王進は、微睡の底から眼を覚ました。
背中から腰へ柔らかな温かさが残っている。身体は重いが、不思議と楽だった。
腕を動かしたとき、素肌が擦れた。
そこで初めて、王進は自分が裸であることに気づいた。
布の感触はなく、代わりに、すぐ隣に別の体温があった。
視線を動かす。
粗末な寝台の上。
自分の身体。
そして、ぴたりと寄り添うように眠る男の姿。
王進は、息を止めた。
しかし、すぐに思い当たる。
昨夜の男だ。
寝息を立てているその男は、上半身になにも身につけていない。夜具の下で、王進はその肌と肌を接するように横たわっていた。
視線を落とすと、掛け物の上に李忠の衣が重ねて置かれていた。王進の身体を覆うように。
不思議な男だった。
乞食同然の王進に声を掛け、理由もなく食事と宿を与え、突然の発作に狂う身体に、精を与えてくれた。
淫紋の発作は兆しなく訪れる。
起きれば、王進は王進でなくなり、男の精を強請る雌になる。
これまでは、淫情に狂い、行きずりの男たちに精を強請っては、我に返るたび吐き気を催すほどの嫌悪感に襲われてきた。
だが、今朝は違った。
胸の奥に残っているのは、満たされたあとの静けさだった。
王進は、李忠を起こさぬよう用心しながら身を起こし、寝台から降りた。
衣を探す。昨夜、借りたはずの着替えだ。
だが、部屋の隅にも、ほかの場所にも見当たらない。
あるのは、夜具の上に置かれた李忠の服だけだった。
「……花深、昨夜はぐっすりだったな。覚えてるか。お前、絶頂したまま気を失ったんだぜ」
振り返ると、李忠が寝台に肘をつき、頭を手に預けたままこちらを見ていた。
「……おはよう」
慌てて乳房を両手で隠して、背を向ける。
昨夜、この男にそう名を与えられたことを思い出す。
花深……。
自分は、花深──。
心で幾度か繰り返す。
「それにしても、いい身体だなあ。これを好きに眺めていいと思うと、朝から元気が出ちまう」
「なにを……。それより、着るものをくれ。昨夜、貸してくれた衣がない」
「まあ、慌てるなよ。そんなに急いで隠すことはねえだろ。面倒を見るんだ。目の保養くらいさせてくれよ」
「ば、ばか。なにを言っている。とにかく、服を」
「いやあ、渡したいんだけどなあ。実は、お前の裸を眺めてたら、下帯の中で一物がおっ勃ってんのよ。鎮まるのを待ってんだが、お前が裸なんで、ますます大きくなりやがる」
李忠が声をあげて笑った。
「ば、ばかなことを……」
王進──いや、花深は、胸をしっかりと抱えたまま、顔が熱くなるのを感じていた。
李忠は笑いながら寝台を降りてきた。
何気なく、首だけを向ける。
下帯ひとつの身体はよく鍛えられており、無駄な贅肉はない。腕や脇腹、腿の付け根に、古いもの新しいものが混じった傷が点々と残っている。
言葉どおり、下帯の前は大きく膨らんでいた。
「わっ……は、早く、お前も服を着てくれ」
花深は、慌てて視線を逸らした。
「ところで。また男言葉に戻ったのか。昨夜は、ずいぶん可愛かったのに」
李忠は枕元を探りながら、肩を揺らして笑う。
「ゆ……昨夜の話をするな」
「どうしてだ? 精を一生懸命に強請るお前は、可愛かったぞ」
「可愛いなど……わたしへの……いや、俺への……侮辱だ」
「はは。無理するな。女言葉のほうが、いまは自然なんだろ?」
笑いながら言い、李忠は花深を一度、上から下まで眺めた。
「そんなことは……」
花深は最後まで返事をすることなく俯く。実は、李忠の指摘は当たっていた。以前は強要されていた女言葉は、いまは自然な花深の言葉になっていた。
無理をして男言葉にしているが、気を許すとすぐに女言葉になる。
「……それにだ。これからは、あまり気張らずに女でいろ。言葉も、動きもだ──。もっとも、俺は、お前が実は男だったなんて、信じちゃいねえけどな」
李忠がまたもや軽く笑い声をあげる。
「わたしは……いや、俺は男だ。男だったんだ」
「だったら、なおさらだ。それだけの顔と身体をして、男みたいに喋れば、それだけで目立つ。女の姿のお前が隠れるなら、女の中に紛れるのが一番だ」
「なっ……」
花深は口を開きかけ、言葉を失った。
「……男は捨てろ……。なんてまで言うつもりはねえ……。ただな、その色気満々の身体で男だなんて、世間は通してくれねえ」
