13 高廉、徽宗帝に高俅の復権を乞う
「また、余の負けか」
「ほほほ。どうやら今宵は、ひとり負けでございますね、陛下」
ここは内宮の奥、皇帝の私室。宮廷の喧騒から隔てられた場所に、札の音だけが小さく響いている。徽宗が熱中する札遊びの夜だった。
相手は三人。若き日の戦で苦楽を共にした老将・
宰相・
徽宗も齢四十を越えた。治世はすでに十年。
この三人は、その政を支える要とも言える存在だった。
「もう一勝負だ、高廉。これで引き下がっては、皇帝家の財を根こそぎ持っていかれる。財務官が青ざめるぞ」
「ご冗談を。私の勝ち分など、陛下から頂戴する気はございません。こうして御前に招かれる栄誉だけで、十分でございます。それに、皇帝家の財が一夜の札遊びで傾くなど、ありえましょうか」
「甘く見るな、高廉。勝ち負けのけじめこそ、札遊びの肝よ。余が負ければ払う。勝てば払ってもらう──当然だろう。まさか、臆したか?」
「ほほほ……。臆するなど、とんでもない」
高廉が微笑む。陶磁の面のように整った顔だ。
童貫も、蔡京も、その笑みに釣られて頬を緩めた。
童貫は六十を過ぎ、蔡京と徽宗が四十代。
その中で、高廉は二十代の後半と聞く。だが、見た目は十代にすら見えた。
徽宗は改めて高廉を見た。
少女と見紛うほどの白い肌。黒髪はまっすぐ背に流れ、女物の飾りで緩やかに結われている。
──女のような男。
初めて見る者は、皆そう感じる。
あまりにも美しい。肌、輪郭、指の先まで、後宮の美女すらかすむほどだった。
この若さで道師長。その地位も異例だが、それに至る経緯もまた、異例だった。
かつての道師長が急逝し、候補者五人の中で唯一生き残った者が、高廉だった。
災厄のように、他の候補たちは死ぬか失脚した。
徽宗は疑った。
高廉は、女ではないか──と。
声は細く、姿はゆったりとした袍着に包まれ、手脚は細い。脛に毛はなく、肌も透けるようだった。
そして、調べさせた。諜者を放って、真偽を確かめた。
──男だった。
それでも、こうして面と向かえば、やはり女に見えてならない。
「どうかされましたか、陛下?」
札を配ろうとする高廉が、微笑んだ。
凝視しすぎたと気づいた徽宗は、首を振った。
「なんでもない。やろう」
「かしこまりました」
高廉が親となり、札を切る。音が静かに室内を満たす。
この札遊びは、配られた五枚の札で点を競う。
一から十までの数字札。手札と山札の交換は最大二回。
交換ごとに参加費を支払い、勝者は全賭け札を得る仕組みだった。
次の勝負。童貫が最初に降り、蔡京も交換前に札を伏せた。
残ったのは徽宗と高廉。
「今度こそ、余の勝ちだな」
徽宗が札を開いた。
五の四枚揃い──勝ちを確信する。
「残念でございます」
高廉が札を開く。七の四枚揃い。
数で上回られた。
「また負けだ……やられたわ」
徽宗は、天を仰いだ。
「……さて、もう夜も更けましたのう。陛下、そろそろ、お開きにいたしましょうか」
童貫が言った。声には笑みがある。
「なにを言う、童貫。これでは余の一人負けだ。勝ち逃げは許さんぞ」
「これは困った。陛下が勝つまでやっていたら、何日かかるかわかりませぬな」
童貫が肩をすくめる。蔡京も同じように笑みを浮かべていた。
「ならん、ならんぞ──。もう一勝負だ」
徽宗が怒鳴った。笑いながら、三人が顔を見合わせる。
自分が熱くなっていることは、徽宗自身もわかっている。
だが、ここで終える気にはなれなかった。
そのとき、高廉が口を開いた。
「……では、こういたしましょう、陛下。もう一勝負。ただし、私と陛下の一騎打ちです」
言いながら、いつもの柔和な笑みは消えていた。
その表情には、静かな熱があった。
「だが、これまでの札遊びでは、私と陛下とでは腕が違います。単純な運試しの勝負にいたしましょう。山札から一枚ずつ引き、数字の大きい方が勝ち。それだけです」
「なるほど、技なしの運だけの勝負というわけか?
