28 史春、元婚約者の李吉を足蹴にする
「力の弱い女が、力の強い男を一対一で倒す方法は、そう簡単には見つからないわ。じゃあ、どうする? 暗がりで暴漢に抱きすくめられ、服を破られ、下着を剥がされ、身体を押さえつけられ、男の肉棒が股間にねじ込まれそうになったときは?」
定期的に開かれる武術教室だった。今日は女だけの日だ。
史春は女である。
だが、腕は村でも随一 ──いや、このあたり一帯でも敵う者はいないと評判だった。幼いころから武術の師につき、父の屋敷で鍛え抜かれた。鍛錬を重ね、ようやくここまで来た。強くなった自分ひとりだけが誇らしくても、村の盾にはならない。
だから教えている。
男も、女も、すべてに武術を教え込んでいる。
それが、史華村《しかそん》という農村の掟になっていた。
十日に一度、半日を使っての訓練だ。
名主となった史春の命によるものだった。
この時代、賊徒が各地に群れを成していた。西には、少華山《しょうかざん》という峰があり、そこには
守る者がいなければ、村は蹂躙される。
史春は、父が生きていた頃から村に自警団を組織させ、武術を教え、警戒を怠らせなかった。
その成果があったのか、少華山の賊徒がいまだ史華村には手を出してこない。
狙うならば、無防備な村を狙うのが賊の習いだ。自警団がいる村は、襲撃に犠牲がかかる。
賊徒も馬鹿ではないのだ。
税も然りだった。
父は、役人の扱いを心得ていた。賂も使えば、隠し畠も作った。村にとって必要なことだった。
その父が、病で死んで三箇月──。
喪の期間が過ぎ、史春はようやく、ふたたび女たちの前に立った。
父の死は予期されたものだった。
歳を重ね、医師には余命を告げられていた。
けれども、実際に失ってみて、ようやく気づいた。
この世で唯一無二の存在だったと──。
父は五十のときに、ふたり目の妻を迎えた。
その女が産んだのが史春である。
美しい女だったと、いまでも村人の口にのぼる。
だが、娘を産んですぐに亡くなった。
その哀しみが深かったのだろう。父は、それから妻を娶らず、史春ひとりに愛情を注いだ。
望むものは、なんでも与えてくれた。
学問を求めれば師を呼び、武術を望めば、女であろうと一流の武術家を屋敷に呼び寄せてくれた。
頬に手を当てながら言っていた。
「お前は母にそっくりだ」と。
その父の死後、史春は村の名主となった。
名主の任命は形式上、県令の権限による。
だが、実際には村が推した者が、そのまま任命される。
すでに父が、すべての手続きを済ませていた。
賂も用意していた。
──お前が名主になれ。
それが、父の遺志だった。
女が名主になるなどということは、この辺りでは前例のないことだった。だが、史春は違った。
父の死から数日後、役人が屋敷を訪れた。
巻物に印を押し、淡々とした声で言った。
本日をもって、史春殿を史華村名主と任ずる──。
史春は、父から言われていた通りに、用意してあった包みを役人に渡した。
それだけで、すべてが動いた。
名主となれば、年ごとの税を取りまとめ、役所に納めねばならない。
戦や飢饉があれば、兵や物資の提供を求められる。
だが、それはすべて、村を守るための代償でもあった。
三箇月の喪が明けて、久しぶりの武術教室だった。
史春は息を吐いて、娘たちに向き直った。
汗が額に滲んでいる。だが、目は鋭く、声に力があった。
「さあ、答えてごらん。あんたはいま、襲われている。どうやって反撃する?」
史春は、前列にいたひとりの娘を指さした。おそらく、今日が初めての参加だろう。口を開いた娘は、きょとんとしながらも、はきはきと答えた。
「はい。ここで武術を学んで、暴漢を退治します」
「そうね。でも、技を学ぶには時間がかかるわ。あたしが言っているのは“いま”の話よ。いますぐ、どうするか」
娘は言葉を詰まらせた。
周囲の娘たちは、半分ふざけたように笑い声を漏らす。
史春は、声を低くして言った。
「男には、誰にも共通の急所がある。睾丸よ。ぶら下がっているあれを、力の限り潰すの。一発でね。中途半端じゃ駄目。反撃されて、殺されるわよ。だから、今日は“睾丸打ち”の稽古をするわ」
家人を呼び、練習用の人形を持たせる。