「なにを……」
抗議しようとして、花深はやめた。
李忠は、もう笑っていなかった。
真面目な眼で花深を見ている。
「……俺は、真剣に言ってるんだ」
一歩、距離を詰める。
「そ、そう……なのね……」
「女になりきれ。少なくとも外ではな。俺が隠す。隠しきってやる」
「……あんた……本当に、わたしを……匿うつもりなの……?」
花深は、昨夜のことを思い出しながら、かすれた声で尋ねた。
「当たり前だ」
李忠は懐から布包みを取り出し、花深へ放った。
受け止めて拡げると、藍に染められた上下の衣と帯だ。手触りは柔らかく、丈も長い。
女物の服だとわかった。
「夜のうちに女主人を呼び出してな。古着を出させた。娘のものらしいが、とりあえずそれを着ろ。髪も女みたいに結え。いいな」
「……わたしに命令をするな……。だが……ありがとう……」
言葉とは裏腹に、花深の手は素早く動いた。
素肌のまま袖を通し、帯を締める。布が身体を包み込み、胸と腰の線がはっきりと浮かびあがった。
一方で、李忠も衣を着始めた。
そして、先に身支度を終えると、荷から櫛を取り出して差し出した。
「女の小物はわからねえ。必要なら言え。遠慮はするな」
「……櫛か」
花深は櫛を受け取り、しばし黙ったまま櫛に触れていた。
「……なあ、さっきも訊ねたが……本当に、わたしを匿ってくれるのか?」
花深は李忠を見る。
李忠が破顔した。
「おう、任せな。大舟とはいかねえが、小舟くらいにはなる。食扶持くらいは稼いでやらあ。お前にとっても悪い話じゃねえだろ」
一息置き、真面目な声になる。
「淫紋の発作は、どれくらいの間隔で来る?」
「……十日に一度……とは聞いている。だが、実際にはまったく不規則で……」
花深は俯いた。
いつ起きるかわからない淫紋の発作──。
起きれば理性は砕け、男の精を狂ったように求める身体になる。
相手を選ぶ余地などなかった。
女奴隷にされかけたこともある。
衣を奪われ、殴られ、蹴られたことも一度や二度ではない。
臭気の酷い浮浪者にすがりつくことさえ、珍しくなかった。
もし、この男が面倒を見てくれるなら──。
それは花深にとって、これ以上ない救いだった。
しかも、この李忠は、理由もなく乞食同然の自分を拾い上げた男である。
生来の世話焼きなのだろう。
だが──。
それでは、花深に都合がよすぎる。
自分を追っているのは、高俅……。そして、高廉。
この男を、その渦に巻き込むことに胸が痛んだ。
考えてるあいだに、李忠は荷をまとめ、最後に飾りのように身につけている虎の掛け物を肩に掛け、虎牙の首飾りを首に通し終わっていた。
花深も慌てて身支度を急ぐ。
そのときだ。
外の廊下から、慌ただしい足音が重なって響いた。
次いで、荒々しく戸が叩かれる。返事を待たず、個室の戸が開いた。
「……李忠先生、大変だよ」
入って来たのは宿の女主人だった。
なにかを続けて言おうとして、花深の姿に気づき、目を丸くする。
「……えっ? どういうことだい? あんた、もしかして、昨日の汚い乞食なのかい?」
「……お、女将さん……昨日はお世話になりました。この衣も、準備してくださったそうで……」
花深は床に脚を整え、正座して頭を下げた。
女の仕草は自然に出た。意識しなければ、男言葉や男の動きのほうが戻らない。
女体化の呪術が少しずつ身体に馴染んでいるのだろう。
かつては恐怖だったその感覚を、いまは淡く受け止めていた。
「……うわあ。大した佳人さんじゃないかい。こりゃあ、驚いたねえ」
「それより、なにしに来た? さっき、慌ててた様子だったが」
李忠の問いに、女主人ははっと我に返る。
「そうだったよ。李忠先生、大変なんだ。道場の連中が来てる。十人くらいで、あんたを出せって宿の前で喚いてるよ。嘘つきだの、法螺吹きだのって……。あんた、なにかしたのかい?」
「げっ……さては、法螺がばれやがったか」
「法螺ってなんだい?」
「虎退治だ」
「まあ、呆れたねえ。あれは嘘だったのかい」
女主人が嘆息する。
「嘘じゃねえ。法螺だ」
李忠は苦い顔で舌打ちし、花深を振り返った。
「……花深、お前はここにいろ……。ところで、連中は表だな?」
「そうだよ。でも、どうするんだい、先生。逃げるなら、裏口から出て行けるよ」
