※この作品はR-18です。

水滸伝艶義   作:ドン・ドナシアン

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37  史春、少華山の二頭領に頭をさげる

 史春(ししゅん)が、林冲(りんちゅう)と朱武美(しゅぶび)の前で、床に膝をつき、額を擦りつけるようにして頭を下げた。

 

「この度はありがとうございます、林冲殿、そして朱武美殿。このご恩は生涯忘れません」

 

 付き添っていた李姫(りき)に導かれ、部屋に入ってきた史春が、開口一番、そうした。

 林冲は隣に座る朱武美とともに、彼女の登場を待っていたが、その突如の礼に戸惑いの色を浮かべたのがわかった。

 朱武美は、肩をわずかにすくめて見せた。

 

 夜は更けている。史春と朱武美が、林冲により、少華山の砦へ運ばれてから、すでに半日が過ぎていた。

 朱武美の身体には、外傷はほとんどない。それに比べ、史春は酷かった。媚薬を盛られ、不眠のまま五日も犯され続けた女の姿は、衰弱の影を色濃く映していた。

 

 だが、いま目の前にいる彼女は、目に力を宿し、座している。

 史春の看護は、薬草に通じた李姫がついていた。彼女によれば、目を覚ました史春は、どうしても林冲と朱武美に礼を述べたいと譲らず、仕方なく、こうして連れてきたのだという。

 

 ふたりが待っていたこの家は、少華山の砦の中でも。かつて岳竜(がくりゅう)が頭領として使っていた屋敷である。兵舎とは別に、私的な空間として砦の隅に建てられており、朱武美が林冲と暮らすには、広さも静けさも十分だった。

 岳竜が囲っていた愛人の部屋もあり、二人暮らしには持て余すほどの造りだが、朱武美はこの家を気に入っている。

 理由は簡単だ。

 林冲との夜の営みで上げる声を、誰かに聞かれる心配がないからだ。

 李姫にからかわれるたび、朱武美は照れたように笑っていたが、本音では、誰にも聞かれたくはなかった。ここならば、それができる。

 

 史春は、まだ本調子には程遠い。けれど、身体にはいくらかの張りが戻っている。若さが残るその肌に、いくつもの辱めの痕は刻まれているが、心まで折れてはいなかった。

 

 でも、朱武美の脳裏に、あの猟師小屋の光景が蘇る。

 あのとき、史春の縄が解けなければ、あるいは、彼女が抵抗の末に男たちを圧倒しなければ──朱武美の運命は、どこかで絶たれていた。

 自死の覚悟すらあった。それも、すべてを穢されたあとでの、話だったろう。

 

 史春は朱武美に、命の恩人として頭を下げた。だが、それは朱武美にとっても同じことだった。あの地獄から、生きて戻れたのは、彼女がいたからだ。

 

 李吉(りきつ)という男が、仲間たちと揉めた末、思わず史春の縄を解いてしまったことが、転機だった。

 暴れ出した史春は、他の男どもを剛腕でなぎ倒し、朱武美とともに自由をもぎ取った。

 ふたりは全裸のまま、猟師小屋を飛び出し、林の中を駆けた。朱武美が隠していた馬の荷には、緊急時に焚くための狼煙の道具が積まれていたのだ。

 

 取り決めだった。

 狼煙を見た林冲は、即座に動いてくれた。

 そして、見つけてくれた。

 草むらの中で震えていたふたりを、毛布に包み、すぐに荷駄馬車を呼び寄せて、この砦へと連れ帰ったのである。

 

 小屋の中にいた男たちは、林冲の手で拘束された。気を失っていた四人と、逃げたひとり──そのすべてを、林冲の手勢が捕らえてきた。

 訓練を積んだ彼の新しい騎馬隊が、たちまちのうちに追いついたのだ。

 

「とりあえず、椅子に座って、史春」

 

 朱武美は、声をかけた。

 史春は頷き、そっと立ち上がって、ふたりの正面にある椅子に腰を下ろした。

 隣には、李姫が小柄な身体をすっと沈める。

 

「まあ、なんだ……虫にでも刺されたと思うことだな」

 

 林冲の声だった。低く、ぶっきらぼうな響き。

 

 朱武美は苦笑した。気持ちはわかる。林冲にしてみれば、精一杯の慰めだったに違いない。ただ──その顔で言えば、まるで脅しに聞こえる。

 いや、違う。あれが林冲の素顔なのだ。

 けれど、相手は今しがた地獄をくぐってきた女だ。緊張に張り詰めている。林冲の顔は、優しさよりも恐怖を呼ぶ。

 

