午後の光が、書斎の窓辺に差し込んでいた。
さとりは、ネコ耳カチューシャを頭につけたまま、黙々と本を読んでいる。
最初は冗談半分のつもりだったのだろう。けれど、朝から今まで、彼女はそれを一度も外そうとしなかった。
ページをめくる指先が止まるたび、彼女は右手でそっと耳の角度を直す。
まるで、気にしていないふりをして、気にしている。
その姿が、どうしようもなく——可愛かった。
私は、読みかけの本を閉じた。
さとりはちらりとこちらを見ると、特に何も言わず、自分の膝の上に開いた本へ視線を戻す。
私はそのまま、隣にあるソファーの端に腰を下ろした。
少しして、さとりが横へ動いた。
その肩が、私の肩にふわりと触れる。
意識しすぎて、肩がぎこちなく強張る。
「……なによ、そんなに意識するなんて、失礼ね」
そう言いながらも、彼女の身体は微動だにしない。
むしろ、わずかに寄りかかってきたようにも思えた。
呼吸が喉の奥でつかえる。
心拍が、隣に伝わってしまいそうで怖い。
「……これ」
彼女が口を開いた。
頭に乗ったネコ耳に、そっと指を添える。
「これ、あなたが作ったんだからね」
間が空いた。
私が何か返そうとするよりも早く、彼女は続ける。
「……責任、取りなさいよ」
その声は、いたって平静だった。
けれど、頬はほんのり染まっていて、第三の目はきゅうっと小さく、縮こまっていた。
私は、どう反応すればいいのか分からなかった。
“責任”って、どういう意味だ?本当に?本気で?
戸惑う私をよそに、さとりはわずかに笑みを浮かべた。
その笑みは、何もかも見通しているくせに、あえて説明しない、
そういう——少し意地悪で、少し甘い笑みだった。
「……そろそろ、慣れてきたでしょ?」
そう言いながら、彼女はゆっくりと手を伸ばし、
私の指に、自分の指を重ねてきた。
ほんのわずか、重ねただけ。
けれどその“重さ”は、心を読まれるよりもずっと生々しく、
喉の奥に熱をともすには十分だった。
私は、動けなかった。
「……ねえ」
囁き声だった。
息が、耳の近くでふわりと揺れる。
顔を向ければ、きっとほんの数センチで——彼女の睫毛が触れそうなほどの距離。
「あなた、いま……何を考えてるの?」
第三の目は閉じられたまま。
けれど、問いは鋭い。
私の思考を“読んでいて”、それでも訊くというのは、
もはや——彼女が“答え”ではなく“声”を欲している証だった。
「……きれいだ、って……」
やっとの思いで言葉を吐き出すと、彼女はふっと笑った。
あの、何もかも見透かすような微笑みではなかった。
目尻が緩んで、唇がわずかに震える——
そんな、恥ずかしさを隠しきれない、少女の顔だった。
「……ほんと、あなたって……」
彼女は、ゆっくりと身体を傾けてきた。
髪が頬に触れる。
息が混じる。
「読まなくても……わかっちゃうんだから……」
肩が触れ、胸元がふわりと押し当てられる。
柔らかい。
香りがした。
地霊殿の廊下に漂っていた、あのラベンダーの香りだ。
「さとり……」
名前を呼んだ瞬間、彼女の手が、そっと私の手を握った。
ちゃんと、絡めるように。
逃がさないように。
「……責任、取るって、こういうことよ」
囁きとともに、額が、私の肩に預けられた。
小さな頭が、そこにある。
今にも震えそうなほど、近い心音が伝わってくる。
私は、彼女の背に、腕をまわした。
ぎゅ、とまではまだいかない。
けれど、触れることでしか伝わらない温度が、たしかにそこにあった。
「……読まれるのもいいけど、こうしてる方が、ずっと……」
「うん……わたしも、そう思ってた」
彼女の指が、かすかに震えた。
それが、どんな感情から来た震えなのかは——
もう、読む必要なんてなかった。
彼女の額が、そっと私の肩に触れている。
重さではない。
けれど、重さよりも確かなものがそこにあった。
私の腕の中にいる、彼女。
いつも私の心を覗き込んでくるはずの存在が——
今は、そっと身を預けている。
「……こんなふうに触れるの、怖かったの」
肩越しに、かすれる声が聞こえた。
「触れたら壊してしまう気がして……
でも、壊れたのは、きっと……わたしのほうだったのね」
私は、そっと顔を上げた。
彼女の頬が、私の頬にすれ違う。
呼吸が重なる。
距離は、息一つぶん。
彼女の目が、ゆっくりと開いた。
第三の目ではない、
その紫がかった瞳が、まっすぐに私だけを見ていた。
「……読まないで」
そう囁かれたとき、私はもう、
読む必要がないことを、知っていた。
ただ、
惹かれるように。
そっと、彼女の頬に手を添えた。
指が触れた瞬間、彼女の瞳が微かに揺れた。
けれど、拒まれなかった。
いや——
あれはきっと、“許し”だった。
唇が、触れた。
ほんの一瞬。
けれど、永遠のような静寂が流れた。
彼女の手が、私の背をそっと掴む。
それが、「まだ離れないで」という意思だとわかって——
私は、もう一度、今度は少しだけ深く、
唇を重ねた。
目を閉じる。
何も見えなくてもいい。
この熱と、鼓動と、震えがすべてだった。
さとりが、そっと息を吐いた。
その吐息ごと、私は彼女の心を受け取った気がした。
——読まれるより、深く。
——読むよりも、確かに。