「お前を下女にすることはできん」
「……は、はい……。わかりました……。申し訳ありませんでした……。橋の下の娘が、お役人様の家の下女になろうなどと、大それたことを考えてすみませんでした」
そう言って、葉芍は深く頭を垂れた。
その背に、微かに震える気配があった。肩を震わせながらも、目尻に涙が溜まっていくのが見えた。
宋江は、小さく嘆息した。こいつは、本気だった──。
ただの恩返しではない。心の奥底から、自分に仕えたいと願っていたのだ。
それを察していたからこそ、
だが、言っておかなければならないことがあった。
「橋の下の出でも、そんなことは関係ない。問題は、俺が男で、お前が若くて綺麗な娘だということだ。男がひとりで暮らしているところに、そんな娘を住まわせるわけにはいかん。俺にも理性というものがある。だが、いつまでもそれが保てるとは限らん」
そう言った宋江の言葉に、葉芍が何かを言いかけた瞬間、王婆がけたたましく笑った。
「間違いがあっても、なあに、なんの問題もないわい。この娘も、それを望んでおるんじゃ。それよりも、宋江さん。あんたがこの歳までひとり者というほうが、よっぽど不自然じゃ。役人ともなれば、甲斐性もある。気の毒な娘のひとりやふたり、囲ってやる余裕があってもいいじゃろう」
「おい、王婆──」
声をかける暇もなく、王婆は一歩前に出て、葉芍に言った。
「葉芍や、お前も、宋江さんに抱かれることについて、嫌な気持ちはないのじゃろ? あれだけ嬉しそうに化粧までして来たのじゃ。ほれ、ちゃんとお願いせんか」
「はいっ」
葉芍が即座に返事をし、膝をついて床に手をついた。
「この通りです。このあたしに、宋江様のお世話をさせてください」
その声は震えていたが、意志は明確だった。
宋江は、言葉を失っていた。
王婆の押しの強さには、いつものことながら困らされる。だが、今回ばかりは、少し度を越している。わかっているはずなのだ。自分には、他人に明かせぬ性癖があることを。
それを知った上で、なおも押しつけるように話を進めてくるとは。
「よし、わかった。まあ、この王婆に任せておくがいいわ。絶対に、お前と宋江さんを結びつけてやるからのう……。もしかしたら、妾というのが抵抗あるかと思って、下女という形にして話を持ってきたが、とにかく、葉芍を引き取ってやってくれんか。これも縁というもんじゃ」
王婆は、そう言って一歩引いた。
葉芍が顔を上げた。
視線の先にあるのは宋江だ。
頬を赤らめ、何かを期待するようなまなざしを向けてくる。
「こ、こらっ、王婆。押しつけはよくないぞ。男と女のことは、そう簡単にはいかんのだ」
怒鳴るというより、言い聞かせるような調子だった。
王婆は知っている。宋江が、女を縛らなければ欲情できないという性分であることを。だから、最初の婚姻もうまくいかなかったのだ。
「なにが押しつけじゃ。好色者のくせに、清廉なふりをするでない。わしはこの三日間、ずっとこの娘と一緒におったんじゃ。それでようわかった。この娘は、健気で、まっすぐで、いい娘じゃ。なんにも考えんと話を持ってきたわけではない」
「王婆よ……」
ため息と共に名を呼んだ宋江に、王婆はにやりと笑って言った。
「ちと、もよおしてきたわい。外で長く待たされたからの。厠を借りますぞ。それに、葉芍にも場所を教えておかねばならん。ちょっと、ついてこい」
そう言って、王婆は葉芍を連れて部屋を出ていった。
──静寂が戻る。
宋江は、独りになると、机の上に肘をついて考え込んだ。いま、どういう立場にいるのか。どう動けばいいのか。
葉芍が自分を慕っている──。それは、否応なく伝わってきた。ただの感謝以上の、情のようなものを感じる。
だが、宋江には覚悟がある。
もう誰とも、深く交わるつもりはない。
特に、素人の女など、もってのほかだ。二度と、あの地獄を繰り返すわけにはいかない。
──最初の妻との、あの失敗。
女を縛らねば、身体が反応しない。そんな異常性を持つ自分に、妻は侮蔑と恐怖の目を向けた。
縛られることを嫌がる妻を前に、宋江は一度もまともに抱くことができなかった。
やがて、妻の目は冷たくなり、宋江の存在そのものを拒絶するようになった。宋江は、それを受け入れるしかなかった。
妻は、宋江が留守の間に、家に別の男を引き入れるようになった。
宋江には、それがわかっていた。だが、知らぬふりを通した。娼館であれば金で女の了解を得られる。余計な情もない。縛ることもできる。だから、娼館に通っていた。正直な話、それで済むと思っていた。
──あの日までは。
その日、宋江は夜勤明けで、予定より早く家に戻れた。だが、妻にはそのことを伝えていなかった。いや、伝えたつもりでいて、伝えていなかった。
扉を開けた瞬間、すべてが終わった。
寝室にいたのは、裸のまま獣のように絡み合う妻と間男だった。
見てはいけないものを見た、という感情はなかった。ただ、動けなかった。
女の裏切り。されど、それは自業自得だという自覚が、宋江の中には確かにあった。
妻は宋江に気づくと、狂ったように怒りをぶつけてきた。恥じることもなかった。怒鳴った。罵った。異常者だと。変態だと。
──お前のせいで、私は不幸になったのだ、と。
それは、事実だった。女をまともに抱けない男が、女を妻にしたことが間違いだったのだ。
