※この作品はR-18です。

水滸伝艶義   作:ドン・ドナシアン

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12話  法螺吹き男と路地の乞児
60  李忠、虎退治を吹き、乞児を拾う


「まるで山のようにでかい大虎だったな。いや、山ってのは大袈裟かもしれんが、それくらいに大きかった」

 

 李忠(りちゅう)は、屋台の前の長椅子に座り、酒碗を揺らした。

 油に濡れた豚肉を指で摘まみ、歯で引き裂く。

 肉を酒で喉に流し込むと、一度横に椀を置く。

 

「そいつが牙を剥いて、真正面から飛び掛かってきた」

 

 屋台の前にたむろしている者たちが、どっと身を寄せた。

 虎退治の法螺話を披露していたのは、屋台で酒を飲んでいた酔客相手だが、気がつくと、声を聞きつけた通りすがりの旅人までもが足を止めている。

 道端にも、すっかりと人の輪ができている。

 

「……それで、どうなったんだい、旦那?」

 

 横の男がごくりと唾を飲んだ音が聞こえた。

 

「俺は咄嗟に横に転がった──。すごかったぞ。横を過ぎただけで風で倒されそうになったんだ。そして次の瞬間だ──。俺の背にしてた岩がばらばらに砕け散った」

 

 李忠が腕を振ると、虎皮の肩掛けが大きく揺れる。

 頭皮の残った鼻先が、まるで生き物のように跳ねた。聴衆人たちがどっと沸く。

 

「虎が俺を殺すのに、あの牙はいらねえ。ただの前肢のひと掻きでいい。俺は死を覚悟した」

 

「うお……」

 

「そりゃあ死ぬぜ」

 

 酔客の声に混じって、見物人のざわめきが重なる。

 酒臭い笑い声の向こうで、子どもが背伸びをし、女が口元を押さえている。

 

「俺は棒を構え直した。ここで虎の餌になるか──。それとも、俺が虎を餌にするかだ──。命を張れ、李忠。ここで逃せば、こいつはまた山で人を襲うだろう──。ここが命の賭け時だ──」

 

 李忠は腰に手をやり、使い込まれた棒を軽く叩いた。

 乾いた音が人の輪の真ん中に落ちる。

 

「もちろん、逃げようと思えば、逃げ延びれたかもしれん……。だがな……。すでに五十人は人を喰っていると噂の人喰い虎だ。ここで逃げたら、俺は俺じゃなくなる」

 

 誰かが、感心したように頷いた。

 別の誰かが手を叩く。

 

「さすがだ」

 

「やっぱり、李忠様だ──」

 

「だからだ──」

 

 李忠は、聴衆人たちの言葉を切った。

 酒碗を口に運び、喉を鳴らす。

 沈黙が妙に長く伸びる。

 

「虎の急所は喉下三寸──。だが、そこに棒を撃ち込むには、正面から待つしかねえ。しかも、当たり損ねれば、あの前肢で俺の頭は引き裂かれ死ぬ──。俺は覚悟を決めた」

 

 息を呑む音が、あちこちで重なった。

 

「……虎が山を揺らすかのような咆哮とともに飛び掛かってきた。今度は逃げなかった。俺は棒に魂を込めた一撃を虎の口の中に打ち込んだ──」

 

 李忠が立ちあがり、仕草だけで棒を打ち込む仕草をした。

 

「……で、どうなったんだ、旦那?」

 

 酔客だけではない。

 輪の外から、見物人の声が飛ぶ。

 李忠は、長椅子に座り直して、ぐいと椀に残っていた酒を飲み干す。

 空になった椀を差し出すと、隣の男が慌てたように李忠の横にある酒瓶で酒を注ぐ。

 それを受けながら、回りの者を見回す。そして、ゆっくりと口角を上げた。

 

「ここに、こうして座ってる……。虎は俺の餌になった」

 

 李忠は虎の毛皮と虎牙の首飾りを自慢気に見せる。

 一瞬の静寂のあと、どっと歓声が弾けた。

 

