「この度はありがとうございます、林冲殿、そして朱武美殿。このご恩は生涯忘れません」
付き添っていた
林冲は隣に座る朱武美とともに、彼女の登場を待っていたが、その突如の礼に戸惑いの色を浮かべたのがわかった。
朱武美は、肩をわずかにすくめて見せた。
夜は更けている。史春と朱武美が、林冲により、少華山の砦へ運ばれてから、すでに半日が過ぎていた。
朱武美の身体には、外傷はほとんどない。それに比べ、史春は酷かった。媚薬を盛られ、不眠のまま五日も犯され続けた女の姿は、衰弱の影を色濃く映していた。
だが、いま目の前にいる彼女は、目に力を宿し、座している。
史春の看護は、薬草に通じた李姫がついていた。彼女によれば、目を覚ました史春は、どうしても林冲と朱武美に礼を述べたいと譲らず、仕方なく、こうして連れてきたのだという。
ふたりが待っていたこの家は、少華山の砦の中でも。かつて
岳竜が囲っていた愛人の部屋もあり、二人暮らしには持て余すほどの造りだが、朱武美はこの家を気に入っている。
理由は簡単だ。
林冲との夜の営みで上げる声を、誰かに聞かれる心配がないからだ。
李姫にからかわれるたび、朱武美は照れたように笑っていたが、本音では、誰にも聞かれたくはなかった。ここならば、それができる。
史春は、まだ本調子には程遠い。けれど、身体にはいくらかの張りが戻っている。若さが残るその肌に、いくつもの辱めの痕は刻まれているが、心まで折れてはいなかった。
でも、朱武美の脳裏に、あの猟師小屋の光景が蘇る。
あのとき、史春の縄が解けなければ、あるいは、彼女が抵抗の末に男たちを圧倒しなければ──朱武美の運命は、どこかで絶たれていた。
自死の覚悟すらあった。それも、すべてを穢されたあとでの、話だったろう。
史春は朱武美に、命の恩人として頭を下げた。だが、それは朱武美にとっても同じことだった。あの地獄から、生きて戻れたのは、彼女がいたからだ。
暴れ出した史春は、他の男どもを剛腕でなぎ倒し、朱武美とともに自由をもぎ取った。
ふたりは全裸のまま、猟師小屋を飛び出し、林の中を駆けた。朱武美が隠していた馬の荷には、緊急時に焚くための狼煙の道具が積まれていたのだ。
取り決めだった。
狼煙を見た林冲は、即座に動いてくれた。
そして、見つけてくれた。
草むらの中で震えていたふたりを、毛布に包み、すぐに荷駄馬車を呼び寄せて、この砦へと連れ帰ったのである。
小屋の中にいた男たちは、林冲の手で拘束された。気を失っていた四人と、逃げたひとり──そのすべてを、林冲の手勢が捕らえてきた。
訓練を積んだ彼の新しい騎馬隊が、たちまちのうちに追いついたのだ。
「とりあえず、椅子に座って、史春」
朱武美は、声をかけた。
史春は頷き、そっと立ち上がって、ふたりの正面にある椅子に腰を下ろした。
隣には、李姫が小柄な身体をすっと沈める。
「まあ、なんだ……虫にでも刺されたと思うことだな」
林冲の声だった。低く、ぶっきらぼうな響き。
朱武美は苦笑した。気持ちはわかる。林冲にしてみれば、精一杯の慰めだったに違いない。ただ──その顔で言えば、まるで脅しに聞こえる。
いや、違う。あれが林冲の素顔なのだ。
けれど、相手は今しがた地獄をくぐってきた女だ。緊張に張り詰めている。林冲の顔は、優しさよりも恐怖を呼ぶ。
でも、朱武美が言葉を挟もうとした、ちょうどそのとき……。
史春の表情が、ふっと緩んだ。
「……そうですね。あたしも、虫にでも刺されたと思うことにします。お優しい言葉、ありがとうございます」
そう言って、史春は静かに頭を下げた。
朱武美は、目を細めた。
史春の心の強さを見た気がした。そして、林冲に対しても、怯まず礼を述べるその様に、思わず感嘆の息が漏れた。
「ならいい。強がりでも、口にできるのは、たいしたものだ」
林冲が唸るように応じた。
