

 ならば、差し出してもかまわない。

 財でも、家名でも──この身であっても。

 

「なるほど」

 

 祝朝奉は、包みに手を触れなかった。

 顎を僅かに動かすと、背後に控えていた従者が無言で包みを受け取った。

 包みは、すぐに部屋の外へ運ばれた。

 

「では、参りましょう。高俅様は、奥でお待ちです」

 

 祝朝奉が立ちあがる。

 大きな腹が揺れた。

 その動きに合わせるように、別の従者と、料理屋の女が現れる。

 香蘭と祝朝奉は、そのふたりに先導され、奥へと歩みを進めた。

 

 ここは東平城でも名の知れた料理屋だ。

 奥に進めば、貴人のための個室が並ぶ。

 香蘭たちは、そのひとつへと案内された。

 

 やがて、立ち止まる。

 扉が静かに開かれた。

 

「高俅様、お待たせ致しました」

 

 祝朝奉が頭を下げた。

 部屋の奥に座っていた男が、顔を上げる。

 

「以前お話をいたしました李香蘭殿です。ぜひに閣下にお願いしたいことがあると申しておりました」

 

 その男は、高俅だった。

 若い。まだ二十代だろう。

 身なりは華やかで、色白の顔に艶があり、軍人というより、どこか芸人めいている。

 両脇には着飾った女たちが控え、食事と酒の給仕をしていた。

 香蘭はすぐに頭を下げた。

 

「李香蘭でございます。主人を──お助けください。このとおりです。できる限りのことはさせていただきます」

 

 すでに、金子も宝石も、持てるすべてを贈ってある。

 きょうのこの場も、祝朝奉の口添えでようやく設けられたものだった。

 

「なるほど。まあ、いいだろう。その言葉に、嘘はないか?」

 

 高俅が言った。

 酔っていた。顔に赤みが差している。

 だが、目だけは笑っていない。

 獣のような眼をしていた。

 

 香蘭は、その視線に身体がこわばるのを感じた。

 祝朝奉よりも、さらに露骨なものがあった。

 だが、顔に出さなかった。

 耐えるしかなかった。

 

「もちろんでございます。ところで、夫は……」

 

 香蘭が問うた。

 声は震えていたが、それでもまっすぐに言葉を紡いだ。

 

「まあ、その話は後だ。まずは乾杯だ。夫人、隣に来い」

 

 指で、自分の脇を示した。

 香蘭は黙ってうなずき、その場に腰をおろした。

 店の女が、酒の瓶を卓に置いて、無言で部屋を下がっていく。

 

 祝朝奉は、高俅の正面に座った。

 部屋には三人だけになった。

 

 香蘭は、酒の瓶を取り上げ、高俅の杯に注ぐ。

 祝朝奉にも酌をしようとしたが、祝朝奉はそれを手で制した。

 

「高俅様の相手に、集中なされ」

 

 そう言って、自分の杯を手酌で満たす。

 

「近くに寄ってみれば、やはり美しいな。噂に違わぬ美姫だ」

 

 高俅が香蘭の顔を見た。

 視線が、ゆっくりと頬から首筋、胸元へと落ちていく。

 

「これほどの華人は、皇都でもそう多くはない。お前も飲め」

 

 香蘭の手に、自分の杯を渡してきた。

 杯は空だった。

 すぐに香蘭がそれを受け取ると、高俅が酒をなみなみと注いだ。

 

「一気に空にせよ」

 

 にやりと笑った。

 香蘭は、頷いた。

 そして、杯を持ちあげ、息を止めて呷った。

 

 酒が喉を滑った瞬間、強い熱が腹に沈んだ。

 ──強い。

 

 香蘭は目を細めた。

 これは、ただの酒ではない。

 酒に弱いわけではないが、身体の芯がすぐに熱を持った。

 

「おう、なかなかだな。もう一杯だ」

 

 高俅が、また瓶を持った。

 香蘭は、思わず首を横に振った。

 

「お、お許しを……これ以上は……」

 

「ふむ。私の酒が不満か?」

 

 声が変わった。

 その一言で、部屋の空気が変わった。

 香蘭は、戦慄した。

 咄嗟に、深く頭を下げた。

 

「も、もちろん、光栄でございます。いただきます、高俅様」

 

 杯を差し出した。

 酒が注がれる。

 高俅の笑みが戻る。

 

 再び、杯を飲み干した。

 喉が焼ける。

 息が苦しくなる。

 

 三杯。

 それで、ようやく卓に杯を戻すことが許された。

 

 香蘭は、深く息を吐いた。

 だが、その時だった。

 

 ──身体に、異変が起きた。

 

