出奔だ──。
断じて、死ではない。
禁軍の軍費を盗み、各地で乱暴狼藉を繰り返した末に河で溺死した、などという発表は出鱈目である。
第一、王進は泳ぎが達者だった。
その男が水で溺れるというだけで、話として不自然だ。
だからこそ、どこかで生きているに違いない。
ただし、
王進が姿を消す前日、かつて王進を恨み禁軍から追放された高俅が、兄の
その日のうちに、王進と高俅のあいだで諍いがあったという噂は、後日伝え聞いた。
そして、その夜のうちに王進は消えた。
軍人の脱走は、それだけで重罪だ。
王進は即座に罪人とされ、追手が差し向けられた。
調査責任者は、新任の近衛軍大将・高俅である。
王進と親しかった呉瑶麗も、当然ながら取り調べを受けた。
もっとも、それは最初のうちだけだった。
訊問は五日に一度、十日に一度と間隔が延び、やがて形式だけのものとなる。
そして一箇月後──。
王進が川で溺死体として発見されたという発表がなされた。
捜査終了の宣言とともに、王進の「重罪」が付け加えられた。
だが──。
その発表から幾日も経たぬうちに、再び高俅軍による王進捜査が始まったのである。
理由は「新たな重大な罪が判明したため」とされた。
だが、すでに死体として確認されたはずの男を再調査するなど、不自然極まりない。
呉瑶麗は確信した。
王進は逃げたのだ。
そして高俅は、それを知っている。
だからこそ、一度は死んだと公表した王進を、改めて追わせている。
その証拠は投入された兵力だった。再開後の捜索隊は、最初の一箇月間の三倍以上──。
もはや形式ではない。
本気の追跡だった。
いずれにしても、王進の再捜査が始まってからの呉瑶麗への訊問は、当初よりもはるかに厳しく、執拗だった。
訊ねられる内容は決まっている。
王進の縁者は誰か──。
頼れる相手はいるのか──。
潜伏先として考えられる場所はないか──。
答えもまた、常に同じだった。
「なにも知らない」
庇っているのではない。
事実、知らないのだ。
そもそも、王進は死んだのではないか──。
そう返すと、訊問に当たる高級役人は決まって顔を曇らせた。
苦虫を噛み潰したような、あの表情──。
死を公表したのは彼ら自身であるのに……。
だからこそ、王進は生きている。
呉瑶麗は疑わない。
どうか、生きていて欲しい……。
心の底から、そう祈っている。
呉瑶麗が帝都に来たのは三年前だ。
北州から流れ着き、偶然開催されていた武術競技会に参加し、女ながら優勝した。
それが縁で、禁軍将兵に武術を教える武術師範代として取り立てられた。
帝都に縁も血もない、天涯孤独の身──。その呉瑶麗をなにかと気にかけてくれたのが、筆頭師範であった王進だった。
王進もまた、孤独だった。
代々武術師範の家に生まれた帝都の出身でありながら、すでに親も親類もいない。
似た境遇だった。
上司と部下という枠を越え、男と女という隔たりも越えて、友情と呼べるものを築いていた──そう思っていた。
だが、王進はなにも告げずに消えた。
行き先も──理由も──別れの言葉も──。
相談されても困ったかもしれない。
それでも、なにひとつ打ち明けられなかったことが、胸に残る。
自分は、その程度の存在だったのかと……。
もちろん、禁軍からの出奔という重大事を部下に告げる義理はない。
理屈はわかる。
だが、それでも相談してほしかった。
もし打ち明けられていたなら──。
身を投げ出してでも協力しただろう。
あるいは、逃避行に同行したかもしれない。
