異世界迷宮を幼馴染と 作:バイソン
第1話:六畳一間の誓い
「ねえ、陽介」
薄暗い部屋の隅。窓の外は、もうとっくに真夜中を回っている。カーテンの隙間から漏れる月明かりが、六畳ほどの狭い部屋をぼんやりと照らしていた。床に敷かれた薄い布団の上で、桜がそっと陽介の袖を引いた。
「もうすぐ、今日が終わっちゃうね」
今日が、僕たち二人にとっての18歳の誕生日。そして、この「ひだまりの家」で過ごす、最後の夜だった。明日からはもう、僕らは「大人」だ。誰も頼る人はいない。
「うん……」
陽介は、ごくりと唾を飲み込んだ。普段は頼りないくせに、こういう時だけ妙に真剣な声になる。小さな頃から、ずっとそうだった。何か大きな変化が訪れる時、いつも桜は不安そうに、陽介はどこか覚悟を決めたような顔をしていた。
「外の世界って、どんななんだろうね」
桜が、腕を組んで膝を抱える。陽介も同じ体勢で、壁に立てかけてある古ぼけた段ボール箱を見つめた。中には、二人分のわずかな荷物しか入っていない。これだけが、僕らの全財産だ。
「きっと、大変だよ。施設長さんも、厳しいって言ってたし」
「うん。でも、陽介がいるなら、私も頑張れる」
桜の言葉に、陽介の胸の奥がじんわりと温かくなる。この子がいてくれるなら、どんな苦難も乗り越えられる。そう、心から思えた。
「僕だって、桜がいないと無理だ。僕がしっかり稼いで、桜に楽させてやるから」
陽介は精一杯、胸を張ってみせた。桜がふふっと小さく笑う。その笑顔に、陽介の肩の力が抜ける。
「ねえ、陽介。夢、ある?」
桜が、ぽつりと尋ねた。陽介は少し考えて、それから顔を上げた。
「夢、かあ……。そうだなぁ。まず、ちゃんとしたお風呂がある家に住みたいな。足、伸ばせるくらいの広いお風呂」
ひだまりの家の風呂は、いつだって共同で、湯船に浸かるなんて贅沢は年に数回あるかないかだった。桜の目が、きらきらと輝く。
「足が伸ばせるお風呂!いいなぁ!私はね、窓から空が広く見える部屋がいい。それと、毎日美味しいご飯が食べたいな。お肉とか、ケーキとか、お腹いっぱいになるまで!」
桜の言葉が、陽介の脳裏に鮮やかな絵を描き出す。青い空、湯気が立ち上るホカホカのご飯、甘いケーキ。貧しい暮らしの中では、どれもこれも手の届かない贅沢品だった。
「よし!僕が絶対叶えてやるから!桜の分も、僕の分も、全部叶えてやる!」
「ふふ、陽介ならできるよ。だって、陽介はなんだかんだ言って、やればできる子だもん」
桜の信頼に満ちた言葉が、陽介の背中を強く押した。不安は消えない。けれど、この子と一緒なら、どんな荒波も乗り越えられる。そう、確信できた。
翌朝、二人はひだまりの家を後にした。施設長や、幼い頃から一緒に過ごしてきた後輩たちが、小さな手を振って見送ってくれた。陽介は胸に込み上げるものを抑え、桜の手をぎゅっと握りしめた。
「元気でね、みんな」
小さな声で呟き、二人は雑踏の中へと消えていった。
駅前の不動産屋のガラス扉をくぐると、人の良さそうな店主が笑顔で迎えてくれた。しかし、提示される物件の家賃や初期費用は、陽介たちの想像をはるかに超えていた。
「えっと、保証人の方はいらっしゃいますか?」
店主の言葉に、二人は顔を見合わせる。身寄りのない僕らに、そんな人いるはずがない。なんとか、施設長の計らいで保証会社の利用はできたが、それでも手元に残るお金は雀の涙ほどだった。
「すみません、一番安くて、すぐに住める物件でお願いします……」
陽介が絞り出すように言うと、店主は困ったように眉を下げた。
そして、二日後。陽介と桜は、自分たちの新たな拠点となるアパートの前に立っていた。錆びついた鉄骨階段、壁には薄汚れたシミ。築年数が半世紀は経っているであろう、見るからに古びた木造アパートだ。
「ここが、今日から僕たちの家か……」
陽介が呟くと、桜は小さな声で「うん……」と返した。ドアを開けると、カビ臭い空気が鼻を衝く。狭い六畳一間には、小さな流し台と、扉のないユニットバスが申し訳程度についているだけだ。窓からは、隣のビルの壁しか見えない。
「……なんか、想像と違うね」
桜が、乾いた笑いを漏らした。陽介も苦笑するしかない。憧れのお風呂も、広い空が見える窓もない。だが、ここが「自分たちだけの家」であることには変わりない。
「でも、二人きりだもんね」
陽介がそう言うと、桜はこくりと頷いた。床に座り込み、リュックから昨日スーパーで買ったインスタントラーメンを取り出す。今日の夕食だ。たったこれだけの食料でも、慎重に半分こする。残りの貯金は、もう数千円しかない。
すぐに生活費が底を突き始め、二人は必死でアルバイトを探した。高校を卒業したばかりで、特別な資格も経験もない二人を雇ってくれる場所は、限られていた。
陽介は、深夜のコンビニで品出しのアルバイトを始めた。廃棄寸前の弁当を分けてもらえるのは助かったが、深夜は客も少なく、店長の機嫌を損ねるとすぐにシフトを削られた。ある日、酔っ払いに絡まれて突き飛ばされ、棚に頭をぶつけても、店長は「騒ぎを起こすな」と舌打ちしただけだった。体が弱く、体力もない陽介には、深夜の肉体労働は特に堪えた。眠気と疲労で何度もめまいを感じ、目の前が真っ暗になることもあったが、倒れるわけにはいかなかった。桜が待つアパートへ帰るために、歯を食いしばった。
