※この作品はR-18です。

水滸伝艶義   作:ドン・ドナシアン

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30  史春、元婚約者の涙にほだされる

 史春(ししゅん)は、川のほとりにいた。

 ひとりだった。

 

 ここ数日、村の郊外にある堰き止め湖を巡視することが、彼女の日課になっていた。

 水の流れを見つめる眼には、緊張の色があった。

 

 史華村(しかそん)──。

 この地は水稲の村である。

 米を育てるには、水が必要だ。多すぎてもいけない。少なければ尚更だ。

 治水は、名主としての責務であり、村の命綱でもあった。

 

 史華村には、近隣の大河から分かれた支流が流れていた。

 その川に、史春は堰を築いた。

 川の水を巨大な溜め池に引き入れ、制御するための構造だ。

 

 十七の史春が父に進言したものだ。

 水の脅威と乾きに抗うために、村人総出で造らせたものだった。

 仕組みはこうだ──。

 川から水を引き入れ、湖のように溜め込む。

 容量を超えれば、水は自動的に外へと放流される。

 だが、大雨が続くときには先に水位を落としておき、新たな雨水を受け止める余地を作る。

 そのわずかな調整が、洪水を防ぎ、干ばつにも耐え得るのだ。

 

 実際、昨年の干天の折も、史華村の田には水が切れなかった。

 周囲の村では田が枯れ、税が払えず、娘を売ったという噂も耳に入った。

 だが、史華村では、誰ひとり飢えず、娘たちも笑っていた。

 

 費用はかかった。

 人足の負担も小さくはなかった。

 だが、村人たちはいま、あれを造ってよかったと口を揃える。

 周囲の村も影響を受け、同じような構造を造りはじめた。

 史春は、図面も惜しまずに開示した。

 職人の派遣を望まれれば、断らなかった。

 

 この二日間、雨が続いた。

 気になって、様子を見に来たのだ。

 溢れるほどの水位ではない。

 調整弁も無事。問題はなかった。

 史春は、胸の奥で小さく息を吐いた。

 そして、馬の鼻面を撫で、手綱を史華村へ向けた。

 

「史春──」

 

 村の入り口へ差し掛かったときだった。

 道の陰から、ひとりの男が飛び出してきた。

 土を蹴り、馬の前に膝をつき、額を地面に叩きつけるようにして土下座した。

 李吉(りきつ)だった。

 

「邪魔よ、李吉」

 

 史春の声は冷たかった。

 手綱を緩め、馬を進めようとした。

 

 だが──。

 草陰から、さらに五人の男が現れた。

 道を囲むように立つ。

 全員が、どこかの地廻か、胡散臭い面構えだった。

 

 史春の眼が、鋭く細まる。

 馬の鞍に括られた長棒に手を伸ばした。

 その棒は、彼女が幼い頃から鍛えてきた得物だ。

 棒を引き抜くと、腕の内に自然と重みが収まった。

 

「なんなのさ、あんたたち?」

 

 馬上から睨むように言い放つ。

 五人の中の一人が、両手を前に出して口を開いた。

 

「待ってくれ、史春殿。俺たちはあんたに手を出そうなんて思ってない。この男の見届け人ってだけだ」

 

「……見届け人?」

 

 眉がわずかに動いた。

 土下座したままの李吉が、顔を上げた。

 涙と泥にまみれたその面に、かつての面影はなかった。

 

「頼む、史春……最後の頼みだ。金子を……融通してくれ。このとおりだ……」

 

 声が震えていた。

 懇願というより、哀願だった。

 

「はあ? 馬鹿を言うんじゃないよ。なんであたしが、あんたに金子をやる必要がある?」

 

「わかってる……俺が悪いんだ。全部、俺が悪い。だが、もう八方塞がりなんだ。勘当され、行き場もない。お前だけが頼りなんだよ。見捨てられたら、あとは殺されるしかない。犬畜生に恵んだと思って、頼む……」

 

 李吉は、土に額をこすりつけるように頭を下げた。

 史春は、深く息を吐いた。

 手綱を引き、馬から降りる。

 

「いい加減にしなよ。立ちな。あんた、仮にも男だったろう? 情けなくて、見てられないよ。土下座なんて、かつての女に見せるもんじゃない」

 

「それでも頼むしかないんだ。お前が金子を渡してくれないなら、山に連れていかれて殺される。俺は、もう──」

 

「立てって、言ってんでしょう」

 

 史春が怒鳴った。

 

「融通してくれるなら、立つ。うんと言うまで、俺はこのままだ」

 

「ふざけるんじゃないよ」

 

 史春の声が怒気を帯びた。

 馬の側に立ち、棒を地面に突いた。

 

「わかっている──。わかってんだ。こんなことを頼めた義理じゃねえことは。だが、そこを曲げて頼む」

 

「冗談じゃない。もうあたしとあんたは終わっている。なんであたしが、あんたに金を出す必要があるのさ」

 

 声が大きくなっていた。

 それは李吉だけでなく、過去の自分自身への怒りでもあった。

 こんな腑抜けた男に一時でも心を許した自分を、恥じていた。

 

「わかってる……俺は、犬だ……女たらしの馬鹿だ……。でも……死にたくはない……。頼む……助けてくれ……。お前にしか……頼めねえんだ……。殺されるんだ……」

 

 李吉が声を震わせ、ぼろぼろと涙をこぼした。

 その様子に、史春は唖然とした。

 口が開きかける。

 だが、その前に、背後の男たちに目を向けた。

 

「穏やかじゃないね。殺すとかなんとか、物騒な話が出てるじゃないか。こんな話、役人に持っていくよ」

 

 低く、しかし明瞭に言った。

 それに答えたのは、さきほど話した男だった。

 

