「美女三人の縄化粧姿か。滅多にお目に掛かれない見物だな。黒虎隊の連中も目のやり場に困っているぞ」
かっと身体が熱くなり、胸の奥がほどけていく。
林冲は馬上のまま、血に濡れた大きな槍の武器を肩に担いでいた。
「美女って、あたしも入るの、林冲。縛られるのが好みなら、いくらでもしてあげるよ。子種もくれる?」
「ふざけないで、李姫──。早く縄を切ってよ、林冲」
林冲が馬を降り、短剣を抜く。
革縄が次々に断ち切られていく。
「隊長……服です」
「ありがとう」
朱武美は自分の服をひったくり、樹の陰へ走った。
李姫も同じように姿を消す。
最後に史春の縄が落ちた。
腕と腿を締めつけていた拘束がほどけ、膝が崩れる。
「……助けられたのは二度目ね、林冲──。ありがとう──」
史春はそのまま裸身で抱きついた。
血と汗の匂いが混じる胸に顔を埋める。
「な、な、なにやってんのよ、史春──」
樹陰から朱武美の声が飛ぶ。
「だって……かっこよすぎるんだもの。この人がいると心が持たないわ。李姫だけじゃずるい。あたしも愛人候補に入れてもらうわ」
史春は、林冲を抱く腕にさらに力を込めた。
林冲は困惑する様子だが、引き剥がすようなことはしない。
やっぱりどこまでもいい男だ──。
「林冲はわたしのよ。渡さないって言っているでしょう──」
急いで衣類を整えた様子の朱武美が飛び出してきて、二人の間に割って入ってきた。
「いいじゃないの。裸で一緒に戦った仲でしょう。それに、頭領に女がひとりなんて不自然よ。二人や三人いたっていいわ」
史春は笑いながら続けた。
「二人も、三人もってなによ──。ひとりで十分よ」
「あたしも、もう史華村にも戻れそうにないし、ちょうどいいじゃない」
「話をすり替えないで。とにかく服を着なさい。すぐ砦に戻るわよ」
朱武美が史春の胸に衣を押しつけた。
史春は渋々それを受け取り、樹の陰で腕を通す。
「……それにしても早かったわね。どんなに急いでも一刻はかかると思っていたのに」
朱武美が林冲の腕に絡みつきながら、訊ねているのが耳に入ってくる。
「たまたまだ。夜駆けの訓練で山麓を走らせていたら、史華村の火が見えたんだ。慌てて駆けつけたら、危機一髪だったな」
「運が味方したのね」
朱武美が嬉しそうに身を寄せた。
「ねえ、ふたりとも。いつまでいちゃついてるのさ……。これ、見て──。ほら、さっさと行くよ」
遠くで李姫の声が響いた。
史春も身を乗り出す。
李姫が現れたのは、炎を噴く史春の屋敷の裏手、土壁の外側からだった。
銃を構え、ひとりの男を前に押し出している。
「あっ、
史春は着意もそこそこに、飛び出してきて叫んだ。
「えっ、天文明?」
朱武美が林冲から身を離す。
「天文明だと──」
林冲が駆けた。
史春と朱武美も続き、黒虎隊の騎馬が一斉に天文明と李姫を取り囲む。
包囲された瞬間、天文明は顔色を失い、その場に崩れ落ちた。
「銃で撃ち合ってる最中に見つけたんだよ。賞金首に似てたから殴って転がしてさ。まだ生きてたから連れてきた」
李姫は銃口を下げない。
史春は男の顔を見つめた。
噂どおりの人相だ。
史春を漁師小屋に監禁させ、朱武美に手を出した張本人。今回の史華村の包囲も、この男が描いた筋書きに違いなかった。
一方で、周囲がざわめき始めていた。
史華村の者たちが、燃え盛る屋敷へ水を運び集まってきたのだ。
官兵が消えたのを確かめ、ようやく近寄ってきたようだ。
「林冲……朱武美……」
史春は二人を見た。
ふたりが視線を向ける。
「……このまま、あたしを少華山に連れていって」
「いいのか?」
林冲が短く問う。
史春がどれほどこの村に心血を注いできたか、林冲も知っている。
「……いいのよ……。このまま、行くわ」