「李忠の旦那──最高だぜ──」

 

「やっぱり本物の英雄だ」

 

 酒碗が掲げられ、背中を叩かれ、

 人の輪が、さらに一重厚くなる。

 

 歓声が一段落すると、今度は口の軽い連中が、我先にと声を張り上げた。

 

「さすが、李忠様だ」

 

「聞いたか。この李忠様には、あの迷惑な町道場の連中も怖れおののいて、金を払ってお引き取りを願ったそうだぜ」

 

「えっ、本当かよ?」

 

 輪の内側で、どよめきが広がる。

 屋台の灯りが揺れ、道端に立っていた見物人たちまで身を乗り出した。

 

「おいおい、それは本当なのか、旦那?」

 

 李忠は肩の虎皮を揺らし、口元に笑みを浮かべた。

 

「やめろ、やめろ。それは口外しねえことになってんだ。ここだけの話にとめとけ」

 

 李忠の言葉でどっと周りから笑いが起きる。

 

「やっぱりな」

 

「道場の連中が金を出したってのは、相当だぜ」

 

「虎退治の李忠様だものな。そりゃ、怖れるわけだ」

 

 笑い声が重なり、誰かが李忠の背を叩く。

 李忠は椀を持ち上げ、ぐるりと周りを見回した。

 

「よし。今日はいい気分だ。俺の話を聴いてくれた礼に、酒を奢ってやろう」

 

 一瞬の沈黙のあと、声が弾けた。

 

「本当か」

 

「さすがだ」

 

 李忠はその声を背に受けたまま、屋台の奥に顎を向ける。

 

「おい、亭主。この銀で飲める分だけだ。こいつらに飲ませてやってくれ」

 

 懐から掴み出した袋に入っている銀粒を亭主の掌に落とす。二十粒くらいがじゃらじゃらと流れ落ちた。

 

「えっ、こんなに?」

 

 亭主が思わず声を上げると、見物人たちが一斉に沸いた。

 

「太っ腹だ」

 

「今日はついてるぜ」

 

 亭主は慌てて銀を受け取り、何度も頭を下げる。

 酒壺が運ばれ、椀が配られ、屋台の前が一気に騒がしくなる。

 李忠は手元の椀に残っていた酒を、上機嫌で飲み干した。喉を鳴らし、長椅子から立ち上がった。

 

 気がつけば、陽はずいぶん傾いていた。

 昼の白い光は失せ、宿場町の通りに赤みを帯びた影が長く伸びている。

 李忠は肩の虎皮を直し、屋台の前の喧噪を背にねぐらにしている宿へ向かって歩き出す。

 

 そして、少し外れた路地へ差しかかったときだった。

 低く、荒れた声が耳に入ってきた。

 

「なんだ、その態度は──」

 

「地べたに這いつくばってる分際で、頭が高いんだよ」

 

 足が自然に緩んだ。

 路地の奥に、男が三人ほど固まっているのが見えた。

 体格のいい連中だ。立ち方と間合いの取り方で、町道場の人間だとすぐにわかった。

 

「まったく、乞食など、この町から出て行け」

 

「道の真ん中で転がって、臭いんだよ」

 

 李忠は、短く息を吐いた。

 ──あの町道場か。

 

 この町の道場にかかわったときのことが頭に浮かぶ。

 旅を生業にしている李忠は、一応は武芸家を語っている以上、初めて訪れた場所では、大抵は道場などには土産を手にして挨拶に行くことにしている。

 それも、生きるための手段だ。

 

 しかし、どうやら、適当に喋っていた李忠の虎退治の法螺話が、道場主にも伝わっていたらしく、それを真に受けた道場主が、道場破りと勘違いして、揉め事になる前にと、まとまった礼金を包んで、李忠に引き取ってくれと頼んできたのだ。

 もちろん、貰えるのであれば遠慮なく貰い、それを元手に博打をしたら、つきがあり、さらに大儲けした。

 だから、身も知らない周りに酒を奢るほどに、懐が温かいのだ。

 

