※この作品はR-18です。

水滸伝艶義   作:ドン・ドナシアン

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19  橋の下の葉芍、宋江の施しを受ける

「な、なぜ、あたしの名を?」

 

 あまりの衝撃に、葉芍(はしゃく)の口から出たのは、それだけだった。

 宋江が、口元に笑みを浮かべた。

 

「俺を見くびるな。警尉官だ。蛇の道に通じている。お前らのやってきたことなど、調べはついている。大きな悪に比べれば、ずっと小さい。貧しい者を狙わず、相手は懐に余裕のある者ばかり──それゆえに、見逃していた。だが、もうやるな。それだけだ。俺が知っていることを、忘れるな」

 

 葉芍は、言葉を失った。

 城郭の秩序を司る官吏が、自分のような虫けらを知っている。そればかりか、何度も盗みに入っていたことすら承知していて──しかも、目をつぶっていたとは。

 

「あ、あたしを捕らえないのですか……?」

 

「盗みは、もうやるな。それだけだ。仲間の少年のことは、気の毒だった。だが、河清たちを捕らえることはできん。貧民街の者を殺しても、罰金を払えば釈放だ。無罪放免ではないが、それに近い」

 

「あっ、はい……」

 

「それに、裁判官に賂を渡せば、無罪になる。そんなことに時間を費やすより──河清を捕らえれば、仲間を殺されたお前の方が逆に罪を問われる。怒りは当然だ。だが、せめてもの詫びと思ってくれ」

 

 宋江が、金入れを差し出した。河清から取りあげたものだ。

 

「……この金は持っていけ。張明(ちょうめい)の棺桶代にして、仲間を弔ってやれ。町役には話してある。屍体は、もう引き取っていい。共同墓地へ運ぶために人足が要るなら、頼めば出してくれる」

 

「明ちゃんの名も……知っていたのですか?」

 

 葉芍の声が震えた。同時に、両眼から涙が溢れた。

 誰にも知られず、誰にも顧みられぬまま死んでいった仲間だ。だが、その名を覚えてくれている者がいた──。

 偉い役人が、名前を知っていてくれた。それだけで、張明も、ほかの死んだ仲間たちも報われる気がした。

 

「……ありがとうございます」

 

 葉芍は、裸の身体を両腕で抱き、深々と頭を下げた。涙は止まらなかった。

 嬉しかった。ただ、それだけだった。

 名を覚えられていたという、それだけのことで、魂が揺れた。

 

「参ったな……。そんなに泣かれても困る。上等なことなど、していない。俺は面倒が嫌いなだけだ。捕まえれば、書類を書かねばならん。裁判にも出ねばならん。それが嫌で、たちの悪くない者は放っておくだけだ」

 

 宋江は頭を掻いた。

 

「いえ……ありがとうございます。こ、こんな虫けらのような、あたしたちの名を……知っていてくれて……それだけで、もう……死んでもいいくらいです……」

 

「怒ってもいいのだぞ」

 

 宋江の声が、わずかに苛立ちを帯びた。

 

「俺は、お前の仲間を殺した者を知りながら、見逃した。それを責める資格は、お前にある」

 

「そ、そんな……。ただ、嬉しいんです。生きる価値などないあたしたちのことを、見てくれていた人がいた……。あたしたちみたいな者のことを……」

 

 葉芍の声は、涙に濡れていた。

 

「生きる価値もないなどと、二度と言うな」

 

 宋江が怒ったように言った。

 

「人は誰でも、生きる価値がある。お前も、俺も、河清のような馬鹿息子も、皆同じだ。人間だ」

 

「えっ?」

 

 葉芍は顔を上げた。

 

 ──同じ、人間?

 なにを言っているのか、わからなかった。役人の宋江や河清と、自分たちが同じなど……。

 

「同じって……?」

 

 葉芍の首が、自然と傾いた。

 理解しようとしていた。だが、わからなかった。あたしたちと、彼らが、同じ人間──?

 そんな理屈は、葉芍の中にはなかった。

 彼女は、きょとんとした顔をしていた。宋江が、深く息を吐いた。

 

「……まあいい。だが、お前はきちんとした話し方もできるし、礼儀作法も備えている。親がいないのに、誰に教わった?」

 

「さ、作法……? さあ……」

 

 葉芍の視線が、宙を彷徨った。

 教わったことなどなかった。だが、最初の首領だった少年、次の首領だった少女──橋の下団の先輩たちは、厳しく教えた。他人との接し方。言葉の選び方。

 あれが“作法”というものだったのだろうか。

 

「まあ、それもいい。結果的に、礼を知っているのは悪くない。人が獣でなく、人である証だ。将来、役に立つ」

 

 宋江はそう言い残し、廃屋を出ていった。

 

 葉芍は、破かれた衣服を手繰り寄せた。身体を隠すには足りたが、着るにはもう使いものにならなかった。

 どう帰ればいいのか、そもそも帰る場所があるのか──ぼんやりと考えた。

 あの橋の下の小屋に戻るしかないだろう、とは思った。だが、もう戻ってどうするのか、そんな思いも胸をよぎっていた。

 

 ──待っていろ。

 

 宋江が言った言葉を、ただ信じていた。逃げようとは思わなかった。

 目の前には、河清の金入れが置かれたままだ。手をつけようとはしなかった。

 しばらくして、宋江が戻ってきた。ひとりの老婆を連れていた。

 

「よく逃げなかったな、葉芍」

 