「さようでございます。もし、私が負ければ、今夜の勝ち分は頂きません。ですが、私が勝ったなら──ひとつだけ、お願いを聞いていただきたいのです。なお、勝ち分はどちらにしても辞退いたします」
「願いとは?」
徽宗が眉を動かす。
高廉が、深々と頭を下げた。
「私の弟──
「高俅?」
徽宗は小さく首を傾げた。
その名には、覚えがなかった。そもそも、この高廉に弟がいたのが記憶にない。
視線が自然に蔡京へ向かう。
「……高俅は、もとより国軍の将校でありましたが、先日、
蔡京が応じる。
「どんな事件だ?」
徽宗の問いに、蔡京は高廉を一瞥してから続けた。
「私闘でございます。高廉殿の弟君の方から仕掛けたため、高俅のみが罪を問われました。王進に訓練中こっぴどく打たれたのを恨み、刃傷に及んだというのが、表向きの理由でございます」
「高俅も、そのことについては深く反省しております。陛下、なにとぞ」
頭を下げる高廉。
普段は冷静沈着なこの男の、必死な姿は珍しかった。
徽宗は、ふと笑みを漏らした。
「武術師範が、将校にも訓練を課すと言い出したのが発端でございましてな」
童貫が続ける。
「王進は、若くして堅物でございます。兵卒だけでなく、将校にも武術を──と唱え、全員に訓練を課しました。もっとも、将校にとっては心外だったのでしょうな。高俅が反発したのも、無理はありません」
蔡京と童貫がそろって擁護するのを見て、徽宗は思った。
高廉が事前に手を回していたに違いない。
「なるほど、くだらぬことだ。余の一声でどうとでもなる……。よかろう、蔡京。明朝、恩赦を下してやれ。高俅を軍に復帰させよ」
「承知いたしました……。高廉殿、よかったな」
蔡京が言う。
「かたじけのうございます、陛下。そして、蔡京殿、童貫殿にも御礼申し上げます。この高廉、犬馬の労も惜しみませぬ」
高廉が、深く頭を垂れた。
「それくらいで、大袈裟なことを言うな」
徽宗は苦笑した。
「しかし、これで賭けの対象がなくなってしまったな。高廉の弟の赦免は、もはや勝負とは関係なく行うことにしたのだから」
そう言いながら、徽宗は軽く卓を叩いた。
「ならば、弟の件は代償にいたしませぬ。勝ち分も頂戴いたしません」
高廉が、静かに答えた。
「そうか。それでは──こうしよう。お前の弟の赦免を許す代わりに、ひとつ賭けをさせてもらう。余とお前との一騎打ちだ。余が勝てば、お前の裸を一度見せよ」
言いながら、徽宗はにやりと笑った。
心中では、この機を逃すまいと思っていた。
ずっと燻っていた疑念と好奇心。それを払拭する好機だった。
高廉は、わずかに目を細めた。
「承知いたしました。ただし、陛下おひとりに。近習も、護衛も、誰ひとり入れてはなりません。それが条件でございます」
あまりにもあっさりと受け入れた。
徽宗は、一瞬、気を削がれたような気がした。
──やはり男か。女であれば、こうも素直には受けるまい。
ともかくも、賭けは成立した。
勝負は一回きり。
山札から一枚ずつ取り、数字の高い方が勝ち。
一が最高札。それ以外は数字の大小が勝敗を決める。
同じ数字が出た場合は、引き直し。
高廉が、札束を崩し、山のように広げた。
中から好きな一枚を選ぶ形式だった。
徽宗が先に手を出した。札を一枚、伏せたまま取る。
続いて、高廉も札を取った。
徽宗が、その札を裏返した。
三──。
唇が歪んだ。
これでは、勝つ可能性はきわめて低い。残りの札の中で、三より小さいのは二しかない。
高廉が、札をめくった。
二──。
徽宗は、顔をあげた。
「余の勝ちだ」
短く、そう言った。
唇の端が上がった。
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梁山王朝の皇帝。芸術を偏愛し、政は側近に委ねていた。
無責任な放任と耽美な趣味が朝政を腐らせ、帝国を衰退へ導く。
外面は穏やかだが、執着と疑念を奥底に秘めた風雅の君主
※原典:徽宗。梁山泊を一時的に登用した宋の皇帝
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禁軍を束ねる老宦官。若き日に徽宗と共に軍旅を経験した功臣。
四姦臣の一人として宮廷内に絶大な権勢を誇る。
軍事と政治を同時に操る老獪さで、梁山泊の掃討戦にも深く関与。
齢を重ねてもなお、朝廷に睨みを利かす巨魁
※原典:童貫。四姦臣のひとり。梁山泊掃討を指揮
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朝廷の実権を掌握する大宰相。奸智と策略をもって政敵を退ける。
徽宗の寵臣として地位を極め、梁山泊討伐を画策する策謀家
忠義を装いながら、私利と保身に生きる冷徹な官僚
その微笑は、常に計算に裏打ちされている。
※原典:蔡京。四姦臣の筆頭。梁山泊の敵役として描かれる。
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高俅の義兄。若くして宮廷道術師長に抜擢された妖術の使い手。
中性的な容貌と性別不詳の肉体を持ち、政敵を次々と屠る冷徹な寵臣
昇進の背後には多くの失脚劇と政略が積み重ねられている。
その本性は謎に包まれたまま、朝廷の深部に根を張る。
※原典:高廉。高唐州の知府で妖術使い。宋江らと交戦