部屋の扉が閉まった瞬間、緊張の糸がほどけるように、わたしは静かに溜息をついた。
あの子——ミオの気配が遠ざかっていく。けれど、わたしの胸の奥では、まだ彼の鼓動が残響のように息づいていた。
「……読めていたのに」
心の震えも、目を伏せる前の躊躇も、すべて第三の目が捉えていた。
それでもわたしは、彼に触れることができなかった。
彼のあの“揺れ”を、ぬくもりで包んでやることができなかった。
わたしは、自室の寝台へと足を運ぶ。
座った瞬間、身体の奥から静かな疲労が押し寄せてくる。
それは、力を使い果たしたというよりも、感情に飲まれた後の静けさだった。
——そう、あのとき。
胸にしがみついて泣きじゃくるわたしを、ミオは、ためらいなく抱きしめてくれた。
あの腕は、細くもない、強くもない。けれど、確かに“男の腕”だった。
何も言わず、ただ、わたしを包んでくれた。
「……あれほど安心して泣いたのは、何百年ぶりだったかしら」
人の腕に抱かれて泣いたのなんて——思い出せない。
忘れたはずだった。そんなもの、もう必要ないと思っていた。
けれど、いまわたしは——
「……もう一度、あの腕に……触れられたい」
その言葉が、吐息に変わって消える。
喉の奥で熱くこみ上げるものがあって、わたしは枕にそっと頭をあずけた。
「わたしは……妖怪なのよ」
誰に言うでもなく呟く。
数百年を生きてきた。これからも、生きていく。
悠久の時間の中で、ほんの一瞬すれ違っただけの存在。
「なのに……どうして、こんなにも苦しいの」
ミオと対等になれるわけがない。
彼が老いても、わたしは変わらない。
それなのに——
抑えていたものが、崩れた。
最初に滲んだのは、まぶたの裏に溜まっていた、わずかな熱。
それは押し寄せるような衝動ではなかった。
ただ、音もなく、静かに——けれど確かに、限界を超えていた。
ぽろり——と、涙が一粒、音もなく落ちた。
それは不意に落ちたのではない。
何百年という孤独の底で、溶けもせず、蒸発もせず、ただ固く凍りついていた想いが、
今ようやく、じわじわと溶け出したような、そんな涙だった。
ぽろ、ぽろ、と——
やがて、連鎖するように、次の雫が頬を伝う。
それは悲しみではない。けれど、決して喜びでもなかった。
懐かしいような。
痛いような。
それでも、誰かに気づいてほしかったような——
そんな名づけようのない感情。
それを皮切りに、身体が思い出す。
あの腕のあたたかさ。
背中に回された手の、指の、微かな震えさえも。
あの夜、抱きしめられた自分が、今もまだそこにいるかのようだった。
涙は止まらなかった。
ぽろぽろと、いや、ぼたぼたと。
意思では止められない。
数百年の孤独が、堰を切ったように溢れ出す。
肩が震える。
呼吸が追いつかない。
それでも嗚咽にはならない。
ならないように、必死に耐えている。
でも、喉の奥から、かすかな声が漏れてしまう。
「……だめ……ああ……」
声にならない。
けれど、願いだった。
「もう一度抱きしめて」——それ以上でも、それ以下でもない。
わたしは妖怪だ。
妖怪であるくせに、いま、ただの女になっていた。
読みたくない。
読まれたくない。
ただ、知られたい。
ただ、包まれたい。
この痛みを。
この涙を。
誰にも知られたくないくせに——
彼だけには、気づいてほしいと思ってしまった。
「……恋なんて」
唇が震える。
言いかけて、呑み込んで、でももう遅い。
その言葉は、涙に染みこんで、わたしの中で形になっていた。
恋。
そう。
これは恋。
恋に似て、恋でしかない。
「……忘れたはずだったのに……」
数百年分の涙が、枕に染みていく。
そのひと雫ひと雫が、ひどく熱かった。
そしてそれを、誰かが拭ってくれることを、どこかで願ってしまう自分が——
いちばん、苦しかった。
そのとき——
コンコン……と、扉がノックされた。
わたしは慌てて顔を上げ、袖で涙を拭った。
いつもの“さとり”に戻らなくちゃいけない。
「どうぞ」
扉が開いて現れたのは——お燐だった。
「あ、さとり様。ミオがね、編み物用の毛糸、使ってもいいかって。聞いてって言われたの」
「……毛糸?」
「うん。何作るのかは教えてくれなかったけど。変なもんじゃないと思うよ?」
わたしは、頷く。
声が震えないようにだけ、気をつけて。
「ええ、構わないわ」
「ありがと。じゃ、伝えておくね」
お燐が軽やかに去っていく音を背に、扉が静かに閉じられる。
部屋に再び、ひとりきり。
わたしはもう一度、寝台に座り直す。
胸の奥が軋む。
奥深く、傷になっていた場所が、ようやく呼吸を始める。
——毛糸。
あの子は、いったい何を作ろうとしているの?
まさか、わたしに……?
「……わたしに、何かを贈ろうとしてるの?」
胸の奥が、きゅう、と痛む。
恋なんて、忘れたはずだったのに。
もう、必要ないと思っていたのに。
その痛みだけが、今、確かに——
わたしという妖怪の中で、最も“人間らしい”部分を、温めていた。