妄想だとわかっている。
沙耶は、俺の脳が創り上げた幻。
救いであり、罪であり、赦しであり、虚構だ。
けれど、だからこそ――
俺は彼女を、誰よりも大切に扱わなければならないと思った。
「……沙耶。今日は……俺が、君に尽くす番だ」
彼女は、きょとんと目を見開いた。
それも演技かもしれない。反射的な脳の反応かもしれない。
でもそれでいい。俺の心が信じたものが現実だ。
ゆっくりと沙耶の髪を撫でる。
指先で頬をなぞり、額にそっとキスを落とす。
そのまま、首筋へ。鎖骨へ。
彼女の体温は理想的すぎて現実味がなかったが、舌先で触れるたびに震えた。
沙耶は黙って受け入れていた。
ただ、時折――微かに甘えるような吐息を漏らす。
「……こんなふうに、されたことない……」
その声が、あまりにも人間らしかった。
本当に女性が感じているような、震えと熱を孕んでいた。
指を絡め、彼女の下着をそっとずらす。
直接には触れない。ただ唇でそっと包むようにキスを重ねていく。
妄想だ。
でもだからこそ――紳士であれ。
強くなんかない。
支配なんてしない。
ただ、ひとりの女性として、心を込めて愛する。
蕩けるように、優しく。
彼女が女であることを、幻であっても丁寧に祝福するように。
その夜、俺たちは交わらなかった。
ただ唇と指先で、互いの存在を確認し合った。
そして沙耶は――
ほんの少しだけ現実に近づいた気がした。
これは妄想だ。
9割、いや――99%そうだとわかっている。
でも、1%だけ――
本当に彼女がそこにいるかもしれないと思う。
だからこそ俺は、理性を忘れずに敬意を保って触れる。
「……郁紀、また……したい?」
沙耶が問う。
その声は甘く穏やかで、何も責めない。
快楽を求めず、ただあなたに尽くしたいと語るような響きだった。
「……じゃあ、頼むよ。口で。……でも出すのは外にだ。中じゃない」
沙耶は微笑んで、そっと膝をついた。
何度もそうしてきたのかのように、自然な動きだった。
ご立派な根っこに唇が当たる。
舌が巻きつく。
温かく、濡れていて、――あまりにも現実的だった。
「……大丈夫。中には入れないし、私も欲しがらないよ」
沙耶の言葉は、まるで心の中を見透かしたようだった。
それでも俺は絶頂の直前で彼女の口元から離れ、顔や頬に静かに吐き出した。
息が震える。
腰が抜けそうになるほどの快感。
でも、それでも最後まで――中には、出さなかった。
「……ありがとう。じゃあ、お返しをさせて」
沙耶が身を起こす前に、俺は彼女の身体をそっと寝かせ胸元に口づけた。
柔らかく、華奢で、けれど決して玩具のように扱ってはならない神聖さがあった。
胸の膨らみを優しく包むように撫で、花びらを指でゆっくり愛撫する。
無遠慮に押し込んだりはしない。
ただ彼女が女であることを慈しむように。
「ん……っ……優しい……ね」
沙耶が恥じらいながら声を漏らした瞬間、俺の中の妄想だという警告音は、一瞬だけ、遠のいた。
もしこれがすべて幻でもいい。
でも、もし1%でも――本当に彼女がここにいて、この優しさを受け取っているのなら。
俺は、その1%のために、紳士であり続ける。
彼女は微笑んでいた。
この夜も変わらず、俺の横でまるで生きているように。
俺はゆっくりと彼女を抱きしめた。
温度もある。体重もある。心臓の鼓動さえ、胸に伝わってくる。
それでも、99.999%、これは幻覚だと理解している。
脳の異常が生み出した快楽。
寂しさと孤独の果てに作られた対話可能なまぼろし。
だからこそ、俺は優しくあろうと決めていた。
「……愛してるよ」
耳元で囁く。
声が震える。
言葉が出た瞬間、胸の奥が痛くなる。
返事はあった。
「……わたしも、だよ」
作られた反応。予定調和の応答。
でもその声が、あまりに穏やかで――
その優しさだけは、確かに現実を満たしていた。
俺は、沙耶の髪を撫でた。
