※この作品はR-18です。

読まれる日常   作:昼間寝音

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【第14頁:ひとりに戻る前に】(古明地さとり視点)

あの昼の柔らかな光は遠く過ぎ去り、どこまでも深い闇が、部屋に満ちてきている。

 

ミオは眠っていた。

わたしの隣、背をこちらに向けて、すうすうと微かな寝息を立てている。

その手には、まだ、わたしの手を握っていたときの痕跡が残っている気がして——

わたしは、そっと視線を逸らした。

 

交わりのときの熱はもう、残っていなかった。

 

わたしは、わずかに肌寒くなったシーツの上で、ゆっくりと上体を起こした。

起こさないように気をつけながら、ミオの身体から距離を取る。

その拍子に、胸元から毛布が滑り落ちた。

 

あらわになった自分の裸身に、ふと、目が止まる。

 

胸。

手。

下腹部。

 

——この身体は、変わらない。

数十年経っても。

百年経っても。

きっと、何ひとつ。

 

全身至るところから、ミオの指が触れた感覚が蘇る。

撫でられ、抱かれ、求められた。

たしかに「女」として扱われたその一瞬一瞬が、この肉体にまだ残響している。

 

それは、悦びだった。

それは、幸福だった。

 

けれど、

 

「……どうして、こんなにも……苦しいの」

 

わたしは小さく息を漏らす。

シャボン玉のような何かが、自分の中で弾けて、消えた。

 

変わらないもの。

変われないもの。

——わたしは、妖怪。

 

けれど——

 

ミオは。

 

彼は、老いていく。

皮膚に皺が刻まれ、瞼が落ち、骨が細り、歩みが遅くなっていく。

 

……やがて、どこかで、

わたしを置いて、逝ってしまうのだろう。

 

そのときわたしは、

またひとりに戻るのだ。

 

いや。

 

——最初から、ひとりのままだったのかもしれない。

 

「……愛されることが、こんなにも……罪になるなんて」

 

交わりのすべてが、わたしのなかで“爪痕”に変わっていた。

 

彼の吐息も、

熱も、

唇が触れたことも、

肌が重なったことも、

すべて、わたしの永劫の時の中で、ただ一瞬の閃光として焼きついてしまった。

 

彼は、わたしを愛した。

わたしも、彼を愛してしまった。

 

それだけのことが、

取り返しのつかないことだった。

 

「……ごめんなさい」

 

誰に向けたのでもない言葉。

 

それは、ミオにだったのか。

それとも、

 

——恋をしてしまった、愚かな自分にだったのか。

 

ミオに起きる気配は無い。

彼の夢のなかで、

わたしはまだ、読まれているのだろうか。

 

……だとしたら、

せめてこの想いだけは、読まれないままでいて。

 

そう願って、わたしは、彼のぬくもりに、もう一度だけ、寄り添った。

 

カチューシャに指をかける。

紫陽花色の、歪な三角の毛糸。

指先にかかるその軽さが、ふと、寂しさに似た何かを孕む。

 

「……ネコはね、気まぐれなのよ」

 

わたしは、言い訳をするように呟いた。

そして、静かにネコの耳を外す。

 

ほんの少し、空気が欲しかった。

この胸の中に溜まったものを、外に逃がすように。

 

わたしは、立ち上がろうと——

 

「……っ」

 

手首が、引かれた。

 

思いがけず強い力。

 

振り向くと、ミオがこちらを見ていた。

目はまだ眠たげなのに、その手だけが、しっかりとわたしを捉えていた。

 

「……起きてたの?」

 

返事はない。

 

なぜ、行かせないの?

どうして、止めるの?

 

「……離して。夜風に当たりたいだけ」

 

それでも、手は離れない。

まるで、それが何かの約束だったかのように。

 

「……どうして……離してくれないの」

 

語気が強まったわたしの問いに、彼はようやくまぶたを上げた。

けれど、声はない。

代わりに——

 

胸元の第三の目が、強く二度脈打った。

 

彼の心が、語り始めたのだ。

声ではなく、想いで。

 

ああ。鮮やかな彼の記憶が、奔流となって流れ込んでくる。

 

——白紙の書。

何度ページをめくっても、白。白。白。

名前も、過去も、すべてを失った心の深奥の図書館。

大切な記憶が拭い去られた、あの痛み。

 

そして。

 

——涙に濡れてすがりつくわたしを、黙って抱きしめた、ミオ。

そのとき、彼が発した言葉。

 

『……もう、ひとりじゃないよ』

 

あれは、自身への慰めでも、わたしへの慰めでもなかった。

宣言だった。

彼が、わたしを選んだという、強い意志だった。

 

——読ませてくれた。

 

彼の内面が、再びわたしに向けて開かれている。

 

わたしは、もう一度、ひとりになるところだった。

でも——

彼が、その手で、わたしを繋ぎとめた。

 

「……ずるい人」

 

唇が、震える。

 

隠したかった。鍵のかかる引き出しの奥のような場所に。

けれど、ダメだった。

熱い雫は、頬を伝い、ミオの手の甲に滴り落ちる。

 

「妖怪を、……こんなふうに……泣かせるなんて……」

 

嗚咽が、漏れそうになる。

そのとき——

 

唇が、重ねられた。

 

熱い、けれど優しい口づけ。

それは、わたしの泣き声を封じるためのものではなかった。

 

読まなくても、分かってしまった。

 

——これは、誓い。

 

彼は、わたしと共に在ると。

たとえ、時の流れが違っていても。

 

わたしは、自分の意志で、唇を彼に預けた。

もう、何も言葉はいらなかった。

 

ただ、この口づけだけが、わたしを赦してくれるのだから。

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