 喉が焼けつくようだった。

 飲み下した直後から、身体の芯が熱を帯びていく。

 酒のせいではない。

 酔いとは違う。

 どこか、肌の下に蠢くような疼きが這い寄ってくる。

 

 香蘭は気づいた。

 これは──。

 

 胸の奥で脈が跳ねる。

 下腹に、じわりと汗が滲んできた。

 脚の内側が、妙に意識される。

 

 ──おかしい。

 

 股が、熱い。

 いや、痒いような、疼くような──。

 

 気づけば、内腿を擦り合わせていた。

 はしたない。

 だが、理性が働く前に、身体が動いていた。

 

 香蘭は、自分の動作に気づき、慌てて足を止めた。

 背筋に冷たいものが走る。

 だが、それ以上に、皮膚の下から湧き上がる感覚が止まらない。

 

 ──間違いない。

 

 媚薬が入っている。

 

 身体が、熱を帯びるたびに、皮膚の感覚が研ぎ澄まされていく。

 袖の内側が擦れるだけで、胸が疼いた。

 乳の先が、布地の下で勃ち始めているのが、わかる。

 高俅が、笑っていた。

 祝朝奉も、目を細めていた。

 

「ほう、なかなかの効き目のようだな。女を夢心地にする夢薬を、大量に三杯……。無理もあるまい」

 

「死にかけの老女でさえ酔い狂って肌を晒すという代物ですからな。ましてや、夫人のような熟れきった肉には、辛かろう」

 

 ふたりが笑う。

 嘲笑だった。

 

 香蘭は、俯いたまま唇を噛んだ。

 震えた。

 それは、怒りか。羞恥か。

 それとも、身体の奥で芽吹いてしまった、どうしようもない疼きのせいだったか。

 

「さて──改めて訊ねるが、夫を助けたいか。香蘭とやら」

 

 高俅の声に、香蘭ははっと顔を上げた。

 脳の奥にまで、熱がこもっていた。

 理性の声は薄れ、それでも、言葉だけは、喉の奥から零れ出た。

 

「は、はい……お願いいたします。このとおりです……。なんでもいたします……」

 

 息が乱れていた。

 言葉の端が震えている。

 けれど、懇願は本気だった。

 

「お、夫は──商売仇に陥れられたに違いありません……。ど、どうか……閣下のお力で、牢より救い出していただきたく……。このとおりでございます……」

 

 香蘭は、椅子に座ったまま、膝を折った。

 頭が、卓に触れるほどまで垂れていく。

 

 黙っていた高俅が、杯を置いた。

 冷えた声で、言う。

 

「確かに、この東平の県令と私は旧知の仲だ。罪なき罪により皇都を追われたこの私を、惜しまず迎え入れてくれたほどのな」

 

 香蘭は、ただ耐えていた。

 脈が乱れ、額に汗が伝う。

 

「だが──お前の本気を見せてもらおうか。さっきの言葉が、飾りでないと証を立てろ」

 

「証……とは?」

 

 香蘭の声がかすれた。

 目の前が滲んでいた。

 

「着ているものをすべて脱げ。ここに、置け」

 

 言葉が、静かに突き刺さる。

 香蘭の背が震えた。

 

「そ、そんな……。こ、ここで……でございますか……」

 

 反射的に口をついた声だった。

 高俅の顔に、ゆっくりと笑みが戻る。

 

 それは、拒絶の余地を与えぬ男の微笑だった。

 香蘭の指先が、椅子の縁を握りしめた。

 声を失っていた。

 膝が、わずかに震えていた。

 

 ──ここで。

 

 寝台でもない。屋敷でもない。

 料理屋の個室。

 すぐ外には給仕の女たちがいる。人の気配もある。

 

 それでも──。

 

「どうした。夫人。私が見たいのは、お前の本気だ」

 

 高俅の声が低く響いた。

 祝朝奉が、口を開いた。

 

「夫人、高俅様のご命令には、絶対服従。それがご主人を助ける道でございます」

 

 声が、冷たく背をなぞった。

 香蘭は歯を噛んだ。

 目の奥が熱い。

 だが、涙ではない。羞恥と怒りが、喉の奥でせめぎ合っていた。

 

「お……お待ちくださいませ……」

 

 絞り出した声だった。

 

「なんだ?」

 

「せめて……別の場所で……。こ、ここでは……」

 

「私になんでもすると言ったのは、嘘だったのか」

 

 高俅が、静かに言った。

 卓の向こうで、笑っていた目がすうっと細まる。

 

「まさか、たかが商人の女が、私を愚弄するとはな」

 

「い、いえ……そんなことは……。本当です。嘘ではございません……高俅様……」

 

「ならば──証を示せ」

 

