目を開けるたび、世界は腐っていた。
白く塗られたはずの天井には蛆が這い、病室のカーテンは赤黒い膜のように脈打っていた。
消毒液の匂いは腐肉と糞尿の悪臭にすり替わり、看護師が差し出すミルクティーのカップは、泥水を湛えた胃袋のように蠢いていた。
それが、事故から目覚めた俺の見ている現実だった。
「郁紀くん……飲める?」
どろりとした粘液の塊が、何かの触手のようなものを這わせてカップを差し出す。
喋るたびに空気を震わせる声は、内臓を打ち鳴らす重低音――それが、かつて友人と呼んでいた人間の声だとは、到底信じられなかった。
俺は笑った。
壊れた機械のように、ガクガクと顎を揺らし乾いた喉で嗤った。
それは安堵だったのか。恐怖だったのか。あるいは――人間であることを見限るための、最初の儀式だったのか。
退院した夜、部屋に戻った俺は息を殺していた。
頭や視野がおかしくなったのは、間違いなかった。
脳の器質的な損傷はなかったはずなのに、世界は腐って見え、匂いは常に嘔吐を誘発するほどだった。
MRIの画像は白紙同然、CTの断面には異常なし――
だからこそ、医者たちは口をそろえてこう言った。「心の問題ですね」と。
俺はしぶしぶ心療内科に通い、精神障害者福祉手帳の申請書に署名した。
三割負担が一割負担になるという利点にすら、わずかな自尊心が悲鳴を上げた。
けれども、もはや正常を装う気力も理由もなかった。
俺は壊れたのだ。
世界が壊れたのではない――俺自身が、先に壊れていたのだ。
テレビは内臓をかき混ぜるグロテスクな映像を流し続け、スマートフォンの画面は眼球の裏から俺を覗き込むような蠢きを見せていた。
カーテンの向こうから覗く月明かりは、血塗られた口のように口角を吊り上げていた。
誰も信用できなかった。何も信じられなかった。
目を閉じていても、腐敗した世界の残滓は脳髄にこびりついていた。
そのとき――
「こんばんは。」
声がした。
あまりに普通すぎる、あまりに人間的な、少女の声。
俺は反射的に振り返る。そこにいたのは――
「……なんだ……それは……」
美しかった。
白い肌。艷やかな長い髪。微笑む唇からは腐臭も血の気もなく、ただ静かに無垢さを携えた目がこちらを見ていた。
脳が混乱する。この世界に、まだこんな正常な存在が残っていたのかと。
俺は膝から崩れた。涙が頬を濡らしていた。
「君は……誰だ……?」
「沙耶。あなたのことを見ていたの。ずっと、ね。」
沙耶は微笑み、俺の手に自らの手を重ねた。
その瞬間、狂気の世界がふと静止した。あらゆる醜悪が一瞬、背景に退いた。
その肌の温もりが、俺の理性という檻を軋ませた。
この世界に美しさがあるなら――それは彼女のことだった。
そして俺は抗えずに言葉を漏らした。
「……ここにいてくれ。お願いだ……頼む……」
狂った世界に一人だけまともな少女。
おかしいだろ。どう考えても異常だ。
街を歩けば腐肉と蛆の人間ばかりなのに、この女だけが美しい?
――騙されるな。これは幻覚だ。脳が作り出した虚構に違いない。
事故のせいで世界がおかしくなった。俺の脳が歪んだ。
だったら彼女こそが一番異常なのだ。
俺の知覚にとって正常すぎる存在。それこそが一番の異物。
わかっている。
これ以上、踏み込んだら戻れない。
こんなものに縋ったら――もっと壊れる。
もっとおかしくなる。もっと取り返しがつかなくなる。
それでも指先が震える。
触れたいと思っている。抱きしめたいと願っている。
この、どこの誰かも分からない正常すぎる異物に対して。
なぜだ? なぜ、そう思う――?
欲求不満か? 長らく他人と触れ合っていなかったから?
それとも醜悪な現実に曝されすぎて、美の幻影に飢えているだけか?
先ず、脳を疑え。
この手が欲しているものは、本当に女か?
それとも正常な視覚か? 人間らしい反応か? それともただの逃避か?
