「畜生──。畜生──」
肩に残る殴打の鈍痛と、頬骨を打たれた熱みがじんじんと疼く。だが、そんなものはどうでもよかった。
問題は、心の奥を焼く屈辱だ。
一時はたらしこみ、好き放題に味わい、婚約まで漕ぎつけた相手──それが、面と向かって侮蔑され、蹴り飛ばされたのだ。しかも、復縁を願い出たその場で、だ。
湯気が立ち昇るほどの怒りが、李吉の胸を焦がした。
──たかが女に、ここまで舐められた。
だが相手は、女とはいえ武芸に通じた剛の者だ。
見目麗しい若き女ながら、棒術の遣い手としては、この一帯の男たちでも敵わぬと噂される。
李吉に勝ち目はない。
今日も、ある程度の備えはしていた。
腕っぷしのある与太者仲間を三人引き連れて行ったが、連中は子供扱いだった。
三人とも致命傷こそ避けられたが、地面に転がったまま呻いて動けなかった。
李吉たちは、ようやくのことで城郭都市・
なにもかもが崩れていった。
安酒を呷りながら、李吉は拳を震わせた。
あれだけの女をものにし、婚約まで交わしたはずの己が、いまやこの有り様だ。
「畜生──。あいつめ──」
盃を干した。
空の器を卓に叩きつける。
「おい、お代わりだ」
苛立ち混じりの声に、酒屋の主人が冷たく応じた。
「前払いだよ」
「な、なんだと──? つけでいいだろう。今度、持ってくる」
「聞こえないね、李吉さん。昔は羽振りがよかったが、いまや親父さんから勘当同然だ。借金もかさんで、評判は地に落ちてるよ。つけで飲めるような身分じゃない」
「ちっ。金があるときは持ち上げておいて、こうなると手のひら返しかよ……」
悪態をついて、店を出た。
夜風が顔に当たる。酒の酔いは薄れていった。
金子入れは空だった。宿に泊まる金もない。
このまま夜を明かす場所すらない。
うまくいくときは、なにもかもが順調に見える。
だが、歯車がひとつ狂えば、すべてが転げ落ちる。
李吉はいま、まさにその坂道の底にいた。
半年前──。
彼は、隣村で名高い美貌の女傑、史華村の名主の娘・史春との婚約を手に入れていた。
李吉もまた名主の家の生まれではある。
だが三男坊の身では、家産の大部分は長兄のものとなる。
残るのは、端金の取り分だけだ。
だが、史春の婿となれば話が違った。
史華村はこの辺りでも屈指の富裕な土地であり、病を患う史春の父が長くないことも周知の事実だった。
李吉が婿として家を継げば、すべては自分のものになるはずだった。
李吉は、その未来にすっかり酔っていた。
村にはほとんど戻らず、豊城の城郭で遊び回る日々。
史春との婚約を餌に、金を貸そうという連中が群がってきた。
懐が潤えば、酒も女も選び放題だ。
李吉は怠け者だった。腕もない、度胸もない。
だが──顔だけは良かった。
この顔と、少しばかりの甘い言葉があれば、女は簡単に懐に落ちる。
それが李吉の処世術だった。
遊び仲間も増えた。
あるときは賭けをして、町娘をたらし込み、宿へ誘う。
そこで待ち構える仲間とともに、女を嬲る。
挙げ句に奴隷契約を結ばせ、娼館へと売り飛ばす。
金になった。
だが、それ以上に楽しかった。
だが──終わりは突然だった。
誰かが李吉の女遊びを、史春に耳打ちした。
怒りに震えた史春は、即座に婚約を破棄した。
その報告とともに、史春の父親は李吉の父に報告を入れた。
李吉は厳しく叱責され、小遣いも断たれた。
怒りに任せて、家を飛び出した。
それ以来、村には戻っていない。
三箇月──。
残っていた金はすべて消えた。
