※この作品はR-18です。

水滸伝艶義   作:ドン・ドナシアン

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29  天文明、史春の監禁調教を唆す

「畜生──。畜生──」

 

 李吉(りきつ)は、何度も毒づきながら、安酒の盃をあおった。

 肩に残る殴打の鈍痛と、頬骨を打たれた熱みがじんじんと疼く。だが、そんなものはどうでもよかった。

 問題は、心の奥を焼く屈辱だ。

 一時はたらしこみ、好き放題に味わい、婚約まで漕ぎつけた相手──それが、面と向かって侮蔑され、蹴り飛ばされたのだ。しかも、復縁を願い出たその場で、だ。

 湯気が立ち昇るほどの怒りが、李吉の胸を焦がした。

 ──たかが女に、ここまで舐められた。

 

 だが相手は、女とはいえ武芸に通じた剛の者だ。

 見目麗しい若き女ながら、棒術の遣い手としては、この一帯の男たちでも敵わぬと噂される。

 史春(ししゅん)──名主の娘にして、史華村の次代を継いだ女傑。

 李吉に勝ち目はない。

 

 今日も、ある程度の備えはしていた。

 腕っぷしのある与太者仲間を三人引き連れて行ったが、連中は子供扱いだった。

 三人とも致命傷こそ避けられたが、地面に転がったまま呻いて動けなかった。

 李吉たちは、ようやくのことで城郭都市・豊城(ほうじょう)に引き返してきたが、李吉の胸に渦巻くのは悔恨と憤怒だった。

 

 なにもかもが崩れていった。

 安酒を呷りながら、李吉は拳を震わせた。

 あれだけの女をものにし、婚約まで交わしたはずの己が、いまやこの有り様だ。

 

「畜生──。あいつめ──」

 

 盃を干した。

 空の器を卓に叩きつける。

 

「おい、お代わりだ」

 

 苛立ち混じりの声に、酒屋の主人が冷たく応じた。

 

「前払いだよ」

 

「な、なんだと──? つけでいいだろう。今度、持ってくる」

 

「聞こえないね、李吉さん。昔は羽振りがよかったが、いまや親父さんから勘当同然だ。借金もかさんで、評判は地に落ちてるよ。つけで飲めるような身分じゃない」

 

「ちっ。金があるときは持ち上げておいて、こうなると手のひら返しかよ……」

 

 悪態をついて、店を出た。

 夜風が顔に当たる。酒の酔いは薄れていった。

 金子入れは空だった。宿に泊まる金もない。

 このまま夜を明かす場所すらない。

 

 うまくいくときは、なにもかもが順調に見える。

 だが、歯車がひとつ狂えば、すべてが転げ落ちる。

 李吉はいま、まさにその坂道の底にいた。

 

 半年前──。

 彼は、隣村で名高い美貌の女傑、史華村の名主の娘・史春との婚約を手に入れていた。

 李吉もまた名主の家の生まれではある。

 だが三男坊の身では、家産の大部分は長兄のものとなる。

 残るのは、端金の取り分だけだ。

 

 だが、史春の婿となれば話が違った。

 史華村はこの辺りでも屈指の富裕な土地であり、病を患う史春の父が長くないことも周知の事実だった。

 李吉が婿として家を継げば、すべては自分のものになるはずだった。

 

 李吉は、その未来にすっかり酔っていた。

 村にはほとんど戻らず、豊城の城郭で遊び回る日々。

 史春との婚約を餌に、金を貸そうという連中が群がってきた。

 懐が潤えば、酒も女も選び放題だ。

 

 李吉は怠け者だった。腕もない、度胸もない。

 だが──顔だけは良かった。

 この顔と、少しばかりの甘い言葉があれば、女は簡単に懐に落ちる。

 それが李吉の処世術だった。

 

 遊び仲間も増えた。

 あるときは賭けをして、町娘をたらし込み、宿へ誘う。

 そこで待ち構える仲間とともに、女を嬲る。

 挙げ句に奴隷契約を結ばせ、娼館へと売り飛ばす。

 金になった。

 だが、それ以上に楽しかった。

 

 だが──終わりは突然だった。

 誰かが李吉の女遊びを、史春に耳打ちした。

 怒りに震えた史春は、即座に婚約を破棄した。

 その報告とともに、史春の父親は李吉の父に報告を入れた。

 李吉は厳しく叱責され、小遣いも断たれた。

 怒りに任せて、家を飛び出した。

 それ以来、村には戻っていない。

 

 三箇月──。

 残っていた金はすべて消えた。

 借金だけが残った。

 金がなければ女も寄りつかない。

 騙す材料も尽きた。

 