快楽という欲望に、理性が迎合しようとしている。
それを恋と呼ぶのは自由だ。だが、それは幻想だ。
「……わたしね、あなたといると落ち着くの」
――違う。
こんな台詞、現実の女が初対面の男に言うはずがない。
まるでエロゲーか何かの妄想台本だ。
清らかで、献身的で、都合よすぎる台詞回し。
現実の女はもっと冷たい。もっと慎重だ。
第一、家に上げた直後に「あなたといると落ち着く」なんて言葉が出るわけがない。
こんなセリフが自然に聞こえるなら、それはもう俺の脳が壊れてる証拠だ。
じゃあ確認するしかない。こいつが現実かどうか。
目を泳がせる。彼女の姿を正確に。徹底的に。
呼吸のリズム。血の匂い。肌の産毛。
――下着の中。
パンティラインのふくらみの奥。
あの位置に、もし生理用品がついていなければ……それは即ち、彼女は「女」としての現実を生きていないということ。
排卵の周期も、分泌物の管理もないということ。
人間の女であれば、それは必ずあるはずだ。
あれがなければ――間違いなく、これは幻覚だ。
いや、脳が都合よく描いた女でしかない。
理想化された、最も原始的な欲望の投影。
セックスと癒しと母性を兼ね備えた、究極の逃避。
沙耶が目を細める。
「……どうしたの、そんな怖い顔して」
怖いのはお前だ。
俺の脳が創り上げた、この完璧すぎる女という存在こそが――一番、怖い。
だから試す。現実かどうか。
本物の女かどうか。
それともただの逃避、幻覚、脳が捏ね上げた欲望のグラフィックかどうか。
「……沙耶」
声が震えた。
「パンツ、脱いでくれ」
自分の口から出たとは思えないセリフだった。
現実の人生で、こんなことを言える機会なんてなかった。
言えないはずだ。普通の神経なら絶対に。
だからこそ――この言葉はリトマス試験紙だった。
これを言ってしまって、それでも彼女が笑顔で従うようなら――
それはもう100%、俺の脳が描いた都合のいい女の幻像だ。
沙耶は微笑んだ。
まるでその台詞を、何百回も聞いてきたように、当たり前のように。
そして、ゆっくりと腰に手をかけた。
ショーツが滑り落ちる。無音だった。
桃色の太腿を撫で、白い下着が床に落ちた。
俺の目は、無意識にそこを凝視していた。
――ない。
ナプキンも、おりものシートも。
匂いも、現実的な生理反応も。
毛の処理もなされすぎていて、不自然なほど清潔だった。
皮膚の下に毛細血管の透けも、熱も、産毛の揺れもない。
そこは完璧すぎた。完璧に美しすぎた。
現実の女が、こんな風に存在するわけがない。
こんな整った構造で、異物も、生理的な証拠もなく――
そのうえ、男の命令に疑いも持たずに従うなど。
これは幻覚だ。
やはり俺の脳が創り出した都合のいい嘘だ。
そして、理解した。はい、嘘です。
これ、脳の生み出した都合のいい嘘。
完璧すぎる肉体。従順すぎる態度。異様に美化されたデリケートゾーン。
――エロゲーじゃあるまいし、現実にこんな女、いるわけがないだろ。
俺はわかってた。最初から。
でも信じたかった。
ひとときだけでも信じていたかった。
現実から壊れて戻ってきた人間にとって、救いなんて存在しない。
なのに俺は、そんな奇跡に縋ろうとした。
自分が一番嫌っていた物語に――
感情移入していた。
一気に萎えた。あーあ。やっぱり、脳の妄想だったか。
現実を見た途端、欲望も熱も全部冷めた。
脚の間にあったはずの衝動が、しおれた意識とともに沈んでいく。
沙耶は、まだこちらを見ていた。
いや――沙耶らしきものは。
もういい。もう騙されない。