「関係ねえよ、史春殿。これは俺たちと、こいつの間の商売の話だ。こいつは、あんたとの婚約を担保に借金をした。それも、うちの親分を相手にな。高利だってのは、こいつも知ってた」

 

 男は肩をすくめ、軽く息を吐いた。

 

「だからって……」

 

「いや、それに、あんたを巻き込む気はなかった。ただ、こいつが最後にあんたに頼みたいって言うから、会わせてやっただけだ。だが、話は終わった。こいつは連れて行く。忘れてくれ」

 

「ちょっと待ちなよ」

 

 史春が声を上げた。

 男たちが、うずくまる李吉の肩をつかみ、強引に持ち上げる。

 

「李吉を、どうするつもりだい?」

 

 声は鋭くなった。

 

「関係ないって言ったはずだ。これは、けじめの話だ。こいつは殺す。死骸はばらして、少華山にでも捨てる。口の中には、切断した性器を咥えさせた首を晒す。踏み倒しの抑止ってやつだ」

 

 ぞっとするほど静かな声だった。

 

「それは、人殺しじゃないかい」

 

 史春は低く言った。

 

「何度も言わせるな。あんたには関係のねえことだ。役人に言ったって無駄だぜ。とっくに鼻薬は利かせてある。しかも、借金を払えねえやつは、咎人だ。咎人の命の始末は、貸主の裁量ってのが、この国のやり方だ」

 

 男は乾いた口調でそう告げた。

 その言葉が、まるで鉄槌のように史春の胸に落ちた。

 確かに、それは現実だった。

 法の名のもとに、人が消えていくのを、彼女も幾度か見てきた。

 助ける術がなかった──。それが、いま目の前で、再び起きようとしていた。

 

「それで、誰なんだい、あんたらの親分は?」

 

「教えられねえな。それにあんたには関係ねえ。そう言ったのはあんただ」

 

 男は言った。

 史春は嘆息した。

 

「……わかったよ。こいつの借金はいくらだい?」

 

 絞り出すように訊いた。

 

「おっと、肩代わりする気か? やめておけよ。こいつに返済する甲斐性なんざねえ。だから、うちの親分も見限ったんだ」

 

「訊いてるだけだよ。あんたたち、さっきから喋りすぎだよ」

 

 史春が鋭く言い放った。

 男は笑い、肩をすくめた。

 

「わかったよ。だが、安くはねえぞ。命ひとつの値だ」

 

「……李吉」

 

 声をかけると、李吉が泣き顔のまま、縋りつくように言った。

 

「た、頼む……史春……一生の恩に着る……」

 

「黙んな……。あんたがそうやって泣くたびに、自分が情けなくなるんだよ」

 

 唇を噛み、再び男に向き直る。

 告げられた額は、決して安くはなかった。

 だが──史春には、払えない金ではなかった。

 

 この男がかつて自分の身体に触れた事実。

 忘れられるものではない。

 忘れたくても、身体に残っていた。

 だからこそ、見殺しにはできなかった。

 

「……わかったよ。肩代わりする。一緒に屋敷に来な。払ってやる。借用書はあるんだろうね?」

 

「へっ、太っ腹だね、名主様。もちろんあるとも。金と交換に渡す」

 

 男が懐から、折りたたんだ紙を取り出した。

 それをひらひらと振って、もう一度戻す。

 

「ついてきて」

 

 史春が馬の側に歩いた。

 

「李吉を離せ。名主様が肩代わりしてくれるそうだ。ありがたく思えよ」

 

 男が仲間に命じる。

 李吉は解放されると、すぐに史春に駆け寄った。

 そして──。

 

「ありがとう、史春。ありがとう……」

 

 叫びながら、彼女に抱きついた。

 

「触るんじゃないよ──」

 

 史春が怒声を上げ、突き飛ばそうとしたそのとき──。

 どん、と全身に衝撃が走った。

 なにが起きたのか──わからなかった。

 身体が強ばり、膝が崩れ落ちる。

 次の瞬間、地面が頬に触れた。

 痺れが全身に広がっていた。指先ひとつ、動かせなかった。

 

 視界の端に、数人の男の影があった。

 彼らが、自分に近づいてきている。

 声を出そうとしたが、喉も痺れていて、まるで絞られたように声が出なかった。

 

「史春から服を剥げ。──蘭(らん)、出ろ。すぐに着替えろ」

 

 誰かが怒声を上げた。

 草むらが揺れ、ひとりの女が姿を現す。

 黒布で顔を覆い、身を包んだその女が、音もなく歩み寄ってくる。

 布を取った瞬間──史春は、心臓が止まりそうになった。

 

 そこにあったのは、自分の顔。

 鏡に映したような、もうひとりの自分だった。

 

「た……すけ……」

 

 ようやく吐き出した声は、蚊の鳴くようなかすれ声だった。

 それでも、史春は、李吉に向かって手を伸ばした。

 助けを求めた。

 

 だが、李吉は動かない。

 いや──動かぬどころか、何もせずに、その場に突っ立って見ていた。

 あろうことか、呆けたように、いや、むしろどこか満足げにその光景を見ている。

 

 男たちが群がるようにして、史春の着物に手をかけた。

 着物の帯が解かれる。

 身体が晒される。

 男の手が肌に触れた瞬間、史春は震えた。

 

「まだ意識があるぞ。──おい、手を離せ。電撃が飛ぶぞ」

 

 誰かがそう言うと、男たちが一歩退いた。

 

 そして──

 再び、黒い棒が胸元に押し当てられる。李吉によって……。

 

 にやり、と李吉が笑ったのが見えた。

 すりこぎのような棒の先が押しつけられる。

 その瞬間、第二の衝撃が、全身を貫いた。

 

 世界が、暗転する。

 音も、光も、感覚も──

 すべてが、闇に溶けていった。

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