※この作品はR-18です。

水滸伝艶義   作:ドン・ドナシアン

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55  天文明は悪謀し、林沖は郁保四を得る

 予定していた十個目の穀物庫を守っていた官軍は、若い地方軍の指揮官の首を陣中に放り込んでやっただけで、戦わずに逃げ散った。

 

 朱武美(しゅぶび)は、穀物庫の兵糧のうち半分を、きっちりと少華山(しょうかざん)に運び出すよう命じた。

 残った分は、まるで時を見計らったように集まってきた農民たちが、たちまちのうちに持ち去っていった。

 

 そのあとの進軍は、もはや退却ではない。

 朱武美たち少華山勢力は、堂々と街道を抜けて砦へ向かう。

 列の中心には、奪った兵料を載せた荷駄馬車と荷車を護る、李姫(りき)の歩兵隊──。その後方には、林冲(りんちゅう)の黒衣の騎馬隊がぴたりとついていた。

 

 誰ひとりとして顔を伏せていない。

 自信と昂揚が、列の隅々にまで滲んでいた。

 どの少華山の兵もいい顔をしていると思った。

 ついこの間まで、岳竜という悪党の頭領に従い、悪事三昧してきた連中だが、もともと政府の悪政に苦しめられて、農村などから逃げ出すしかなくて、仕方なく賊徒になるしかなかったような連中だ。

 政府への恨み辛みは多い。

 だが、だからといって、叛徒になって官軍と戦うなど、発想すらなかった連中たちばかりであり、だからこそ、自分たちの官軍に対する鮮やかすぎる勝利には唖然とするばかりだろうし、自分たちにもやれるのだという自信にも繋がったのではないかと思う。

 

 政府の穀物庫を襲い、近隣の農村に一部を施したという噂は、すでに広まっていたらしい。

 それも、相当に色をつけられて。

 賊徒の行進だというのに、朱武美たち少華山勢が進む街道には、民衆が次々と集まり、物見高く見送るばかりか、あちこちで歓声すら上がった。

 

 その声は、兵たちの心に火をつけているようだった。

 目を光らせ、顔を紅潮させている者もいる。

 少華山の兵は、もともと官の圧政に追われ、逃げ場を失って山に登った連中だ。

 ならず者ではあるが闘争心はある。

 だが、これまでの人生で、人に讃えられたことなど一度でもあった者は、どれほどいただろう。

 その彼らが、今日は義賊と呼ばれ、笑顔と歓声で迎えられている。

 朱武美は、これは誇りのようなものになるなと感じた。

 

 途中、史華村(しかそん)の一角を通った。

 道は開けられていたが、自警団が武装して立っていた。

 攻撃の意志ではない。だが、無防備ではいないという牽制だ。

 あれは史春(ししゅん)が布陣させたのだろう、と朱武美は目を細めた。

 村を守る姿勢は見せる。だが、通行を拒まぬという意志表示。

 それだけで十分だった。

 

 もはや官軍の隊すら少華山には敵わない。

 その現実を史春はわかっている。

 朱武美は、隊列を崩さず、何の合図も出さずに通過を続けさせた。

 

「史春がいないね……」

 

 李姫がぼそりと言った。

 朱武美も、それには気づいていた。

 いま三人は、行軍の列の中ほどにいた。林冲と李姫、そして朱武美。

 史春は、史華村の名主であり、自警団の隊長でもある。

 自警の場には必ず姿を見せる女名主だ。それが今日に限っていなかった。

 もちろん、戦わないという前提が双方にある以上、細かな指揮など必要ない。

 だが、それにしても姿を見せないのは妙だった。

 朱武美は、どこか引っかかるものを抱えたまま黙していた。

 

 やがて、史華村を通過した。

 村には動きはなかった。

 官軍による追撃も、結局はなかった。

 だが、朱武美はわかっている。

 これだけのことをすれば、遠からず城郭からの本格的な攻撃がくる。

 すでに農村地帯は抜けており、少華山の砦は目前だった。

 

 そのときだった。

 道の先に、馬に乗ったふたりの姿があった。

 

 ひとりは、史春。

 その横には、巨躯の若者が控えていた。

 

「史春、どうしたの?」

 

 朱武美は、行軍をそのまま進ませたまま、史春のもとへと馬を向けた。

 林冲と李姫も続く。

 史春が馬を降りて深々と頭を下げた。

 隣の若者も、同じように頭を垂れた。

 

「戦勝のお祝いにね……。林冲、以前、約束をしていた黒騎兵の旗を贈るわ……。郁保四(いくほし)──」

 

