「な、なぜ、あたしの名を?」
あまりの衝撃に、
宋江が、口元に笑みを浮かべた。
「俺を見くびるな。警尉官だ。蛇の道に通じている。お前らのやってきたことなど、調べはついている。大きな悪に比べれば、ずっと小さい。貧しい者を狙わず、相手は懐に余裕のある者ばかり──それゆえに、見逃していた。だが、もうやるな。それだけだ。俺が知っていることを、忘れるな」
葉芍は、言葉を失った。
城郭の秩序を司る官吏が、自分のような虫けらを知っている。そればかりか、何度も盗みに入っていたことすら承知していて──しかも、目をつぶっていたとは。
「あ、あたしを捕らえないのですか……?」
「盗みは、もうやるな。それだけだ。仲間の少年のことは、気の毒だった。だが、河清たちを捕らえることはできん。貧民街の者を殺しても、罰金を払えば釈放だ。無罪放免ではないが、それに近い」
「あっ、はい……」
「それに、裁判官に賂を渡せば、無罪になる。そんなことに時間を費やすより──河清を捕らえれば、仲間を殺されたお前の方が逆に罪を問われる。怒りは当然だ。だが、せめてもの詫びと思ってくれ」
宋江が、金入れを差し出した。河清から取りあげたものだ。
「……この金は持っていけ。
「明ちゃんの名も……知っていたのですか?」
葉芍の声が震えた。同時に、両眼から涙が溢れた。
誰にも知られず、誰にも顧みられぬまま死んでいった仲間だ。だが、その名を覚えてくれている者がいた──。
偉い役人が、名前を知っていてくれた。それだけで、張明も、ほかの死んだ仲間たちも報われる気がした。
「……ありがとうございます」
葉芍は、裸の身体を両腕で抱き、深々と頭を下げた。涙は止まらなかった。
嬉しかった。ただ、それだけだった。
名を覚えられていたという、それだけのことで、魂が揺れた。
「参ったな……。そんなに泣かれても困る。上等なことなど、していない。俺は面倒が嫌いなだけだ。捕まえれば、書類を書かねばならん。裁判にも出ねばならん。それが嫌で、たちの悪くない者は放っておくだけだ」
宋江は頭を掻いた。
「いえ……ありがとうございます。こ、こんな虫けらのような、あたしたちの名を……知っていてくれて……それだけで、もう……死んでもいいくらいです……」
「怒ってもいいのだぞ」
宋江の声が、わずかに苛立ちを帯びた。
「俺は、お前の仲間を殺した者を知りながら、見逃した。それを責める資格は、お前にある」
「そ、そんな……。ただ、嬉しいんです。生きる価値などないあたしたちのことを、見てくれていた人がいた……。あたしたちみたいな者のことを……」
葉芍の声は、涙に濡れていた。
「生きる価値もないなどと、二度と言うな」
宋江が怒ったように言った。
「人は誰でも、生きる価値がある。お前も、俺も、河清のような馬鹿息子も、皆同じだ。人間だ」
「えっ?」
葉芍は顔を上げた。
──同じ、人間?
なにを言っているのか、わからなかった。役人の宋江や河清と、自分たちが同じなど……。
「同じって……?」
葉芍の首が、自然と傾いた。
理解しようとしていた。だが、わからなかった。あたしたちと、彼らが、同じ人間──?
そんな理屈は、葉芍の中にはなかった。
彼女は、きょとんとした顔をしていた。宋江が、深く息を吐いた。
「……まあいい。だが、お前はきちんとした話し方もできるし、礼儀作法も備えている。親がいないのに、誰に教わった?」
「さ、作法……? さあ……」
葉芍の視線が、宙を彷徨った。
教わったことなどなかった。だが、最初の首領だった少年、次の首領だった少女──橋の下団の先輩たちは、厳しく教えた。他人との接し方。言葉の選び方。
あれが“作法”というものだったのだろうか。
「まあ、それもいい。結果的に、礼を知っているのは悪くない。人が獣でなく、人である証だ。将来、役に立つ」
宋江はそう言い残し、廃屋を出ていった。
葉芍は、破かれた衣服を手繰り寄せた。身体を隠すには足りたが、着るにはもう使いものにならなかった。
どう帰ればいいのか、そもそも帰る場所があるのか──ぼんやりと考えた。
あの橋の下の小屋に戻るしかないだろう、とは思った。だが、もう戻ってどうするのか、そんな思いも胸をよぎっていた。
──待っていろ。
宋江が言った言葉を、ただ信じていた。逃げようとは思わなかった。
目の前には、河清の金入れが置かれたままだ。手をつけようとはしなかった。
しばらくして、宋江が戻ってきた。ひとりの老婆を連れていた。
「よく逃げなかったな、葉芍」
微笑んだ宋江の声に、胸が熱くなった。理由はわからなかった。けれど、宋江の前に立つと、心が浮き立つ。
不思議な高揚が、全身を満たしていた。