その覚悟はあった。
しかし王進は、呉瑶麗を選ばなかった。
いまも呉瑶麗は、禁軍の兵に武術を教える日々を送っている。
朝稽古、昼稽古、夕刻の鍛錬──。
それが現実だ。
ただ、ときおり、ふと手を止める瞬間がある。
いまごろ、どこで。どうしているのだろうかと……。
思考は、いつもそこへ戻る。
あれだけの武術の腕があれば、食べることには困らないはずだ。
世の中は物騒である。
盗賊は横行し、賊徒は各地に巣を作っている。街道も村落も、武を持つ者を必要としている。
武術を習いたいという者は多いだろうし、用心棒の口にも事欠かない。王進ほどの腕前があれば、身を立てる場はいくらでも見つけられるはずだ。
だから、どこかで生きていると呉瑶麗は考えている。
いまなお定期的に王進の行方について取り調べが続いていることも、その証左のように思えた。
もし本当に死んでいるのなら、半年も経ってなお調査を続ける理由はない。
一応は溺死という発表がなされているため、手配書のようなものが出回っていないのは救いである。
公には王進は死者という扱いなのだ。
それでも捜査が続いているのは、高俅の執念によるものだろう。
軍からの脱走は珍しいことではない。
本来であれば、形どおりの調査を行い、書類を整えて終わるはずの話である。
それが半年を過ぎてもなお続いているのは、対象が王進だからであり、そして高俅にとって王進が特別な存在だからだ。
そこに私怨があることは、疑いようがない。
呉瑶麗は理屈ではそう理解している。
しかし夜更けに独りになると、理屈とは別の不安が胸をよぎる。
逃げ切れているのか。
傷を負ってはいないか。
どこかで追いつかれてはいないか。
理性は生きていると告げる。
だが、その確信は決して揺るがぬものではなかった。
今朝、出仕すると、久しく行われていなかった王進の行方に関する訊問の呼び出しがかかっていた。
呉瑶麗はすぐに武術師範組の詰所を出て、近衛軍の将軍府へ向かった。今日の取り調べの場所はそこだ。
「座れ」
指示された部屋に入ると、待っていたのは意外にも高俅自身だった。
これまで幾度も訊問は受けてきたが、大将直々の取り調べは初めてである。
呉瑶麗はわずかに背筋を強張らせた。
部屋には執事風の老人がひとりいるだけで、ほかには誰もいない。
高俅は椅子に腰かけ、その正面にもう一脚の椅子が置かれていた。間に卓はなく、座れば膝が触れそうなほど距離が近い。
違和感を覚えながらも、呉瑶麗は腰を下ろした。
すると、老執事が静かに出入り口へ歩き、内鍵を閉めた。
そのまま、呉瑶麗の背後に立つ。見張る位置だ。
「王進とは親しかったのだな、呉瑶麗?」
高俅が口を開いた。
これまで何百回も繰り返された問いである。
ただ、その表情が違った。
にやにやとした薄笑いが、顔に貼りついている。
「帝都には頼る者がいませんでしたので、よく面倒を看ていただきました」
呉瑶麗は落ち着いて答えた。
「面倒を看てもらった、か……。それはどういう意味でだ? 王進とはどこまでの仲だったのだ?」
「はあ?」
思わず声が漏れた。
すぐに言葉を整える。
「……失礼いたしました。ですが、おっしゃる意味が……」
高俅の目が細まる。
「男と女の仲だったかと訊ねているのだ。これまでの調べで、お前と王進がたびたび二人きりで酒を酌み交わしていたことはわかっておる」
「男女の仲、ですか?」
呉瑶麗は眉を寄せた。
「若い男女が夜に酒を飲む。何もなかったと言い切れるか?