 横の若者の名らしい。

 郁保四──。

 唖然とするほどの巨漢だった。

 

 背丈も、肩幅も、体格も。

 林冲ですら肩が届かない。あの林冲の上背を思えば、異常ともいえる。

 朱武美は、こんな男を初めて見た。

 

 幅もある。動くたび、地が揺れるようだ。

 その背に乗っていた馬もまた異様だった。

 奥州産の名馬を奪い集めてきた中から選りすぐった林冲の馬が、まるで子馬に見えた。

 あれは馬ではない。龍だと、朱武美は思った。

 

「おお、旗か」

 

 林冲が目を輝かせた。

 郁保四と呼ばれた巨躯の若者が、そばの樹陰から大きな包みを運び出してきた。

 黒一色に金縁が施された大旗だった。

 太い旗竿に据えられ、風が通るたびに、低く唸るようにたなびいた。

 

「……あなたの好きな黒色にさらに金縁をさせたわ、林冲。黒色は何物に混じっても色が変わらないというのと同じように、黄金はどんなものにも混じらない石なのよ。黒虎隊の旗として使ってくれないかしら?」

 

 史春の声には、どこか照れのようなものが混じっていた。

 

「もちろん、使わせてもらう。ありがたい──。何物にも混ざらない黄金と、混ざっても変わらぬ黒か……。まさに俺に相応しいな」

 

 林冲が声をあげて笑った。

 旗が似合う、そう思わせるだけの迫力が、たしかに彼にはあった。

 だが……。

 

「えっ、旗の贈り物? そんなの聞いていないわよ」

 

 朱武美は少しむっとして言った。

 いまの史春の口ぶりでは、以前から林冲と約束をしていた気配だった。

 それはそれで構わない。だが──朱武美には、なんの話もなかった。

 それが面白くない。

 

「えっ、朱武美に言っていなかったの、林冲?」

 

 史春が当惑した声をあげる。

 

「そうよ。言ってなかったわ。ねえ、林冲、旗は少華山の賊徒を象徴する大切なものよ。前もって相談してもらわないと困るわ」

 

「少華山の旗じゃない。俺の騎兵の旗だ。少華山の旗はお前に任す、朱武美。だが、黒虎隊の旗はこれだ。これから、この旗を帝国中で一番有名な旗にしてやる。暴れまくって、官軍がこの黒虎隊の黒旗を見たら、震えが走るような旗にしてやる……。うん、これは、いい旗だ」

 

 林冲の目は、すでに旗の先にある未来に向いていた。

 戦場でこの旗を掲げて駆ける自分の姿に、心が火を噴いているようだ。

 

「もう」

 

 朱武美は頬をふくらませ、軽く唇を尖らせた。

 怒っているというよりも、少し寂しかった。

 

「朱武美、今回のあなた方の行動は、すでに近隣の農村で大きな噂になっているわ。少華山の賊徒は義賊。貧しい民衆の味方……。そういう声でいっぱいよ。そういう意味で、今回の勝利は大きかったと思うわ。このわたし自身も興奮したわよ。官軍の大軍を打ち払ったんですってね。今度、また、こっそりと史華村に遊びに来てね。そして、戦いの話を聞かせて。いいでしょう?」

 

 史春が、赤くなった顔で言った。

 声の調子に、高揚が滲んでいる。

 

「ああ、じゃあ、近いうちにな……」

 

「絶対よ」

 

 史春が笑った。

 まるで、ひとりの乙女のようだった。

 

「ところで、このでかい人、誰?」

 

 李姫がぽつりと口を挟んだ。

 

「ああ、紹介するわ。彼は郁保四よ。史華村の中で特にあたしが目をかけていた若者よ。歳は十八。家族はもういないわ。いままで、なにかと面倒を看ていたんだけど、義賊の旗を掲げていた少華山の賊徒団に入りたいと、以前から相談を受けていたの……。武芸はそれほどじゃないけど、力も強いし、馬術に関しては一流よ。よければ使ってくれないかしら。人物はあたしが保証するわ」

 

 史春の声には、はっきりとした推挙の気配があった。

 この巨漢の若者に、なにかを託しているのだと、朱武美は感じた。

 

「史春の保証なら問題ない。一緒に官軍と戦うか? おそらく、近いうちに大規模な官軍の討伐がある。あれだけ派手に暴れたからな。命懸けの戦いになるだろう──。それでもいいか?」

 

 林冲が、真っすぐに郁保四に声をかけた。

 

「あ、あ、ありがとう……ご、ございます……。戦わせて、ください」

 