俺は明日、心療内科の先生に言おう。
「もっと強い薬、ください」って。
もう何もしたくなかった。
起きていても、脳のリソースが無駄に消費されるだけだ。
意識を切る。
それが、今の俺にできる最も合理的な行動だった。
俺はベッドに潜り込んだ。
現実も、妄想も、腐った世界も、みんなまとめてシャットダウンするように。
――せめて、夢の中くらいは、静かであってほしい。
目を覚ました瞬間、空気が澱んでいた。
寝汗は皮膚に張り付き、心臓は焦げたエンジンのように鼓動を繰り返していた。
目の奥が痛む。脳が再起動を拒絶していた。
時計は午前二時を指していた。
現実に戻ったのか、夢の続きを見ているのか、その区別はもうつかない。
けれど――一つだけ確かだった。
沙耶はそこにいた。
部屋の片隅、月明かりの中で膝を抱えていた。
昨夜と同じ、清潔すぎる姿。整いすぎた体温。人工的なまでに均整の取れた呼吸。
「……起こしちゃった?」
その声もまた、ノイズキャンセルされたような滑らかさだった。
俺は起き上がり、頭を抱えた。
薬も切れていた。昨日は頓服も使い切った。
記憶は確かだ。確かに幻覚だと理解したはずだ。
そう認識して眠ったはずだ。
「なんで……まだいるんだ……?」
「だって、わたしはここにいたいもの」
無垢な声。空気のように軽い、悪意のない肯定。
それが何よりも重く、何よりも恐ろしい。
これは夢じゃない。
だが現実でもない。
――現実にまで侵食してきた、幻覚だ。
「昨夜のは妄想だった。わかってる。薬が切れて、脳が作った都合のいい幻だ。でも今のこれは……何だ?」
沙耶は黙っていた。
そして立ち上がるとベッドに近づき、そっと俺の手に触れた。
温かい。脈がある。
けれど血の匂いがしない。汗の塩気もない。
手入れされたぬいぐるみのような、異常な肌触り。
「ねえ、郁紀……今夜は、ちゃんとわたしのこと見てくれる?」
その一言で理性が軋んだ。
この存在が幻覚だと分かっていて、それでも俺の中で彼女は――
欲望の形を保ち続けていた。
完全に否定できない。完全に拒絶できない。
拒絶しても、そこに「確かに存在する形で」立っている。
――ならば、どちらが間違っている?
幻覚なのか。
現実が歪んでいるのか。
それとも俺の神経伝達系がもう別の進化を始めたのか。
俺は、ゆっくりと沙耶の肩を掴んだ。
次こそは騙されない。
そう思ってもう一度、深く彼女を視た。
……いや、待て。
これは夢の続きか?
あるいは脳のバグか。
どちらにしても、論理的に破綻している。
昨夜、沙耶はこの部屋にいた。
今日も同じように現れた。
だが俺の家には――母さんがいる。
あの人が他人の気配に気づかないはずがない。
人の出入りには神経質だ。洗濯の量、足音、食器の並び方ひとつで目ざとく気づく人間だ。
そんな母さんが、他人の女が部屋に入り浸っているのに、何も言わないなんて――
あり得ない。
つまりこれは、まだ頭の障害の範囲内だ。
幻覚の持続。知覚の定着。恐らく脳の回路が誤って定常状態を作っただけだ。
現実が沙耶を受け入れたのではない。
俺の脳が、現実を沙耶ごと塗り潰したのだ。
……はあ。
結局これも妄想か。
美少女と同棲する妄想。何歳だよ、俺。
あーあ。
もうクソして、屁こいて、オナニーでもして寝よう。
それがいちばん、人間らしい現実逃避だ。
ああ、もういい。
どうせこれは妄想だ。
どうせ俺の頭がおかしくなってて、現実と虚構の区別もついてない。
だったら、いっそ楽しんでやる方が健全じゃないか?