史春はそれだけ答えた。
「よし」
林冲が大鎌を抜いて、天文明の喉元へ伸ばす。
「ひ、ひいっ……た、助けてくれ……金なら出す……いくらでも……頼む……」
天文明が地に額を擦りつけた。
「いいから顔をあげろ。斬れんだろう──」
林冲が苛立ったように声をあげた。
「い、いやだ──。頼む。このとおりだ──。なんでもする。なんでもするから、命だけは──」
しかし、天文明は地に顔をつけたまま、頭をあげようとしない。
林冲の舌打ちが響く。
「わかった──。命だけは助けてやる。顔をあげろ──」
「ほ、本当か」
天文明は縋るように見上げた。
「嘘だ──」
刃が走った。
胴体から離れた首が飛び、血が土を濡らす。
遅れて、天文明の胴体が横に転がる。
もう林冲は、天文明を見ていない。点鋼槍を自分の馬の身体に括り付けている、
「よし、砦へ戻るぞ──。朱武美は俺の馬だ──。史春と李姫は、その後ろの馬にひとりずつ乗れ」
林冲が叫ぶ。
史春たちは、準備された騎馬に同乗した。
「出発──」
黒虎隊が史華村を背に、少華山へ動き始める。
史春が生まれ育った屋敷は、いまだにごうごうとした炎の中に包まれていた。
「どうしても旅に出るのか、史春?」
林冲が低く問うた。
朱武美も困惑した表情で史春を見つめている。
少華山の砦にある頭領用の建物である。
ほかの建物群とは、少しだけ離れた小高い丘の上にあった。林冲と朱武美が夫婦のように暮らしている場所だ。
史春はそこで、改めて自分の決心を伝えていた。
「ここで一緒に官軍と戦おうじゃないか。お前もそうしたいと言っていたはずだ。まだ三日しか経っていない。もう少し考え直せないのか」
林冲の声には焦りが混じっていた。
史春は静かに首を振る。
史華村にはもう戻れない。
屋敷を焼き、自らすべてを断ち切ってここへ来た。
これまで、ただただ史華村のことだけを思って生きてきた。
外の世界を知らずとも、それで足りていると思っていた。
だが名主でなくなった途端、自分が空っぽになった。
なにを支えに生きればいいのか、わからなくなったのだ。
「決心は変わらないわ。あたしは旅に出たいの。どうか、路銀を融通してちょうだい」
史春ははっきりと言った。
「路銀も支度も用意する。それは約束する」
林冲は頷いたあと声を落とした。
すると、朱武美が口を開く。
「でも、わたしたちは、史春が少華山に残るものだと思っていたのよ──」
朱武美が身を乗り出す。
「考え直してくれないか、史春」
「そうよ。一緒にここで暮らしましょう。お願いよ」
林冲と朱武美がさらに懇願してきた。
「でも……」
史春は吐息をつきながら言葉を濁した。
実のところ、まだ史春の心には迷いがある。林冲たちのことは好きだ。
少華山の戦いぶりは胸がすく思いだった。
官軍に抗い、農民に穀物を分け与える姿も立派だと思った。
だが、それと、史春自身が賊徒になることは別だ。
その本音をぶつける勇気はなかった。
「史春──」
林冲がまっすぐ見据える。
「なに、林冲?」
史春は、林冲に視線を合わせた。
「俺たちは頭領という立場にこだわっていない。実は、あんたに少華山を率いて欲しいと思っている」
「えっ?」
史春は言葉を失った。
「冗談じゃないわよ、林冲」
「本当よ。冗談じゃないの──」
すると、朱武美が続けた。
「朱武美まで?」
史春は唖然となった。
「身分で威張る組織にはしたくないの。それぞれの力で役割を持ち、自分の意思で戦う場所にしたい。その中心に立てるのは史春しかいないわ」
「どうして、あたしなのよ? あたしは、賊徒なんて知らないわよ。史華村で名主をしていた女だわ」
「だからこそよ──」
朱武美の声は切実そうだった。
「だからこそって……?」