 郁保四の顔が赤く染まっていた。

 大きな身体に似つかわしくないほど、声は不器用だったが喜びは滲み出ていた。

 

「喋りは得意じゃないのよ。でも強いわよ」

 

 史春が横から言った。

 

「戦人に口はどうでもいい……。それより、お前、その身体なら旗を片手で持って騎馬で戦えるか?」

 

 林冲の声が低くなる。

 軍人としての目になっていた。

 

「任せて、ください」

 

 郁保四は、迷いなく答えた。

 次の瞬間には旗を片手に持ち、ひらりと馬に跨っていた。

 

 馬が動いた。

 まるで地を蹴るような音を立てて、道を駆け抜ける。

 

 左手一本で大旗を支えたまま、一直線に走り、道が折れる手前で急旋回。

 今度は路外に出て、小木を踏み潰しながら、右手の剣で枝を薙ぎ払って戻ってくる。

 

「凄い……」

 

 朱武美は思わず呻いた。

 馬も、乗り手も、まったくぶれない。

 あの迫力ならば、敵の騎馬隊すら、馬の方から怯んで崩れるかもしれない。

 

「ど、どうで、しょうか?」

 

 郁保四が戻り、馬から軽やかに飛び降りた。

 

「郁保四、お前は今日から俺の騎兵の旗手だ。どんなときでも、俺の後ろを駆けろ。それが役目だ。その黒旗は官軍を蹴散らす賊徒軍の象徴だ。その旗が揚がっている限り、俺の軍は無敵だ。そして、その旗が倒れるときは、俺たちが破れるときだ。その旗をお前が守るのだ。お前が俺の後ろを駆ける限り、お前は俺が守ってやる。その代わり、お前は俺に一歩も遅れることなくついてこい」

 

 林冲が真顔で言い切った。

 それは、黒騎兵の核を与えるという宣言だった。

 朱武美にはわかった。

 林冲は、本気で郁保四を気に入った。

 それが、なんだか面白くない。

 

「ありがとう……ございます、林冲……様……」

 

「俺のことは隊長と呼べ」

 

「は、はい……、隊長」

 

 郁保四が、どもりながらも大きな声を張った。

 その顔は、子どものように嬉しそうだった。

 やっぱり、ちょっと面白くなかった。

 朱武美は、そっと唇を噛んだ。

 

 


 

 

 天文明(てんぶんめい)には、このところ愉快ではないことが続いていた。

 すべては、李吉(りきつ)という愚か者を使い、元婚約者である史春の治める史華村の利権を奪おうと目論んだのが発端だった。

 

 史華村──。

 

 この豊城(とうじょう)の行政府に属する村々のなかでも、群を抜いて豊かな農村である。

 今年の凶作で周囲の農村が苦しみに喘ぐなか、史華村だけは優れた経営と先見で、しっかりと収穫を守り抜いた。

 その富を奪えれば、大きな利権に化ける。

 

 天文明は、李吉をけしかけ、史春を誘拐させた。

 そのために電撃の傀儡(くぐつ)具を渡し、史春の偽者を演じさせるための変身具も用意した。

 さらに、史華村の実権を奪い取ったあとで、速やかに利権を天文明に移せるよう、地方官吏たちへの賄賂も惜しまなかった。

 

 元手はかかった。

 だが、得るものは大きい──はずだった。

 もちろん、あの史春が李吉程度の男に完全に屈するなどとは最初から思っていなかった。

 だが、精神を痛めつけられ、戦意を失い、村政の表舞台から退くことになれば、それで充分だった。

 その隙に、第二、第三の手を打って、史華村の内側からすべてを食い潰してやるつもりだった。

 

 だが、すべて失敗した。

 李吉は、数日間、史春の監禁には成功したらしい。

 だが、最終的に彼を含めた誘拐に加担した者たちは、全員惨たらしく殺された。

 場所が悪かった。

 史春を拘束していたのは、少華山の賊徒たちの縄張りだったのだ。

 

 しかも──。

 その少華山も、すでに頭領が変わっていた。

 かつての岳竜(がくりゅう)ではなく、林冲と朱武美という新たな首領が治めていたという。

 

 縄張りで勝手な真似をした報い──ということだろう。

 賊徒たちは、李吉たちを捕らえ、道端に首だけ出して埋め、見せしめのように殺した。

 五人の部下を失ったところで、痛くも痒くもない。

 だが、問題はそこではない。

 自分の命を受けた者たちが、少華山の賊徒に殺された──。

 それが、天文明にとっては許せぬ損失だった。

 

