「悪かったわね、
湯気の向こうで、その表情が険しく歪むのを見て、史春は理由がわからず当惑した。
「なにを、そんなに腹を立てているの。林冲はいつ来るのかと訊ねただけじゃない」
「林冲は来ないわよ──。
朱武美はかなり不機嫌な口調だ。
「それは……わかっているけど……」
「じゃあ、なに? 林冲がいないことが、そんなに不満なの?」
湯面が小さく揺れた。
「残念だと口にしただけよ。来なくて不満だなんて、ひと言も言っていないわ」
史春は眉を寄せた。
「これで四回目だわ──」
すると、朱武美の大きな声が湯場に響いた。
「なにがよ?」
史春は首を傾げた。
「この短い時間で、林冲が来なくて残念だと口にした回数よ──」
「そうだっけ?」
鋭い朱武美の視線が突き刺さり、史春はわずかに身を引いた。
すると、
史家自慢の屋敷内の湯場である。
本棟から少し離れた屋家であるが敷地の内にあり、小川から水を引き込み、薪を焚いて湯を沸かせる造りになっている。
先日の官軍との戦勝祝いで少華山の三頭領を屋敷に招待したのだが、やってきたのは、朱武美と李姫のふたりであり、林沖はいなかった。
とりあえず、史春は、朱武美と李姫を迎えるとすぐに湯へ誘ったのだ。
客と主人がともに裸で湯に浸かるのは本来礼を欠くが、すでにそのような隔たりはない関係だ。
このあいだに屋敷では陳二女が食事と酒の支度を整えているはずである。
湯で身体を温め、そのまま温かい料理と冷えた酒に移る流れで喜んでもらおうと思っている。
久方ぶりに訪れたふたりと、今夜は存分に時を過ごすつもりだった。
それにもかかわらず、林冲の名を出した途端、朱武美はこの有様になってしまった。
確かに、林沖がこなかったことを訊ねたかもしれない。
だが、史春としては、三人そろって来るものと思い込んでいたところへ、朱武美と李姫のふたりだけが現れたことに驚いただけだ。
もちろん、史春としても、少華山がいまや容易ならぬ状況にあることは理解している。
少華山はすでに単なる賊徒ではなく、豊城の県令府から手のつけられない叛徒として狙われる存在となっていた。
地方政府の暗愚無能を糾弾し、民を救う義賊を掲げ、司政の管理する食糧庫を襲って凶作に苦しむ農民へ解放し、討伐に出た官軍を一日で蹴散らしたのだ。
その名声は民衆のあいだで急速に広がっている。
豊城の役人たちにとって、これほど忌々しい存在はないだろう。
しかも、林冲は各地に立て札を立て、「豊城の地方政府」ではなく「豊城の痴愚政府」だと書き散らして煽り続けているという。
それにより県令は激怒し、林冲と朱武美に高額の賞金を懸けただけでなく、討伐のため北州軍の出動を要請したという噂まで流れていた。
林冲が少華山を離れられない事情は、史春にも理解できる。
だから、来られないことを残念だと口にしただけだった。
三人で湯に浸かり、なにげなく呟いたそのひと言で、朱武美の顔色が変わり、急に責め立てられたのである。
「なに笑ってんのよ、李姫──」
朱武美が、今度は突然に笑い出した李姫に噛みついてきた。
「うわ、こわ」
李姫はちゃぽんと湯に身体を沈めて離れる。
朱武美がまたもや、史春に顔を向けて睨んできた。
「だいたい、史春って丸わかりなのよ」
「……丸わかりって……なにがよ?」
「屋敷に着いてから、たった一刻のあいだに四回も林冲がいなくて残念だって口にしたら、誰だって気があるってわかるわよ」
朱武美が頬を膨らませる。
「気があるって……」
「図星でしょう──。白状しなさいよ、史春。でも、林冲は渡さないからね」
睨みつけられ、史春は苦笑した。
林冲に特別な感情を抱いていることは否定しない。賊徒とはいえ、あれだけの男である。女として惹かれるものはもちろんある。
だが朱武美も好きであり、男を巡って争う気はないのだ。
なによりも、あの猟師小屋の事件以来、男そのものに倦み果てている思いのほうが強い。
「へえ、史春も、林冲のことが好きなの?」
湯船の端まで離れて、鼻歌をうたっていた李姫が振り向いた。
無邪気そのものの顔だった。
「好きじゃないわよ──」
怒鳴ったのは朱武美だ。
李姫の身体がびくりと跳ねた。
「な、なに言ってるのよ。さっき自分でそう言ったじゃない。それなのに否定するの?」
「なに言ってるの──。あんたまでからかうの、李姫?」
朱武美が声を荒げる。
李姫は意味がわからないという表情を浮かべた。
林冲のことになると、朱武美は露骨にむきになる。
史春は思わず吹き出した。
戦では冷静な女策士でありながら、林冲に関しては子供じみた執着を見せる。
その様子が可笑しくて、つい揶揄いたくなる。
「林冲は好きよ。大好き」
史春はわざと甘く響かせた。
朱武美が目を見開き、次の瞬間、泣き出しそうな顔になった。
さすがに史春も慌てる。
「友達としてよ。友達──。朱武美や李姫と同じくらいに好き」
そう告げて、深く息を吐いた。
酔ってもいないのにこれほど絡むのだ。
酒が入ればどうなるのか、想像するだけで頭が重くなる。