「史華村をあれほど豊かにした手腕だ──。その能力で、俺たちの頭領になって欲しいんだ。この山砦を導いてもらいたい」
林冲も言った。
ふたりとも大真面目であり、真剣な表情だ。ふたりの態度からは、単に史春を引き留めるためにそう言っているわけではなく、本当にそう考えていることが感じられた。
「今夜、史春に腹を割って話し合うつもりだったのよ……。それなのに、旅立つなんて……」
朱武美だ。
「本気の本気で、あたしを頭領にするつもりなの? いきなり?」
史春は戸惑った。
「さっきも言ったけど、あたしは賊徒のことなんてなにも知らないわ」
「誰も最初は知らん。俺も朱武美も同じだ。それに、俺たちは頭領の器じゃない」
林冲が笑う。
「あなたが頭領の器じゃないですって?」
史春は絶句してしまう。
林冲はどこまでも、頭領らしかった。林冲が頭領の器でなくて、誰にそれが務まるというのか。
「朱武美は軍師として支える。俺は軍を率いる。史春は砦全体を導く。それが一番だ」
林冲がさらに言った。
史春は唖然としたまま立ち尽くしてしまった。
驚くとともに、これほどの勢力を惜しげもなく渡そうとする二人の覚悟には胸を打たれた。
「……ふたりの気持ちはわかったわ……。でも、決心は変わらない……。いえ、なおさら、強くなったわ」
史春は静かに言った。
「でも、史春──」
「いえ、最後まで聞いて」
史春は朱武美の言葉を遮った。
言葉を続ける。
「……だったら、なおさら、あたしは旅に出ないといけないわ。あたしはもの知らずよ。見聞を広げなければならない。それをせずに、頭領など務まるはずがない。世間を知らぬまま人を導くことなどできないわ」
「史春……」
朱武美が縋るように史春を見る。
これだけ言ってくれるのだ。ありがたいと思う。自分たちの仲間になってほしいと言われているのではない。頭領になってくれと懇願されているのだ。
しかも、これだけの英傑のふたりがだ──。
嬉しくは思う。
だが、史春は小さく首を横に振った。
「……だから旅に出るわ。戻るかどうかはその先で決める。でも、いまは世の中を見たい。人の声を……この国の姿を……」
林冲がしばらく史春を見つめてきた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。もう止めん。だが俺は、史春がしばらく旅に出るだけだと思うことにする。いつか、頭領としてここに戻ってくるとな」
「ありがとう、林冲」
史春は深く頭を下げた。
「わたしは納得いかないわよ──。世間ってなによ──。ここも世間よ──」
朱武美が声を震わせた。
「朱武美、ごめん……。でも、決めたのよ」
「残ってよ、史春──。一緒にやりましょうよ。友達でしょう」
あまりに必死な声に、史春は言葉を失う。
「朱武美……」
「それに……その……」
朱武美は視線を泳がせながら続けた。
「……愛人の話……考えるから……。本当は嫌だけど……、でも少しなら我慢する……。わたしが一番で、史春が二番なら……」
「はっ?」
史春は目を瞬かせた。
「林冲の愛人になるのを認めるわ。史春ならいいわ。それでもだめ?」
朱武美の顔は、いまにも泣きそうだった。
史春は胸が締めつけられた。
そこまで譲歩するほど、自分が必要だと思われているのだ。
「おい、朱武美……」
林冲が困惑した声を出す。
「林冲、あなたは黙って──史春はここに必要な人なの」
朱武美はきっぱりと言った。
「戻らないとは言わないわ、朱武美。でも、いまは旅に出させて。あたしにはそれが必要だと思っている」
史春は、大きく息を吐いてから、再び首を横に振った。
「……わかった。そこまで言うなら、もう止めない……、でも、絶対に戻ってきてよ。約束よ」
朱武美は長く息を吐いた。
そして弱々しく笑った。
