空がないこの地底にも、朝という名のぬくもりは確かに存在する。
けれど窓から差し込む光の下で、私はまだ眠っていなかった。
机の上に、ひとつのカチューシャがある。
それには、拙い毛糸の塊——左右一対の、ネコ耳が取り付けられていた。
紫陽花のような淡い紫色。
何度も何度もほどいては編み直したものだった。
部屋の隅には、編みかけの毛糸の残骸や、歪んだ“耳”たちが転がっている。
書斎の隅にあった編み物の本を読みながら、私は夜を越えた。
糸がうまく引けず、形も左右で揃わず、それでも手を止めることはできなかった。
「読まれる」だけでは、伝えきれないものがある。
だから、手で編んだ。言葉ではなく、心で贈るために。
ネコ耳は、不格好だった。
角度も揃っていない。よく見れば、耳というより、ただの三角の毛玉に近い。
でも、きっと彼女なら——この形の不器用さごと、読んでくれると思った。
ノックの音がしたのは、そんなときだった。
「入っていいかしら?」
扉の向こうから現れたのは、いつものさとり。
「おはよう。ずいぶん早起きなのね。……それとも、寝てない?」
私は答えず、机の上に置かれたカチューシャを手に取った。
「……これを、試してもらってもいいですか?」
彼女の眉が、わずかに動く。
受け取ったカチューシャを眺め——そして、ネコ耳に気づいたその瞬間、言葉を失った。
「……これは、なに?」
「……贈り物です」
数秒の沈黙。
彼女の第三の目が、きゅっと、縮こまる。
「……変じゃ、ないですかね?」
「変よ」
即答だった。けれどその声には、優しさが滲んでいた。
「し、仕方ないわね……ミオが作ったんだから。つけてあげないと、失礼でしょう?」
さとりは、カチューシャをかぶる。
紫陽花色の耳がふたつ、ぴょこり。
私は、黙って見つめていた。
可愛いと思った。でも、それを口にするにはまだ、勇気が足りなかった。
「……っ!な、何よ、その“可愛い”って……!」
突然、肩をびくりと震わせた。
言葉にしたわけではない。
けれど、彼女の第三の目が、それを余さず拾い上げていた。
「そ、それはあなたが、徹夜までして作ったから……ええ、そういう補正がかかってるだけで……っ!」
わずかに声が上ずっていた。
言えば言うほど、言い訳が言い訳になっていないことに、本人も気づいているのだろう。
それでも止まらない。頬がみるみるうちに赤くなっていく。
「可愛いとか思わないで!その、思うなら……もっと、何か別の……!うぅ……」
さとりは、ネコ耳に触れようとしていた手を慌てて下げる。
まるでそこに“可愛い”という言葉が残っているのが恥ずかしいかのように。
第三の目が、かすかに震えながら、ぱちぱちとまばたきを繰り返していた。
「……これをつけていれば、少しくらい……猫みたいに、なれるかしら」
さとりがもごもごと呟いたその言葉は、まるで祈りのように聞こえた。
私は何も言わなかった。
ただ、笑った。
心の奥が、じんわりと熱くなるのを感じながら。
彼女もまた、私の笑みに気づいたのだろう。
ふいに視線を逸らし、小さく咳払いをする。
「……あなたって、本当に不思議な人」
その声に、私はまた笑ってしまいそうになる。
読まれることは、嬉しかった。
でも、読まれる前に“贈る”ことが、こんなにも温かいなんて——
私は、知らなかった。
そのとき——
「かわい〜いっ♡」
突然、部屋の入口から弾けるような声が飛んできた。
「ひっ!?」
さとりがビクリと肩を跳ねさせて振り返る。
そこには、いつからいたのかも分からないこいしが、両手を頬に当てて、きらきらと瞳を輝かせて立っていた。
「お姉ちゃん、めっちゃ似合ってる〜!もう、どっから見てもネコちゃんっ!」
さとりは狼狽したまま、カチューシャを手で隠す。
「こ、こいしっ、部屋に入るときはノックなさい!」
「したよ? さっき、ミオくんにだけ聞こえるくらい小さく♡」
さとりがぐっと言葉に詰まるのを見て、こいしはくるりと半回転した。
「で、ミオくんはどうなの〜?可愛いって思ってたんでしょ〜?ねぇねぇ、ねぇってば〜?」
返答に詰まり、視線を逸らす。
こいしはすかさず、どや顔で指差した。
「うわ〜〜〜〜、両想い〜〜〜〜っ!!」
「ち、ちがっ……!」
「なになに? 言い訳タイム? 言い訳もかわい〜い♡」
言いたい放題のこいしに、さとりはもう顔を真っ赤にしたまま、声も出せずにぷるぷると震えている。
こいしはぽん、と手を打った。
「そうだ!」
その声に反応する間もなく、彼女は両手を頭の上に添えて、
ぴょん、と一回、大きく跳ねた。
「わたしにも作ってよ、ネコ耳! にゃんっ!」
猫のように軽やかに、真正面から私に飛び込む勢いで距離を詰めてきて、思わずのけぞる。
その様子を横で見ていたさとりの第三の目が、びくんと跳ねた。
「っ……!」
が——
「……そ、そうね。作ってあげるといいわ」
わずかに咳払いして、さとりはすぐに冷静な声色を取り戻す。
私がちらりと視線を送ると、彼女はわざとらしく視線を逸らして、袖を一度払った。
第三の目だけが、どこか“負けた”ように、そっと伏せられている。
それを満足そうに眺めていたこいしは、ふと手を振った。
「んじゃ、ふたりでラブラブしてね〜」
そして次の瞬間には、こいしの姿は消えていた。
音も、何もなかった。
まるで最初から“いなかった”かのように。
残された私たちは、顔を見合わせることもできず、ただ——
同じ空気の中で、そっと目を伏せた。