そのとき、湯船に隣接する脱衣場に気配が走った。
「あ、あの……湯加減はいかがでしょうか」
史春が応じると、脱衣室で衣擦れの音が止まった。
少女の声だ。隣村から雇い入れた下女のひとりで、名は
「いい湯加減よ。ありがとう」
史春は応じた。
この日のために屋敷の支度はすべて整え、ほかの家人には暇を出してある。
いま、この屋敷にいるのは必要最小限の者だけであり、執事として使っている
朱武美たちの来訪は、家人に知らせたくはない。
本来なら五人にも暇を出したいところだが、借金の担保として預かっている身であり、隣村へ戻すわけにもいかなかった。
かといって、陳二女ひとりにすべてを任せるのも無理がある。
結果として、屋敷に残る者としてはちょうどよい人数だった。
史春が答えると、脱衣場の気配は静かに消えた。
「ところで李姫は、どうしてふたりの仲間になったの。あなた、この国じゃなくて北王国の出身でしょう?」
史春はまだ表情の固い朱武美を見て、話題を変えるように訊ねた。
「あたし? あたしは林冲の愛人にしてもらうためについて来たんだよ」
李姫は屈託なく言った。
史春は思わず目を見張った。
「その話はなしだって言ったでしょう──」
朱武美が噛みつくように叫んだ。
「なしでもいいよ。前にも言ったじゃないか、朱武美。これはあたしの問題であって、林冲にも朱武美にも関係ないんだ」
「関係あるじゃないのよ。林沖の子種の話じゃないのよ」
「子種?」
さすがに史春も驚いて言葉を挟む。
「だから、それは里の掟だって、あたしは掟には従うけどね。林冲がその気になれば、いつでも処女を渡すだけさ……」
「林冲はその気になんてならないわよ──」
朱武美が李姫の言葉を遮った。
その顔は強ばっている。
「朱武美じゃなくて、林冲が決めることだよ。それに、あたしは別にそれでも構わないんだ。男女のことなんて面倒そうだしね」
「面倒?」
朱武美が李姫を見る眼を細めた。
「うん。でも、林冲が望めば抱かれて子を授かる。それまでは里の掟で、ずっとついていく。それだけのことさ……。それに関係なく、あたしは朱武美も林冲も好きだよ」
李姫は穏やかに笑った。
「ねえ……それ、どういうことなの?」
史春は呆気に取られて訊ねた。
李姫が史春に顔を向けた。
「あたしの里は北王国でも隠れ里の戦闘種族の集落なんだ。あたしは里長の娘のひとりでね。掟があるんだよ。長の家の娘は、自分より強い者と結ばれて子を残すって掟さ……」
「へえ……」
史春は頷いた。
隠れ里というくらいだから、閉鎖的な場所だろうとは想像がつく。
そういう場所は、血が濃くなりすぎないために、定期的に外の血を必要する。その一貫かもしれない。
「それで、旅をしていた林冲と朱武美が里に立ち寄って、あたしと決闘することになったんだ」
李姫は淡々と語った。
「それで……負けたの?」
「そういうこと。だから林冲の子を授からなければならない。それまでは里に戻れない決まりなんだ」
平然とした口調に、史春は言葉を失った。
「林冲ははっきり断ったでしょう──。その話は終わりよ」
朱武美が口を挟んだ。
「だから、それでいいって言っているじゃないか。里に戻れば兵として使われるだけだ。それより外を旅している方がずっといい。林冲の子を授かるかどうかは、あたし自身の問題だよ」
「子種、子種って。繰り返さないで」
朱武美の声が荒くなった。
「林冲も人気者ね。朱武美に李姫……あたしまで加わりそうだし」
史春が冗談めかして言った。
「怒るわよ、史春──」
朱武美が声を張った。
史春は笑った。
そのときだった──。
湯場の外で人が揉める気配が走った。
「それをどこへ持っていくつもりなのよ、あんたたち──」
陳二女の鋭い声が響く。
ただ事ではない調子だった。
「陳二女、どうしたの──?」
史春は湯場の窓へ身を寄せ、外を覗き込みながら叫んだ。
夜の闇が広がるばかりで、なにひとつ見えない。
だが、違和感だけが胸に沈んだ。
人の気配がある。
しかも、ひとつやふたつではない。
無数の足音が、闇の底で蠢いている。
湯の温もりのなかで、史春の背筋を冷たいものが走った。
次の瞬間、陳二女の断末魔のような悲鳴が夜気を裂いた。
「陳二女──」
史春は再び叫んだ。
その声に重なるように、李姫が湯船を蹴った。獣じみた速さで身を翻し、隣の脱衣場へ飛び込む。
史春も湯を跳ね散らしながら外へ出た。
朱武美も全裸のまま続いてくる。
「おかしいよ……なにもない──。服も、武器も、全部消えてるよ、朱武美──」
李姫の声が震えて響いた。
その直後だった。
「よくやったぞ、花芳──。さて、お前たち、湯加減はどうだ?」
建物の外から、聞き慣れぬ男の声が響いた。
「屋敷は完全に包囲している。少華山の悪女どもといえど、素っ裸ではなにもできまい。大人しく投降しろ──」
言葉に重なり、無数の男たちの哄笑が闇を震わせた。
完全に包囲され、武器どころか、素っ裸で衣服もない。
史春は、胸の奥が音を立てて崩れていくのを感じた。