「強がりではありません。本当に、そう思っています。犯されたくらいでおかしくなるような女ではありません。女でありながら、史華村を預かる身です。覚悟はあります。もしものために、避妊丸も常から口にしていました。なんの問題もありません。犯された身体など、拭けば済む話です」
「拭けば、いい……のか」
林冲が呟く。思わず出た言葉のようだった。
「はい。それも、李姫殿が、あたしの休んでいる間に済ませてくださいました。ところで、あたしを犯した虫ども──あれらは、どうなったのでしょう。お聞かせ願えますか、林冲殿」
名を呼ばれて、林冲が眉を動かした。
朱武美は、心の中で舌を巻いていた。
ここまで来ると、ただの胆力ではない。この女は尋常ではない。
おそらく、林沖は、こういう胆力のある相手を気に入る。男であれ、女であれだ。
そう考えると、ちょっと心配になった。
史春は美人だ。それも、若く、肢体の均整がとれている。
あの小屋で見た裸身が脳裏をよぎった。
胸の張りも、腰のくびれも──女としての魅力を余すところなく備えていた。
それに、服が合っていない。きつく締めつけられた胸元から、豊満な谷間がわざとらしく盛り上がっている。
「ねえ、李姫。史春の服、きつすぎるんじゃない? もっとちゃんとしたの、なかったの?」
朱武美は、苛立ちを隠さずに言った。
「だってさ、この砦に若い女用の服なんて、あたしのか、朱武美のくらいしかないんだよ。それ以外は、ないんだからさ。仕方ないでしょ。あたしのじゃ、史春さんには小さすぎるし」
李姫が悪びれもせず言い放つ。
どうやら、史春の胸元が窮屈そうに見えるのは、朱武美の服を無理に着せたかららしい。さらに苛立ちが増す。
すると、林沖が咳払いした。
「……虫どもは、きっちり処した。史春、あんたにではなく、朱武美に手をかけた報いとしてな。役人に突き出すか? そんな生ぬるい話じゃない。俺は楽に殺してくれなどという願いは、絶対に聞かない」
「口が裂けても、楽にしてやれとは言いません。あたしが知りたかったのは、城郭の有力者が裏で糸を引いていた連中を、下手に役人に渡しては、骨抜きになる可能性があるということです。それが心配だったのです」
「なるほどな……」
林冲は、口の端を歪めた。
「だったら教えてやる。あいつらは、少華山を東に下った街道沿いに埋めた。首だけを地上に出すようにな」
「……へえ」
「喋れないように舌は切り落とした。顎も砕いた。目玉もくり抜いた。だが、ただ殺すのは生ぬるい。止血して、薬で身体も癒してやった。そいつらを、土に生きたまま埋めた。首だけが土の上だ。李吉の死体も、同じようにしてやった。他の連中は、生きたままだ。すぐには死ねない。時間をかけて、死んでいく」
史春は、わずかに目を見開いた。だが、眉ひとつ動かさないまま、静かに応じた。
「それはまた……徹底されていますね」
「万が一にも、助ける奴が現れないように立札も立てた。見張りもつけてある。官軍が、あんな下郎どもを救いに来るはずもない。奴らは、生まれてきたことを呪いながら、死んでいく。それだけだ」
「少し、気が晴れました……。ありがとうございます、林冲殿」
ふたたび、史春は頭を下げた。
その動きに合わせて、朱武美の視界に、胸の谷間が浮き彫りになった。着物の前が窮屈そうに引っ張られている。
その谷間を林冲が凝視していないか、思わず横目でうかがう。林冲は──無表情のままだった。
ほっと、朱武美は胸を撫でおろした。
「いずれにしても……今夜は、ここに泊めてください。明日の朝には、史華村に戻ります。今回の礼は、改めてさせていただきます」
言い切る史春に、朱武美は呆気に取られた。
「無理よ。明日、山を下りるなんて、身体が持たないわ。少なくとも、もう一日は休養が必要よ」
朱武美の言葉に、史春は首を横に振った。
「……いえ。村が心配です。
強い口調だった。
「それなら大丈夫。差し出がましいかと思ったけど、あんたが寝ているあいだに、この少華山の者に手紙を託して、あんたの家人に届けさせたわ。その報せによれば、史華村には確かにあんたの偽者がいた。でも、実害は出ていない」