「ばか言え。そんなことしたら、女将に迷惑がかかるだろう」
李忠は首を振り、肩をすくめる。
「まあ、それくらいあしらえるけど……」
「仕方ねえ。この李忠の一世一代の土下座ってやつを、見せてやらあ」
荷を抱え直し、女主人とともに戸口へ向かう。
「すぐ戻る。大人しく待ってろ、花深」
そう言い残し、二人が部屋を出て行った。
花深は、その場に残された。
閉じた戸の向こうから、宿のざわめきが微かに伝わってくる。
花深は少し迷ったが、とりあえず、身支度を急いで終わらせて、李忠たちの後を追った。
静かに階段を降りていく。
一段ずつ、足音を殺し……。
一階に近づくにつれ、宿の喧噪が伝わってきた。
荒れた声が、一階の食堂のほうから溢れていた。
「……悪かった。悪かったと言ってるだろうが。だがな、俺はあんたらの道場主には、なんにも言ってねえぞ。あんたらの主が俺が外でした与太話を真に受けて金を出した。俺は受け取っただけだ。勘弁してくれよ」
李忠の声だった。
低く、しかし軽い。
逃げ腰ではないが、軽口で誤魔化そうとしている。李忠らしいなと思ってしまい、花深の口元が緩む。
階段の半ばまで降りたところで、視界が開けた。
食堂の中央では、李忠が土下座していた。
その前を、棒を持った男たちが取り囲んでいる。
体格のいい男ばかりだ。十人ほど。
あれが、道場門弟たちなのだろう──。
話の細かい筋はわからないが、金の話が出ているので、金にまつわる悶着には違いなかった。
花深は、階段の下で足を止めた。
少しのあいだ、離れた位置から様子を見守る。
「やかましい。この法螺吹き男め──。虎退治など真っ赤な嘘で、その虎の飾りも、虎牙の首飾りも、高徳府の商人の持ち物だというではないか」
門弟のひとりが怒鳴った。
「まあ、そうだけどな。奪ったんじゃねえぞ。世話になった礼だってんで、もらっただけだ。欲しいならやる。それで溜飲を下げてくれ」
李忠は、土下座したまま顔を上げた。
肩に掛けていた虎の掛け物を外し、首の虎牙を引き抜く。
そのまま、床に差し出した。
さらに、花深は周りを見る。
あの女主人を含めて、客らしい者は全員厨房から様子を窺っている。宿屋の外には野次馬らしき者も遠巻きに集まり始めていた。
「惚けるな。我らを愚弄して、それで済むと思っているのか──。とにかく、外に出ろ。足腰立たなくしてやる」
一方で、ほかの門弟たちも声を荒げる。
「だから勘弁してくれって。もらったものは返すよ。一昨日は博打で大勝ちしてな。ちょっと減っちゃいるが、これが有り金全部だ。もらったものより多いはずだ。これで許してくれ」
李忠は懐から袋を出し、虎の飾りの横に置いた。
銀粒がぶつかる、重い音がした。
花深は、思わず一歩、前に出ていた。
さらに近づく。
李忠のすぐ後ろに立つ。
足元には、荷と、李忠の得物の棒がある。
自然と視線が走る。
人数──十……。
一番強いのは、正面の男だ。
そこを潰せば流れは割れる。
棒を足で跳ねあげて手に構えるのに、ひと動作──。
正面の男に棒を打ち込むのに、もうひと動作──。
あとは簡単だ。
李忠に怪我などさせることなく、残りを叩きのめせる。
「……あっ、花深。部屋にいろって、言っただろうが」
李忠が花深の存在に気がついて振り返る。
「お前の連れか、李忠?」
端にいた男が声を上げた。
花深は、その顔を見て、すぐに思い出した。
昨日、路地で身体を嬲り、小便までかけた男だ。
あのときのほかの二人もいる。
胸の奥が、冷たく締まった。
正面の男を一瞬で無力化したら、次にあの三人にする──。
腕の骨を一本ずつ──。
そこまで、身体が勝手に割り付ける。
だが。李忠は、振り返って花深を見上げた。
笑っている。
「……悪いな。ちょっとした揉め事だ。すぐ済む。いいから引っ込んでろ」
花深は、内心で首を傾げた。
この李忠が、これだけの男たちに囲まれて、少しも怖がっていないことに気がついたのだ。
花深には、おおよその相手の強さは見ればわかる。
李忠も弱くはないが、十人をあしらえるほどに強くはないだろう。
それなのに、むしろこの事態を愉しんでいる気配さえ感じる。
「……心配するな……。守ってやるよ。奥にいろ」
李忠が花深に向かって破顔した。