翌日、妻は間男とともに、家中の金目の物を持って消えた。家財も、名誉も、なにもかも失われた。
あの地獄を、もう一度見るつもりはなかった。
それが、宋江が誰とも深く関わらぬと決めた理由だった。
──そう、自分に言い聞かせてきた。
だが、葉芍と王婆が部屋を出てから、ずいぶんと時間が経っていた。いくらなんでも長すぎる。
厠に行っているにしては遅い。
見に行くべきか、それとも……。
迷っていたところに、扉が開いた。
現れたのは、葉芍だけだった。
顔は真っ赤に染まり、額には汗が浮かんでいる。
「王婆は、どうした?」
宋江が問うと、葉芍は戸惑いながら答えた。
「あ、あのう……。戻られました……」
「戻った? だったら、なぜ……」
言いかけて、宋江は悟った。
──王婆は、葉芍を置いていったのだ。
つまりは、王婆が仕組んだのだ──。
葉芍をひとり残して、宋江に判断を迫った。
宋江は、小さく息を吐いた。言わねばならなかった。自分の、どうしようもない本性を。
女を縛らなければ、欲情が湧かない。そうでなければ、一物が役に立たない。
それを知った女たちは、皆、怯え、去っていった。
──それでいい。そうなることを望んでいた。
「座れ、葉芍。お前に話しておきたいことがある」
「は、はい……」
葉芍は、王婆の座っていた椅子に腰を下ろした。まだ若さの残る顔立ちだったが、目だけは真剣だった。まっすぐに宋江を見ていた。
宋江は言い淀んだ。言葉が、喉にひっかかるように出てこない。
「実はなあ……」
そこで、葉芍が先に口を開いた。
「そ、宋江様……。あの……。あたしを調教してくれませんか。し、縛っても構いません」
言葉を終えたとたん、葉芍は椅子を離れ、膝をついて、宋江の足元に身を沈めた。
あまりのことに、宋江は動けなかった。
王婆の差し金──そう悟った。
老婆は、宋江の性癖を葉芍に伝えた。そして、縛られたいのならば、どうすべきかまで教えたのだ。
葉芍は、何も言わずに手首を前に差し出していた。
「い、いや、葉芍……」
「か、構いません。好きなように扱っていただいていいです。どうか、お願いします。あたしをここに置いてください。なんでもします……。どんなことでもいいつけてください。掃除でも、洗濯でも、食事の支度でも全部できます。も、もちろん、せ、性のお相手も……。縛られて抱かれることはなんの問題もありません。宋江様がそれで悦んでくれるなら、それで満足です。身体に飽きたら捨ててもらっても恨みません。どうか、少しのあいだだけでも、この家で暮らして恩を返すことを許してください。あ、あたしは、こんな女ですからこんなことしかできませんが、どうか縛ってください──」
葉芍は、一気に早口で喋った。
「俺は一度始めたら、歯止めが効かんぞ、葉芍……。人が変わったように、鬼畜になると思う。──本当に縛られて、抱かれてもいいのか? 残酷で、冷酷で、お前が泣き叫ぶようなこともやるかもしれん。俺は、そういうことでしか、女を抱けんのだ。それでも、お前は……」
「は、はい……。う、嬉しいです……。こ、怖いですけど……、嬉しいです……」
葉芍は、差し出したままの両腕を下ろさなかった。
宋江は、ゆっくりと立ち上がった。
ここまで言わせておいて、手を引くのは無礼だ。女の覚悟に向き合わず、自分だけが怯むのは卑怯というものだった。
「縄を取ってこよう。戻るまでに、素っ裸になっていろ。──これが最後の機会だ。戻ったときにお前が裸でなければ、それで終わりにする。もう二度と、俺の女になろうとは思わんことだ」
「そ、宋江様の女? も、もちろん、服を脱いで待っております。でも……立派なお役人様の女など……そんな大それたことは……あ、あたしは、ただ……」
葉芍が慌てたような声を漏らしたが、宋江はそれに応えず、部屋を出た。
娼館通いのころから使っていた縄は、寝室の隠し棚に仕舞ってある。戸棚の一部を横にずらすと、そこに現れる収納だ。
そこには、宋江が蒐集してきた品々が、整然と並べられていた。道具は種類ごとに分けられ、手入れも行き届いている。
宋江は、その一角にある木箱を手に取った。中には、使い慣れた麻縄が数本、丁寧に巻かれている。
だが、視線はそこで止まらなかった。
目を奪われたのは、その隣の小箱だった。
――媚薬。
掌に収まるほどの容器に入った、それを宋江は手に取った。
使ったことはない。使う必要もなかった。だが、いまは違う。
こんな機会は二度と来ないかもしれない。
宋江は、もう一度棚を見渡した。
そこには、さまざまな責め具が収められていた。
──それを、本当に使う日が来るのか。
葉芍が、あのまま裸になっていたら──すべてが現実になる。
宋江は、自分の中にあるものを見つめ直していた。いままで娼婦にさえ使うことをためらった道具たちを、少女の身体に使おうとしている。
そのことに、罪悪感と興奮が入り混じる。
宋江は、縄と小瓶を手にし、棚の前にしばらく佇んだ。
使わぬと決めていた責め具を、本当に使うのか──。それが現実になりかけていた。
いま戻れば、葉芍がどう待っているかを目にすることになる。
それが、すべてを決める。
宋江は、足を踏み出した。寝室を出て、客間の前に立った。手には、縄。もう片手には小瓶。
扉を開けた。