「本当ですか……。ありがとうございます。どういう状況なのですか?」
「病と称して、部屋に閉じこもっていただけだったらしい。家人たちも、不自然だと感じていたみたいね。そこに手紙が届いた。あんたの偽者は捕まった。変身の傀儡具も見つかったそうよ。安心していいと思う」
「それは……重ね重ね感謝いたします。しかし……ならば、なおさら戻らねばなりません。この件は、李吉の個人的な未練の範囲ではありません。もっと大きな陰謀の……一部です。それに、早急に手を打たなければ……」
「そう……。だったら止めないわ」
朱武美は、目を細めて言った。
「ありがとうございます」
「でも、李姫を連れて行って。すばしっこいし、脚も速い。馬の扱いも一流よ。きっと役に立つ。──いいわね、李姫。明日、史春と一緒に山を下りて、史春を守ってちょうだい」
「はあい」
李姫が、まるで遊びにでも行くかのような調子で返事をした。
史春は目を丸くしたまま、朱武美と李姫を交互に見た。
「でも……そんな。していただくわけには……」
困惑したように、言葉を濁す。
「まあいいじゃないか、史春。俺たちとしてもな、あんたのような名高い名主に恩を売るのは、意味があるってことだ」
林冲が、腕を組んだまま口を開いた。
「つまり?」
「つまり、俺たちにも思惑がある。あんたに恩を売って、それを──形あるもので返してもらう」
「……形あるもの、ですか?」
史春の声が少し低くなった。
「ああ。そうだ。取引といこうじゃないか」
「……取引、ですか?」
史春は、繰り返すように問うた。
「ああ。嫌だとは言わせない。あんたには、それだけの恩がある」
林冲が、にやりと笑った。目が据わっていた。冗談めかしていたが、本気だ。
それに対して、史春は一瞬だけ黙り、そして、わずかに笑みを浮かべた。
「……ふふ。いいでしょう。では、取引の内容をお聞かせください。あたしにできることであれば、できるかぎり応じましょう。あたしは、恩はきっちり返す主義ですから」
言い終えると、静かに背を正した。朱武美は、その姿に、ぞくりとした。
b史春の笑みには、怯えや逡巡の色が見えなかった。むしろ、林冲の迫りに、真っ向から受けて立つ気配すら感じられた。
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奥州と北州の州境にある山中の砦。堅牢な地形を利用した砦に、屋敷と訓練場、砦近くには馬の放牧場も抱える。
本作では三頭領は林沖、朱武美、李姫。少崋山を奪った後は、各地の逃亡者や反体制分子を庇護しつつ、自衛戦力を蓄えている。訓練と秩序に厳しく、無法者ではなく理念に基づく集団である。
※原典:陳達・朱武・楊春が拠点とする山寨。後に史春を頭領として迎える。梁山泊成立以前からあった独立勢力
※以下、原典の三頭領に関する補足
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少華山三頭領のひとり。気性が荒く短気な武人。山寨の武力を担い、攻撃的な任務を好む。宋江を捕らえたが、朱武の説得により釈放し、のち梁山泊入り。
※原典:梁山泊序列第八十五位。渾名は「
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少華山の知恵袋。策を講じ、仲間の制止役を務める理知的存在。軍略にも通じており、梁山泊でも幕僚的な立場を取った。
※原典:梁山泊序列第七十二位。渾名は「
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少華山三頭領のひとり。寡黙で誠実。陳達と対照的に、冷静な行動を取る。朱武と行動を共にすることが多く、補佐役を務める。
※原典:梁山泊序列第七十三位。渾名は「