「守ってくれるの?」
花深はくすりと微笑んだ。
「待て、その女は李忠のなんなんだ。答えろ──」
あの昨日の門弟が前に出てきた。
花深はその男に真っ直ぐに身体を向ける。
「お忘れですか」
花深が言った。
門弟のひとりが、間の抜けた顔で花深を見る。
「なにをだ?」
問い返す声は低かった。
花深は、その男から目を離さない。
「路地で蹴られましたね……。おしっこも、かけられました」
花深は微笑んだ。
男の喉が小さく鳴る。
「……あの乞食か?」
吐き捨てるように言った。
ほかのふたりも呆気にとられている。
「えっ、あれがこの女?」
昨日の三人が、互いに顔を見合わせた。
「李忠様に、助けていただきましたの」
花深が告げる。
すると、最初に声を出した男が、一歩前に出た。
視線が花深の身体をなぞる。
そして、顔が好色そうに歪む。
「……なるほど……。だが、拾った女なら、俺たちが連れていけばいいんじゃねえか……。いや、この李忠は俺たちが相手にしていた女を拾っただけだろう」
その男が言った。
「道場で預かれば、役にも立つだろうな……。ねえ、筆頭、詫び代として、こいつを連れて行きましょう。この女は町を彷徨いていた乞食でさあ」
三人のうちの隣の門弟が続けた。
“筆頭”と呼ばれたのは、花深が目をつけていた正面の男のようだ。
だが、それはともかく、李忠の雰囲気が一変したのがわかった。軽薄そうに誤魔化そう賭していた気配が消滅し、李忠の身体が真っ直ぐになる。
「花深を、連れていくだと……?」
李忠が土下座を解き、腰を伸ばして立ち上がる。
「なんだ、やる気か──?」
「法螺吹きの分際で、怒りやがったか──」
「ふざけやがって──」
門弟たちが持つ棒が一斉に揺れる。
「うるせい──。俺は筋を通した。金も返した。詫びもした。だが、関係のねえ花深を連れていくなら話は別だ。与太を飛ばすなら、虎退治が法螺かどうか、相手になってやる」
李忠は一息に言い切った。
その背は、花深の前にあった。立った姿勢だけで、李忠ひとりでは、十人の門弟相手に勝てないことはわかる。
しかし、花深には随分と、李忠の背が頼もしく感じた。
「……花深」
そのとき、李忠が名を呼んだ。振り向かないまま、花深に低く続ける。
「……騒ぎになる。それに紛れて裏から抜けろ……。宿場町の西で待て。そこで落ち合おう……」
花深は、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
そして、足先を引く。
すると、李忠がすっと前に出た。まるで花深を守ろうとするかのように……。
花深は、李忠の後ろから正面の男を睨んだ。
足で棒をすくい上げるのが一瞬──。
次の一瞬で、その棒を男の顔面に叩きつける──。あとは敵ではない。
男を睨んだまま、それを頭で繰り返す。
正面の男は、李忠を通して花深を見ている。そして、唾を呑み込もうとして、喉を鳴らせずにいた。
花深はわずかに、前に出た。
李忠が床に置いた棒は、すでに足の甲にのせている。
正面の男の足が止まり、門弟たちの距離がわずかに開いた。
「……わ、わかった……。手打ちにしよう……」
筆頭が掠れた声で言った。
床の銀袋と虎の飾りを掴み取る。
踵を返して、外へ向かう。門弟たちが、我先にと続いた。
宿屋から門弟たちがいなくなる。
「ふう……肝を冷やしたぜ」
李忠がほっとしたように、その場に尻もちをついた。
花深は、足元の棒から離れる。
李忠の背を見下ろす。
なにも言わない。
ただ、その背が、ひどく大きく見えた。
「いやあ、よかったねえ、先生──。なにもなくて」
厨房から女主人が出てきた。隠れていたほかの者も一緒だ。
「おう、さすがだろう。これが、李忠様の必殺の土下座よ」
李忠が大笑いする。宿屋にいた者たちだけじゃなく、外の野次馬たちも、拍手喝采で笑う。
「まあ、とにかく、よかった。路銀は取られちまったようだけど、怪我するよりましさ。昨日もらった余分なものは返すよ。だから、あの連中に係わる前に、この町を抜けな」
宿屋の女主人が、心配そうに言った。
いつの間にか、外にいた野次馬たちも中へ入ってきている。
「路銀を失っただと?」
李忠がにやりと笑った。
屈んで、片足の靴を外す。