 でも、朱武美が言葉を挟もうとした、ちょうどそのとき……。

 史春の表情が、ふっと緩んだ。

 

「……そうですね。あたしも、虫にでも刺されたと思うことにします。お優しい言葉、ありがとうございます」

 

 そう言って、史春は静かに頭を下げた。

 朱武美は、目を細めた。

 史春の心の強さを見た気がした。そして、林冲に対しても、怯まず礼を述べるその様に、思わず感嘆の息が漏れた。

 

「ならいい。強がりでも、口にできるのは、たいしたものだ」

 

 林冲が唸るように応じた。

 

「強がりではありません。本当に、そう思っています。犯されたくらいでおかしくなるような女ではありません。女でありながら、史華村を預かる身です。覚悟はあります。もしものために、避妊丸も常から口にしていました。なんの問題もありません。犯された身体など、拭けば済む話です」

 

「拭けば、いい……のか」

 

 林冲が呟く。思わず出た言葉のようだった。

 

「はい。それも、李姫殿が、あたしの休んでいる間に済ませてくださいました。ところで、あたしを犯した虫ども──あれらは、どうなったのでしょう。お聞かせ願えますか、林冲殿」

 

 名を呼ばれて、林冲が眉を動かした。

 朱武美は、心の中で舌を巻いていた。

 ここまで来ると、ただの胆力ではない。この女は尋常ではない。

 おそらく、林沖は、こういう胆力のある相手を気に入る。男であれ、女であれだ。

 

 そう考えると、ちょっと心配になった。

 史春は美人だ。それも、若く、肢体の均整がとれている。

 あの小屋で見た裸身が脳裏をよぎった。

 胸の張りも、腰のくびれも──女としての魅力を余すところなく備えていた。

 それに、服が合っていない。きつく締めつけられた胸元から、豊満な谷間がわざとらしく盛り上がっている。

 

「ねえ、李姫。史春の服、きつすぎるんじゃない? もっとちゃんとしたの、なかったの?」

 

 朱武美は、苛立ちを隠さずに言った。

 

「だってさ、この砦に若い女用の服なんて、あたしのか、朱武美のくらいしかないんだよ。それ以外は、ないんだからさ。仕方ないでしょ。あたしのじゃ、史春さんには小さすぎるし」

 

 李姫が悪びれもせず言い放つ。

 どうやら、史春の胸元が窮屈そうに見えるのは、朱武美の服を無理に着せたかららしい。さらに苛立ちが増す。

 すると、林沖が咳払いした。

 

「……虫どもは、きっちり処した。史春、あんたにではなく、朱武美に手をかけた報いとしてな。役人に突き出すか? そんな生ぬるい話じゃない。俺は楽に殺してくれなどという願いは、絶対に聞かない」

 

「口が裂けても、楽にしてやれとは言いません。あたしが知りたかったのは、城郭の有力者が裏で糸を引いていた連中を、下手に役人に渡しては、骨抜きになる可能性があるということです。それが心配だったのです」

 

「なるほどな……」 

 

 林冲は、口の端を歪めた。

 

「だったら教えてやる。あいつらは、少華山を東に下った街道沿いに埋めた。首だけを地上に出すようにな」

 

「……へえ」

 

「喋れないように舌は切り落とした。顎も砕いた。目玉もくり抜いた。だが、ただ殺すのは生ぬるい。止血して、薬で身体も癒してやった。そいつらを、土に生きたまま埋めた。首だけが土の上だ。李吉の死体も、同じようにしてやった。他の連中は、生きたままだ。すぐには死ねない。時間をかけて、死んでいく」

 

 史春は、わずかに目を見開いた。だが、眉ひとつ動かさないまま、静かに応じた。

 

「それはまた……徹底されていますね」

 

「万が一にも、助ける奴が現れないように立札も立てた。見張りもつけてある。官軍が、あんな下郎どもを救いに来るはずもない。奴らは、生まれてきたことを呪いながら、死んでいく。それだけだ」

 

「少し、気が晴れました……。ありがとうございます、林冲殿」

 

 ふたたび、史春は頭を下げた。

 その動きに合わせて、朱武美の視界に、胸の谷間が浮き彫りになった。着物の前が窮屈そうに引っ張られている。

 その谷間を林冲が凝視していないか、思わず横目でうかがう。林冲は──無表情のままだった。

 ほっと、朱武美は胸を撫でおろした。

 

「いずれにしても……今夜は、ここに泊めてください。明日の朝には、史華村に戻ります。今回の礼は、改めてさせていただきます」

 

 言い切る史春に、朱武美は呆気に取られた。

 