 かつて、天文明は少華山の前頭領・岳竜と昵懇だった。

 顔の利く男だった。賊徒との太い繋がりは、裏の世界での評判を押し上げる武器にもなった。

 

 そのために、岳竜には金も手間も惜しまなかった。

 女に目がない男だったから、抱かせるための女も手配した。

 酒も、贅も与えた。

 投資だったのだ。利権と裏の信用を得るための。

 

 ところが──。

 その岳竜が、いつの間にか死んだ。

 

 そして、新たな頭領にとって代わられていた。

 林冲と朱武美──聞いたこともない名だった。

 それを天文明は知らなかった。

 知っていなかったという事実が、なによりも傷だった。

 

 顔役としての評判が落ちた。

 裏の世界では、「知らなかった」が最大の恥だ。

 

 追い打ちをかけるように、噂が広まった。

 少華山の新たな賊徒たちは、女頭領に手を出したという理由で、天文明の首に賞金を懸けたという。

 

 天文明と、その主だった部下の生首を持って行けば、多額の金を渡す──。

 そう触れ回っているらしい。しかも、公然とだ。

 

 法も秩序もあったものではない。

 だが、それを訴えても、役人も軍も動かない。

 むしろ、天文明に近づくのを恐れて避ける始末だった。

 

 部下たちは逃げ出した。

 ひとり、またひとりと離れ、いまや天文明は地下も同然の場所に潜まねばならぬ有様だ。

 

 半月ほど前には、さらに事態が悪化した。

 

 少華山の賊徒が、地方政府の穀物庫を十箇所も襲撃したのだ。

 奪った兵糧を民衆にばら撒き、しかも出動した地方軍を完膚なきまでに叩き潰した。

 その一件が、すべてを変えた。

 

 もとより横暴な役人と軍を疎んじていた民衆は、拍手喝采だ。

 少華山の賊徒は義賊だ──そんな噂が、火のついたように広がっていった。

 

 そして、その義賊が敵と見なしている相手こそ、天文明だった。

 

 悪名は、さらに深く刻まれた。

 もはや表を歩けない。

 あの黒旗を見るだけで、賞金稼ぎや暴徒が襲ってくる。

 

 天文明にとって、少華山の賊徒は鬼門そのものだった。

 

 だからこそ、願うのだ。

 官軍の大軍が一日も早く山を包囲し、あの黒旗を焼き払う日を──。

 

 そして──数日前。

 いよいよその日が来た。

 

 三千の官軍による、少華山への本格的な討伐がついに始まったのだ。

 

 これは、豊城に駐留する軍の総勢力と言ってよい規模だった。

 収税したばかりの穀物庫を襲われた行政府の怒り──その執念が、ここに形を取った。

 

 天文明は期待した。

 勝利を信じた。

 だが──。

 

 結果は、わずか一日での官軍の退却だった。

 

 少華山の山道に入り込んだ大軍は、賊徒たちの仕掛けた罠に次々とはまり、足を止めたところを、黒衣の騎馬隊に蹴散らされたのだ。

 三千の兵が、わずか数百の賊徒に圧倒された。

 

 惨敗だった。

 

 少華山の評判は、さらに高まった。

 黒旗を掲げる賊徒軍は、もはや噂ではなく、現実の英雄として語られている。

 

 ──そのときだった。

 

 天文明が潜む地下室に、かすかな警報が鳴った。

 

 耳に馴染んだ、だが油断のならない音だった。

 この地下に通じる通路には、高価な傀儡具による警告装置を設置してある。

 それが、作動したのだ。

 

 天文明は身じろぎせず、装置の目をのぞき込んだ。

 

 接近してくるのは、天文明の部下たちだった。

 顔を見て、ようやく息を吐く。

 

 しばらくして、地下室の扉の前にふたりの影が立った。

 合言葉を確認し、天文明は扉を開いた。

 

 水と食料を抱えた部下ふたりが、暗がりのなかに滑り込んできた。

 

 ふたりとも、どこか疲れているように見えた。

 だが、それも無理はない。

 この街で天文明の名を口にすることすら、もはや命がけだった。

 

「親分、水と食料です……」

 

「おう、そこに置いとけ……。ところで、外の様子に代わりはないか?」

 

 天文明が声をかけた。

 

「少華山の賊徒の頭領ふたりに賞金が懸けられました」

 

 ひとりの部下が言った。

 額を聞いた天文明は、すぐに首を振った。

 賞金は悪くなかった。

 だが、問題はそこではない。

 

 三千の官軍ですら勝てなかったのだ。

 その首を狙いに行く愚か者など、どこにいるというのか。

 