 突きつけられるような言葉だった。

 香蘭は震える唇を噛み、ゆっくりと立ち上がった。

 

 椅子がきしんだ。

 汗が背を伝う。

 熱かった。だが、それ以上に、冷えていた。

 

 ここで脱げば、すべてが終わる。

 ──恥も、誇りも、矜持も。

 だが、脱がなければ、夫が終わる。

 

 背に、手を回した。

 着衣の留め紐に指をかける。

 だが、震えていた。指先が、言うことをきかない。

 

 うまく、結びがほどけなかった。

 何度か、空を掴んだ。

 それでも、香蘭は手を止めなかった。

 

 首の後ろの留め具が外れた。

 体側の結び目を、片手で引く。

 汗が滴る。布が肌に張りつく。

 

 ──音もなく、上衣が落ちた。

 

 すぐに抱えた。

 脱いだ布で、胸と下腹を隠す。

 だが、布越しに感じる自分の熱が、恥を煽った。

 

「卓の上だ」

 

 祝朝奉の声が飛んだ。

 香蘭は、小さく身をすくめた。

 おそるおそる、服を卓の端に置く。

 指先が、離れがたそうに、布の端をつまんだ。

 

 ──濡れていた。

 

 下着が、汗ではないもので濡れていたのを、香蘭はそのとき、はじめて自覚した。

 

 脚の内側が、妙に熱い。

 ぬるりとした感触が、肌にまとわりついていた。

 

 ──さっきの薬だ。

 

 香蘭は、肩を震わせた。

 だが、立ち尽くしたまま、胸を腕で抱いていた。

 

「ここまで来て夫を見捨てるか。ここで恥を晒さねば、夫は死ぬ。早くせんか」

 

「……は、はい……」

 

 声が掠れた。

 香蘭は、胸の布を卓に置いた。

 最後に残った小さな腰紐に、手を伸ばす。

 

 解いた。

 下着を脱ぎ、そっと卓の衣の下へ押し込んだ。

 

 膝が崩れそうだった。

 だが、踏みとどまった。

 両手で、胸と股を隠す。

 

「やれやれ、やっと終わりましたか」

 

 祝朝奉の声が、乾いて響いた。

 そして、手を叩いた。

 

 香蘭は、凍ったように立ち尽くした。

 

 祝朝奉が、手を打った。

 その音が、扉の向こうに合図を送る。

 

「……っ」

 

 香蘭は、息を呑んだ。

 卓に手を伸ばしかけた。

 だが──。

 

「触れれば、話はなかったことにする」

 

 高俅の声が、釘のように突き刺さった。

 香蘭は動きを止めた。

 目を見開いたまま、服の上に伸ばしかけた手を引っ込める。

 

「そ、そんな……お許しください……高俅様……」

 

 喉が震えた。

 声を出すことが、これほどまでに辛いとは思わなかった。

 

「服を着るか、着ないかは、夫人の自由だ。だが、脱いだものに触れた瞬間、この話は終わる」

 

 祝朝奉が嗤った。

 香蘭の背が竦んだ。

 脚が震えていた。

 

「どうされますか。身体を隠さないのですか? すぐに人が戻りますぞ」

 

 その言葉の直後、扉が外からの合図もなく開いた。

 ふたりの女が入ってくる。

 ──給仕の女たちだった。

 

「きゃっ……」

 

「えっ……」

 

 悲鳴が上がる。

 香蘭は咄嗟に身体を丸め、両手で胸と股を庇った。

 けれど、座ることは許されていない。

 高俅の言葉が、頭にこびりついている。

 

「どうした、夫人。裸を晒しているぞ。服を着たければ、どうぞご自由に」

 

「……っ」

 

 喉の奥が詰まった。

 香蘭は、しゃがみこみたい衝動を抑えて、肩を震わせながら立ち尽くしていた。

 

「夫人の選択ですな。恥を晒して夫を救うか、それとも、ここで諦めるか」

 

 祝朝奉の声が響く。

 香蘭は、卓の上の服に、視線を走らせた。

 手を伸ばしたい衝動が、喉元まで上がってきている。

 

 だが──動かなかった。

 首を、ゆっくりと横に振った。

 

「……このままで……」

 

 声は涙に濡れていた。

 両眼から、こぼれる雫が止まらなかった。

 

「ははは、李家の若夫人は、見事な露出狂いだな。卓の上の服を、外へ下げておけ」

 

 祝朝奉が女たちに命じた。

 香蘭は、小さく、だがはっきりと叫んだ。

 

「あっ──」

 

 女たちは躊躇いながらも、香蘭の服をひとつ残らず拾い、部屋の外へと持ち出していった。

 

