河家の放蕩息子・
昼間から酒が入っているのだろう。顔を赤らめ、肩で風を切りながら人波を押しのけるようにして進んでいく。
葉芍は、その背後を追っていた。
連中は、遠慮もなく大声で馬鹿話を続けている。
隙だらけだった。
だが、前に誰かが立つと、取り巻きが奇声に近い声で怒鳴る。
関わり合いを避けて、誰もが彼らを避ける。その結果、奴らの前には不自然な空白が生まれていた。
河清の懐に手を入れるのは、たやすく思えた。
だが、いまは違う。近づけば、連中以外の目に、葉芍の動きが異様に映る。
だから、葉芍は、じっと機を待った。
狙いは、河清の懐にある金入れだった。
中に相当な金がある。それは、昨夜、
葉芍は、すでにそれが確かであることを、自分で確かめていた。
葉芍は、いま、どこにでもいる町娘のような姿だった。
野天市で買った野菜を籠に入れ、歩いている。
前を行く五人と比べれば、葉芍の姿は完全に市の雑踏に溶け込んでいた。
「おう、店の姉ちゃんよ。その串焼きよりも、あんたを売ってくれよ。銀貨五両やるぜ。その代わり五人で
河清が、肉焼きの屋台の前で足を止めた。
肉を焼いていた若い女に、ふざけた言葉を投げた。
「冗談じゃないよ、兄さんたち。銀両五枚に見合うほどにやったら、あたしの股が擦り減っちまう。それより、肉を買っておくれ。一本につき銅銭一枚だ」
「二本ずつだ」
女の陽気な返しに、河清は機嫌をよくしたようだった。
懐から金入れを取り出し、銀粒ひとつと銅銭五枚を数えて渡した。
奴らは、そのまま人混みに溶けていく。
──いましかない。
葉芍は、河清が金入れを上衣の襟の内側に戻すのを目にしながら、足を速めた。
「あっ、ごめんなさい……」
河清の前をすれ違うとき、取り巻きのひとりの足にわざとつまずく。
身体が前に傾き、河清の胸に倒れ込んだ。
「おっ?」
葉芍を思わず支えた河清が顔を上げたときには、すでに葉芍は何食わぬ顔で、前方へと歩き去っていた。
籠の中に、河清の金入れがある。野菜の下に、さりげなく隠した。
ずしりと重みがある。
かなりの稼ぎになったと、葉芍は思った。
反対側から、紙売りの少年が歩いてくる。
葉芍に比べて、服は薄汚れていた。
「紙、要らんかねえ」
売り口上を叫びながら、張明がやって来た。
紙は、彼が背負う大きな背籠に詰め込まれている。
役所のまわりなどをうろついていれば、書き損じの紙が捨てられていることがある。それを拾って伸ばし、市で売る。
大きな金にはならない。
だが、拾い物を売って得る稼ぎの中では、悪くない部類だった。
「貰うわ。二枚。この果物でどう?」
葉芍は他人を装い、張明に声をかけた。
「だったら、三枚やるよ」
張明は背籠を下ろし、くず紙を三枚差し出した。
葉芍は籠から赤い果実を取り出し、張明の背籠に放り込む。
そのとき、金入れも一緒に移した。
すばやく紙の下に押し込んで隠す。
「明ちゃん、真っ直ぐに隠れ家に来るのよ。また、賭博場に向かったら承知しないからね……」
葉芍は張明の耳元で囁いた。
張明は人懐っこい笑みを浮かべ、背籠を担ぎ直した。
そのまま、歩き去っていく。
忠告に従うのか、それとも無視するのか──。
表情からは、判断できなかった。
葉芍は、小さく息を吐いた。
そして、人波を抜け、市場を離れていった。
そのときだった。
小さな喧騒が、正面から聞こえてきた。
葉芍は、そちらに目を向けた。
からかい、嘲るような笑い声。
通行人たちが、ふたりの少女に浴びせている。
──奴隷だ。
葉芍は、息をのんだ。
胸と腰だけを布で覆い、臍も腿も露出している。
年頃は、葉芍と同じくらいだろう。
顔立ちの似たふたり。おそらく、姉妹。
ふたりの首には、真紅の首輪があった。
奴隷の象徴──「奴隷の首輪」。
隷属の道術で肉体に一体化されたものだった。
昼間の雑踏の中、彼女たちの姿はいやでも目を引いた。
男たちが群がるのは、その肌を晒した姿のせいだけではない。
姉妹の片方──背の高いほうの腹には、もう一方には腿に、それぞれ「奴隷の紋様」が丸く刻まれていた。
首の首輪とあわせ、奴隷化の道術によって刻印された証。
奴隷は、この印と首輪を、いかなるときも隠してはならないと法で定められていた。
さらに、衣類で隠そうとすれば、その部分に火傷のような激痛が走る。
だから、彼女たちはこうして、人前でも、その姿を晒して歩くしかない。
奴隷となって間もないのだろう。
見世物にされていることに、ふたりは泣き出しそうな顔をしていた。
奴隷は、惨めだ。
首に嵌められた道術の首輪によって、奴隷は、自身の意思とは無関係に、「主人」の命令に従わされる。
どれほど心が拒んでも、言葉で命じられれば、身体が勝手に動いてしまう。
それが、この国で定められた奴隷という存在だった。
橋の下団で、互いをかばい合いながら生き延びてこなければ──。
葉芍も、とうの昔に闇奴隷狩りに捕まり、奴隷にされていたに違いない。
この国では、男が奴隷とされることはない。
なぜか、法がそう決めている。
奴隷とは、女に限られていた。
ゆえに、女であるというだけで、闇奴隷への転落の危険は常につきまとう。
あの奴隷姉妹の姿は、葉芍のような境遇の女にとって、明日かもしれない姿だった。
葉芍は、ふたりから目をそらした。
人混みを抜け、静かに市を離れる。
河清たちは、まだ金入れを盗まれたことに気づいていないのか、騒ぎ出す気配もなかった。
追ってくる者の姿もない。
葉芍は、そのまま家路についた。