藁と革布で作った人形には、ちゃんと肉棒と睾丸にあたる部位も作り込んである。
娘たちが、きゃあきゃあと声をあげた。
史春は無表情のまま、それを無視した。
二人の熟練の女を前に出す。
このふたりは史春の助手として、普段から稽古の補助をしている。
「見本を示して」
ひとりが、気合いを込めて叫んだ。
「きえええ──」
人形の腰に抱きつき、膝で股間を打ち据える。
二度、三度、連打。
最後には、手で睾丸の部位を握り潰した。
教場の雰囲気が一変した。
「次──」
もうひとりの女も、叫びながら人形に跳びかかる。
喉を掴み、前のめりにさせたところで、膝を突き上げる。
三発、四発、そして睾丸をひねり潰した。
娘たちは沈黙した。
史春は声を張った。
「ためらうな。手加減するな。敵を殺すつもりで撃ち込むのよ。それができなければ、殺されるだけ。──わかった?」
娘たちの返事が、どっと響いた。
そのときだった。
史春の視線が、中庭の端にとまった。
血が引くような感覚が史春の胸を打った。
さきほどまで稽古の熱で昂ぶっていた気持ちが、氷水を浴びせられたように冷えた。
「皆、順に人形で稽古を続けて。今日は睾丸打ちを重点に、構え、踏み込み、打ち込み──すべて見直してもらうわ。二人とも、頼んだわ」
助手に言い残し、史春は李吉の方へと歩き出した。
李吉は、史春の歩みに気づくと、髪を整えながら優雅に頭を下げた。
「やあ、史春。……改めて、お父上のご逝去、お悔やみ申し上げるよ」
涼しげな声音、白い顔。女のように整った容貌。
史春がかつて心を寄せた男であり、隣村の名主の三男坊。かつては婚約者だった。
「話があるんだ。屋敷にあげてもらえないか?」
「断るわ」
史春はきっぱりと言い放った。
「あたしには、話すことはなにもない。婚約の話はすでに終わった。父が生前に手紙を出し、あんたの家も了承したはずよ。いい加減に付きまとうのはやめて」
娘たちの視線を感じ、史春は李吉を脇へと誘導した。物陰に入ると、李吉が低い声で言った。
「史春のお義父さんは、俺のことを誤解していたと思う。誤解を解く前に亡くなってしまったのが、残念でならない……」
「言い訳なんて要らない。父は、誤解なんてしていなかった。あたしも同じ。手紙に、全部書いたわ。たくさんの女と、仲良くしていればいいじゃない。あたしのことは、忘れてくれてかまわない。それと、役所はあたしを名主として正式に認めたわ。あんたがあたしと結婚して名主になることなんて、父は望んでいなかった。父が本当に望んでいたのは、娘のあたし自身が名主になることだったのよ」
李吉が苦笑いを浮かべる。
「遊びだったんだよ、あれは。ほんの出来心でね。本気じゃない。愛しているのは、君だけだ。……それに、名主なんて重荷を、女に背負わせるのは酷だよ。男のほうが──」
言いかけた李吉の手が、史春の肩に伸びた。
「触るな」
冷たく、刃を突きつけるような声。
李吉の顔が強張った。
史春は続ける。
「誰と付き合おうが勝手よ。でもね──いい噂は聞かないわ。女を騙して妓楼に売り飛ばしているって話もある。もし、あたしの村の娘に手を出したら、村を守る棒が黙っていない。あたしがその棒を持って、あんたの村まで乗り込むわ。その口に叩き込んでやる。──二度と、この村に来ないことね。これは最後通告よ」
李吉は、作り笑いを浮かべて言った。
「おい……脅すなよ、史春」
「ほ、ん、き、よ」
史春がにやりと笑った。
李吉の顔から血の気が引いた。
李吉は、しばらく口を噤んだまま、史春の顔を見ていた。だが、その目に浮かんでいた怯えは、次の瞬間、憤りに変わった。
「そ、そんな勝手が通ると思ってるのか、史春──。一方的すぎる。俺はお前と婚約して、この村の名主になる予定だった。それが手紙一枚で、すべて終わらせるなんて酷すぎるじゃないか」
史春は一歩踏み出して、李吉に睨みを利かせた。
「酷い? 酷いのはどっちよ。あたしと結婚する気もないくせに、女を手当たり次第に漁ってたあんたが? 口先で愛を語っておきながら、やってることは賎しい男と同じ。そういうのは、村の女たちに通じないのよ」
李吉は顔を歪めた。
「だったら、せめて……せめて、俺が婚約を当てにして借りた金くらいは──」
「ふざけるな」