 むしろ、あの黒衣の騎馬隊に憧れて、少華山の名の下に加わる者のほうが多い。

 それが現実だった。

 がっかりだ──。

 天文明は目を伏せた。

 

「……それと、もうひとつ。実は、面白い男を見つけました」

 

「面白い男?」

 

 天文明が顔を上げた。

 部下の声に、ほんのわずか熱があった。

 

「王四(おうし)という男なんですがね……。衣類を扱う商人です。実は、うちに借金がありましてね。利息を少し負ける代わりに、情報を持ち込んできました」

 

「情報?」

 

「先日の少華山の討伐戦のとき、例の黒衣の騎馬隊が使っていた旗──。黒地に金縁の大きな旗ですね。あれがかなり話題になってるんですが、どうやら、その旗を作ったのが、この王四の店だったらしいんです」

 

 天文明は鼻で笑った。

 

「なんだそんなことか。賊徒だって旗くらい作る。連中の息のかかった者がこの城郭に潜ってるのは、いまさらの話だ。……それで俺は、表も歩けないんだぞ」

 

「──違うんですよ」

 

 部下の声が低くなった。

 

「その王四の話では、旗を注文したのは……史春だったそうです」

 

「史春だと?」

 

 天文明の顔が強ばった。

 唇が引きつり、目に怒りの色がにじんだ。

 

 天文明は眉をひそめた。

 

 史春──。

 あの女と少華山の頭領が、裏で繋がっているのではないかと、天文明は以前から疑っていた。

 

 なにしろ、李吉が監禁した史春が命を拾ったのは、現場にいた男たちが少華山の女頭領に手を出したことが原因だという話だった。

 その騒動の中で史春も救われたとすれば、少華山と史春は、そこで接点を持ったことになる。

 そこから交友が始まっていたとしても、なんら不思議はない。

 

 だが、これまではあくまで憶測だった。

 証拠はなかった。

 

 だが──。

 

 史春が自ら作らせた旗が、黒衣の騎馬隊の象徴として掲げられていたのなら話は別だ。

 それは単なる関係ではない。

 組織の根幹に関わる、明確な結びつきだ。

 

 天文明は腕を組んだ。

 

 ──これは使える。

 

 思考がひとつの形を取りはじめる。

 霧のようだった状況が、わずかに晴れた気がした。

 

「おう、お前ら、その情報を役人にたれこめ。史春が少華山と通じているとな……。それと同時に、史華村に人を送り込め。徹底的に女名主の周辺を探らせろ。たとえば、史春の家に普段よりも多くの食材が集められていないか、見知らぬ訪問者はないか……。とにかく、金をばら撒け」

 

「わかりました」

 

「いいか、奴らの結びつきを示す材料を拾ってこい。官軍も役人も、いまは少華山に対してはらわたが煮えくり返っているはずだ。少華山に通じる者がいれば、どんな相手にも喰らいつくだろう」

 

 天文明は、唇の端を吊り上げた。

 それは笑みだったが、血の気のない冷笑でもあった。

 

 ──いいだろう。

 あの女と、黒旗の連中が共にいなくなれば、表を歩くこの身も戻ってくる。

 あとは、火に油を注ぐだけだ。

 

 やっと、天文明にも逆転の目が見えてきた。

 長い膠着の底から、ようやく一筋の光が差し込んだようだった。





■郁保四(いくほし)
 史華村の名主・史春が、黒騎兵の旗を託す者として林冲に紹介した若者。年は十八。
 その巨体は、騎馬にまたがるだけで周囲を圧する威容を持ち、金縁の黒旗を片手に戦場を駆け抜ける姿は、まさに獣の如き迫力を放つ。
 寡黙だが誠実で、旗の意味を知る者として林冲の背を守る役目に自ら喜んで飛び込んだ。
※原典:郁保四。梁山泊序列105位。渾名「険道神」。かつて盗賊団の頭領であり、梁山泊が買い付けた馬を襲撃して盗んだことで騒動となる。曽頭市に逃げ込むが、後に裏切って梁山泊に投降。最終的には梁山泊に加わり、方臘討伐戦にて戦死

■王四(おうし)
 史華村で織物を生業とする職人。史春の意を受けて、黒地に金縁の大旗──黒騎兵の象徴を織り上げた。
※原典:王四。史華村の史進の屋敷に仕える家人であり、史進と少華山が交わす手紙を運ぶ役を担っていたが、酔って眠っていた隙に猟師・李吉に書簡を奪われる。これを契機に史進の屋敷は官軍に包囲され、史進は逃亡・蜂起し、少華山の頭領の一角を担うこととなる。
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