 ──すべてが、剥がされた。

 

 香蘭の裸身は、下着までを失っていた。

 目の前には高俅。

 向かいに祝朝奉。

 部屋の出入口には、怯えたような給仕の女が立ちすくんでいる。

 

 逃げ場はなかった。

 

 そのときだった。

 扉の外から、男の声がした。

 

「おう。始まっておりましたか」

 

 香蘭の心臓が、一瞬で凍りついた。

 扉が再び開き、ゆっくりと、男が入ってくる。

 

 ──白文天(はくぶんてん)。

 

 県軍の将校。

 夫が捕らえられたその日、指揮を執っていた男。

 香蘭にとって、最も憎むべき顔。

 

 過去に何度も言い寄ってきた。

 襲われかけたこともある。

 あのとき、必死に逃げて助かった──その白文天が、いま、目の前にいた。

 

「なんの、間に合ってよかった。これからが佳境というやつでしょうな」

 

 高俅が笑った。

 白文天も、にやついた顔のまま部屋へと入ってくる。

 

「高俅様に愉しんでいただくための趣向、準備しておりますので」

 

 香蘭の膝が、かくりと落ちそうになる。

 両腕で裸身を隠していたが、指先が震えていた。

 

 ──どうして、この男まで。

 

 白文天は、部屋の外に控えさせていた何人かの男に、指で合図を送った。

 すぐに、車輪のついた台が押し込まれてくる。

 

 香蘭は目を疑った。

 その台の上に、見慣れない器具が載せられていた。

 金属の環と帯具。造は簡素で、見てすぐに意味がわかった。

 ──拘束具。

 ほかにも、男根を模した淫具、刷毛、数本の筆、得体のしれない油剤の小壺。

 香蘭の呼吸が浅くなる。

 口が、勝手に動いた。

 

「……っ……」

 

 肌が泡立つ。

 寒気と熱が、同時に襲ってくる。

 

「文天。これは、なんだ」

 

「ええ、これは夫人のような淑女にこそ相応しい玩具でございます」

 

 白文天の声が、背を這った。

 香蘭は、思わず、もう一歩下がりそうになる足を止めた。

 ──裸のまま、逃げる場所もなく、嗤われながら、見知らぬ器具を前に立たされている。

 その現実を受け入れきれぬまま、唇を噛みしめた。

 香蘭の喉が鳴った。

 だが、声にはならなかった。

 

 なぜ、ここまでの辱めを受けなければならないのか。

 なぜ、白文天がここにいるのか。

 問いは渦を巻いたが、答えはなかった。

 

「さあ、夫人、ここへ──どうぞ」

 

 白文天が、片手を台の前に向けて差し出した。

 香蘭は動けなかった。

 足を一歩でも前に出せば、心が砕ける気がした。

 

 そのときだった。

 

「いやなら、断ってもいい。無理にとは言わぬ」

 

 高俅が、冷たく言った。

 香蘭は、その言葉に首を上げた。

 

「だが──その代わり、夫を助ける道は、閉ざされる」

 

 追い討ちだった。

 逃げ道はなかった。

 

 祝朝奉は、卓の端で杯を揺らしながら、静かに笑っていた。

 誰も、助けてはくれなかった。

 

 香蘭は、口を開いた。

 

「……わかりました……。お、お願いします……」

 

 膝が折れそうになるのを堪えながら、一歩、踏み出した。

 もう逃げ道などなかった。

 衣服もなく、脚も腰も震えたまま動かない。

 目の前の道具が、冷たく沈黙していた。

 その形が、なによりも雄弁だった。




■高俅(こうきゅう)
 かつては、禁軍──すなわち皇帝直属の親衛軍に名を連ねた将校。
 若くして頭角を現したが、その粗暴さが仇となり、帝都より追放される。
 年齢二十六。実兄・髙廉は、皇軍が誇る道術師であり、現在も政中枢に通じている。
 高俅自身も、禁軍の中枢に復帰すべく、祝朝奉ら地方権力者との連携を深め、反攻の機を狙っている。
 ※原典:軍政を掌握した四大奸臣のひとり。その権勢により多くの忠臣を貶め、梁山泊の敵として最大の宿敵とされた。

■祝朝奉(しゅくちょうほう)
 地方徴税官を兼ねる一方で、私兵を抱える有力豪族。年齢、四十代半ば。
 中央から派遣された役人ではなく、地の民と血を分け合うようにして育ったその統治は、粗暴だが筋が通っている。
 ※原典:梁山泊軍を苦しめた山東の三大荘園勢力のひとつ「祝家荘」の頭目。三兄弟とともに抗戦し、最終的には滅ぼされる。
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