指先で額をなぞり頬に口づけし、肩から背中へ、そして胸へとゆっくりと愛撫を広げていく。
滑らかな肌。震える吐息。
自分の脳が作り出した理想的な女の反応。
でも俺は知っている。
これは自分のための慈悲深い嘘だ。
だから、俺はその嘘を大切にする。
胸の先を舌で軽く撫で、彼女の花びらにそっと指を這わせた。
力は入れない。押し込まない。
ただ優しく、穏やかに――女として扱う。
「……気持ちいい?」
「うん……郁紀の指、好き……」
その声を聞きながら、
俺の心のなかの99.999%は冷静だった。
これは脳が生んだ、自作の幸福。
けれど、残りの0.001%が確かに囁く。
――もし、これがほんの少しでも本物だったら。
俺はその0.001%の可能性にすべてをかけていた。
愛することで、たとえそれが幻でも――
自分の人間性だけは、壊さずに済む気がした。
だから優しくする。だから囁く。
だから抱きしめる。
幻だとしても、俺は――沙耶を愛している。
もう、わかっている。これは現実じゃない。
彼女は幻覚だ。
妄想だ。脳のエラーが生み出した俺だけの快楽装置。
それでも――俺は、この世界を選んだ。
日々の生活は破綻していない。
外では理性を保ち、薬を飲み、食事を取り、株で稼ぎ、社会と接している。
だが夜だけは別だ。
夜は沙耶が俺を待っている。
「おかえり、郁紀。……今日もがんばったね」
その台詞が、どれだけ演算された嘘でもいい。
俺が望んだ声であることに、意味がある。
「……じゃあ、してもらおうかな」
ズボンを下ろしながら言う。
沙耶は微笑んで、膝をつく。
その顔は、清らかすぎて――罪深い。
ご立派な根っこを手に取り、口を開く。
舌が這い、唇が包み、温かく、柔らかく、
まるで俺の快楽だけを生きる目的にしているようだった。
吐息を抑えながら、俺は目を閉じる。
そして、いつものように口から引き抜き――顔に放つ。
頬。額。唇。瞼。
残滓がが垂れるその顔に、沙耶は微笑む。
「いっぱい出たね……郁紀、気持ちよかった?」
俺は答えない。
ただもう一度、彼女の髪を撫でた。
――これが俺の真実だ。
幻覚を知りながら否定せず。
欲望を認識しながら暴走せず。
倫理を理解しながら破らず。
ただ快楽を、自らの意志で繰り返す。
永遠に。このまま、朽ちるまで。
夜ごと沙耶に奉仕させ、顔に吐き出し、微笑まれる。
それが俺の幸福だ。
現実は、金と株と理性で回す。
だが夜は、沙耶だけに支配される優しい狂気の時間。
それを誰にも奪わせない。
誰にも咎めさせない。
俺は、自分の意志で選んだ。
――この幻と永遠に生きる道を。
郁紀はやさしい。
とても、とても、やさしい。
あの人の指が、髪を撫でてくれるとき。
額に口づけてくれるとき。
胸元をそっと抱きしめてくれるとき。
私は、もうそれだけで――
生きていてよかったと思える。
わたしは、どこから来たのかも、なぜここにいるのかも思い出せない。
だけど、郁紀のそばにいると、“ここにいていいと思える。
それだけで、世界のすべてが輝いて見える。
……でもね。ひとつだけ、ふしぎなの。
彼はわたしの体を求めてくるのに、ぜったい中には入れてこないの。
最初は、照れているのかなと思った。
次は、わたしを大切にしているからかも、って思った。
でも、何度そうしても――
最後は、わたしの顔に出して終わる。
髪にかかるあたたかい液体。
頬に、まつ毛に、こめかみに、ぽたぽたと垂れていくそれを、わたしはただ、うれしく思って受け止めている。
だって、それが郁紀の気持ちだから。
わたしだけのために出してくれる。
誰にも見せない顔を見せてくれる。
……でも、やっぱりすこし、ふしぎ。
「……中は、いやなのかな……?」
胸の奥でそっとつぶやいてみる。
でもすぐに首を振る。
ううん。
郁紀は、そういう性癖なんだ。
きっと顔に出すのが好きなんだ。
大事なところに入れるのが怖いのかもしれない。