「さっき話した葉芍という娘だ。頼む、面倒を見てやってくれ、
老婆は王婆という名だった。葉芍は頭を下げた。
「また厄介事を拾ったな、宋江さん……。まあ、引き受けましょう。それにしても、お前も運がいい。こんな奇特な役人さんに当たるとはな。縁というものじゃろうよ……」
王婆が、町娘風の衣を差し出した。粗末だが、着られる服だった。
「それを着るといい。いつまでも裸のままでは、宋江の旦那の眼の毒じゃ。あんたみたいな器量よしは特にな……。清廉を装ってるが、あの人も案外、好色じゃ。気をつけることだね」
「くだらんことを言うな、王婆。俺のことはいい。この娘のことだ。頼んだぞ」
宋江が顔を赤らめながら言った。
「なにを照れてるんだか……。色好きで、女房にも逃げられたってのに。今は男やもめで、女には苦労しておるじゃろう?」
「苦労などしておらん。娼館に行けば、金を払って好きにできる……って、いや、なんの話をしてるんだ。俺はいい。この葉芍のことを頼んだぞ」
葉芍の胸の鼓動が早くなる。落ち着かなかった。
宋江に背を向けて、服を身にまとった。
「葉芍、この王婆が、お前の身の振り方の世話をしてくれる。住まいも、仕事も。お前のことは話してある。心配いらん。何ができるかは知らんが、相談してみるといい。この女は、面倒見がいい」
「まあ、宋江の旦那様の紹介だから、ちゃんと扱うがのう……。世話好きなどと、言われるとむず痒いわい。こんな娘っ子の身元を引き受ける役人など、そうはいない。物好きにもほどがある」
「物は言うべし、世話はするべしだ。悪さを止めろと説くだけでは駄目だ。生きる手立てを与えねば、役人の務めではない。悪さをするのは、そうするしかなかったからだ。罪は、この世にある」
「はいはい、またそれだよ。宋江さんの、世の仕組みが悪いって持論。まあ、いいさ。あんたが言うなら、引き受けよう。保証人があんただって言えば、どこでも通るだろう」
「じゃあ、そういうことだ、葉芍。この王婆に相談しろ。問題が起きたら、俺のところに来ればいい」
そう言って、宋江は出ていった。
葉芍は、呆然としていた。目の前で起こったことが、信じられなかった。
助けられた。捕らえられることもなく、しかも世話人まで付けられた。
面倒が嫌いだと言いながら、損にもならぬことに力を注ぐ──あれが、本当に面倒嫌いの人間なのだろうか。
礼も満足に言わず、行かせてしまったことが悔やまれた。
「さて、どうするかのう。お前の名は葉芍だったな。素性は聞いておる。面倒は見る。だが、これだけは言っておくぞ。あんたは宋江さんの紹介なのだ。おかしな真似をすれば、宋江さんの顔に泥を塗る。それだけは、肝に銘じておくのだ」
「宋江様には、絶対に迷惑をかけません。本当です。誓います」
葉芍は、慌てて口にした。王婆が満足そうに笑った。
驚きばかりだった。あの宋江という男──一体、何者なのだろう?
どうして、捕らえず、助けてくれたのだ?
「……あ、あたしの面倒を見るって、あれは本気なんですか? あたしは橋の下の子供ですよ?」
王婆が笑った。
「本気じゃなくてどうするのじゃ。世話賃は宋江さんからもらっておる。だから、礼などいらぬ。安心せい。ところで、河家の連中にやられたと聞いたが、その様子じゃ、大丈夫そうじゃな」
「こんなもの……避妊薬は飲んでますから」
「その意気じゃ。心が折れておるかと案じたが、橋の下の子は強い。悪い意味ではないぞ。心の芯が太いのは、良いことだ」
「大丈夫です。犯されたぐらい、拭けば済みます」
「ならばよい。時勢が時勢だからな……。見てくれが良いというのは、女としては得もあり、損もある。だが、お前なら大丈夫じゃ」
王婆は、しみじみと言った。
「……あ、あたし、見てくれがいいですか……? つまり、女として?」
「器量は良い方だ。今は顔も髪も汚れとるが、磨けば光る。悪い話ではないぞ。お前が嫌でなければ、どこかのすけべ爺の妾という道もある。なにもしなくても食っていける」
「妾ですか……」
「嫌か?」
「嫌ではないですけど……あたしなんかが、誰かの妾に……?」
「なれるとも。それだけの器量はある。お前がその気なら、本当に探してやる。わしは、そういう仲立ちも得意なのじゃ。素性が橋の下の子だってのが少し難だが、話しぶりを聞く限り、ばれやせん。任せておけ。良いところを紹介してやる」
その言葉で、葉芍の腹は決まった。
自分の望みを、口にする覚悟が、生まれていた──。
「……あたし、ひとつだけ願いがあります」
葉芍は、ゆっくりと顔を上げて言った。王婆が目を細めた。
──いま、ここから。なにかが始まる。
そう思えた。
葉芍は、勇気をだして、口を開いた。