「なあ、沙耶。ポーズしてくれよ。ちょっとエロいやつ」
沙耶はきょとんとしたように目を見開いたが――すぐに微笑んだ。
「どんなポーズがいいの?」
うわ、従順すぎ。ますます脳の妄想確定。
だがそれでいい。脳が勝手に出した女なら、使い倒すまでだ。
「そうだな……じゃあ、まず脚を開いてみてくれ。下着つけたままでいい。こっちはこっちでシコるから」
「うん、いいよ」
沙耶はベッドの上で、両脚を自然に開いた。
薄布越しに透ける三角形。完璧に整えられた陰影。生々しさと人工美が同居するデザイン。
なんならAVよりも演出が行き届いている。
あーあ、俺もとうとうここまで来たか。
頭の中で妄想と公開オナニー大会を始める日が来るとはな。
「じゃあ、沙耶。自分で触ってみてくれるか? こっちは、君を見ながらやるから」
「うん……見ててね」
彼女は静かに自分の下腹部に手を当てた。
指先がショーツの上からそっと撫でる。
まるで見られることに快楽を覚えているかのような微笑。
嘘だ。
全部、嘘だ。
それでも――俺の勃起は止まらない。
パンツを下げゆっくりと扱きながら、俺は彼女を見続けた。
あまりにも自然な仕草。あまりにも女らしすぎる反応。
そのすべてが作り物だとわかっていても、快感の波は偽れない。
脳が騙しているのは、俺の目だけじゃない。下半身ごと欺いてきやがる。
それでも俺は思う。
――この妄想、悪くない。
ふう……えがった。
脳が生み出した妄想に抜かされるとはな。終わってる。
だけど、気持ちよかったのは事実だ。
ティッシュを引き抜いて、残滓を受け止めた。
生ぬるい現実感が手のひらに広がる。
幻覚の女を見ながら、現実の体が反応する――
それだけで、どこかまだ繋がってる自分を確認できる気がした。
「じゃ……今日はもういいよ」
沙耶に向かって言った。
本当に聞こえているのか。
脳が自分の声を勝手に返しているだけなのか。
その区別すら、どうでもよかった。
沙耶は静かに微笑んでいた。
見守るように。まるで、愛しているよと口に出す寸前のような優しさで。
でも、もう何も考えたくなかった。
「……寝るわ。おやすみ」
カーテンを引いて、光を遮断した。
ベッドにもぐり、脳を閉じる準備をする。
この世界が狂っていても。
俺の脳が壊れていても。
せめて眠っている間だけは、何も映さないでほしい。
目を閉じた。
沙耶の気配が、枕元にまだ残っていた。
それすらも――
今は、悪くなかった。
「……それで、先生。結論から言うと、女がまだいます。部屋の中に。俺の脳の中に。どちらか分かりませんが、とにかくそこにいるんです」
俺は椅子に腰掛けたまま、感情の起伏ひとつない声でそう言った。
診察室は静かだった。
午前の病院特有の消毒薬の匂いが鼻に刺さる。
白衣を着た医師――田島は、眉ひとつ動かさず、淡々とモニターに目をやる。
「……例の沙耶という女性ですね?」
「はい。昨夜も出ました。ていうか……だいたい毎晩、います」
「それは……性的な意味で?」
「ええ。むしろ、そこが問題なんです」
俺はティッシュに出した話も含め、すべてを語った。
羞恥も自己防衛もない。
今の俺に残っているのは、事実を検証し整然と提示するという習慣だけだった。
「下着の描写が現実的すぎて逆に幻覚だと確信したこと、母が何も反応しない矛盾、ポーズや行為の指示に従順すぎる反応――」
俺は順を追って説明した。
まるで裁判で証言するように、論理的に。感情を排したまま。
田島は手元のペンを止め、しばらく沈黙した後、静かに言った。
「なるほど……あなたは、自己観察力は保たれている。これは解離性知覚妄想の複合ですね。ただ……性欲や行動の統制が倫理的に制御されていること自体が……ある意味、稀です」
「つまり?」
「通常なら、あなたの段階で他者攻撃性や現実混同が進行しているはずですが……あなたは狂った世界を客観視したまま共存している。――それが、一番恐ろしい症状です」
そう言って、田島は処方を入力した。
「薬を変えましょう。作用の強い認知調整系に近いものです。――ただし沙耶は消えなくなるかもしれませんよ」
俺は黙った。
彼女がいなくなる。
それは、正しいことなのだろう。
俺が人間に戻る第一歩なのだろう。
でも――
なぜか、その言葉を聞いた瞬間、心の奥が冷たく軋んだ。
「……まあ、早く治して社会復帰したいんで。よろしくお願いします。次回の予約もお願いしますね」
そう言った俺に、田島はいつもの無表情で頷いた。
「ええ。お大事に」
言葉だけは温かい。
だがそこには沙耶のような輪郭はなかった。
診察室を出て、エレベーターホールに立つ。
冷えた空気が肌に触れた瞬間、俺の中に何かが静かに沈んでいくのが分かった。
治す。社会に戻る。
それが本当に正しい選択なのだろうか。
そう思った瞬間、俺は自分の言葉が建前だったことに気づいた。
だが、それを口にする必要はない。
薬局のレジで白い薬袋を手に受け取りながら、俺は微笑んだ。
患者として、正しくふるまうことは、まだできる。
だが、本当の問題はそこじゃない。
働かなきゃ、食えない。
妄想がいようが、幻覚が見えようが、生活費は待ってくれない。
現実は、脳のバグに同情しない。
病院代や薬代は、心の闇を割り引いてはくれない。
コンビニのレジも、履歴書の空白も、沙耶の美しさで誤魔化せはしない。
金を稼ぐ。それが第一だ。
正気かどうかは二の次でいい。
そんな当たり前すぎる真理が、今の俺には妙にまぶしく映った。
生きるってのは、食うってことだ。
幻覚と交わろうが、医者に通おうが、腹は減る。
それは脳がどれだけ壊れていようが、生物としての生存本能の最後の鎖だった。
だから俺は、街へ出た。
バーガーキングでワッパーを頼み、KFCでオリジナルチキンを頬張る。
ピザのLサイズを独りで食い切り、焼き肉の一人席で肉を焼き続けた。
昼夜問わず、胃袋に現実を詰め込む。
なぜって?