俺にはすぐに思い当たった。お前が王進の情婦であったなら話は変わる」
「情婦?」
「男は情に弱い。逃亡したなら、いずれお前に連絡をよこすはずだ。なにか受け取っておらぬか?」
高俅の視線が、呉瑶麗の顔から胸元へとゆっくりと下りる。
その視線は不快だった。
だが、質問の内容には、思わず笑いがこみ上げた。
「な、なにがおかしい?」
高俅がわずかに身を乗り出す。
「これは、失礼いたしました」
呉瑶麗は口元を押さえた。
「まあそうだな。失礼だ」
高俅が不機嫌には鼻を鳴らす。
「ですが王進殿は、わたしを女として見ておられなかったと思います。わたしたちの関係は、武術師範と師範代というそれを越えるものではありませんでした」
高俅はじっと呉瑶麗を見つめている。
だが、呉瑶麗は違和感を覚えた。
その目は、疑いよりも、別の欲を帯びていたからだ。
これでも、呉瑶麗は女だ──。王進は呉瑶麗に女としての興味を抱かなかったが、男に色を向けられることは珍しいことではない。
目の前の高俅は、そんな眼をしていた。
「なにもないというのか?」
「ありません。断言します」
呉瑶麗ははっきりと言い切った。
「ならば、お前にはほかに決まった男はいるのか?」
「えっ?」
唐突な問いに、呉瑶麗は目を瞬かせた。
そんな相手はいない。
だが、それがこの訊問とどう関わるのか理解できない。
高俅がゆっくりと笑みを崩した。
「……ならば、俺の愛人になれ、呉瑶麗。悪いようにはせん。一生遊んで暮らせるだけのものを与えよう。武術師範代の給与など兵と変わらぬだろう」
「な、なにを言われるのです──」
「贅沢をさせてやる……。いや、武術師範に取り立ててもよい。将校待遇だ。近衛軍の女将校という道もある。栄達させてやろう……。その代わり……わかるな?」
言いながら、高俅の手がすっと伸びる。
呉瑶麗の下袴の腿へ触れようとした。
「おやめください──」
呉瑶麗はその手を強く払いのける。
気づけば椅子を弾いて立ち上がっていた。胸が激しく打ち、呼吸が荒くなる。
「案外、初心な反応だな……。まさか生娘か、呉瑶麗?」
高俅が喉の奥で笑う。
「話がそれだけなら、任務に戻ります」
呉瑶麗は高俅を真っ直ぐに睨んだ。
「まあ、いまの話は考えておけ」
「考える余地はありません。わたしを侮らないでください。それ以上なにかを言えば、高俅閣下でも容赦しません」
声は震えていない。
「容赦せぬだと? 誰に向かって物を言っておる。少しばかり武術ができるからといって、お前は一介の武術師範代にすぎぬ。その分際で近衛軍の将軍に盾突くか?」
高俅の顔から笑みが消えた。
だが、呉瑶麗の腹の内は、怒りで煮え立っている。
「なにが将軍ですか。部下の女兵に言い寄るのが将軍の務めですか。訴えますよ」
思わず声が強まる。
高俅はせせら笑った。
「どこへ訴える? 誰に話してもよい。将軍が女師範代に求愛した――。それだけのことだ。誰も取り合わぬ」
かっと血が上る。
いまこの場で叩き伏せてやりたい衝動が湧き上がる。だが、それをすれば破滅するのは自分だ。
「任務に戻ります」
それだけを告げる。
老執事が扉の前に立ちはだかった。
呉瑶麗は構わず押しのけ、内鍵を解く。
扉を開け、廊下へ出た。
「とんでもないお転婆ですな、旦那様」
主人である高俅が、どうしても抱きたい女がいると言い出し、その始末を任されたのだが、あの女が高俅になびく姿はどう考えても思い浮かばない。
身寄りのない女だという。
囲われて贅沢に暮らす道も悪くはないはずだ。
だが、呉瑶麗は違う。
女ながら、武術家としての矜持があり、腕にも覚えがある。
男に養われて生きる類いの女ではない。
「だが、どうしても私は呉瑶麗を屈服させたい」
高俅は椅子に深く身を沈め、目を細めた。
「屈服……ですか。だが、あの呉瑶麗は並の女ではありませんぞ」
「承知よ──。あの美貌、あの気性、あの鍛えられた身体。どれを取っても一流だ。ああいう女を屈服させてこそ愉しみがある」
「そう申されましても……。また飽きれば捨てるおつもりでしょう?」
陸謙は肩をすくめた。
「それはわからん。いまので、ますます興味を抱いた。なにがなんでも、あの呉瑶麗を犯したい」
「ですが、あの女は並の女ではありません。仮に強引な手段で手に入れても、その後が恐ろしい。武術の達人です。王進が失踪したいま、帝都で一番強いのは、あの女かもしれません」
「それを承知で言っておる──。今度は失敗せん──」
高俅の声が低くなる。
「失敗しないとは?」
「王進で遊んだのは愉しかったが逃げられた──。あの失敗は繰り返さぬ。一度捕らえさえすれば、今度は抜かりなく手を打つ」
その眼には、欲望と執念が宿っている。
「……まあ、承知しましたが……」
陸謙は小さく息を吐いた。
面倒なことになる、と胸中で思いながらも。
もっとも、後ろ盾のない女武術師範代を捕らえるのは、足した手間ではない。
ちょっとした罠ひとつ──。
造作もないことだろう。