あの昼の柔らかな光は遠く過ぎ去り、どこまでも深い闇が、部屋に満ちてきている。
ミオは眠っていた。
わたしの隣、背をこちらに向けて、すうすうと微かな寝息を立てている。
その手には、まだ、わたしの手を握っていたときの痕跡が残っている気がして——
わたしは、そっと視線を逸らした。
交わりのときの熱はもう、残っていなかった。
わたしは、わずかに肌寒くなったシーツの上で、ゆっくりと上体を起こした。
起こさないように気をつけながら、ミオの身体から距離を取る。
その拍子に、胸元から毛布が滑り落ちた。
あらわになった自分の裸身に、ふと、目が止まる。
胸。
手。
下腹部。
——この身体は、変わらない。
数十年経っても。
百年経っても。
きっと、何ひとつ。
全身至るところから、ミオの指が触れた感覚が蘇る。
撫でられ、抱かれ、求められた。
たしかに「女」として扱われたその一瞬一瞬が、この肉体にまだ残響している。
それは、悦びだった。
それは、幸福だった。
けれど、
「……どうして、こんなにも……苦しいの」
わたしは小さく息を漏らす。
シャボン玉のような何かが、自分の中で弾けて、消えた。
変わらないもの。
変われないもの。
——わたしは、妖怪。
けれど——
ミオは。
彼は、老いていく。
皮膚に皺が刻まれ、瞼が落ち、骨が細り、歩みが遅くなっていく。
……やがて、どこかで、
わたしを置いて、逝ってしまうのだろう。
そのときわたしは、
またひとりに戻るのだ。
いや。
——最初から、ひとりのままだったのかもしれない。
「……愛されることが、こんなにも……罪になるなんて」
交わりのすべてが、わたしのなかで“爪痕”に変わっていた。
彼の吐息も、
熱も、
唇が触れたことも、
肌が重なったことも、
すべて、わたしの永劫の時の中で、ただ一瞬の閃光として焼きついてしまった。
彼は、わたしを愛した。
わたしも、彼を愛してしまった。
それだけのことが、
取り返しのつかないことだった。
「……ごめんなさい」
誰に向けたのでもない言葉。
それは、ミオにだったのか。
それとも、
——恋をしてしまった、愚かな自分にだったのか。
ミオに起きる気配は無い。
彼の夢のなかで、
わたしはまだ、読まれているのだろうか。
……だとしたら、
せめてこの想いだけは、読まれないままでいて。
そう願って、わたしは、彼のぬくもりに、もう一度だけ、寄り添った。
カチューシャに指をかける。
紫陽花色の、歪な三角の毛糸。
指先にかかるその軽さが、ふと、寂しさに似た何かを孕む。
「……ネコはね、気まぐれなのよ」
わたしは、言い訳をするように呟いた。
そして、静かにネコの耳を外す。
ほんの少し、空気が欲しかった。
この胸の中に溜まったものを、外に逃がすように。
わたしは、立ち上がろうと——
「……っ」
手首が、引かれた。
思いがけず強い力。
振り向くと、ミオがこちらを見ていた。
目はまだ眠たげなのに、その手だけが、しっかりとわたしを捉えていた。
「……起きてたの?」
返事はない。
なぜ、行かせないの?
どうして、止めるの?
「……離して。夜風に当たりたいだけ」
それでも、手は離れない。
まるで、それが何かの約束だったかのように。
「……どうして……離してくれないの」
語気が強まったわたしの問いに、彼はようやくまぶたを上げた。
けれど、声はない。
代わりに——
胸元の第三の目が、強く二度脈打った。
彼の心が、語り始めたのだ。
声ではなく、想いで。
ああ。鮮やかな彼の記憶が、奔流となって流れ込んでくる。
——白紙の書。
何度ページをめくっても、白。白。白。
名前も、過去も、すべてを失った心の深奥の図書館。
大切な記憶が拭い去られた、あの痛み。
そして。
——涙に濡れてすがりつくわたしを、黙って抱きしめた、ミオ。
そのとき、彼が発した言葉。
『……もう、ひとりじゃないよ』
あれは、自身への慰めでも、わたしへの慰めでもなかった。
宣言だった。
彼が、わたしを選んだという、強い意志だった。
——読ませてくれた。
彼の内面が、再びわたしに向けて開かれている。
わたしは、もう一度、ひとりになるところだった。
でも——
彼が、その手で、わたしを繋ぎとめた。
「……ずるい人」
唇が、震える。
隠したかった。鍵のかかる引き出しの奥のような場所に。
けれど、ダメだった。
熱い雫は、頬を伝い、ミオの手の甲に滴り落ちる。
「妖怪を、……こんなふうに……泣かせるなんて……」
嗚咽が、漏れそうになる。
そのとき——
唇が、重ねられた。
熱い、けれど優しい口づけ。
それは、わたしの泣き声を封じるためのものではなかった。
読まなくても、分かってしまった。
——これは、誓い。
彼は、わたしと共に在ると。
たとえ、時の流れが違っていても。
わたしは、自分の意志で、唇を彼に預けた。
もう、何も言葉はいらなかった。
ただ、この口づけだけが、わたしを赦してくれるのだから。