借金だけが残った。
金がなければ女も寄りつかない。
騙す材料も尽きた。
李吉は起死回生を狙った。
再び史春に会いに行った。
いまや彼女は女名主──村を継いでいた。
かつて一度は寝た女だ。
自分の技で、もう一度堕とせるはずだと思った。
だが、甘かった。
再会の場で、彼女は李吉を容赦なく罵倒し、足蹴にした。
命があっただけ、幸運といえた。
「おう、李吉──」
そのときだった。
背後から無造作に肩を掴まれた。
李吉の身体が跳ね上がる。
「ひいっ。あっ、
かすれ声でなんとか応えた。
声をかけてきたのは、高利貸しの天文明。
ただの貸し元ではない。
──闇の仕事ならなんでもやると噂される、裏の大物だった。
借金は、李吉自身、もうどうにもならない額だった。
元は史春との婚約を背景に借り入れたもの。
結婚が反故になった今、返済のあてなどあるはずがない。
李吉は、天文明を避けて歩くようにしていた。
だが、今夜に限って、天文明の縄張りの近くを、酔いに任せて彷徨っていたのだ。
──最悪の巡り合わせ。
しかも天文明は、五人の部下を従えていた。
完全に詰みだった。
「しゃ、借金は……耳を揃えて返します。で、ですから……」
李吉は両手を振って懇願した。
声が震えていた。
天文明は表情を変えず、ぬるく笑った。
「お前の話は聞いてる……。まあ、ちょっと店まで付き合え」
死の宣告にも聞こえた。
李吉の背筋を氷が這った。
このまま連れて行かれて、どうなる──。
殺される──。
そんな想像が脳裏をよぎる。
「しゃ、喋らせてください──。借金は返します、だから……殺さないで……」
掠れた声で言った。
だが、天文明は鼻を鳴らした。
「誰が殺すと言った。お前を殺しても銭にはならん。俺が金子の作り方を教えてやる」
目が笑っていなかった。
金子の作り方──?
李吉の頭には疑問しか浮かばなかった。
「いいから、来い」
有無を言わさず、店の奥へと連れていかれる。
通されたのは、窓のない小部屋。
薄暗い燭台の灯が揺れていた。
中央に一脚だけ椅子がある。
李吉はそこに腰を下ろされた。
天文明が正面に立ち、部下が背後を囲んだ。
逃げ場はない。
「おい、李吉」
その一言だけで、背筋が凍った。
「は、はい……」
「手短に言うぞ。お前には史春という女と、どうあっても結婚してもらう。そのために金を貸した。お前の親父から取り立てる手もあるが、それでは面白くねえ。お前があの女と結ばれ、村の名主になる。それが、俺にとっていちばんの得なんだ」
言葉の意味は、すぐに呑み込めなかった。
史春と──再び婚姻?
そんなもの、もう無理だ。
村に入れば、あの女に殺されるのが関の山だ。
だが、天文明は続けた。
「史春というのは武芸の達人だそうだが、所詮は女。女を言いなりにする手段は昔から決まってる。さらって、調教しろ。わかるな?」
「い、いえ……さっぱり……」
李吉の声は、弱々しく震えていた。
なにを言われているのか、わかっているようで、わからなかった。
だが、天文明の眼には、容赦がなかった。
「あの村の近くに、史春を監禁するための山小屋を用意した。そう簡単には見つからねえ場所だ。そこに奴を閉じ込めて、調教しろ。お前がかつて寝た女だ。やり方は知ってるはずだ。強姦でもなんでもして、もう一度たらし込め」
「ええっ?」
李吉は、椅子の上で凍りついた。
──強姦して、調教しろと?
あの史春を?
いや、そんなこと……。
そもそも、どうやって、あの女をさらえばいい?