 いずれにしても、道場の連中であれば面倒だ。

 関わる気はない。

 李忠は、そう判断し、通り過ぎようとした。

 

「おい、聞いてんのか、乞食──。さっさと出ていけ──」

 

「黙ってりゃ済むと思うなよ」

 

 罵声に混じって、鈍い音がした。

 なにかが蹴られ、壁に打ちつけられる音だ。

 眼を向けると、男たちの輪の内側に、泥だらけの布で頭から足の際までを覆って、地べたに蹲る小柄な人影が見えた。

 男たちに蹴られながら、背を丸め、頭を抱えて動かない。

 

「ほら、さっさと消えろ」

 

「ここはお前みたいなのが居ていい場所じゃねえ」

 

 気がつくと、李忠は足を止めていた。

 助けようと思ったわけではない。

 だが、あれはおそらく、行き倒れになりかけている旅の者だろう。

 

 いまはたまたま、路銀を持っている李忠だが、あんな風に行き倒れになりかけたのは、一度は二度じゃない。

 その都度、誰かに助けられて生き延びてきたが、そのときの惨めさと、助けられたときの感謝の気持ちが、あの乞食に重なった。

 李忠は、路地の入り口に隠れた。

 

 そのとき、路地側からかすれた声が落ちた。

 

「……た、頼む。食べるものを……」

 

 やっと絞り出した声だった。

 息が切れており、少し甲高い声だ。

 布の奥にいるのが小柄な身体なのはわかっていたが、もしかしたら、あの布の中の乞食は、声変わり前の少年なのかもしれないと思った。

 

「ふざけるな──」

 

 男のひとりが吐き捨てた。

 

「町から出て行けと言っておるのだ」

 

 また、乞食に蹴りが飛んだ。

 鈍い音がして、布の塊が壁に叩きつけられる。

 短い呻きが、すぐに押し殺された。

 

「食べものか……。そういえば、羊の肉があったな」

 

 すると、別の男が嗤う。

 懐から油紙を取り出し、包みを解く。乾いた肉片が、地面に放り投げられた。

 布の中の人影が地面の肉を掴もうと、手を伸ばした。

 しかし、男の足がその肉を踏みつけた。

 靴底で押し潰し、地面に擦りつける。

 

「泥だけでは、味が足りなかろう」

 

 ひとりが笑い、下袴に手をかけた。

 男根を出して、肉に小便をかけ始めた。

 じょろじょろと水音が立つ。

 肉と地面を打つ湿った音が路地に広がった。

 

 乞食が布の中で、わずかに震えたのが見えた。

 手は肉に延ばしかけたところでとまっている。

 顔も上がらない。

 さらに小便が乞食にもかけられていく。

 

「さっさと町から消えよ──」

 

「次にこの町で見たら、命はないと思え」

 

 小便が終わると、男たちは嗤い合いながら、布の中の乞食に背を向けた。

 靴音が、路地の外へ遠ざかっていく。

 

 李忠は、影に身を潜めたまま動かなかった。

 気配が完全に消えるまで、息を殺して待つ。

 やがて、路地に静けさが戻った。

 

 視線を路地に戻した。

 布の中から、細い手が伸びてきていた。

 ためらうように、だが、確かに地面の肉を手に取ろうとしていた。

 

「ばか、やめんか──」

 

 李忠は、路地に向かって飛びだした。

 

「そんなもの、食うんじゃねえよ」

 

 李忠が路地に飛び出し、足先で地面の肉を払いのけた。

 湿った音を立てて、肉が壁際へ転がる。

 布の中から伸びていた腕が、ぴたりと止まった。

 細い指が震え、次の瞬間、声を殺した嗚咽が漏れた。

 

「……頼む……。わ、たし……お、俺を……殺してくれ……」

 

「ばかだな……」

 

 李忠は、短く言った。

 

「……死ぬなんて言うのは、まだ早えよ。なにがあったかは知らねえが運はあった。たまたま博打で儲けて、懐があったけえ。飯くらいは食わせてやる」

 