 李吉は起死回生を狙った。

 再び史春に会いに行った。

 いまや彼女は女名主──村を継いでいた。

 かつて一度は寝た女だ。

 自分の技で、もう一度堕とせるはずだと思った。

 だが、甘かった。

 再会の場で、彼女は李吉を容赦なく罵倒し、足蹴にした。

 命があっただけ、幸運といえた。

 

「おう、李吉──」

 

 そのときだった。

 背後から無造作に肩を掴まれた。

 李吉の身体が跳ね上がる。

 

「ひいっ。あっ、天文明(てんぶんめい)の旦那……。ご、ご無沙汰してます」

 

 かすれ声でなんとか応えた。

 声をかけてきたのは、高利貸しの天文明。

 ただの貸し元ではない。

 ──闇の仕事ならなんでもやると噂される、裏の大物だった。

 

 借金は、李吉自身、もうどうにもならない額だった。

 元は史春との婚約を背景に借り入れたもの。

 結婚が反故になった今、返済のあてなどあるはずがない。

 李吉は、天文明を避けて歩くようにしていた。

 だが、今夜に限って、天文明の縄張りの近くを、酔いに任せて彷徨っていたのだ。

 

 ──最悪の巡り合わせ。

 しかも天文明は、五人の部下を従えていた。

 完全に詰みだった。

 

「しゃ、借金は……耳を揃えて返します。で、ですから……」

 

 李吉は両手を振って懇願した。

 声が震えていた。

 天文明は表情を変えず、ぬるく笑った。

 

「お前の話は聞いてる……。まあ、ちょっと店まで付き合え」

 

 死の宣告にも聞こえた。

 李吉の背筋を氷が這った。

 このまま連れて行かれて、どうなる──。

 殺される──。

 そんな想像が脳裏をよぎる。

 

「しゃ、喋らせてください──。借金は返します、だから……殺さないで……」

 

 掠れた声で言った。

 だが、天文明は鼻を鳴らした。

 

「誰が殺すと言った。お前を殺しても銭にはならん。俺が金子の作り方を教えてやる」

 

 目が笑っていなかった。

 金子の作り方──?

 李吉の頭には疑問しか浮かばなかった。

 

「いいから、来い」

 

 有無を言わさず、店の奥へと連れていかれる。

 通されたのは、窓のない小部屋。

 薄暗い燭台の灯が揺れていた。

 

 中央に一脚だけ椅子がある。

 李吉はそこに腰を下ろされた。

 天文明が正面に立ち、部下が背後を囲んだ。

 逃げ場はない。

 

「おい、李吉」

 

 その一言だけで、背筋が凍った。

 

「は、はい……」

 

「手短に言うぞ。お前には史春という女と、どうあっても結婚してもらう。そのために金を貸した。お前の親父から取り立てる手もあるが、それでは面白くねえ。お前があの女と結ばれ、村の名主になる。それが、俺にとっていちばんの得なんだ」

 

 言葉の意味は、すぐに呑み込めなかった。

 史春と──再び婚姻?

 そんなもの、もう無理だ。

 村に入れば、あの女に殺されるのが関の山だ。

 だが、天文明は続けた。

 

「史春というのは武芸の達人だそうだが、所詮は女。女を言いなりにする手段は昔から決まってる。さらって、調教しろ。わかるな?」

 

「い、いえ……さっぱり……」

 

 李吉の声は、弱々しく震えていた。

 なにを言われているのか、わかっているようで、わからなかった。

 だが、天文明の眼には、容赦がなかった。

 

「あの村の近くに、史春を監禁するための山小屋を用意した。そう簡単には見つからねえ場所だ。そこに奴を閉じ込めて、調教しろ。お前がかつて寝た女だ。やり方は知ってるはずだ。強姦でもなんでもして、もう一度たらし込め」

 

「ええっ?」

 

 李吉は、椅子の上で凍りついた。

 ──強姦して、調教しろと?

 あの史春を?

 いや、そんなこと……。

 そもそも、どうやって、あの女をさらえばいい?