 微笑んだ宋江の声に、胸が熱くなった。理由はわからなかった。けれど、宋江の前に立つと、心が浮き立つ。

 不思議な高揚が、全身を満たしていた。

 

「さっき話した葉芍という娘だ。頼む、面倒を見てやってくれ、王婆(おうば)」

 

 老婆は王婆という名だった。葉芍は頭を下げた。

 

「また厄介事を拾ったな、宋江さん……。まあ、引き受けましょう。それにしても、お前も運がいい。こんな奇特な役人さんに当たるとはな。縁というものじゃろうよ……」

 

 王婆が、町娘風の衣を差し出した。粗末だが、着られる服だった。

 

「それを着るといい。いつまでも裸のままでは、宋江の旦那の眼の毒じゃ。あんたみたいな器量よしは特にな……。清廉を装ってるが、あの人も案外、好色じゃ。気をつけることだね」

 

「くだらんことを言うな、王婆。俺のことはいい。この娘のことだ。頼んだぞ」

 

 宋江が顔を赤らめながら言った。

 

「なにを照れてるんだか……。色好きで、女房にも逃げられたってのに。今は男やもめで、女には苦労しておるじゃろう?」

 

「苦労などしておらん。娼館に行けば、金を払って好きにできる……って、いや、なんの話をしてるんだ。俺はいい。この葉芍のことを頼んだぞ」

 

 葉芍の胸の鼓動が早くなる。落ち着かなかった。

 宋江に背を向けて、服を身にまとった。

 

「葉芍、この王婆が、お前の身の振り方の世話をしてくれる。住まいも、仕事も。お前のことは話してある。心配いらん。何ができるかは知らんが、相談してみるといい。この女は、面倒見がいい」

 

「まあ、宋江の旦那様の紹介だから、ちゃんと扱うがのう……。世話好きなどと、言われるとむず痒いわい。こんな娘っ子の身元を引き受ける役人など、そうはいない。物好きにもほどがある」

 

「物は言うべし、世話はするべしだ。悪さを止めろと説くだけでは駄目だ。生きる手立てを与えねば、役人の務めではない。悪さをするのは、そうするしかなかったからだ。罪は、この世にある」

 

「はいはい、またそれだよ。宋江さんの、世の仕組みが悪いって持論。まあ、いいさ。あんたが言うなら、引き受けよう。保証人があんただって言えば、どこでも通るだろう」

 

「じゃあ、そういうことだ、葉芍。この王婆に相談しろ。問題が起きたら、俺のところに来ればいい」

 

 そう言って、宋江は出ていった。

 葉芍は、呆然としていた。目の前で起こったことが、信じられなかった。

 助けられた。捕らえられることもなく、しかも世話人まで付けられた。

 面倒が嫌いだと言いながら、損にもならぬことに力を注ぐ──あれが、本当に面倒嫌いの人間なのだろうか。

 礼も満足に言わず、行かせてしまったことが悔やまれた。

 

「さて、どうするかのう。お前の名は葉芍だったな。素性は聞いておる。面倒は見る。だが、これだけは言っておくぞ。あんたは宋江さんの紹介なのだ。おかしな真似をすれば、宋江さんの顔に泥を塗る。それだけは、肝に銘じておくのだ」

 

「宋江様には、絶対に迷惑をかけません。本当です。誓います」

 

 葉芍は、慌てて口にした。王婆が満足そうに笑った。

 驚きばかりだった。あの宋江という男──一体、何者なのだろう?

 どうして、捕らえず、助けてくれたのだ?

 

「……あ、あたしの面倒を見るって、あれは本気なんですか? あたしは橋の下の子供ですよ?」

 

 王婆が笑った。

 

「本気じゃなくてどうするのじゃ。世話賃は宋江さんからもらっておる。だから、礼などいらぬ。安心せい。ところで、河家の連中にやられたと聞いたが、その様子じゃ、大丈夫そうじゃな」

 

「こんなもの……避妊薬は飲んでますから」

 

「その意気じゃ。心が折れておるかと案じたが、橋の下の子は強い。悪い意味ではないぞ。心の芯が太いのは、良いことだ」

 

「大丈夫です。犯されたぐらい、拭けば済みます」

 

「ならばよい。時勢が時勢だからな……。見てくれが良いというのは、女としては得もあり、損もある。だが、お前なら大丈夫じゃ」

 

 王婆は、しみじみと言った。

 

「……あ、あたし、見てくれがいいですか……? つまり、女として?」

 

「器量は良い方だ。今は顔も髪も汚れとるが、磨けば光る。悪い話ではないぞ。お前が嫌でなければ、どこかのすけべ爺の妾という道もある。なにもしなくても食っていける」

 

「妾ですか……」

 

「嫌か?」

 

「嫌ではないですけど……あたしなんかが、誰かの妾に……?」

 

「なれるとも。それだけの器量はある。お前がその気なら、本当に探してやる。わしは、そういう仲立ちも得意なのじゃ。素性が橋の下の子だってのが少し難だが、話しぶりを聞く限り、ばれやせん。任せておけ。良いところを紹介してやる」

 

 その言葉で、葉芍の腹は決まった。

 自分の望みを、口にする覚悟が、生まれていた──。

 

「……あたし、ひとつだけ願いがあります」

 

 葉芍は、ゆっくりと顔を上げて言った。王婆が目を細めた。

 ──いま、ここから。なにかが始まる。

 そう思えた。

 葉芍は、勇気をだして、口を開いた。

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