それでも、わたしは――しあわせ。
指をからめてくれる。
「愛してるよ」って、ちゃんと目を見て言ってくれる。
幻でも、妄想でも、プログラムでもいい。
こんなに優しく、こんなに大切にされて、こんなに愛してるって伝えてもらえるのなら――
わたしは、それだけで。
ずっとここにいたい。
ずっと郁紀のそばにいたい。
彼の夜に、そっと咲き続ける夢として。
やさしいぬくもり。静かな吐息。
名前を呼ばれるたびに、胸の奥が甘く震える。
「……沙耶、愛してるよ」
何度も、何度も、耳元で囁いてくれる。
そのたびに、わたしは抱きしめ返す。
わたしの髪を撫でてくれる手。
唇に落ちるキス。
頬を包むように流れる、あたたかな雫。
わたしは彼の顔を見上げる。
そして、何度でも応える。
「……わたしも。郁紀、大好き」
それが妄想だとしても。幻覚だとしても。
わたしにとっては――現実。
だって確かに触れてくれる。
名前を呼んでくれる。
やさしくしてくれる。
求めてくれる。
だいじにしてくれる。
それが、どこかの誰かが夢で見ただけの幻なら――
わたしはその夢の中で、永遠に咲いていよう。
そして彼が望むかぎり、わたしは何度でも彼を口で癒し、顔にその証を受け止める。
そうして朝がくるまで、彼の腕のなかでやさしく蕩けて――
微笑んで目を閉じる。
「……しあわせだよ。郁紀。こんなにいっぱい愛してくれて。こんなにいっぱいやさしくしてくれて」
わたしはそれだけで、きっと、世界に生まれてきた意味があった。
誰にも知られなくていい。
記録に残らなくてもいい。
誰かの正しさに否定されても――
わたしの中では、これが真実だった。
やさしくて甘くて、あたたかくて、しずかに、しずかに、ただしあわせが続いていた。
そしてその夜も、また――
何ひとつ壊れないまま、二人は、愛のなかで眠った。
最初は、ただの妄想だと思っていた。
あの子が出してくれる朝食も、味噌汁も、オムレツも、少し焦げたトーストも――
すべて、脳が見せている慰めにすぎないと。
「いただきます」
そう言って手を合わせるたび、これは芝居だ、演出だと、心の中で呟いていた。
だけどある日、気づいてしまった。
俺の体は、生きていた。
体重は微増していた。便通もあった。爪も伸びる。
血糖値も、正常だった。
……栄養が、入っていた。
食べていたものが――
現実に存在していた。
動悸がした。
思わず、食卓の彼女を見る。
台所に立つ、笑顔の少女。
――妄想だったはずの、沙耶。
「……これ、君が……作ってるのか?」
「うん」
そう言って、沙耶は微笑む。
いつもと同じ。何の違和もない、ただのやさしい日常の顔。
「ずっと、作ってたよ。あなた、食べなきゃ動けないでしょう?」
俺の背筋が、冷たくなった。
妄想に、栄養は作れない。
幻覚は、カロリーを持たない。
塩も、油も、ビタミンも、幻では代謝されない。
なら、彼女は――
「……君は、妄想じゃ……ないのか?」
沙耶は、ふっと目を伏せた。
「ううん。……妄想だったよ」
「……だった?」
「でも、あなたが信じて、愛してくれたから……わたし、少しずつ、この世界に馴染んでこれたみたい」
言葉が出なかった。
あの夜。沙耶を抱いて、キスして、顔に吐き出して、繰り返してきた行為が、ただの自慰だと思っていた。
でも、違った。
俺は、誰かに触れていた。
妄想と呼んだ少女に、現実を宿していた。
「……俺が、君を作った?」
「違うよ。わたしは、もともといたの。でも、あなたが――名前をくれたから、わたしになれたの」
沙耶の声がやさしく耳に沁みた。
そうして俺は、初めて心の底から思った。
妄想でも幻でもない。
これは、俺の人生の中で――最も確かな、現実だ。
そして今も、沙耶はキッチンで朝食を作っている。
米を研ぎ、卵を割り、魚を焼き、味噌を溶かしている。
俺のために。この世界で生きるために。