 布の中で、乞食の肩が小さく揺れた。

 泣き声がまた押し殺される。

 

「立てるか?」

 

 しばらく返事はなかった。

 やがて、かすかな声が返る。

 

「……立てる……」

 

 布の塊がゆっくりと動いた。

 泥だらけの布を頭から膝まで被ったまま、身体を起こす。

 顔は見えない。

 立ち上がった背は、少年にしては低くない。

 李忠よりも、頭半分低いほどだ。

 

「どれくらい、食ってねえ?」

 

 李忠は訊ねる。

 

「……十日……」

 

 李忠は、布の隙間から覗く腕と、膝下に目を走らせた。

 汚れはひどい。だが、痩せ細ってはいない。不健康そうにも見えない。

 

「それにしちゃあ、しっかりとしてる。丈夫なんだな」

 

 李忠はもう一度布の外の部分に眼を滑らせた。

 布の中から、また嗚咽が漏れる。

 

「……呪術で……。死ねないんだ……。身体だけは……弱ることもない……」

 

 言葉は途切れ途切れだった。

 意味を伝えるだけで精一杯の声だ。

 

「呪術って言ったか? 死なねえってのは、ずいぶん都合がいい話だ」

 

 李忠は、鼻で笑った。

 

「わ、笑うな……」

 

 布の中から恨みっぽい抗議が返ってくる。

 李忠は苦笑した。

 まだ気力も萎えきってない。不満が口にできるなら十分だ。卑屈でもない。

 いいことだ。

 

「だが、その臭さじゃ、飯の前に洗うのが先だな。その布は捨てろ」

 

 布の内側から、必死な声が返る。

 

「だ、だめだ……これしか……着るものか」

 

「それは着るもんじゃねえ。捨てろ──。服なら貸してやる。とにかく、俺が泊まってる宿まで来い。歩けるな」

 

 李忠は、即座に言った。

 少しのあいだ沈黙が流れ、やがて、小さく頷く気配がした。

 

「あ……歩ける……」

 

 李忠は背を向けた。

 

「じゃあ。ついて来い」

 

 路地を出る李忠の背中に、布に包まれた身体が、少し遅れてついてくる気配が続いた。

 宿屋へ向かう道は、夕暮れの色に沈みつつあった。

 人の往来はまだ絶えていないが、昼の喧噪は薄れ、通りの空気が重くなる。

 

「俺は李忠という旅の半端者だ。お前さんは?」

 

 李忠は歩きながら、後ろを振り返らずに声をかけた。

 返事が来るまで、少し間があった。

 

「……阿進(あしん)。男だ」

 

 乞食の言葉には、わずかに流れた間と、用心するようなかすかな響きを感じた。しかし、それは口に出さない。

 歩調を変えず、前を向いたまま言葉だけを返す。

 

「男か。妙な自己紹介だな」

 

「……でも……男なんだ」

 

 後ろから、必死に押し出すような声が続いた。

 

「わかった、わかった。子ども扱いはしねえよ」

 

 通りを横切る人影を避けながら、二人はしばらく無言で歩いた。

 宿屋の灯りが、通りの先にちらつき始める。歩きながら振り返ると、阿進と名乗った乞食は、必死に布で顔を隠して、頭を俯かせている。

 李忠は息を吐いた。

 

「そこまで必死に顔を隠すってことは、もしかして手配者か?」

 

 後ろの足音が一拍だけ乱れる。

 

「……わからない。手配……されてるかも……しれない」

 

 それを聞いて、李忠はようやく内心で腑に落ちた。

 

「そうか……」

 

 短く応じてから、少し間を置く。

 

「だが、忠告だ。そうやって、下手に顔を隠すのはよくねえ。逆に印象に残る」

 

「……目立つ顔……なんだ」

 

 声は弱いが切実さがあった。

 

「額を隠すなら、鉢金を使う手もあるぞ」

 

「鉢金?」

 

「額当てだ。罪人の印があっても隠せる。そういう連中は、そうやって顔の刺青を隠す」

 