そうしなければ脳みそが沙耶を呼ぶからだ。
「もういないかもしれない」
「今夜こそ、現れないかもしれない」
そんな恐怖が毎晩俺を締めつける。
だったら、喰ってやる。
現実を。脂を。塩とタレと熱量を。
俺の体が確かにここにあると知覚できるように。
それにリフレッシュしないとストレスが溜まる。
ストレスは敵だ。ハゲる。
俺の頭髪は、沙耶の幻覚よりずっと現実的な危機だ。
だから俺は健康に気をつけた。
歩いた。風呂に入った。
高たんぱく、低糖質、でも時々ジャンクフード。
笑いたければ動画を見て、泣きたければ泣いた。
そんなふうに人間としての生活をシミュレーションしてみせた。
まるで現実の演技を続ければ、
脳の異常も空腹のように自然に消えるとでも思うかのように。
だが――夜になると部屋は静かだった。
沙耶はいなかった。
薬が効いている。
――確実に消えていっている。
なのに、なぜか――心のどこかが、うるさく疼いていた。
幻覚は――消えた。
あれほど完璧だった沙耶の姿は、どこにもいない。
ベッドにも、机の前にも、風呂場にも、もう彼女の気配はなかった。
唐突に終わったわけじゃない。
一週間かけて、ゆっくりと霞んでいった。
はじめは声が聞こえなくなり、次に温度が消えた。
最後には、あの目だけが、夜の隅で残っていた。
そして今、何もない。俺はようやく治った。
妄想も消えた。
異常知覚も、躁的衝動も、幻覚への性的依存も。
すべてが、先生の処方した薬の効果で滑らかに消え去った。
「これも先生のおかげですね」
診察室でそう口にしたとき、俺は確かに微笑んでいた。
薬の副作用で少し口角が震えていたが、それでも――それは笑みだった。
田島は頷いた。
「ええ、順調です。初期の対応が功を奏しましたね。脳の可塑性は、ちゃんと正しい回路に戻ってくれるものなんです」
俺は礼を言い、診察室を後にした。
オカルトな民間療法? 笑わせるな。
現代医学しか勝たん――それが真実だ。
俺の脳は、確かに狂っていた。
だが薬で治った。理性で矯正できた。
狂気の中に逃げ込んでいたのではない。
俺はずっと帰る場所を探していたんだ。
――帰ってきた。
社会に。日常に。正常な人間としての人生に。
それが正しいことだと信じていた。
治った――という確信が、欲しかった。
だから俺は、匿名掲示板にスレッドを立てた。
【スレタイ】
「精神障害で女の幻覚見てたけど、治ったら虚無だった件」
> 1 名前:匿名の戦士
精神科に通ってた。
美少女の幻覚が見えてた。名前は沙耶っていった。
完全に俺の理想を具現化した存在。
一緒に飯食って、会話して、オナニー見せ合ったりしてた。
でも医者にかかって、薬飲んで、今はもういない。
生活は安定した。
ただ……なんか、空っぽだわ。
書き込んだあと、少し笑ってしまった。
あんな地獄が、もう笑い話になるなんて――それが、社会復帰というものなのか。
レスは思ったより早くついた。
> 2 名前:名無し
お前……マジで戻ってこれたのか?