手も足も出ないのに。
「そんなこと……。無理ですよ。だいたい、史春をどうやって捕まえれば……」
情けない声だった。
だが、天文明は笑わず、無言のまま、棚から一本の黒い棒を取り出した。
すりこぎのような形状のそれを、李吉の前に突き出した。
「電撃棒だ。道術で作られた傀儡具だ。これを使え。これ一本で、熊でも一発で気絶させられる」
信じられなかった。
だが、天文明は操作方法をひとつずつ、ゆっくりと教えてくる。
李吉は、ぼんやりとそれを聞いていた。
耳には入っていたが、脳が追いついていなかった。
「いいか、李吉。史春をさらえない、たらし込める自信がない、そんな寝言は聞きたくねえ。お前がこの話をしくじれば、俺にとっては見せしめに使えるだけの塵芥だ」
天文明は言い終えると、李吉の襟首を掴んだ。
その手には力がこもっていた。
「ひいっ」
「だから、見せしめにする。考え得る限りの残酷なやり方で、殺してやる。死骸は犬の餌にもなりゃしねえ場所に捨てる」
「そ、そんな──」
李吉は電撃棒を握ったまま、泣き声を漏らした。
足元が冷え切る。
心の底から、逃げ出したかった。
──だが、そのとき、天文明が微笑んだ。
「安心しろ。手筈は整えてある。助っ人を用意してある」
李吉が顔を上げた。
天文明が声をかける。
隣室の扉が、音もなく開いた。
現れたのは、五十を超えた風貌の男。
顔に刻まれた皺よりも、纏う空気がただ者ではなかった。
「こいつは鬼丸。調教師だ。女を堕とすことに関しては、右に出る者はいねえ」
「……調教師?」
李吉が、呆けたように呟いた。
天文明はうなずいた。
「それだけじゃない。もうひとり、紹介しとこうか」
そう言った途端、さらに奥の扉が開いた。
そこに立っていた女を見た瞬間、李吉は椅子から転げ落ちそうになった。
「う、うわあっ、史春──」
悲鳴をあげた。
だが、天文明が腹の底から笑った。
「違う違う。史春じゃねえよ。変身の護符という道術の傀儡具を使って、姿形をそっくりにしただけの白痴女だ。名は蘭。お前が史春を監禁しているあいだ、村に戻って彼女の身代わりになる」
「変身の護符……?」
李吉は蘭の顔から目を逸らせなかった。
立っているのは、どう見ても史春だった。
輪郭も、目のかたちも、口元も、動きすらも──あまりにも酷似している。
「よろしく、ねがい、いたします、りきちさん」
女が頭を下げた。
声を聞いて、ようやく李吉は現実に引き戻された。
──口調が違うし、白痴というのは本当みたいだ。
声も、所作も、どこか拙い。
だが、黙っていれば誰も気づかぬかもしれない。
言葉を交わせば、すぐに正体が露見するだろうが……。
「蘭は話すのは不得手だ。だから病ということにして、屋敷の寝所にでも閉じ込めておけばいい。お前が史春を監禁している間、その家を守る役はこいつらがやる」
天文明は平然と言った。
李吉の脳裏で、何かが組み上がっていく。
──そんなことが、本当に可能なのか?
「ひとつだけ言っておく。変身の護符の効果は半月だ。それを過ぎれば、姿も声も元に戻る。半月のうちに史春を堕とせ。どんな手を使ってもかまわねえ。元はお前の女だったんだ。味を覚えさせれば、戻らないはずがないだろう」
可能性のなかった話が、現実味を帯びてきた。
あの史春を堕とす──できるかもしれない。
一度は寝た。
そのとき、快楽に溺れさせた。
もう一度、同じことを繰り返せば──。
李吉の唇が、自然と持ち上がった。
目の奥に、光が灯る。
──これなら、いけるかもしれない。
「とにかくな、李吉。変身の護符なんざ、目ん玉が飛び出るほどの高価な代物だ。それに鬼丸の雇い料、道具の準備代、俺の手間賃もある。全部、お前の借金に加えておく」
その言葉で、一瞬、李吉の背がこわばった。
だが、天文明は続けた。
「ただしな──史春の亭主になれば、そんなもん一息で払える額だ」
それは、李吉の耳には甘い囁きに聞こえた。
──史春さえ堕とせば、全てが戻る。
いや、かつて以上の地位と財が、手に入る。
「ありがとうございます……天文明さん。絶対にやってみせます。史春を、必ず──」
李吉の声には、焦りも迷いもなかった。
それは、奈落に堕ちた男の中に生まれた、最後の光だった。
──半月。
その間に、史春を堕とす。
あの鋼のような女を、肉の悦びに溺れさせ、再び、自分の手に取り戻す。
名主の座。
金と女と、かつての栄光──。
いや、それ以上が、待っている。
「やってみせます……」
李吉は、誰にともなく呟いた。
それは、男の声ではなかった。
だが、奈落の闇の底に差し出された光を、握ろうとする者の、それだった