 そういう刑罰もあるというのは、耳にしたことがあった。

 

「顔に刺青なんてない──」

 

 李忠はそれ以上踏み込まなかった。

 通りの向こうで、木戸の戸が開き、酒の匂いが流れてくる。

 

 やがて、目的の宿屋に着く。

 李忠は阿進を宿屋の裏へ連れていき、庭先に立たせた。

 井戸と物置が並ぶ、表からは見えない場所だ。

 

「そこで待ってろ」

 

 それだけ言って、裏口から宿の中へ入る。

 女主人を呼び出し、事情を手短に話した。

 だが、李忠とともに外に出てきた女は、阿進を見るなり、露骨に顔を歪めた。

 

「……うわ。こりゃあ臭いねえ。勘弁しておくれよ、李忠先生。いくら先生の頼みでも、これじゃあ」

 

「わかってる。先に井戸で身体を洗わせる。悪いが、石鹸を貸してやってくれ」

 

 李忠は肩をすくめた。

 女主人は腕を組んだまま、渋い顔で阿進を見やった。一方で、阿進は布を頭から被った格好のまま、所在なげに突っ立ったままだ。

 李忠は懐から銀粒を取り出し、二粒を指でつまんで女に差し出す。

 

「……仕方ないねえ」

 

 女主人は銀を受け取る。

 しかし、もう一度、阿進を眺めて、また顔をしかめた。

 

「身体を洗わせたら、飯も食わせてやってくれ。俺は外で喰ってきたんだ」

 

「はいはい。じゃあ、ついてきな、お前」

 

 女主人がそう言って踵を返したときだった。

 阿進が一歩遅れて、李忠に振り返った。

 

「り、李忠──」

 

 阿進が李忠の名前を呼んだ。

 

「んっ、なんだ?」

 

 李忠は顔を向けた。

 しかし、阿進はすぐにはなにも言わずに、布の奥で息を詰めたままでいた。口が開いたのは、しばらく経ってからだ。

 

「……あ、あの……ありがとう……。でも、なんで助けてくれたんだ?」

 

「そういえば、なんでだろうな。お前なんか、赤の他人だってのになあ」

 

 李忠は笑い声を上げる。

 

「なんだい、これは。李忠先生の知り合いじゃないのかい?」

 

 女主人が呆れたように振り返る。

 

「知り合いじゃねえな。たったいま、道で拾っただけだ」

 

「呆れましたよ。犬猫じゃあるまいし」

 

 そう言いながらも、女主人は阿進を促し、井戸の方へ歩き出した。

 阿進は一度だけ李忠を見たが、なにも言わず、その後についていく。

 李忠はそれを見届けると、宿の表へ回った。

 一階の食堂に顔を出し、女中に酒と肴を頼む。

 

 二階の借りている部屋へ上がり、腰を下ろす。

 しばらくすると、女中が酒と煮物を運んできた。

 李忠は箸を取る前に、小銭とともに、荷から自分の着替えを出して女中に渡した。

 

「悪いが、さっきのやつに着替えさせてやってくれ」

 

 女中は、機嫌よく、服と小銭を受け取ると、階下へ降りていった。

 李忠は、窓際に陣取ると、ひとりで酒を注ぎ、喉を鳴らした。

 

 しばらくのあいだ、李忠は窓際に腰を据え、通りを眺めながら、ゆっくりと酒を飲んでいた。

 日が落ちきる前の宿場町は、まだ人の動きが絶えない。往来する旅人の影が、赤みを帯びた灯りに引き延ばされ、石畳の上を流れていく。

 

 やがて、手元の小さな酒瓶を傾けると、軽い音を立てて底を打った。

 壁際に下がっていた呼び鈴を鳴らす。

 少しすると、戸が開き、女中が顔を出した。

 追加の酒を女中に頼む。

 すぐに女中は一階に戻っていく。

 

 女中が盆に酒瓶を載せて戻って来たときには、その後ろに、もうひとつの人影が重なっていた。

 