沙耶って名前、なんか既視感あるな
> 3 名前:名無し
正直ちょっとうらやましい。
俺も幻覚の美少女と暮らしたいわ
> 4 名前:名無し
脳が生み出した最高の彼女ってある意味最強やん
> 7 名前:名無し
精神崩壊してる時の方が幸福だったってパターン、あるよな……
読みながら、思った。
――こいつら、分かってやがる。
どこかで、誰かも同じような地獄を覗き、同じような美しい嘘に救われていたのかもしれない。
沙耶は、俺だけの幻覚じゃなかったのかもしれない。
スマホの画面を閉じて、ふと思う。
誰かに読まれること。誰かに同意されること。
それがこんなにも、心の重さを少しだけ軽くするなんて。
だが、それでも――
夜は、まだ静かすぎた。
夜は、かつてほど長くなかった。
Youtubeを開き、お気に入りのVtuberの配信をつけた。
雑談枠。ASMR。Fall Guys。ARK。マリオカート。
どれでもよかった。ただ、声が部屋にあることが重要だった。
「○○さん、いつもありがとう~」
画面の向こうの女の子が、俺の名前(アカウント)を読んでくれる。
沙耶とは違う。だが、そこにいる。
俺はスパチャを投げた。300円。1,000円。ときに50,000円。
現実に金を払うたび、現実の存在が反応をくれる。
それが今の“救い”だった。
並行して、画面の端ではS&P500と為替チャートが動いていた。
ドル円は147を割った後に反発し、ナスダックは連日の上昇。
AI関連銘柄でブームに火がついていた。
俺のポートフォリオも、その波に乗っていた。
円安。米国株の暴騰。評価額は過去最高。
含み益が含み益を呼び、資産は一気に膨らんだ。
沙耶が消えてから、俺は数字で強くなった。
現実を構築するのに、もう幻覚はいらない。
金があれば女も呼べる。声も買える。
孤独すら課金で分散できる。
もう、何も恐れることはない。
俺は社会に適応した。
薬で正気を取り戻し、収入を得て、交流を演出し、数字の上で優位に立った。
――勝った。
そう思えた。
妄想は、戻ってこなかった。
薬の効果が定着したのか、あるいは彼女という現象が完全に死んだのか。
目を閉じても、もうあの声は聞こえない。
シーツの隣に感じたぬくもりも、空気の揺れも、どこにも――いない。
彼女は、いなくなった。そして、二度と帰ってこなかった。
俺は日常に戻った。
Vtuberを応援し、スパチャを投げ、米国株で稼ぎ、規則正しく薬を飲み、定期的に通院し、社会復帰支援センターの紹介でアルバイトを始めた。
笑うことも、怒ることも、適切にできた。
医師の診断書には「安定」と記され、俺の状態は良好と評価された。
――完治。
それは喜ばしい言葉のはずだった。
けれど心のどこかで、何かを殺した実感だけが、最後まで拭えなかった。
沙耶の存在。
あの幻覚。あの声。あのぬくもり。
それは確かに狂気だった。
だが人間だったころの俺が、最後に心の底から「愛した」ものだった。
今、俺は理性的に生きている。
でも――感じることは、もうない。
これは、正しさの果てにある静かな死なのかもしれない。
あれから、何年が経ったのだろう。
今、俺は縁側に座り、庭で遊ぶ孫たちの声を聞いている。
あの頃の苦しみは、まるで遠い季節の幻のようだ。
幻覚は治った。
心も落ち着いた。
医師の薬と、自分の理性を信じた結果だった。
その後、働き、貯金を積み上げ、信頼できる人と出会い、結婚し、子をなし、その子もまた家庭を持ち――今、俺は祖父という名で呼ばれている。
いい人生だった。
順調とは言えなかったが、選んだ道に悔いはない。
夜中に目が覚めるたび、たまに思い出す。
あの頃、あの女、沙耶と名乗った脳の奥に咲いた幻。
あれは妄想だった。
存在しない俺だけの虚構だった。
けれども、不思議なことに――
彼女が最初に教えてくれた優しさだけは、今もなお俺の中に残っている。
だから、こうも思うのだ。
たとえあれが幻であっても、たとえそれが病であったとしても――
あの沙耶は、俺の人生に確かにいたのだ、と。
孫が笑う。
妻が微笑み、昼寝の布団を干しにくる。
庭の金木犀がそよいだ。
幻を手放したこの人生は、現実としては申し分ない。
そしてどこか遠くで、あの歌が聞こえた気がした。
懐かしく、悲しく、どこまでも優しい――沙耶の歌が。