※この作品はR-18です。

読まれる日常   作:昼間寝音

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【第10頁:恋なんて、忘れたはずだったのに】(古明地さとり視点)

部屋の扉が閉まった瞬間、緊張の糸がほどけるように、わたしは静かに溜息をついた。

あの子——ミオの気配が遠ざかっていく。けれど、わたしの胸の奥では、まだ彼の鼓動が残響のように息づいていた。

 

「……読めていたのに」

 

心の震えも、目を伏せる前の躊躇も、すべて第三の目が捉えていた。

それでもわたしは、彼に触れることができなかった。

彼のあの“揺れ”を、ぬくもりで包んでやることができなかった。

 

わたしは、自室の寝台へと足を運ぶ。

座った瞬間、身体の奥から静かな疲労が押し寄せてくる。

それは、力を使い果たしたというよりも、感情に飲まれた後の静けさだった。

 

——そう、あのとき。

 

胸にしがみついて泣きじゃくるわたしを、ミオは、ためらいなく抱きしめてくれた。

あの腕は、細くもない、強くもない。けれど、確かに“男の腕”だった。

何も言わず、ただ、わたしを包んでくれた。

 

「……あれほど安心して泣いたのは、何百年ぶりだったかしら」

 

人の腕に抱かれて泣いたのなんて——思い出せない。

忘れたはずだった。そんなもの、もう必要ないと思っていた。

けれど、いまわたしは——

 

「……もう一度、あの腕に……触れられたい」

 

その言葉が、吐息に変わって消える。

喉の奥で熱くこみ上げるものがあって、わたしは枕にそっと頭をあずけた。

 

「わたしは……妖怪なのよ」

 

誰に言うでもなく呟く。

数百年を生きてきた。これからも、生きていく。

悠久の時間の中で、ほんの一瞬すれ違っただけの存在。

 

「なのに……どうして、こんなにも苦しいの」

 

ミオと対等になれるわけがない。

彼が老いても、わたしは変わらない。

それなのに——

 

 

 

抑えていたものが、崩れた。

 

最初に滲んだのは、まぶたの裏に溜まっていた、わずかな熱。

それは押し寄せるような衝動ではなかった。

ただ、音もなく、静かに——けれど確かに、限界を超えていた。

 

ぽろり——と、涙が一粒、音もなく落ちた。

 

それは不意に落ちたのではない。

何百年という孤独の底で、溶けもせず、蒸発もせず、ただ固く凍りついていた想いが、

今ようやく、じわじわと溶け出したような、そんな涙だった。

 

ぽろ、ぽろ、と——

 

やがて、連鎖するように、次の雫が頬を伝う。

それは悲しみではない。けれど、決して喜びでもなかった。

 

懐かしいような。

痛いような。

それでも、誰かに気づいてほしかったような——

そんな名づけようのない感情。

 

それを皮切りに、身体が思い出す。

あの腕のあたたかさ。

背中に回された手の、指の、微かな震えさえも。

あの夜、抱きしめられた自分が、今もまだそこにいるかのようだった。

 

涙は止まらなかった。

ぽろぽろと、いや、ぼたぼたと。

意思では止められない。

数百年の孤独が、堰を切ったように溢れ出す。

 

肩が震える。

呼吸が追いつかない。

それでも嗚咽にはならない。

ならないように、必死に耐えている。

でも、喉の奥から、かすかな声が漏れてしまう。

 

「……だめ……ああ……」

 

声にならない。

けれど、願いだった。

「もう一度抱きしめて」——それ以上でも、それ以下でもない。

 

わたしは妖怪だ。

妖怪であるくせに、いま、ただの女になっていた。

読みたくない。

読まれたくない。

ただ、知られたい。

ただ、包まれたい。

 

この痛みを。

この涙を。

誰にも知られたくないくせに——

彼だけには、気づいてほしいと思ってしまった。

 

「……恋なんて」

 

唇が震える。

言いかけて、呑み込んで、でももう遅い。

その言葉は、涙に染みこんで、わたしの中で形になっていた。

 

恋。

そう。

これは恋。

恋に似て、恋でしかない。

 

「……忘れたはずだったのに……」

 

数百年分の涙が、枕に染みていく。

そのひと雫ひと雫が、ひどく熱かった。

そしてそれを、誰かが拭ってくれることを、どこかで願ってしまう自分が——

いちばん、苦しかった。

 

そのとき——

 

コンコン……と、扉がノックされた。

 

わたしは慌てて顔を上げ、袖で涙を拭った。

いつもの“さとり”に戻らなくちゃいけない。

 

「どうぞ」

 

扉が開いて現れたのは——お燐だった。

 

「あ、さとり様。ミオがね、編み物用の毛糸、使ってもいいかって。聞いてって言われたの」

 

「……毛糸?」

 

「うん。何作るのかは教えてくれなかったけど。変なもんじゃないと思うよ?」

 

わたしは、頷く。

声が震えないようにだけ、気をつけて。

 

「ええ、構わないわ」

 

「ありがと。じゃ、伝えておくね」

 

お燐が軽やかに去っていく音を背に、扉が静かに閉じられる。

 

部屋に再び、ひとりきり。

わたしはもう一度、寝台に座り直す。

胸の奥が軋む。

奥深く、傷になっていた場所が、ようやく呼吸を始める。

 

——毛糸。

あの子は、いったい何を作ろうとしているの?

 

まさか、わたしに……?

 

「……わたしに、何かを贈ろうとしてるの?」

 

胸の奥が、きゅう、と痛む。

恋なんて、忘れたはずだったのに。

もう、必要ないと思っていたのに。

 

その痛みだけが、今、確かに——

わたしという妖怪の中で、最も“人間らしい”部分を、温めていた。

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