 李忠は一瞬、視線を留めた。

 女中の半歩後ろにいるのは、路地で拾った乞食のはずだ。だが、汚れを洗い落とし、渡した古着を身につけているだけのはずなのに、路地で見た姿と、どうにも重ならなかった。

 

「……おう、ところで、阿進だよな」

 

 思わず声が出る。

 

「……ああ……」

 

 人影が小さく頷く。

 襟元に手をかけ、布を引き寄せたまま俯いている。

 灯りの下で見える肌には、路地の印象は皆無だ。荒れも、擦れも目につかない。

 色も夜の室内では妙に浮いて見えた。

 背中で束ねている黒髪には随分と艶もある。

 

 女中が新しい酒瓶を卓に置き、軽く会釈して下がっていく。

 戸が閉まると、部屋には二人だけが残った。

 

「へえ……。確かに、刺青がある顔でもなさそうだな」

 

「そんなものはないよ……」

 

 布の奥から、少し不貞腐れた声が返る。

 声は大人の男のものではない。

 しかし、李忠はそれ以上、追わなかった。ただ、椀に残っていた酒を飲み干す。

 そして、李忠は空の椀を手に取り、阿進のほうへ差し出した。

 

「飲むか? 酒は飲んだことがあるか?」

 

「……酒は……嫌いじゃない……」

 

 阿進は躊躇いながら近づき、李忠が座る窓の前の床に膝を揃えて座る。

 両手で椀を受け取る。

 その指先は、かすかに震えていた。

 

 李忠は酒瓶を傾けて、阿進が持つ椀に酒を注ぐ。

 阿進は椀をじっと見つめていたが、やがて、顔を椀に持っていき、そのまま一息に飲み干した。

 ごくごくと喉が鳴る。

 

「……ああ……。美味しい……」

 

 短く息を吐き、嬉しそうに口元を緩めた。

 

 李忠は、返事を忘れたまま、その様子を見ていた。

 視線を外し、もう一度酒瓶を持ち上げる。椀に酒を注ぎ足す音が、部屋に静かに響いた。

 

 だが、なにかがおかしかった。

 李忠は酒瓶を持ったまま、ほんの一拍、動きを止める。

 そのまま視線を外し、酒瓶を卓に戻す。

 

「……ゆっくり飲め。酒は一気に飲むもんじゃないぞ」

 

「わたしは子どもじゃ……いや、俺は子どもじゃない」

 

 阿進がちょっと怒ったように拗ねる。

 李忠は苦笑した。

 

「酒を飲んだら、食べ物も口にしろ。好きなように食べていい。酒だけを入れると、よくないんだ。覚えておけ」

 

「だから、子どもじゃないと言っているのに」

 

 阿進は抗議したが、今度は一気飲みはせずに、少しずつ喉に入れている。

 李忠はそれを横目で見ながら、窓の外の通りに視線を戻す。

 いつの間にか、外はすっかりと夜になっていた。

 

 李忠は窓際に肘をつき、しばらく黙って外を眺めていた。

 通りの灯りはまばらになり、人の気配も薄れている。

 

 すると、背後から、かすかな音がした。

 鼻をすするような、息を押し殺す音だ。

 

「どうした?」

 

 李忠は振り返った。

 阿進が床に座ったまま、空になった椀を両手で抱えていた。俯いた顔から、涙が落ちている。

 

「初めて飲んだ酒が、そんなに旨かったか?」

 

 李忠は笑い、酒瓶を手に取った。

 阿進の椀に、もう一杯注ごうとする。

 

「……初めてじゃない……」

 

 声は低く、掠れていた。

 阿進は椀を卓に戻し、そのまま床に手をつくと、身体を折り、額を床につけた。

 ひれ伏すような格好だ。

 

「どうした、小僧?」

 

 李忠は、阿進を見下ろす。

 

「……小僧じゃない……。でも、李忠には感謝している……ありがとうございます……。この……通りです」

 

 床に顔を伏せたまま、阿進は言った。

 身体が小さく震えている。

 