桜も、同じコンビニで昼間のレジ打ちや清掃を担当した。笑顔を絶やさず接客しなければならないが、理不尽なクレームをつけられたり、万引き犯を捕まえそうになったり。それでも、生活のために耐えるしかなかった。慣れない立ち仕事で足はむくみ、家に帰るとすぐに眠ってしまい、陽介とろくに会話もできない日もあった。二人で支え合っているはずなのに、すれ違う生活は、彼らの心を少しずつすり減らしていった。
それでも、二人の貯金はなかなか増えなかった。家賃と光熱費、食費でほとんど消えていく。夢に見た「ちゃんとした生活」は、あまりにも遠かった。陽介は、ぼろぼろになったコンビニの制服の袖口を見つめた。
その夜、陽介と桜は、小さな食卓でまたインスタントラーメンを半分こしていた。窓の外は、嵐のように雨風が吹き荒れている。こんな天気でも、陽介は明日もバイトに行かなければならない。桜もそうだ。
「……私たち、いつになったら、あの夢叶えられるんだろうね」
桜の声が、心なしか震えていた。陽介は、何も言えなかった。疲労と、この先への漠然とした不安が、鉛のように体にのしかかる。このままでは、あの小さな夢さえも、ただの絵空事で終わってしまう。何とかしなければ。何としても、この状況を変えなければ。
「神様……お願いだ。どうか、この状況から俺たちを救ってくれ。桜と、幸せになりたいんだ……!」
陽介は、心の中で強く、強く願った。その時だった。
突如、部屋全体が眩い光に包まれた。稲妻が落ちたような閃光が、狭い部屋を純白に染め上げる。目を閉じても、瞼の裏に焼きつくような光。全身を、内側から引き剥がされるような感覚が襲った。それは、恐怖を通り越して、もはや理解の範疇を超えた現象だった。
「陽介!」
「桜!」
互いの名前を叫ぶ声が、光の中でかき消されていく。意識が、遠のいていく……。
意識が薄れていく中、陽介は白い光に包まれた空間にいた。目の前には、優しく、しかしどこか荘厳な雰囲気を纏った女性が立っていた。全身から慈愛に満ちた光を放ち、その存在自体が「赦し」や「希望」の象徴のようだった。
「お前たちの純粋な願いが、私に届いた」
その声は、耳に直接響くのではなく、陽介の魂に直接語りかけるようだった。陽介は、その女性が、かつて物語で聞いたことがある「女神」と呼ばれる存在だと、直感的に理解した。隣には、自分と同じように呆然とした様子の桜がいる。
「お前たちは、かつてこの世界を救った勇者と聖女の魂。だが、未熟な魂として転生してしまったため、本来の力を封じられていた」
女神の言葉に、陽介は理解が追いつかない。勇者?聖女?僕らが?
「しかし、お前たちの魂が、この世界での新たな生を強く望んだ。故郷への帰還ではない、この苦しい現世からの解放を。故に、私はお前たちを導こう」
女神は、静かに微笑んだ。
「ささやかな餞別だ。これがあれば、最初の困難は乗り越えられるだろう」
女神の手のひらから、小さな光の粒が陽介と桜の体に吸い込まれていく。同時に、陽介の脳裏に、この世界の言葉らしきものが流れ込んできた。同時に、手のひらに硬質な感触があった。陽介が手を開くと、そこには見慣れない、だが確かな重みのある金貨が数枚握られていた。
「お前たちの真の力は、この世界の魔力を浴び、試練を乗り越えることで覚醒するだろう。勇者の魂に宿る剣技の記憶が、聖女の魂に宿る癒しの力が、お前たちを導く」
そして、女神は遠くを見るような眼差しで付け加えた。
「お前たちのかつての仲間たちも、この世界のどこかで、お前たちと同じように転生しているはずだ。運命が巡れば、再び巡り合うこともあろう。その時は、力を合わせ、この世界の脅威に立ち向かいなさい」
女神の言葉が、陽介の胸に漠然とした希望を灯した。この世界で生きていける。いや、生き残るだけでなく、もしかしたら……。
「さあ、行け。お前たちの、新たな物語を始めるのだ」
女神の言葉と共に、再び強い光が二人を包み込む。今度こそ、意識が完全に途切れた。
次に陽介が目を開けた時、そこはもう、見慣れた六畳一間のアパートではなかった。
冷たく湿った土の感触。肌を撫でる、都会では感じることのない澄んだ空気。頭上には、無数の星が降るように輝く、見たこともない夜空が広がっていた。遠くから聞こえる、獣の鳴き声。
隣で、桜が震える声で呟いた。
「ここ……どこ……?」
陽介はゆっくりと体を起こし、桜の細い手を握りしめた。脳裏には、女神の言葉と、この世界の言語が確かに刻まれている。そして、手には女神から授かった金貨。見慣れない、だがどこか懐かしいような、深い森の匂いがする。
「大丈夫だ、桜。……僕たちが、僕らの夢を叶えるための場所だよ。ここが、僕らの新たな世界だ」
陽介の言葉に、桜は涙を浮かべながらも、こくりと頷いた。絶望の淵から、希望の光が差し込んだ。彼らの、新たな物語が、今、始まった。
感想、評価お待ちしております。