史春は、傍らに立てかけてあった薪を手に取った。ためらいもせず、その薪で李吉の肩を叩きつけた。
鈍い音が響いた。
「ひがあっ──。な、なにをするんだ、くそっ」
李吉が肩を押さえて蹲った。その悲鳴に反応するように、三人の取り巻きが剣の柄に手をかけた。
「手を出したな──」
「覚悟しろ──」
次の瞬間、剣が抜かれる音が響いた。最初の一人が踏み込む。
史春は、剣を避けると同時に、手にした薪を振るった。狙いは一点。剣を持つ右手の手首だ。鋭く打ち込まれた薪の一撃で、男は剣を落とし、そのままうずくまった。
二人目が襲いかかってきた。
史春は前に踏み込みながら、薪の先を喉に突き入れる。
突きの衝撃に、男の身体が後方へ吹き飛んだ。地面に落ちた男は、苦悶の声も出さずに動かなくなった。
三人目が横から剣を振るう。
史春は冷静に距離を詰め、脚を払う。
男の身体が宙を舞い、無様に地に落ちた。背中を強打したのか、呻き声すら上げられずに身を丸める。
三人とも、戦意を喪失していた。
史春は、まだ肩を抱えて蹲る李吉に歩み寄った。
そして、無言のまま、足の裏でその顔面を踏みつけた。
李吉の頭が地に叩きつけられ、呻きが漏れた。
「今度、村に現れたら──そのときは命はないと思いなさい」
そう言って史春は、薪を握ったまま背を向けた。
史春は歩きながら、唇をかすかに噛んでいた。
怒りというよりも、虚しさが胸を満たしていた。顔を踏みつけた感触が足裏に残っている。それが、自分の中の過去──ひとときでも想いを寄せ、身体を許し、将来を夢見た男に対する決着だったことが、骨の奥に冷たく沁みた。
あんな薄っぺらな言葉に、胸をときめかせていた。
優しげな視線。
ほんの少しだけ浮かべる頬の笑み。
ちょっと悪ぶったような哀愁──。
それだけで、史春は恋をした。
史春は、自分を笑いたかった。
だが、それは済んだことだ。終わったことだ。
李吉との婚約は、父が決めたものではなかった。最初にのぼせたのは、史春自身だ。だが、婚約が定まったその日から、村の長老や商人たちがこっそりと忠告を寄越すようになった。
──あの男は信用ならぬ。
──女を何人も泣かせている。
──手を組んでいる相手は、裏の連中だ。
それでも、最初は信じなかった。
恋は、目を塞ぐ。
だが──。
村を預かる名主の娘として、そして未来の名主として、盲目では済まされぬ。史春は、自ら確かめた。使いを出し、影をつけ、人の口を拾った。証拠はない。だが、確信は得た。
李吉は、悪党だった。
若い娘を言葉巧みに誑かし、妓楼に売る。
義賊を気取る裏商人と結び、村を裏切る。
そんな声が、あちこちで拾われた。
だから、婚約を解消した。
父に願い出て、手紙をしたためさせた。
父は、すべてを察していた。
男を見る目がなかったと、史春は悔やんだ。
名主の座を娘に継がせる手続きを終えた直後、父の病は急に重くなった。
──その心労が、命を削ったのではないか。
その思いだけが、心に残っている。
史春は中庭に戻った。
睾丸打ちの稽古は、まだ続いていた。助手たちの掛け声と、娘たちの打ち込む音が交じる。先ほどよりも気迫がこもっている。さっきの騒ぎが、娘たちの心にも火を点けたのかもしれなかった。
史春は立ち止まり、静かにそれを見ていた。
──もう、振り返らない。
──あたしは、この村の名主だ。
身を守り、生きる力を教えねばならない。
それが、この土地で女として生きる者の矜持だ。
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史華村の女名主。齢わずか二十にして村を率い、自ら武を修めて女たちに自衛を教える。亡父の遺志を継ぎ、賊徒に抗し得る自警団を組織し、村を守る盾となった。過去に李吉との婚約を持つが、真実を知って破棄。村と誇りのために剣を執る覚悟を決めている。
※原典:■
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隣村の名主家の三男坊。色男として名は知られるが、裏では女を騙し、売り飛ばすような悪党。史春の元婚約者であったが、素性を見抜かれて破談。なおも付きまとうが、史春により追い払われる。
※原典:■