「だったら、事情を話す気はあるか? つまらねえ二流男だが、いまはたまたま懐に余裕がある。喋りたきゃ、聞くだけは聞いてやる」

 

 李忠は淡々と告げた。

 阿進は答えない。ひれ伏したまま、身体を縮めている。

 

「……わかった。もう聞かねえ」

 

 李忠は立ち上がり、荷に手を伸ばした。

 一枚、古着を取り出し、部屋の隅へ放る。

 

「俺は寝台で寝る。お前は隅を使っていい。出ていきたけりゃ、勝手に出ていけ。引き止めはしねえ。酒も肴も、好きにしろ」

 

 続けて、懐に入れていた金の袋を取り出し、荷の中に放ろうとした。

 だがやめた。頭の横に無造作に置く。

 

「……先に寝るぞ。酒も入っているし、すぐ寝ると思うぜ。路銀を盗むなら勝手にしろ。でも全部は持っていくなよ」

 

 李忠は軽口を叩くと、寝台へ向かって横になった。

 掛け物を引き寄せ、身体を沈める。

 

 阿進は、まだ床に頭をつけたままでいた。いまだに震えている背は泣いているようでもあった。

 李忠は、寝返りをして阿進に背を向ける。

 部屋の中には、酒の匂いと、夜の静けさだけが残っていた。

 

 

 

 

 

 荒い息遣いで、李忠は目を覚ました。

 

 喉を擦るような呼吸音が、闇の中で断続的に響いていた。

 酒の残る頭では夢か現かわからなかったが、すぐに異変だと悟った。

 

 部屋の奥から、苦しむような声が漏れていた。

 呻きとも息ともつかない音だ。

 

 李忠は、とりあえず、掛け物を払いのけて身を起こした。

 闇に目を凝らす。

 

 部屋の隅で、なにかが動いていた。

 床の上で小さく丸まり、身体を捩る影だ。

 

 一瞬、背筋が強張る。

 だがすぐに思い出す。

 

 ──昨夜拾った乞食だ。

 

 阿進と名乗った少年──。

 素性も知らぬまま同じ部屋に泊めるとは不用心だったなと、内心で苦笑が浮かぶ。

 

「おい、阿進?」

 

 李忠は寝台を降り、音を立てぬよう近づいた。

 影は身体を抱え込むように縮こまり、肩を激しく上下させている。

 喉から掠れた息が漏れ続けていた。

 

 ただの寝言ではない。

 なにかを必死に堪えている様子だった。

 

「どうしたんだ──?」

 

 声をかけた、その瞬間だった。

 

 闇の中でも、布の乱れがはっきりと見えた。

 胸元が大きく開き、影とは違う丸い膨らみが浮かび上がっている。

 

 李忠は思わず、眼を見張った。

 錯覚かと思った。

 だが、揺れる呼吸に合わせて、その膨らみも確かに動いている。

 

 男の身体にあるはずのない形だった。

 柔らかな曲線。

 張りを持った肉の丸み。

 

 女の乳房だった。

 息を呑む。

 

 さらに視線が落ちる。

 阿進の右手が、股間へ差し込まれている。

 布の下で、指が忙しなく動いているのがはっきりとわかった。

 李忠の喉が鳴った。

 

「……阿進?」

 

 自分の声が上ずっているのがわかる。

 影が大きく身を震わせた。

 掠れた息が漏れる。

 

「あっ……ああ……」

 

 次の瞬間、阿進が顔を上げた。

 闇の中でも、濡れた瞳が李忠を捉えているのがわかる。

 

「李忠……助けて……」

 

 震える声だった。

 

「わたしを……助けて……」

 

 そのまま、阿進が李忠にしがみついてきた。

 細い身体がぶつかり、荒い息と体温が直接伝わる。

 甘い女の匂いが、鼻先をかすめた。

 

 李忠は反射的に受け止め、動けなくなる。

 腕の中で、阿進の身体は小刻みに震え続けている。

 荒げる息は止まらず、呻きが喉の奥で絡みついていた。

 

 闇の部屋に、答えのない異変だけが重く横たわっていた。

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