 手も足も出ないのに。

 

「そんなこと……。無理ですよ。だいたい、史春をどうやって捕まえれば……」

 

 情けない声だった。

 だが、天文明は笑わず、無言のまま、棚から一本の黒い棒を取り出した。

 すりこぎのような形状のそれを、李吉の前に突き出した。

 

「電撃棒だ。道術で作られた傀儡具だ。これを使え。これ一本で、熊でも一発で気絶させられる」

 

 信じられなかった。

 だが、天文明は操作方法をひとつずつ、ゆっくりと教えてくる。

 李吉は、ぼんやりとそれを聞いていた。

 耳には入っていたが、脳が追いついていなかった。

 

「いいか、李吉。史春をさらえない、たらし込める自信がない、そんな寝言は聞きたくねえ。お前がこの話をしくじれば、俺にとっては見せしめに使えるだけの塵芥だ」

 

 天文明は言い終えると、李吉の襟首を掴んだ。

 その手には力がこもっていた。

 

「ひいっ」

 

「だから、見せしめにする。考え得る限りの残酷なやり方で、殺してやる。死骸は犬の餌にもなりゃしねえ場所に捨てる」

 

「そ、そんな──」

 

 李吉は電撃棒を握ったまま、泣き声を漏らした。

 足元が冷え切る。

 心の底から、逃げ出したかった。

 ──だが、そのとき、天文明が微笑んだ。

 

「安心しろ。手筈は整えてある。助っ人を用意してある」

 

 李吉が顔を上げた。

 天文明が声をかける。

 隣室の扉が、音もなく開いた。

 現れたのは、五十を超えた風貌の男。

 顔に刻まれた皺よりも、纏う空気がただ者ではなかった。

 

「こいつは鬼丸。調教師だ。女を堕とすことに関しては、右に出る者はいねえ」

 

「……調教師?」

 

 李吉が、呆けたように呟いた。

 天文明はうなずいた。

 

「それだけじゃない。もうひとり、紹介しとこうか」

 

 そう言った途端、さらに奥の扉が開いた。

 そこに立っていた女を見た瞬間、李吉は椅子から転げ落ちそうになった。

 

「う、うわあっ、史春──」

 

 悲鳴をあげた。

 だが、天文明が腹の底から笑った。

 

「違う違う。史春じゃねえよ。変身の護符という道術の傀儡具を使って、姿形をそっくりにしただけの白痴女だ。名は蘭。お前が史春を監禁しているあいだ、村に戻って彼女の身代わりになる」

 

「変身の護符……?」

 

 李吉は蘭の顔から目を逸らせなかった。

 立っているのは、どう見ても史春だった。

 輪郭も、目のかたちも、口元も、動きすらも──あまりにも酷似している。

 

「よろしく、ねがい、いたします、りきちさん」

 

 女が頭を下げた。

 声を聞いて、ようやく李吉は現実に引き戻された。

 ──口調が違うし、白痴というのは本当みたいだ。

 声も、所作も、どこか拙い。

 だが、黙っていれば誰も気づかぬかもしれない。

 言葉を交わせば、すぐに正体が露見するだろうが……。

 

「蘭は話すのは不得手だ。だから病ということにして、屋敷の寝所にでも閉じ込めておけばいい。お前が史春を監禁している間、その家を守る役はこいつらがやる」

 

 天文明は平然と言った。

 李吉の脳裏で、何かが組み上がっていく。

 ──そんなことが、本当に可能なのか?

 

「ひとつだけ言っておく。変身の護符の効果は半月だ。それを過ぎれば、姿も声も元に戻る。半月のうちに史春を堕とせ。どんな手を使ってもかまわねえ。元はお前の女だったんだ。味を覚えさせれば、戻らないはずがないだろう」

 

 可能性のなかった話が、現実味を帯びてきた。

 あの史春を堕とす──できるかもしれない。

 一度は寝た。

 そのとき、快楽に溺れさせた。

 もう一度、同じことを繰り返せば──。

 

 李吉の唇が、自然と持ち上がった。

 目の奥に、光が灯る。

 

 ──これなら、いけるかもしれない。

 

「とにかくな、李吉。変身の護符なんざ、目ん玉が飛び出るほどの高価な代物だ。それに鬼丸の雇い料、道具の準備代、俺の手間賃もある。全部、お前の借金に加えておく」

 

 その言葉で、一瞬、李吉の背がこわばった。

 だが、天文明は続けた。

 

「ただしな──史春の亭主になれば、そんなもん一息で払える額だ」

 

 それは、李吉の耳には甘い囁きに聞こえた。

 ──史春さえ堕とせば、全てが戻る。

 いや、かつて以上の地位と財が、手に入る。

 

「ありがとうございます……天文明さん。絶対にやってみせます。史春を、必ず──」

 

 李吉の声には、焦りも迷いもなかった。

 それは、奈落に堕ちた男の中に生まれた、最後の光だった。

 

 ──半月。

 その間に、史春を堕とす。

 あの鋼のような女を、肉の悦びに溺れさせ、再び、自分の手に取り戻す。

 

 名主の座。

 金と女と、かつての栄光──。

 いや、それ以上が、待っている。

 

「やってみせます……」

 

 李吉は、誰にともなく呟いた。

 それは、男の声ではなかった。

 だが、奈落の闇の底に差し出された光を、握ろうとする者の、それだった

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