ひとりだった。
ここ数日、村の郊外にある堰き止め湖を巡視することが、彼女の日課になっていた。
水の流れを見つめる眼には、緊張の色があった。
この地は水稲の村である。
米を育てるには、水が必要だ。多すぎてもいけない。少なければ尚更だ。
治水は、名主としての責務であり、村の命綱でもあった。
史華村には、近隣の大河から分かれた支流が流れていた。
その川に、史春は堰を築いた。
川の水を巨大な溜め池に引き入れ、制御するための構造だ。
十七の史春が父に進言したものだ。
水の脅威と乾きに抗うために、村人総出で造らせたものだった。
仕組みはこうだ──。
川から水を引き入れ、湖のように溜め込む。
容量を超えれば、水は自動的に外へと放流される。
だが、大雨が続くときには先に水位を落としておき、新たな雨水を受け止める余地を作る。
そのわずかな調整が、洪水を防ぎ、干ばつにも耐え得るのだ。
実際、昨年の干天の折も、史華村の田には水が切れなかった。
周囲の村では田が枯れ、税が払えず、娘を売ったという噂も耳に入った。
だが、史華村では、誰ひとり飢えず、娘たちも笑っていた。
費用はかかった。
人足の負担も小さくはなかった。
だが、村人たちはいま、あれを造ってよかったと口を揃える。
周囲の村も影響を受け、同じような構造を造りはじめた。
史春は、図面も惜しまずに開示した。
職人の派遣を望まれれば、断らなかった。
この二日間、雨が続いた。
気になって、様子を見に来たのだ。
溢れるほどの水位ではない。
調整弁も無事。問題はなかった。
史春は、胸の奥で小さく息を吐いた。
そして、馬の鼻面を撫で、手綱を史華村へ向けた。
「史春──」
村の入り口へ差し掛かったときだった。
道の陰から、ひとりの男が飛び出してきた。
土を蹴り、馬の前に膝をつき、額を地面に叩きつけるようにして土下座した。
「邪魔よ、李吉」
史春の声は冷たかった。
手綱を緩め、馬を進めようとした。
だが──。
草陰から、さらに五人の男が現れた。
道を囲むように立つ。
全員が、どこかの地廻か、胡散臭い面構えだった。
史春の眼が、鋭く細まる。
馬の鞍に括られた長棒に手を伸ばした。
その棒は、彼女が幼い頃から鍛えてきた得物だ。
棒を引き抜くと、腕の内に自然と重みが収まった。
「なんなのさ、あんたたち?」
馬上から睨むように言い放つ。
五人の中の一人が、両手を前に出して口を開いた。
「待ってくれ、史春殿。俺たちはあんたに手を出そうなんて思ってない。この男の見届け人ってだけだ」
「……見届け人?」
眉がわずかに動いた。
土下座したままの李吉が、顔を上げた。
涙と泥にまみれたその面に、かつての面影はなかった。
「頼む、史春……最後の頼みだ。金子を……融通してくれ。このとおりだ……」
声が震えていた。
懇願というより、哀願だった。
「はあ? 馬鹿を言うんじゃないよ。なんであたしが、あんたに金子をやる必要がある?」
「わかってる……俺が悪いんだ。全部、俺が悪い。だが、もう八方塞がりなんだ。勘当され、行き場もない。お前だけが頼りなんだよ。見捨てられたら、あとは殺されるしかない。犬畜生に恵んだと思って、頼む……」
李吉は、土に額をこすりつけるように頭を下げた。
史春は、深く息を吐いた。
手綱を引き、馬から降りる。
「いい加減にしなよ。立ちな。あんた、仮にも男だったろう? 情けなくて、見てられないよ。土下座なんて、かつての女に見せるもんじゃない」
「それでも頼むしかないんだ。お前が金子を渡してくれないなら、山に連れていかれて殺される。俺は、もう──」
「立てって、言ってんでしょう」
史春が怒鳴った。
「融通してくれるなら、立つ。うんと言うまで、俺はこのままだ」
「ふざけるんじゃないよ」
史春の声が怒気を帯びた。
馬の側に立ち、棒を地面に突いた。
「わかっている──。わかってんだ。こんなことを頼めた義理じゃねえことは。だが、そこを曲げて頼む」
「冗談じゃない。もうあたしとあんたは終わっている。なんであたしが、あんたに金を出す必要があるのさ」
声が大きくなっていた。
それは李吉だけでなく、過去の自分自身への怒りでもあった。
こんな腑抜けた男に一時でも心を許した自分を、恥じていた。
「わかってる……俺は、犬だ……女たらしの馬鹿だ……。でも……死にたくはない……。頼む……助けてくれ……。お前にしか……頼めねえんだ……。殺されるんだ……」
李吉が声を震わせ、ぼろぼろと涙をこぼした。
その様子に、史春は唖然とした。
口が開きかける。
だが、その前に、背後の男たちに目を向けた。
「穏やかじゃないね。殺すとかなんとか、物騒な話が出てるじゃないか。こんな話、役人に持っていくよ」
低く、しかし明瞭に言った。
それに答えたのは、さきほど話した男だった。