出発の日が来た──。
前の晩、林冲は牛一頭と豚五匹を購い、砦をあげての別れの宴を設けてくれた。
酒樽も惜しみなく開かれた。
史春は久しぶりに痛飲した。
そのせいで、早朝のはずだった出立は、
史華村では、朝は暗いうちから動くのが当たり前だった。
名主であっても、生活の刻みは村人と同じにしてきた。
朝寝など、思い返しても覚えがない。
自分が寝坊したことで、もう農村の名主ではないのだと、はっきり思い知らされた。
史春はひとりで苦笑した。
宴は愉しかった。
林冲たちが「兵」と呼ぶ賊徒とも杯を交わした。
顔も名も知らなかったが、彼らの多くは、史華村の若い女名主のことを知っていた。
評判の名主と酒を飲みたいと、次々に声をかけてきた。
兵たちは荒れていなかった。
盗みを生業にしていた頃とは違い、官軍と戦ういまの立場に誇りを持っている。
話を聞くうち、ほとんどが、重い税や横暴で田畠を失い、行き場をなくした者たちだと知れた。
根っからの悪党は、すでに少華山を去るか、処断したと林冲が語った。
「畠と家畜の件、さっそく試すよ……。助言、ありがたい」
砦の北の麓まで見送ってきた林冲が、史春の手を握りながら言った。
朱武美と李姫も並んでいる。
畠と家畜のことというのは、史春が彼らに与えた助言のことだ。
滞在は短かったが、出立に際し、砦の改善点を尋ねられたのだ。史春は、思ったことを率直に伝えた。
砦の内に畠を作り、家畜を飼うこと──。
籠もる事態もある以上、備蓄だけでなく、自前で食を得られれば心強い。
それに、少華山は水が豊かだ。
川もあり、小さな池が多く、水辺の地は作物が育ちやすい。
兵の多くが農村の出で、畠作りは難しくないはずだ。
手間のかからぬ野菜の名も挙げた。
さらに、田を開く案も出した。
長い目で見れば、穀を自前で得るのが望ましい。
水があれば、ここでも稲は育つ。
開墾は体を使う。戦の備えにもなる。
林冲は、何度も感嘆して頷いていた。
家畜については、豚を勧めた。
育ちが早く、広い場所を要らず、餌も手がかからない。
もうひとつ、厠と糞尿の扱いも口にした。
埋めるだけでは不都合が多い。
畠を作るなら肥にもなるし、扱いを誤れば疫を招く。
溜めを設け、周りを清めるべきだと伝えた。
林冲も朱武美も、そこまでは思い至らなかったと感心していた。
「困ったら、昨日教えた方法で知らせてね。わたしたちは家族よ」
朱武美が手を握って言った。
史春は、朱武美が奥州側の飛脚屋を一軒、すでに手配していたと知って驚いた。
架空の宛に文を出せば、少華山へ手紙が届く仕組みだという。
それを、わずかな日で整えていた。
「それで、どこへ行くのさ?」
最後に、李姫が訊ねた。
「まずは青州かな……。北州のなかでの税が一番に重くて、人心も荒れていると聞くわ。それを自分の目で見るの」
青州は北州の東側の地域の俗称だ。
帝国設立に最後まで抵抗した国があったという理由で、ほかのところよりも重い税がかけられている。
帝国設立以来の慣例であり、いまでも続いているのだ。
そのためか農民の逃散は絶えず、逃亡した民が賊となり、二竜山、桃花山、清風山などに集まって、治まりが悪い。
梁山湖には、梁山泊という、とりわけ大きな盗賊団もある。
そうした地を見て、この国の実相に触れたい。
いつか少華山を預かるなら、その実感は必ず役に立つはずだ。
「ふうん、青州か」
李姫は素っ気なく応じた。
その調子が、なぜかおかしかった。
史春は三人に、改めて別れを告げた。
旅の心得も、路銀も、十分すぎるほど整えてくれた。
荷を背負い、得物の棒を持つ。
武芸には自信がある。とくに棒なら負ける気はしない。
「じゃあ、またね」
史春はそう言って、街道を東へ歩き出した。