「無理よ。明日、山を下りるなんて、身体が持たないわ。少なくとも、もう一日は休養が必要よ」

 

 朱武美の言葉に、史春は首を横に振った。

 

「……いえ。村が心配です。史華村(しかそん)には、あたしの偽者が入っているはずです。いま、どうなっているか……それが不安なのです。早く戻らないと」

 

 強い口調だった。

 

「それなら大丈夫。差し出がましいかと思ったけど、あんたが寝ているあいだに、この少華山の者に手紙を託して、あんたの家人に届けさせたわ。その報せによれば、史華村には確かにあんたの偽者がいた。でも、実害は出ていない」

 

「本当ですか……。ありがとうございます。どういう状況なのですか?」

 

「病と称して、部屋に閉じこもっていただけだったらしい。家人たちも、不自然だと感じていたみたいね。そこに手紙が届いた。あんたの偽者は捕まった。変身の傀儡具も見つかったそうよ。安心していいと思う」

 

「それは……重ね重ね感謝いたします。しかし……ならば、なおさら戻らねばなりません。この件は、李吉の個人的な未練の範囲ではありません。もっと大きな陰謀の……一部です。それに、早急に手を打たなければ……」

 

「そう……。だったら止めないわ」

 

 朱武美は、目を細めて言った。

 

「ありがとうございます」

 

「でも、李姫を連れて行って。すばしっこいし、脚も速い。馬の扱いも一流よ。きっと役に立つ。──いいわね、李姫。明日、史春と一緒に山を下りて、史春を守ってちょうだい」

 

「はあい」

 

 李姫が、まるで遊びにでも行くかのような調子で返事をした。

 史春は目を丸くしたまま、朱武美と李姫を交互に見た。

 

「でも……そんな。していただくわけには……」

 

 困惑したように、言葉を濁す。

 

「まあいいじゃないか、史春。俺たちとしてもな、あんたのような名高い名主に恩を売るのは、意味があるってことだ」

 

 林冲が、腕を組んだまま口を開いた。

 

「つまり?」

 

「つまり、俺たちにも思惑がある。あんたに恩を売って、それを──形あるもので返してもらう」

 

「……形あるもの、ですか?」

 

 史春の声が少し低くなった。

 

「ああ。そうだ。取引といこうじゃないか」

 

「……取引、ですか?」

 

 史春は、繰り返すように問うた。

 

「ああ。嫌だとは言わせない。あんたには、それだけの恩がある」

 

 林冲が、にやりと笑った。目が据わっていた。冗談めかしていたが、本気だ。

 それに対して、史春は一瞬だけ黙り、そして、わずかに笑みを浮かべた。

 

「……ふふ。いいでしょう。では、取引の内容をお聞かせください。あたしにできることであれば、できるかぎり応じましょう。あたしは、恩はきっちり返す主義ですから」

 

 言い終えると、静かに背を正した。朱武美は、その姿に、ぞくりとした。

b史春の笑みには、怯えや逡巡の色が見えなかった。むしろ、林冲の迫りに、真っ向から受けて立つ気配すら感じられた。




■少華山(しょうかざん)
 奥州と北州の州境にある山中の砦。堅牢な地形を利用した砦に、屋敷と訓練場、砦近くには馬の放牧場も抱える。
 本作では三頭領は林沖、朱武美、李姫。少崋山を奪った後は、各地の逃亡者や反体制分子を庇護しつつ、自衛戦力を蓄えている。訓練と秩序に厳しく、無法者ではなく理念に基づく集団である。
 ※原典:陳達・朱武・楊春が拠点とする山寨。後に史春を頭領として迎える。梁山泊成立以前からあった独立勢力

※以下、原典の三頭領に関する補足

■陳達(ちんたつ)
 少華山三頭領のひとり。気性が荒く短気な武人。山寨の武力を担い、攻撃的な任務を好む。宋江を捕らえたが、朱武の説得により釈放し、のち梁山泊入り。
 ※原典:梁山泊序列第八十五位。渾名は「雲裏金剛(うんりこんごう)」

■朱武(しゅぶ)
 少華山の知恵袋。策を講じ、仲間の制止役を務める理知的存在。軍略にも通じており、梁山泊でも幕僚的な立場を取った。
 ※原典:梁山泊序列第七十二位。渾名は「神機軍師(しんきぐんし)」

■楊春(ようしゅん)
 少華山三頭領のひとり。寡黙で誠実。陳達と対照的に、冷静な行動を取る。朱武と行動を共にすることが多く、補佐役を務める。
 ※原典:梁山泊序列第七十三位。渾名は「白花蛇(はっかだ)」
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