脚に巻きつけていたらしい小さな袋を解き、卓の上に逆さにした。
銀粒が、音を立てて拡がった。
十粒ほど。
「まあ……。全財産を渡したのかと思ったら、隠してたのかい」
女主人が呆れたように声を上げた。
「当たり前だ。全部渡して堪るかよ」
李忠が、平然と言った。
「抜け目がないねえ」
「どうせ、あの連中の飲み代になるだけだ。だったら、ここにいる連中に使った方がましだろ。これで、俺を心配してくれたこいつらに、飲み食いさせてくれ」
銀粒を女主人に向かって押し出した。
「気前がいいのは結構だけどねえ。路銀まで置いていって、どうするんだい」
「心配ねえ……。それと、万が一、あの連中が戻ってきたら、俺たちは、高徳府に戻ったって言ってくれよ」
「それは承知したけど、無一文で旅をするつもりかい? この女の人を連れてくんだろう?」
女主人がちらりと花深を見る。
李忠は肩をすくめた。
「大丈夫だ。脚は二本ある。つまり、袋ももうひとつある」
李忠はお道化るように言った。
そして、荷を担ぎ直して棒を背に結ぶと、花深を見る。
「行くぞ、花深」
そして、周りをぐるりと見渡す。
「世話になったな。達者でな」
宿屋にいた者たちから、また笑い声が上がった。
拍手が起こり、外の野次馬たちもそれに応じる。
人垣が割れ、李忠はそのまま戸口へ向かった。花深は少し遅れて後に続く。
背後の笑い声が宿の中に残っていたが、外へ出ると、それはすぐに途切れた。
宿場町は思いのほか静かであり、しばらく進むと、建物はなくなり、両脇に畠が拡がる街道になる。
花深は、李忠の背を見ながら歩く。
さきほどまでの喧噪が、遠い出来事のように思えた。
──土下座よりも。
銀よりも……。
花深には、この李忠が、なんら代償を求めずに、訳ありの花深を当たり前のように連れて行こうとすることの方が理解できなかった。
花深は、黙ったまま歩き続けた。
「なあ、花深、お前、行こうとしているところはあったのか?」
すると、不意に李忠が訊ねた。
「……いや、しいて言えば、あんたが口にした、人の海の中としか……」
目的などない。
花深はただ逃げているだけだ。
望みを言うならば、この淫紋の呪術は消したい。だが、女体化の術については、花深自身が男に戻ることを望んでいるのかはわからなくなっている。
「だったら、このまま、西に向かって孟城だな。あそこも大きな城郭だ。紛れるには最高だ」
「……あんたに任せるわ」
花深はそれだけを言った。
「それと、夜になったら毎晩抱くからな。相手をしろよ……。ああ、そうだ。縛った方が感じるって言ってたな。期待しておけ。お前を満足させてやる」
「な、なにを言っている──。発作のときだけでいいのよ──。それに縛ったときが感じるって、なんのことよ──」
花深はかっと身体が熱くなるのを感じた。
しかも、この陽の光の下でなんという恥ずかしいことを言うのだ。
「あれ、覚えてないのか? 昨夜、睦み言でそう言ってたぞ」
李忠が大笑いする。
「い、言ってない──。そんなこと言うわけない。嘘をつかないで」
「俺は法螺は吹くけど、嘘は言わねえよ。まあ、試してみりゃあわかる。長い付き合いになるんだ。ゆっくりと、お前の性癖は暴いてやるさ」
李忠が揶揄うように言った。
花深は、それ以上、なにも言い返せなくて黙ってしまう。
もしかして、とんでもない好色男に捕まったんだろうか。
でも、まあいいか……。
小さく、溜息をつく。
「……まあ、なんでもするわよ……。ところで、さっきは庇ってくれようとしてありがとう」
「おう、言質はとったぞ。こりゃあ、毎日、夜が来るのが愉しみだ」
李忠が大袈裟に歓声をあげる。
「ばーか」
花深は李忠の背中に声をかける。
ただ、李忠が毎晩、花深を抱くという言葉に──少しだけじわりと淫情のようなものが身体に拡がるのが自分でもわかった。
随分と淫らな身体になってしまったのだと思った。
もっとも、昨日までは、絶望でしかなかったそれが、なぜか、諦念と、ほんの少しの嬉しさのような気持ちで受けとめていることに気がついた。
まあいいか……。
花深は、もう一度、心で繰り返す。
街道が峠に向かう上り坂になった。
峠からの心地よい風が吹き下ろし、花深の身体の熱を僅かに涼ませてくれた。