「関係ねえよ、史春殿。これは俺たちと、こいつの間の商売の話だ。こいつは、あんたとの婚約を担保に借金をした。それも、うちの親分を相手にな。高利だってのは、こいつも知ってた」
男は肩をすくめ、軽く息を吐いた。
「だからって……」
「いや、それに、あんたを巻き込む気はなかった。ただ、こいつが最後にあんたに頼みたいって言うから、会わせてやっただけだ。だが、話は終わった。こいつは連れて行く。忘れてくれ」
「ちょっと待ちなよ」
史春が声を上げた。
男たちが、うずくまる李吉の肩をつかみ、強引に持ち上げる。
「李吉を、どうするつもりだい?」
声は鋭くなった。
「関係ないって言ったはずだ。これは、けじめの話だ。こいつは殺す。死骸はばらして、少華山にでも捨てる。口の中には、切断した性器を咥えさせた首を晒す。踏み倒しの抑止ってやつだ」
ぞっとするほど静かな声だった。
「それは、人殺しじゃないかい」
史春は低く言った。
「何度も言わせるな。あんたには関係のねえことだ。役人に言ったって無駄だぜ。とっくに鼻薬は利かせてある。しかも、借金を払えねえやつは、咎人だ。咎人の命の始末は、貸主の裁量ってのが、この国のやり方だ」
男は乾いた口調でそう告げた。
その言葉が、まるで鉄槌のように史春の胸に落ちた。
確かに、それは現実だった。
法の名のもとに、人が消えていくのを、彼女も幾度か見てきた。
助ける術がなかった──。それが、いま目の前で、再び起きようとしていた。
「それで、誰なんだい、あんたらの親分は?」
「教えられねえな。それにあんたには関係ねえ。そう言ったのはあんただ」
男は言った。
史春は嘆息した。
「……わかったよ。こいつの借金はいくらだい?」
絞り出すように訊いた。
「おっと、肩代わりする気か? やめておけよ。こいつに返済する甲斐性なんざねえ。だから、うちの親分も見限ったんだ」
「訊いてるだけだよ。あんたたち、さっきから喋りすぎだよ」
史春が鋭く言い放った。
男は笑い、肩をすくめた。
「わかったよ。だが、安くはねえぞ。命ひとつの値だ」
「……李吉」
声をかけると、李吉が泣き顔のまま、縋りつくように言った。
「た、頼む……史春……一生の恩に着る……」
「黙んな……。あんたがそうやって泣くたびに、自分が情けなくなるんだよ」
唇を噛み、再び男に向き直る。
告げられた額は、決して安くはなかった。
だが──史春には、払えない金ではなかった。
この男がかつて自分の身体に触れた事実。
忘れられるものではない。
忘れたくても、身体に残っていた。
だからこそ、見殺しにはできなかった。
「……わかったよ。肩代わりする。一緒に屋敷に来な。払ってやる。借用書はあるんだろうね?」
「へっ、太っ腹だね、名主様。もちろんあるとも。金と交換に渡す」
男が懐から、折りたたんだ紙を取り出した。
それをひらひらと振って、もう一度戻す。
「ついてきて」
史春が馬の側に歩いた。
「李吉を離せ。名主様が肩代わりしてくれるそうだ。ありがたく思えよ」
男が仲間に命じる。
李吉は解放されると、すぐに史春に駆け寄った。
そして──。
「ありがとう、史春。ありがとう……」
叫びながら、彼女に抱きついた。
「触るんじゃないよ──」
史春が怒声を上げ、突き飛ばそうとしたそのとき──。
どん、と全身に衝撃が走った。
なにが起きたのか──わからなかった。
身体が強ばり、膝が崩れ落ちる。
次の瞬間、地面が頬に触れた。
痺れが全身に広がっていた。指先ひとつ、動かせなかった。
視界の端に、数人の男の影があった。
彼らが、自分に近づいてきている。
声を出そうとしたが、喉も痺れていて、まるで絞られたように声が出なかった。
「史春から服を剥げ。──
誰かが怒声を上げた。
草むらが揺れ、ひとりの女が姿を現す。
黒布で顔を覆い、身を包んだその女が、音もなく歩み寄ってくる。
布を取った瞬間──史春は、心臓が止まりそうになった。
そこにあったのは、自分の顔。
鏡に映したような、もうひとりの自分だった。
「た……すけ……」
ようやく吐き出した声は、蚊の鳴くようなかすれ声だった。
それでも、史春は、李吉に向かって手を伸ばした。
助けを求めた。
だが、李吉は動かない。
いや──動かぬどころか、何もせずに、その場に突っ立って見ていた。
あろうことか、呆けたように、いや、むしろどこか満足げにその光景を見ている。
男たちが群がるようにして、史春の着物に手をかけた。
着物の帯が解かれる。
身体が晒される。
男の手が肌に触れた瞬間、史春は震えた。
「まだ意識があるぞ。──おい、手を離せ。電撃が飛ぶぞ」
誰かがそう言うと、男たちが一歩退いた。
そして──
再び、黒い棒が胸元に押し当てられる。李吉によって……。
にやり、と李吉が笑ったのが見えた。
すりこぎのような棒の先が押しつけられる。
その瞬間、第二の衝撃が、全身を貫いた。
世界が、暗転する。
音も、光も、感覚も──
すべてが、闇に溶けていった。